第6話 境界線の手前
最初の一撃は、音がしなかった。
ただ、空気がひゅう、と細く絞られたみたいに感じて
——次の瞬間、高梨の横で壁がえぐれ飛んだ。
「っ……!」
岩ともコンクリートともつかない回廊の壁に、拳大の穴が開く。
粉々になった破片が、シールドの上とヘルメットに雨みたいに降ってきた。
「全員、しゃがめ!」
森山の声が飛ぶ。
反射でシールドを前に出し、そのまま膝を落とした。
さっきまで直耶たちが立っていた高さを、もう1条の「何か」が通り過ぎる。
音は、やっぱりほとんどない。
空気がねじれたような違和感と、遅れてくる風圧だけだった。
「……今の、何だよ」
高梨が、かすれた声で呟く。
「知らねえよ。こっちが聞きてえ」
森山は低く短く返しつつ、視線だけを前に向けた。
浅層CとDの境界帯。
いつもの巡回ルートから少し外れた、天井の高いスペース。
壁の筋模様が濃く波打ち、床にはところどころ黒いシミが点々としている。
その奥。暗がりの中に、“それ”はいた。
獣系。浅層でよく見るカテゴリーのはずだった。
4足で、犬よりひと回り大きい。毛並みは黒に近い灰色。
——なのに、明らかに「いつもの」とは違う。
背中のあたりから白い枝のようなな骨が、何本も外側に伸びていた。
生えかけの角にも見えるし、折れたアンテナにも見える。
その根元がうっすらと青白く光っていた。
「……嫌な見た目してんな」
榊がぼそっと漏らす。
獣の背中の骨が、一斉にぴくりと震えた。
青白い光が1点に集まり、空気がきゅっと収束する感覚。
(——また来る)
「右!」
口が勝手に叫んでいた。自分でも、なぜそう思ったのか分からない。
森山が、高梨の肩を蹴るようにして横へ突き飛ばす。
さっきまで高梨がいた位置を、「何か」が通り抜けた。
壁がまた抉れる。
「ちょ、おま……!」
高梨が半分怒鳴りかけるが、その声は震えていた。
「後で文句言え。今は生きろ」
森山は、低く吐き捨てるように言う。
獣の背中の骨の根元が、じわじわと明滅している。
さっきよりも、光が少し弱くなったように見えた。
榊が、小声で言う。
「森山さん、あれ……報告で聞いてた“遠隔持ち”っぽいっすね」
「中層でぽつぽつ出てるってやつか」
「浅層帯で出たのは、少なくとも第三では初だと思います」
(よりによって、今日かよ)
喉の奥が乾いた。
*
その少し前。
浅層C〜D境界帯の巡回は、最初だけはいつも通りだった。
エレベータの振動、施設側通路の蛍光灯、そこから先の回廊の壁。
足元の感触も、ヘルメット越しの湿った空気も、「慣れたくないけど慣れてきた」一式だ。
今日は、研修生4人+現場2人。
先頭が森山。
そのすぐ後ろに、シールド持ちの直耶。
3番目に高梨。
その後ろにメガネの新人・三宅と、小柄な研修生・江藤。
最後尾がサポート兼メディックの榊。
「全員バイタル良好。通信もC帯までは問題なし」
榊が端末を確認しながら言う。
「D境界に入ると、ちょっとノイジーになるかもだとさ。
いつもどおり、“聞こえたらラッキー”くらいで」
「“浅層だから安全”って話じゃないってやつですよね」
三宅が、緊張した声で口を開く。
「ニュースだと『浅層は比較的安全』って枕詞ついてますけど」
「ニュースは“比較的”の意味をだいぶ甘く使うからな」
森山は、淡々と歩きながら答えた。
「浅層でも、たまに変なの湧く。
たまたま当たらなかったチームは、“今日も何もありませんでした”って帰るだけ。
当たったチームは——」
そこで、言葉を1拍だけ止める。
「都合よく、“事故”になる」
言い方が、妙に生々しかった。
「この前の、湾岸事故……ですか」
江藤が、小さく言う。
テレビで流れたニュースが頭をよぎる。
回廊入口の上の方から撮った、遠目の映像。
ストレッチャーが1台だけ運ばれていく。
アナウンサーは「詳細は非公開」と繰り返していた。
「公式発表は“自然崩落”。内部映像は非公開。
現場の話は“聞かなかったこと”にされる」
森山は肩をすくめる。
「3年前のカオス期に比べりゃマシだけどな。
あの頃なんて、“どうせ戦車とか使えば勝てるだろ”ってノリで突っ込んでいって、まとめて撃沈とかザラだった」
「掲示板で見ました。
地方回廊にフェンスくぐって配信しに行ったバカが、カメラだけ残して消えたとか」
高梨が言う。
「実際いたらしいぞ、似たようなの」
榊が、苦い顔で笑った。
「カメラの中身はどうなってたんです?」
三宅が聞く。
「入口施設までは普通。内部に向けた瞬間から真っ黒+砂嵐。
“不適切な映像が〜”とか言って部分的にしか出なかったけど、多分ただ壊れたんだろ」
「……それでも、フェンスくぐるやつ出てきそうですけど」
「だから今は、入口周りの警備ガチガチだろ」
森山は、壁に目印を付けながら言った。
「死体を放り込んで毒撒いた馬鹿も、初期にはいたしな」
「えげつな」
高梨が眉をしかめる。
「何それ」
「“毒ばらまきゃ巣ごと掃除できんじゃね”って発想だとよ。
実際やったあと、そのゾーンがしばらく“要警戒エリア”扱いになって、妙な湧き方した」
「……因果関係は?」
三宅が、おそるおそる聞く。
「分からん。毒のせいで生態系が荒れたのか、たまたまタイミングが重なっただけなのか。
ただ、“死体や薬品をわざと投げ込む実験は禁止”って通達だけは、でかい赤字で残った」
「まあ……二度とやるな、ってことですね」
江藤が、顔をしかめながら言う。
「何がどう反応するか分かったもんじゃないからな。
下手に刺激して、余計変なモンスター湧かれても困る。
そもそも毎回微妙に回廊の形状が変わるんだぞ? ゲームみたいだよな。」
*
CブロックからD境界に入る手前。
壁に貼られた白い識別シートと、番号の刻印。
「ここからD帯、ってことになってるけど……まあ、“だいたいこの辺りから”って意味だと思っとけ」
榊が言う。
「境界線、地図だときれいな線で引いてますけど、実際の回廊はもうちょいいいかげんですから」
「そういうこと、さらっと言わないでほしいんですけど」
三宅が乾いた笑いを漏らす。
「境、お前の勘はどう思う?」
前から、森山の声が飛んできた。
——胸の奥に、いつからか居座っている、見えない針。
直耶がこっそり「あれ」と呼んでいる感覚。
意識を向けると、ざわり、と胸の内側が揺れた。
訓練センターのグラウンド。
寮。
母のいる病院。
——それと、今いる回廊の広場。
いくつかの「点」に、ぼんやりした線でつながっている感じがする。
「……今日のC〜D境界帯の合流ポイント、C4ですよね」
「そうだ」
「方向だけなら、“あっち”って感じです。距離感は、うまく言えないですけど」
直耶は、自分でもよく分かっていない感覚を、無理やり言葉にした。
「前回のC3で“たまたま当たった”が、今日も“たまたま当たってる”なら、使わない理由はない」
森山は、あっさりと言う。
「ただし、変な感じがしたらすぐ言え。お前の勘を全幅信用するほど、俺も無責任じゃない」
「了解です」
直耶は自分の中の、「当てになりそうで、当てにしたくない何か」を、そっとなだめるように息を吐いた。
*
そして、今。
目の前の獣が、「魔法みたいな何か」を2発撃ってきたところで、ようやく状況を理解し始めたところだった。
「榊、このタイプ、ログ残ってたか」
森山が、短く聞く。
「似た特徴のは、中層の報告に1件。
『背部から光を収束させて壁を貫通する衝撃波』……ってありますけど、ここのゾーンには出てないはずです」
「“はず”は役に立たねえな」
「ですね。あと——」
榊は、獣の背中をちらと見て、眉をひそめた。
「発射ごとに、あいつの光量が落ちてる。
遠隔持ちは、連発すると自分が先に潰れるタイプが多いって話は聞いたことあります」
「じゃあ、撃たせるだけ撃たせりゃいい、って顔でもねえしな」
森山が、低く舌打ちする。
獣の背中の骨が、また震えた。
さっきより明らかに溜めが長い。
青白い光が、集まっては少し揺らぎ、また集まり直す。
(息切れしてる……?)
「境、次“どっち”だ」
「……左前」
喉より先に、胸の奥の針が反応する。
言い終わるのとほぼ同時に、左の壁が爆ぜた。
三宅が、ギリギリで頭を引っ込める。
「ひっ……!」
情けない声が、ヘルメットの中で響いた。
「……マジで当ててるじゃないっすか、それ」
高梨が、半ば震えながら笑う。
「たまたまだろ」
直耶はそう返したが、自分の声も少し震えていた。
「3連続で“たまたま”は、たまたまって言わねえよ」
森山は、獣から目を離さないまま言う。
「いいか。あいつの“魔法”、発射の瞬間は読めなくても、狙う方向は境の勘に乗る。
だったら——」
短く息を吸う。
「境、次も読め。その瞬間、俺たちが距離詰める。
前に出るのは俺と境。後ろ3人は、絶対変な動きするな」
「ちょ、おれも前——」
「高梨、お前は後ろで壁になれ。今前出たら死ぬ」
森山の声に、反論は飲み込まれた。
獣が、背中の骨を細かく震わせる。
今度はさっきよりも、光の集まり方が不安定だ。
やはり呼吸もどこか荒くなっているように見える。
(そんなにお手軽に撃てるもんじゃない……ってことか)
胸の針が、じわじわと向きを変え始める。
——正面。少し、右。
「正面、ちょい右!」
直耶は叫びながら、シールドを右へ傾けた。
空気がひゅうっと細くなる。
正面の床が、丸くえぐれる。
「今だ、前!」
森山が飛び出す。
直耶も、膝の震えを無理やり押さえつけてそれに続いた。
距離は十数メートル。
いつものケモノなら、一気に詰めてシールドと槍で叩き潰す間合いだ。
ただ、その「いつも」に頼っていい相手じゃないことだけは、もう分かっていた。
獣の背中の骨が、また震える。
だが光の集まり方はさっきより遅く、弱い。
それでも、一応は撃とうとしている。
(まだ撃てるのかよ)
そのとき——。
後ろの方から、短い悲鳴が上がった。
「——っあ!」
振り返った瞬間、胃のあたりがひゅっと縮む。
高梨が、片膝をついていた。
右腿の外側の防具が、斜めに裂けている。
その隙間から、赤いものが滲んでいた。
一瞬遅れて、床に、赤いシミがぽたぽたと落ち始める。
「高梨!」
榊が駆け寄る。
「動くな、そのまま!」
「っ、あー……やべ、これ……」
高梨の顔から、血の気が引いていく。
ふざける余裕は、さすがになさそうだった。
「被弾位置、右大腿外側。
貫通はしてない……けど、抉れてるな。筋肉けっこう持ってかれてる」
榊が、早口で評価する。
獣がまた背中を震わせた。
だが、さきほどより光は明らかに弱く、根元の骨もわずかにひび割れているように見える。
「境!」
森山の声だけが、やけにクリアに響いた。
「まだ動けるか!」
「……動きます」
本当は、膝の裏が笑っていた。
さっきの衝撃で腕もまともに上がっているのか怪しい。
それでも、「動けません」と言って下がる選択肢は、この場にはなかった。
「いいか、お前の読みが狂ったら全員死ぬ。
でも、今のところは当たってる。だったら乗る」
森山の目は、笑っていなかった。
「次打たれた直後、俺が首を落とす」
獣との距離は、もう10メートルを切っている。
背骨の光が、今度は1点に集まり——かけて、ふらつく。
獣自身も、苦しそうに息をしていた。
(こっちもギリギリだけど、向こうもギリギリなのか……?)
胸の針が、ひゅっと右に振れた。
「右!」
直耶は叫び、シールドを右へ。
空気がねじれ、右側の壁が爆ぜる。
さっきよりも穴が浅い。威力も落ちているようだった。
同時に、森山が飛び込む。
真正面ではなく、少し斜めから。
短く刃を振るう。
背中の骨の根元のあたりが、ざくりと裂けた。
光が弾け、獣が短い絶叫を上げる。
背骨のアンテナが、何本か根元から折れた。
青白い光が、一瞬だけ暴発しかけたが——さき程の「槍」ほどはまとまらない。
ばち、と空中で散り、壁に小さな焦げ跡をいくつか作るだけだ。
「境、押せ!」
「っ、はい!」
返事をしながら、直耶は盾で獣の頭を横から殴りつけた。
鈍い手応え。変な角度に曲がる首。
ズドッ
榊が間髪入れず横腹に槍を突き立てる。
暴れる体を、3人で一気に押し倒した。
足が床をかきむしり、黒い血がじわりと広がる。
森山の目に力が入った。
「——止め」
一閃。
獣の動きが、そこで完全に止まった。
*
「……っは、っは……」
荒い呼吸が、ヘルメット越しに反響する。
背中まで流れる汗が気持ち悪い。
だが、腕の震えはさっきより少しだけマシになっていた。
「高梨!」
振り返ると、榊が高梨の横に膝をついていた。
止血パックを傷口に当て、圧迫しながら、足の向きを微妙に変えている。
「動くな。さっきより痛くなるけど我慢しろ」
「もう十分痛えから、誤差だろ……っ」
高梨の口元が、引きつった笑いと苦痛の中間みたいに歪んだ。
「貫通してないのは不幸中の幸い。
骨も、多分いってない。
ただ、筋肉の一部がごっそり……あとで縫うのめんどくさそうだな」
「先生、雑に説明しないでください……」
「生きて帰れるラインか?」
森山が短く問う。
「この場での応急ならここまでだろう。
あとは運ぶ時間と、運び方次第」
榊は、手元の携帯医療キットから注射器を1本取り出した。
「痛み止め打つぞ」
「今さら遠慮しねえよ……っ」
針が刺さる。
数秒後、高梨の呼吸が、少しだけ落ち着いた。
「境、手ェ貸せ」
榊が言う。
「これ、押さえ続けろ。力抜いたら漏れる」
「了解」
言われた通りに、止血パックの上から圧迫する。
布越しに、脈打つ熱が伝わってきた。
モニターを見ていた榊が、短く息を吐く。
「心拍、まだ高いけど、落ち着きつつある。
このまま10数分で入口側まで引き返せれば、多分大丈夫」
「“多分”って言い方やめろよ……」
「死ぬかどうかのボーダー超えたって意味。そこから先は病院の仕事」
榊は端末を操作しながら、森山を見る。
「管制にメディバック要請投げます」
「頼む」
森山は、獣の死体を見下ろした。
さっきまで光っていた背中の骨は、今はただの白い突起になっている。
根元のひび割れた部分からは、青白い液体のようなものが少し滲んでいた。
「でかいな……」
江藤が、少し距離を取りながら呟く。
「こんなの、丸ごと持ち帰るスペースあるんですか」
「ない」
森山が、あっさり首を振る。
「こういう“でかくて重い死骸”は、収集班の仕事だ。
俺たちは場所と状態と、ちょっとしたサンプルだけ持って帰る」
「収集班、間に合いますかね。ルート、途中でまた描き変わりそうですけど」
榊が言う。
「間に合わなきゃ、“今回は見送り”。残念です、って研究班が頭抱えて終わり」
森山はポーチから小さな容器を取り出し、折れた骨の端をナイフで少し削り取った。
青白い素材が、シャーレ状の容器の中に転がる。
「こんだけでも、今の科学者様はきっと何か面白いこと見つけてくれるだろ」
「電波も物理も死ぬ穴の中で“科学”って単語使うと、ちょっと笑えますね」
三宅が、まだ引きつった顔で言う。
「笑っとけ。笑えなくなったら、この仕事辞めどきだ」
森山は、獣の周りにざっと白いマーカーを引いた。
壁にも、座標と簡単な記号を残す。
「収集班が来れなかったとき用に、ログにも残る。
“浅層D境界帯にて遠隔持ち1体確認、排除”。
“浅層でも出るぞ”って話は、上がどう脚色するか知らんが、現場では事実として共有する必要がある」
(“浅層だから安全”って、ニュースで簡単に言ってたラインが、また1つ信用ならなくなるな)
*
撤退は、行きよりも慎重だった。
高梨を簡易担架に載せ、前と後ろから2人で支える。
止血パックは、まだじんわりと熱を持っていた。
「境、押さえ具合そのままな。強すぎず、弱すぎず」
「……なあ」
担架の上で、高梨がぽつりと言った。
「さっきの1発、もしあと10センチ内側に入ってたらさ」
「言うな」
森山が、短く遮る。
「10センチ内側、10秒後ろ、どっちが一歩前に出てたか。
そんな話は、夜に酒飲みながらやるもんだ」
「酒までたどり着けるなら、まあいいか」
高梨は、わずかに口元を緩めた。
「でも、ありがとな。境」
「え」
「さっき、“右!”とか“左!”とか叫んだの、お前だろ。
……外してたら、俺の足じゃ済まなかった」
返す言葉に詰まる。
「俺の勘じゃなくて、たまたまだったかもしれないし」
「だから、3回4回続いたら“たまたま”って言う方が無理あるって」
高梨は、天井を見たまま続ける。
「境、前にさ、“俺運悪ぃ”って言ってただろ」
「……言った気もする」
「今日の“当たり方”見てると、少なくとも、俺よりはマシだわ」
「それはそれで複雑なんだけど」
冗談みたいに言ってみても、胸の奥のざらつきは消えない。
医務室の佐伯が言っていた「帳尻合わせ」の話が、嫌なタイミングで頭をよぎる。
母の病院。
父のハローワーク通い。
妹の試験と奨学金。
頭の中に浮かぶ「地上側の心配事」と、今この暗い穴の中で感じている「当たり」「外れ」の感覚が、変な形で絡み合う。
(……考えても分かんねえことは、今考えない)
意図的に思考を切る。
油断は死に直結する。今は戻ることを考えるべきだ。
*
入口施設の灯りが見えたとき、高梨は意識こそあるものの、ほとんど喋らなくなっていた。
担架を引き継いだ医療班が、手際よく点滴とモニターを繋いでいく。
「大腿部損傷1名。意識清明。バイタルやや高め。止血と鎮痛済み」
榊が、医療班に情報を渡す。
「あとはそっちの腕の見せどころで」
「了解。あとは任せてください」
白衣の1人がそう言って、担架を押していく。
高梨が、ヘルメット越しに手を上げた。
「おーい境ー……」
「なんだよ」
「次、俺の分までスクラッチ当てろよー……」
「無茶振りすんな。まずお前が退院しろ」
そのやり取りだけで、周囲の空気がほんの少しだけ軽くなった気がした。
簡易ブリーフィング室。
森山の報告は、いつも通り淡々としていた。
「浅層C〜D境界、巡回B班。
分岐構造に変化あり。合流ポイントC4までのルートを1部更新。
敵性生物1体と遭遇。背部からの遠隔攻撃能力を確認。排除。
味方1名中等傷。帰還後医療班に引き渡し。——以上」
「“浅層にも遠隔持ち出ました”は、こちらで文言調整して共有する」
係官が、メモを取りながら言う。
「詳細ログとサンプルは研究部に回すから、現場所見があれば一応書いといてくれ」
「“浅層だから安全”って売り文句は、もう少し薄めといた方がいいと思いますよ」
森山が、軽く皮肉っぽく付け足した。
係官は、苦笑いだけ返した。
部屋を出るとき、隣のブリーフィングルームから声が聞こえてくる。
「浅層Dブロック側、探索A班。敵性生物2体排除。
回廊由来物質サンプルB-03一点回収。損害なし。以上」
(こっちは、“怪我人1人出して、倒したモンスターは置きっぱなし”。
向こうは、“何事もなくサンプル回収”)
考えたところで頭の中が暗くなるだけだ、と慌てて思考を停めた。
(とりあえず今日は——みんな生き残ったんだ。それでよし)
直耶は自分にそう言い聞かせて、寮への通路を歩き出した。




