第10話 狩る側に立つ
ヒトシは、一歩前に出た。
オークと、真正面から向き合う。
「……ああ、怖いさ」
声は、震えていた。
だが、隠さなかった。
「俺も、怖い」
逃げたい。
心の底から、そう思っている。
それでも、言葉は続いた。
「でもな……」
ヒトシは、石を拾い上げる。
「――あいつらに、殺される気はない」
至近距離から、石を投げつける。
ゴッ、という鈍い音。
石は、オークの顔面に直撃した。
「グォォッ!!」
怒号が、夜の森に響く。
その瞬間、ヒトシは叫んだ。
「俺たちが、食ってやる!!」
声が、震えながらも、はっきりと森に響いた。
「逃げるな! 下がるな!」
「生き残りたいなら――」
肺の空気をすべて吐き出す。
「奪え!!」
その瞬間だった。
ゴブリンたちの目が、変わった。
恐怖は消えていない。
だが、恐怖の向きが変わった。
逃げたい恐怖から、
奪われたくない恐怖へ。
それは、戦える恐怖だった。
【《適応進化》が反応】
【捕食関係の逆転を検知】
【集団の攻撃性・連携度上昇】
【恐怖耐性の再構築】
ゴブリンたちが、一斉に動き出す。
石が飛ぶ。
叫びが上がる。
一体のオークに、集中する。
ヒトシは、足元に落ちていた折れた枝を拾い上げた。先端は鋭く、即席の槍として十分だった。
(……やる)
(ここで、やらなきゃ)
オークの懐に飛び込む。
全体重を乗せ、突き出す。
枝の先端が、柔らかい部分――脇腹に沈み込んだ。
確かな抵抗。
生き物を刺した感触。
オークの目が、見開かれる。
驚きと、痛み。
ヒトシは、さらに押し込んだ。
腕が軋む。
足が震える。
それでも、離さない。
オークが、巨体を支えきれず崩れ落ちる。
地面が、揺れた。
――殺した。
ヒトシは、その場に立ち尽くした。
呼吸が荒い。
心臓が、壊れそうなほど鳴っている。
だが。
(……生きてる)
自分も。
仲間も。
その事実だけが、強烈に残った。
【《適応進化》が反応】
【初の明確な殺害を確認】
【捕食者としての認識を更新】
【統率者評価:大幅上昇】
ヒトシは、血に濡れた枝を握ったまま、仲間を見回した。
「……続くぞ」
声は、低かった。
「次は、俺たちが狩る番だ」
恐怖は、まだ消えていない。
だが、それを喰らった先に、確かな変化があった。 オークは、まだ残っていた。
一体を倒しただけで、戦いが終わるほど甘くはない。
血の匂いが夜の森に濃く広がり、残る二体のオークは、明確に興奮していた。
仲間が倒れた。
それは恐怖ではなく、怒りを生む。
「グォォォ……!」
低く、腹の底から響く咆哮。
地面を踏み鳴らし、巨体が同時に動いた。
(……来る)
ヒトシは、血に濡れた枝を握り直す。
腕が重い。
呼吸が荒い。
体力は、もう限界に近い。
だが、心は違った。
(逃げる理由は……もう、ない)
ここまで来て、背を向ければ、全てが無駄になる。
死んだ仲間も。
越えてしまった一線も。
ヒトシは、声を張り上げた。
「……集中しろ!」
ゴブリンたちが、一斉にヒトシを見る。
恐怖はまだある。
だが、目は死んでいない。
「一体ずつだ!」
身振りで、左のオークを示す。
「ばらけるな!」
言葉の意味をすべて理解しているわけではない。
だが、流れは伝わる。
ゴブリンたちは、本能ではなく、意図をもって動き始めた。
左のオークが突進する。
ヒトシは、正面に立たなかった。
半歩、横へずれる。
次の瞬間、拳が空を切った。
(重い……!)
風圧だけで、体が揺れる。
当たれば、即死だ。
だが、その拳は地面に突き刺さった。
ズン、と地面が沈む。
その一瞬を、逃さない。
「今だ!」
ゴブリンたちが、一斉に石を投げる。
頭部。
首。
関節。
オークは吼えながらも、体勢を崩す。
そこへ――
ヒトシが踏み込んだ。
狙いは、脚。
折れた枝を、膝裏へ突き立てる。
「グガァッ!!」
明確な悲鳴。
オークが片膝をついた。
(……倒れる)
(倒せる)
確信が、初めて生まれた。
だが、その背後から、もう一体が迫る。
「――っ!」
ヒトシの視界が、歪む。
避けきれない。
そう思った瞬間。
横から、影が飛び込んだ。
ゴブリンだ。
石を抱え、体当たりするように突っ込んでいた。
当然、弾き飛ばされる。
だが――
一瞬、止まった。
それで、十分だった。
ヒトシは、全力で跳ぶ。
地面を転がり、間合いを外す。
「……助かった」
ゴブリンは立ち上がれない。
だが、死んではいない。
ヒトシは、歯を食いしばる。
(……守られた)
ついさっきまで、守る側だった自分が。
それは、重い事実だった。
【《適応進化》が反応】
【集団内の相互防衛を確認】
【統率対象の忠誠度上昇】
【群れとしての役割分化を検知】
残るオークは、明らかに動揺していた。
数では勝っているはずのゴブリンに、囲まれている。
殴り倒せるはずの存在が、連携してくる。
そして何より――
恐れている。
オークは、後ずさった。
(……逃げる?)
一瞬、ヒトシの脳裏にその可能性が浮かぶ。
だが。
逃がせば、必ず戻ってくる。
次は、仲間を連れて。
「……逃がすな」
声は、低かった。
だが、迷いはない。
ゴブリンたちが、じりじりと距離を詰める。
逃げ場はない。
オークは、最後の力を振り絞り、突進した。
真正面から。
――それが、最後の判断だった。
ヒトシは、避けなかった。
真正面から、迎え撃つ。
枝を、両手で握り締める。
全体重を、前に。
突き出す。
枝は、オークの喉元に突き刺さった。
柔らかい感触。
即座に、抵抗が消える。
オークは、数歩よろめき、
そのまま――崩れ落ちた。
地面が、揺れた。
静寂。
風の音だけが、森に戻る。
ヒトシは、その場に立ち尽くしていた。
枝を握る手が、震えている。
二体。
確かに、殺した。
吐き気が込み上げる。
だが、吐かなかった。
(……生き残った)
その事実が、全てだった。
膝裏に傷を負ったオークはゴブリンがとどめを刺したようだった。
そしてゴブリンたちが、ゆっくりと近づいてくる。
一体、また一体と。
そして。
誰かが、膝をついた。
次に、もう一体。
最後には、全員が頭を下げていた。
言葉はない。
だが、意味ははっきりしている。
――選ばれた。
【《適応進化》が反応】
【群れの支配権を確定】
【集団の生存成功を評価】
【群れ全体の基礎能力微増】
【知能成長:軽微】
ヒトシは、深く息を吐いた。
「……終わった」
戦いは。
だが、物語は終わらない。
ゴブリンたちは、オークの死体を見ている。
恐怖ではない。
食料を見る目だ。
ヒトシは、その視線を否定しなかった。
「……食うぞ」
低く、はっきりと言う。
「生きるために」
誰も、異を唱えなかった。
この夜。
ゴブリンは、
初めて狩る側として勝利した。
そしてヒトシは、
逃げる者でも、ただの生存者でもなくなった。
――群れの長として、
確かにそこに立っていた。




