第104話 解放
最初に異変に気づいたのは、
村の外だった。
――奴隷が、戻ってこない。
それだけなら、偶然とも言えた。
病人だ。
怪我人だ。
歩みが遅れることはある。
だが。
命令を出しても、
感触が、鈍い。
「……まさか」
ガイウスは、舌打ちする。
ありえない。
奴隷魔法は、
人間社会の秩序そのものだ。
血でも、力でもない。
所有という概念を刻み込む術。
命令とは、言葉ではない。
魔法が直接、意思を縛る。
それが、
揺らぐはずがない。
魔物ごときが、
触れていい領域じゃない。
「……面白い」
そう呟きながらも、
胸の奥が、ざわつく。
捨てるつもりだった奴隷だ。
病人も、怪我人も、老人も。
だが。
(……俺の“所有物”だ)
奪われるのは、話が違う。
一方、村の中。
鎖は、まだそこにあった。
鉄の輪が、
手首に、足首に、
確かに嵌められている。
だが。
重さが、違った。
「……軽い?」
誰かが、呟く。
それは錯覚ではない。
これまで、
鎖は“物理的な拘束”以上の意味を持っていた。
命令が下されれば、
思考の前に体が動く。
逆らおうとした瞬間、
頭の奥が焼けるように痛んだ。
――それが、ない。
代わりにあるのは、
「……大丈夫、ですか?」
ゴブリンの声。
水を差し出す手。
毛布をかけるコボルト。
命令ではない接触。
エドガーは、喉を鳴らした。
(……ありえない)
(命令が、聞こえない)
いや、正確には――
聞こえている。
だが、それよりも。
「ありがとう」
隣で、誰かが言った。
小さな声。
震えている。
だが、その言葉に――
力があった。
感謝。
安心。
ここにいていい、という感覚。
それらが、
命令よりも先に胸に広がる。
【適応進化が反応】
【強制支配と自発的結束の競合を検知】
【奴隷魔法の構造を解析】
ヒトシは、その場に立っていた。
何かをした、という実感はない。
命令を解除したわけでも、
魔法を撃ち込んだわけでもない。
ただ、
食事を出し、
寝床を用意し、
怪我を治し、
「生きていい」と示しただけだ。
(……俺は)
(正しいことをしてるのか?)
自分でも、わからない。
人間を助ける意味も、
正義も、
高尚な理由もない。
ただ。
(ガイウスのやり方が)
(どうしても、許せなかった)
命を“道具”と呼ぶこと。
切り捨てを、当然と笑うこと。
それだけが、
胸の奥に引っかかっていた。
【解析完了】
【奴隷魔法:支配条件】
・契約
・依存
・対価
・思考
・生存権
【上記条件が成立しない場合、拘束力は急激に低下】
鎖が、鳴った。
ガチャリ、と。
それは外れた音ではない。
意味を失った音だった。
命令は、もう効かない。
痛みも、ない。
奴隷たちは、
互いの顔を見る。
そして、ゆっくりと――
自分の足で立った。
「……立てる」
「……俺たち」
「……命令、ないぞ」
声が、戻る。
表情が、戻る。
奪われていたものが、
一つずつ、返ってくる。
その頃、ガイウスは村の入口に立っていた。
戯れのつもりだった。
話が通じる魔物。
人間ごっこ。
それに付き合ってやっただけだ。
だが。
村の奥から見えた光景に、
初めて――
焦りが生まれる。
(……立っている?)
(奴隷が?)
鎖はある。
だが、顔が違う。
道具の顔ではない。
「……ふざけるな」
人間には、格差がある。
それを受け入れられない者は、
下に落ちる。
それが、世界だ。
魔物ごときに、
その秩序を壊される?
捨てるはずだった奴隷とはいえ、
失うのは許されない。
ガイウスは、初めて本気で理解する。
これは戯れではない。
境界が、崩れている。
その夜。
村は、静かだった。
だが、
何かが確かに終わった。
鎖ではない。
魔法でもない。
――“所有”という概念が。
そしてヒトシは、
自分でも気づかぬまま、
取り返しのつかない場所へ踏み込んでいた。
人と魔物の間にあった、
見えない線を、越えて。




