第117話 静かな相談
夜だった。
村の灯りが落ち、森が本来の暗さを取り戻す時間。
ヒトシが工房の外で焚き火を見ていると、背後から足音がした。
重くもなく、軽くもない。躊躇いが混じった歩き方。
「……王」
振り返ると、元奴隷の一人――中年の男が立っていた。
名はまだ村で定着していない。必要に迫られて名乗ることがない人間だった。
「どうした」
ヒトシは立ち上がらない。
追い詰めないための距離だった。
男は一度、言葉を探すように口を閉じ、深く息を吸った。
「……相談があります」
それだけで、内容は察せた。
この村に来てから、何度も見てきた表情だった。
「街に……家族が残っています」
震えはなかった。
だが声は低く、押し殺されていた。
「妻と、子ども二人です。
同じ商会に売られて、別々の持ち場に回されました」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
「連れてきたい、か?」
ヒトシが聞くと、男は一瞬だけ目を伏せた。
「……許されるなら」
その言葉の裏に、
許されない可能性を知っている覚悟が滲んでいた。
ヒトシは、即答しなかった。
街。
国。
奴隷制度。
これまで、意図的に踏み込んでこなかった場所。
だが――
「連れてこい」
短く、しかし揺るぎなく言った。
男は目を見開いた。
「……本当に?」
「家族だろ」
それだけで十分だった。
男は、膝をついた。
礼ではなく、安堵で崩れ落ちた。
――気づかれない移動
街は、何事もない顔をしていた。
市場はいつも通り騒がしく、
警備は怠慢で、
奴隷は背景の一部として扱われている。
それが、隙だった。
男は一人で行かなかった。
元奴隷が二人、街に慣れた動きで同行した。
堂々とではない。
だが、隠れもしない。
「倉庫間の移動」
「夜勤の交代」
「売り場裏の雑用」
奴隷に課される日常の延長線で、
“少しずつ位置をずらす”。
人は、
逃げられないと思っている存在を見ていない。
それが、街の油断だった。
裏道。
積み上げられた木箱。
人目のない通用門。
そこで、家族は揃った。
妻は、言葉を失っていた。
子どもは、父を見て固まったまま動けない。
「……大丈夫だ」
男は、震える手でそう言った。
「今度は、離れない」
――鎖が外れる音
森に入った瞬間、空気が変わった。
子どもが息を吸い、むせた。
「……なに、ここ」
「生きていい場所だ」
ヒトシは、そこで初めて現れた。
妻が一歩下がる。
子どもが怯える。
――魔物。
当然の反応だった。
「大丈夫だ」
男が言う。
「この人が……俺たちを解放してくれた」
ヒトシは、静かに頷いた。
「魔法、残ってるな」
妻と子どもに、薄い光の痕跡が見えた。
首輪はない。
だが、命令を受ける構造が、まだ残っている。
「解除する」
ヒトシが手を伸ばした。
特別な詠唱はない。
力を込めることもない。
ただ、
**“ここでは必要ない”**と判断しただけ。
【適応進化が反応】
【人為的支配構造を検知】
【自律的生存を阻害する要素を排除】
空気が、きしんだ。
妻が、息を詰める。
「……あ」
首の奥で、何かが外れる感覚。
見えない鎖が、音もなく消えた。
子どもが、泣き出した。
命令がない。
恐怖がない。
考えていい。
選んでいい。
「……外れた」
男は呟いた。
ヒトシは、言った。
「もう誰のものでもない」
それだけだった。
――始まった噂
その夜、街では誰も騒がなかった。
だが、翌日。
「……あれ?」
「奴隷が、足りない?」
帳簿と現実の数が、合わない。
すぐには問題にならない。
だが、確実に数がおかしい。
誰もまだ知らない。
これは、
小さな善意が生んだ、
最初の外交トラブルだということを。
そしてヒトシは、
その責任から逃げるつもりはなかった。
ただ――
それでも、やると決めたのだ。
家族を、
生きる場所へ連れてくることを。




