第29話 助けを求める理由
走っていた。
とにかく、走っていた。
枝が顔を打ち、土に足を取られて何度も転びそうになる。それでも止まれなかった。止まった瞬間、背後から剣が飛んでくる気がしてならなかったからだ。
(死ぬ……)
それが、頭の中を占めていた。
仲間が、次々と倒れた光景が離れない。鋭く光る刃。重い盾に弾き飛ばされる体。炎が走り、逃げ道が断たれた瞬間。
あれは、狩りではない。
処理だった。
(人間だ……)
コボルトは歯を食いしばる。人間の冒険者。その存在は知っていた。森に入り、魔物を狩り、報酬を得る存在。だが、ここまで洗練された動きは、想定していなかった。
(強い……)
強いだけではない。
迷いがない。
こちらが何体いようと、逃げようと、ためらわない。仲間が倒れても、声を荒げることもない。ただ、淡々と数を減らしていく。
――勝てない。
それは、本能的に理解できた。
だから、逃げた。
村に戻るためではない。
戻れないことは、分かっていた。
あの数。
あの動き。
追われれば、村ごと潰される。
(……どうする)
息が切れ、足が重くなる。だが、頭は必死に回っていた。
思い出すのは、少し前の出来事だ。
森の奥。
ゴブリンの群れ。
最初は、恐怖しかなかった。だが、近づくにつれ、奇妙な違和感を覚えた。
火がある。
見張りがいる。
そして――奪ってこない。
話は通じなかった。だが、敵意もなかった。
(……あいつら)
弱いはずのゴブリンが、逃げずに立っていた。
しかも、人間のような動きで。
(……あそこなら)
賭けだった。
だが、他に道はない。
コボルトは進路を変え、森の奥へと足を向けた。
夜が近づいた頃、ようやく辿り着く。
焚き火の光。
粗末だが、整えられた柵。
そして、視線。
こちらを見ている。
逃げもせず、隠れもせず。
コボルトは、膝から崩れ落ちた。
「……た、助けてくれ」
喉が震える。言葉は拙い。それでも、必死に声を絞り出す。
「人間が……来た」
「仲間が……殺された」
周囲がざわめく。
ゴブリンたちが、互いに顔を見合わせ、奥へ視線を送る。
やがて、一体のゴブリンが前に出た。
他とは違う。
目が、明らかに違った。
「……人間が?」
その声は低く、はっきりしていた。
コボルトは、息を呑む。
(……しゃべった)
「どれくらいだ」
「……三人」
正確な数を伝える。
強さも、動きも。
「……強い」
「……とても、強い」
ゴブリンは、しばらく黙って考え込んだ。
その沈黙が、なぜか怖かった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……分かった」
「話は、聞いた」
その声に、怒りはない。
だが、軽さもない。
ただ、受け止めている。
(……助かるのか?)
分からない。
だが、もう戻れない。
コボルトは地面に額を擦り付けた。
「……頼む」
「俺たちは……」
言葉が詰まる。
ゴブリンは、それ以上聞かなかった。
「……今日は休め」
「続きは、明日だ」
そう言って、背を向ける。
その背中は、小さかった。
だが――
なぜか、追い返される気はしなかった。
コボルトは、焚き火のそばに座り込み、震える手を握りしめる。
(……生き延びた)
そう思った瞬間、
初めて、涙が出た。




