第118話 街の静かな異変
街は、何も変わらないように見えた。
朝になれば商人が通りを歩き、
昼になれば露店の声が重なり、
夜になれば酒場に灯りが入る。
だが――
確実に、数が合わなくなっていた。
「……おかしいな」
城下の一角。
帳簿をめくる役人が、眉をひそめる。
奴隷登録数。
労働割り当て。
食糧配給。
どれも、少しずつズレている。
「死んだ記録はない。売買の記録もない」
「だが、確実に“いない”」
役人は、そう報告書に書いた。
――逃亡。
その言葉が浮かぶが、すぐに打ち消す。
奴隷魔法が施された者は、
原則として“逃げられない”。
それが、この国の常識だった。
一方、森。
村の端。
新しく設けられた簡易の家屋に、
元奴隷の家族が身を寄せていた。
老人。
痩せた女。
まだ幼い子供。
皆、同じ顔をしている。
――不安と、戸惑い。
「……本当に、いいんでしょうか」
連れてきた元奴隷――男が、ヒトシに問いかける。
「街に戻れって、言われるんじゃないかって……」
ヒトシは、少し考え、首を振った。
「戻る理由はない」
「ここに来たのは、強制じゃない。お前たちが選んだ」
それは、はっきりとした言葉だった。
男は、目を伏せる。
「……選んだ、か」
その言葉を、噛みしめるように。
家族の一人――
まだ若い女が、胸元を押さえていた。
見えない鎖。
命令が染み付いた“感覚”。
ヒトシは、その前に立つ。
「……少し、気分が悪くなるかもしれない」
「でも、痛みはない」
そう言って、手を伸ばした。
魔法陣は、描かれない。
詠唱もない。
ただ、触れる。
次の瞬間。
女の体が、びくりと震えた。
「……っ」
喉から、息が漏れる。
苦痛ではない。
だが、何かが“外れる”感覚。
胸の奥にあった、
命令が届く場所が――空になる。
「……あ」
女は、目を見開いた。
言葉が、遅れて出る。
「……何も、聞こえない」
それだけで、理解できた。
奴隷魔法は、完全に解除されている。
周囲のゴブリンやコボルトが、ざわめく。
だが、ヒトシは淡々としていた。
「ここでは、それが普通だ」
その頃、街。
調査は、静かに進んでいた。
「逃亡の兆候が増えています」
「共通点は――」
報告役の声が、少し低くなる。
「……森です」
会議室の空気が、張り詰めた。
「最近、森の近くで“妙な噂”が増えています」
「魔物が、人間を匿っている」
「病人を治した」
「話が通じる、だの……」
誰かが、鼻で笑う。
「馬鹿馬鹿しい」
「魔物が慈善事業でもするつもりか?」
だが。
「問題は、噂ではありません」
年配の役人が、静かに言った。
「奴隷が“消えている”という事実です」
その場にいた全員が、黙り込む。
これは、暴動ではない。
反乱でもない。
だが――
秩序を揺るがす兆候だった。
「調査を開始します」
そう宣言された瞬間。
この問題は、
“個人の善意”では済まなくなった。
森に、風が吹く。
ヒトシは、遠くを見ていた。
まだ、何も起きていない。
だが、確実に“見られ始めている”。
「……来るな」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、直感だった。
善意は、
時に、最も鋭く世界を切る。
そして。
その刃は、
いつか国家に届く。




