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第5話 勘が当たる場所

入所してから一ヶ月ちょっとが過ぎた。


朝の走り込みはもう「覚悟して臨むイベント」ではなく、「遅刻すると怒られる仕事」になりつつある。


グラウンドの砂も、教官の怒鳴り声も、肺の軋みも、体のどこにどんな負荷が来るかまでだいたい予測できるようになってきた。


良くも悪くも、慣れた。



「——はい走り込み終わり! ストレッチしながら聞け!」


教官の声がひとしきり響いたあと、解散の号令がかかる。


ふくらはぎを伸ばしながら大きく息を吐く。

脈は早いが、最初の頃みたいに「世界が白く飛ぶ」ほどではない。


「お前、だいぶ顔色マシになったな」


横で同じようにストレッチしていた高梨が、汗を拭きながら笑う。


「入所初週の“ゾンビ境”を知ってる俺からすると、今は別人だわ」

「ゾンビ言うな」

「ちゃんと死なない程度には走れるようになったってことだろ。立派立派」


軽口を交わしていると、「朝メシ行けー!」と別の教官の声が飛んだ。


食堂棟に向かう動線は、毎朝ちょっとしたラッシュになる。

直耶たちもその波に乗って歩き出した。



食堂の奥には、小さな売店が併設されている。


パンやカップ麺、エナジードリンク。

回廊管理局のロゴが入った無駄にカッコいいタオルやマグカップ。

そして今週は、レジ横に見慣れた箱が増えていた。


——《その場で当たる! スクラッチキャンペーン》


「お、またやってんじゃん」


高梨がポップを見つけて声を上げる。


「“200円以上お買い上げで一回スクラッチ”だってよ。

 当たりはドリンク無料券とお菓子詰め合わせ。ハズレは……ポイント1個」

「ポイント1個って、実質“何もなし”じゃん」

「こういうのは雰囲気が大事なんだよ」


トレイを片付けたあと、高梨は迷わず売店でエナジードリンクとおにぎりを取った。


「ほら境もなんか買えよ。スクラッチ引けるぞ」

「……どうせハズレだろ」

「そう言うやつに限って当たるんだって」


半ば押し切られる形で、直耶もペットボトルの水とプロテインバーをレジに乗せた。


「はい、2人とも1枚ずつどうぞー」


店員が、手のひらサイズの銀色スクラッチを差し出す。

高梨は迷いなくその場でコインを取り出し、シャッシャと削り始めた。


「っしゃ!」


出てきたマークは、ド派手な「当」の文字。


「“ドリンク無料券”です、おめでとうございまーす」


店員が、カウンターの下から券を1枚差し出す。


「見たか境。これがリアルラックだ」

「うるさい」


順番が回ってきて、直耶も自分のスクラッチを削る。

銀色の粉の下から現れた文字は——


《もう1回がんばろうスタンプ》


「……ですよね」


小さくため息をついて、スクラッチを店員に渡す。


「残念〜。スタンプ1個押しまーす。10個溜まるとお菓子1個と交換できますよ」

「10枚もハズレ引く前提なんですか、それ」


スタンプがひとつ増えただけのカードを受け取りながら、直耶は心の中でだけぼやいた。

高梨は、当たり券を指に挟んでひらひらさせる。


「いやー、今日も俺のツキは元気だなあ」

「そのツキ、ちょっとでいいから分けてくれない?」

「ダメです。個人資産です」


バカな会話をしつつ食堂を出る。


(回廊に来たからって、地上のクジ運まで良くなるわけじゃないか)


どこかで期待していた自分に、苦笑いしたくなった。



午前の座学が簡単に終わったあと、グラウンドで軽く身体を動かしていると、声が飛んだ。


「巡回希望者ー!」


振り向くと、森山が手を振っていた。

いつもの無精髭に軽装ベスト。首から「第三探索チーム 森山」のカード。


「B班、今日も俺んとこな。境、高梨、そこの2人。集合」


呼ばれた4人が集まる。


「今日の仕事は浅層C〜D境界。ログがちょい古くなってるから、引き直しだ」

「またCっすか」

「“またC”って言うな。浅層で死なない奴だけが、そのうち中層に行けるんだよ」


森山がポーチの中からタブレット端末を取り出す。

薄いホログラムマップが浮かび上がった。


「ここが、この前も行った見学ポイント2号」

「ここから先が、CとDの境界帯。

 分岐がちょっと増えてるから、ルートの引き直しとマーカー確認」


地図上の線は、「だいたい」知っている浅層の形を示していた。


「敵性生物の排除は目的じゃない。

 遭遇したら、いつも通り“向こうが空気読んでくれなかった場合の対処”な」

「空気読んでくれる敵なんているんですかね……」


高梨の小声に、森山が肩をすくめる。


「いたら、とっくにこの仕事なくなってる」


装備庫に向かう足取りは、もう初日のような重さはない。

恐怖は消えていないが、どう付き合えばいいかの“手順”だけは身体に入ってきている気がした。



エレベータの揺れにも、もういちいち驚かなくなった。


——ゴウン、ゴウン。


鉄格子の向こうを、コンクリートの壁が下へ流れていく。

耳の奥で振動が鳴り、胸骨のあたりがわずかに共鳴する。


(ここから先が、俺の“職場”ってわけだ)


自分で自分にそう突っ込みながら、直耶はグッっとシールドのグリップを握り直す。


今回の隊列はいつも通り。

先頭が森山。

そのすぐ後ろに盾役の直耶。

高梨と他の研修生2人。

最後尾に補助の榊。


「通信、浅層Cまでは問題なし。C〜D境界で少しノイジーかも、ぐらいだとさ」


森山がヘルメット越しに伝える。


「さっさと行って、さっさと帰る。

 “何も起きなかった”って報告が一番優秀だからな」



見学ポイント2号までは、前回とほとんど変わらなかった。

塗り潰されたマーカーも、相変わらず気持ち悪い形のまま残っている。


「まだ上書きされてねえな。昨日マークした印も生きてる。

 珍しく、おとなしい日かもしれんな」


榊が、壁の印を確かめながら言う。


そこから先——CとDの境界側に伸びる通路に入ったあたりから、

ログと目の前の景色の「ズレ」が目立ち始めた。


「ログだと、ここからしばらく“なだらかな右カーブ”で一本道なんだけどな」


森山の言葉とは裏腹に、現実の通路にはいくつもの枝が顔を出している。

右に細い穴。

左に膨らんだ凹み。

さらにその先に、別の分岐。


「……増えてません? 道」


高梨が、あまり嬉しくなさそうな声を漏らした。


「増えてるな。しかもマーカーの数はそんなに変わってない」


森山は、一つ一つ壁の印を確かめていく。


「メインルートの“筋”は追えるけど、余計な枝が増えたせいで、

 一歩間違えると“似たような景色の袋小路”コースだな」


そのとき、耳の中の通信アイコンが一瞬だけ赤く点滅した。


『……——こちら管制。C〜D境界付近、通信状態に若干の——』


ノイズ混じりの声が途切れる。


「はいはい、“ちょっと聞こえにくくなってきました”ってやつね」


森山が、ヘルメットの横を軽く叩く。


「完全に切れたわけじゃないが、あんまり奥まで迷惑な迷い方すると、戻るのがしんどい」


直耶は、喉の奥が少し乾くのを感じた。


(ここで本気で迷うのは、さすがに笑えない)


端末のマップと、壁のマーカーと、実際の通路。

全部、「だいたい合ってる」のに「どこかズレて」いる。


「本命ルートは、ログ的にはこっちだな」


森山が、右手の少し広い通路を指さす。

壁には、蛍光スプレーで塗られた帯と一緒に「C-MAIN」と印字されたプレートが貼られている。


「でも、こっちの細い方も、“回廊的には本筋に格上げされました”って顔してる」


榊が、隣の分岐を見やる。


どちらの先にも、暗闇。

どちらにも、過去の探索者が残した印が少しだけ付いている。

パッと見だけでは決め手に欠けた。


「……こういうの、嫌いなんだよな」


森山が小さく漏らす。


「理屈で決めきれないときに“どっちか”を選ばなきゃいけないやつ」

「どっちもハズレってことは?」と高梨。

「縁起でもねえこと言うな」


そんなやりとりをしながらも、森山の目は真剣だった。


直耶は、ふと自分がどこを見ているのかに気付いた。


右の太い通路でも、左の細い通路でもない。

少し斜め右前——2本の通路の「向こう側」にある空間を、じっと見ていた。


頭の中に、ざっくりした地図が組み上がる。


(ここが今いる場所で、さっきの見学ポイント2号がこの辺で……)


そこから見て、「合流ポイントC3」がどの方向にあるか。


最近になって、そういう“位置関係”が妙にくっきり分かるようになってしまった。


(C3は……だいたい、あっち)


自分でも、なぜそう思うのか説明できない。

だけど胸の奥で、小さな磁石みたいなものが、その方向を指している感覚がある。


「——境」

「はい」


森山に名前を呼ばれ、直耶は少し肩を跳ねさせた。


「さっきから、お前、どこ見てんだ?」


自覚のないうちに、視線が一点に固定されていたらしい。


「いや、その……」


言い訳の言葉を探す。

だが、うまく取り繕う言葉が出てこない。


「……合流ポイント、C3がどっちの方向にあるか、なんとなく分かる気がして」


正直に言うしかなかった。


「はあ?」と高梨。

榊も、少し興味深そうにこちらを見た。


「ログだと、C3はこの辺の座標ですよね」


直耶は、森山の持つ端末の地図を指さす。


「ここから見て、その……あっちの方角が“正面”な感じがしてて」


さっきから気になっている通路の先を指差す。


「この太いルートは、なんか一回無駄に回される感じがするというか。

 細い方に行っても、多分違う方向にずれてく気がするというか……」


自分で言っていても、理屈になっている気がしない。


「……“気がする”ねえ」


森山は、少しだけ目を細めた。

榊が、端末の上で指を滑らせる。


「ログ上のC3の位置と今の位置関係からすると……

 方角的には、境くんが言ってる方角が“だいたい正しい”ですね」

「マジで?」


高梨が思わず声を上げる。


「いや、マジっていうか、“計算した結果と境の“なんとなく”が一致してる”くらいですけど」


榊は苦笑した。

森山は、2つの通路と、端末の画面と、境の顔を順番に見比べる。


「……まあ、いいや」


ぽつりとそう言うと、境が示した方向に繋がる通路を指さした。


「今日は新人の勘に乗ってみるか。

 どうせどっち選んでも、あとで管制に“何でそっち?”って言われるときは言われる」

「え、いいんですか、それで」


直耶は、思わず確認した。


「こういうときに限って、判断材料の薄い新人の勘が当たるんだよ。

 3年やってると、そういうパターンにだけ運が良くなる」


声色は軽いが、完全な冗談にも聞こえなかった。


「もちろん、変な兆候が出たら即引き返す。

 境、変な感じしたらすぐ言え。さっきみたいに固まるなよ」

「……努力します」



結果から言えば、そのルートは当たりだった。


通路は途中で何度か曲がりながらも、

ログ上の「想定ルート」と大きくズレることなく進んでいく。


分岐はいくつも出てきたが、そのどれもが「あからさまに細すぎる」か、

マーカーが極端に少なかった。


「こっちは“行ってほしくなさそう”な顔してるな」


榊のボソッとしたコメントに、何人かがこっそり頷く。


途中、枝の先に崩れかけた床が見えた。

ライトの輪の中で、岩盤に細かい亀裂が走っている。

天井も低く、圧迫感がある。


「……あっちに入ってたら、間違いなく“足場チェック地獄”だったな」


高梨が冷や汗交じりに言う。


「最悪、一回誰かが踏んでから“やっぱりダメです”になるやつだな」


森山も、軽く舌打ちしながら言った。


「こっち側で正解だったな。境の“なんとなく”に一本」

「いや、それ俺のポイントとかに加算されるタイプのやつですか」

「されねえよ。せいぜい“今度の飲み会で1杯奢らないで済む”くらいだ」


くだらないやり取りができる程度には、空気が軽くなった。

数分後、合流ポイントC3と表示された広場に出る。


壁際には、以前に他のチームが付けたと思われるマーカーや簡易機材。

ログ上の形と、目の前の空間の輪郭も、ほぼ一致している。


「よし。ここまでは予定通り。

 “新人ルート選択案”、今回は採用成功ってことで」


森山がそう言うと、高梨が横で直耶の腕を小突いた。


「ほらな。“こういうときだけ勘が当たるタイプ”だって言ったろ」

「“だけ”って言うな」


胸の奥で、さっきから妙なざわつきが続いていた。


(本当に、偶然じゃないのかもしれないな)


自分の中のどこかに、地図にもコンパスにも載らない「方角センサー」みたいなものが増えている感覚。


昨日、壁に触れたときに一瞬だけ頭を締め付けられたあの感覚と、

どこかで繋がっている気がしてならなかった。



戻り道は、行きよりも早かった。


来るときに通った分岐は、その逆を辿ればいい。

もちろん、回廊がその間に気まぐれを起こさなければ、の話だが。


幸い、この日はそこまで意地の悪い変化は起きなかった。

遠くでケモノの声が一度聞こえたが、姿を見ることなく通り過ぎる。


「今日は“見られてるだけの日”だな」


榊のつぶやきに、森山が「そういうのやめろ」と軽く肩を叩く。

施設側の照明が見えたとき、直耶は、肺の奥まで息を吐き出した。


(少なくとも、“悪い日”じゃなかった)


そんな感想が、自然と浮かぶ。



簡易ブリーフィング室での報告は、いつも通り淡々としていた。


「浅層C〜D境界、巡回B班。

 分岐構造に若干の変化あり。

 見学ポイント2号以降、枝が数本増加。

 旧ルートの一部に崩落の兆候あり。

 合流ポイントC3までの新ルートをログ更新。

 敵性生物との直接交戦なし。——以上」


係官がメモを取りながら頷く。


「研修生の体調異常は?」

「特になし」


森山が答えると、後ろの方で佐伯が小さく頷いた。


「じゃ、B班は装備返却後解散。ログは後で解析に回す」


部屋を出ようとしたとき、隣の部屋の扉が開き、別の班が入っていくのが見えた。


「第三探索チームA班」と書かれた札。

中から聞こえる報告の声。


「浅層Dブロック側、探索A班。

 敵性生物2体排除。回廊由来物質サンプルB-03を1点回収。

 損害なし。以上」


「また拾ったのか、あいつら」

「この前のA-17と合わせて、かなりの額になるんじゃね?」


廊下で待機していた別の隊員たちが、小声で話している。


「企業案件だろ、あれ。

 “成功報酬、2ヶ月分くらい上乗せ”とか噂出てたし」


(同じ日に、同じ穴の中歩いてても——)


直耶は、自分たちの空っぽの手と、

隣の班の「サンプル回収」の報告を比べてしまう。


(こっちは、“何も持たずに帰ってきた側”か)


すぐに、その考えを振り払った。


(いや。何も起きずに帰ってこれた時点で、今日の俺には十分だろ)


そう思い直して、装備庫へ足を向けた。



夜。

寮の明かりが消える少し前。

下段のベッドに仰向けになって、直耶はスマホの画面を見ていた。

母からのメッセージが、少し遅れて届く。


『今日もおつかれさま。

 回廊のニュースまたやってたよ。

 お父さん、真剣に見てた。

 あんたのいるところとは全然違う場所の話なんだろうけど、変な感じだね。

 妹はテスト前でピリピリしてる。奨学金のパンフ増えたって騒いでたよ。

 こっちはこっちなりにやってるから、あんたも体に気をつけること』


短く、「こっちもなんとかやってる」「今月も振り込んだ」とだけ返す。


送信ボタンを押すと、すぐに「既読」が付いた。


画面を伏せて、天井を見る。


(……今、病院がどっちにあるかって言われたら、なんとなく分かるんだよな)


意識を向けた瞬間、胸の奥で小さな針が動くような感覚があった。

寮から見て、母のいる病院は——こっちの方角。


距離までは正確に言えない。

でも、「あっち側の、だいたいこのくらいの遠さ」というイメージは、やけに具体的だ。


試しに、訓練センターのグラウンドを思い浮かべる。

朝の光、砂、教官の声。


別の方向に、またひとつ針が振れる。

さらに、今日行った合流ポイントC3のことを考える。


回廊内の位置は、地上の地図からすれば「底なしの穴」のはずなのに、

なぜか寮から見たざっくりした方向と距離感が、そこそこ整合している気がした。


(……こういうの、普通の人はやらないよな)


自分で自分にツッコミを入れる。


今日の分岐で、「なんとなくこっちが“正面”だ」と感じた感覚と同じものが、

今も胸の奥でゆっくりと回っている。


(地上のクジ運は相変わらずハズレ寄りで、

 スクラッチ一枚すら当たらないのに)


思わず、朝の売店の光景を思い出して苦笑した。


(それでも——)


回廊の中では、今日は少なくとも、

崩れかけの床を踏まずに済んだ。

遠回りルートを選ばずに済んだ。

迷子にもならず、予定通りの合流ポイントに出られた。


大きな成果ではない。

ニュースになるような「一発逆転」からは程遠い。


それでも、地上にいた頃の自分からすれば、

「悪くはない目」が続いた一日だった。


(回廊の中だけは、

 俺のサイコロが、ほんの少しだけマシな目で止まってくれるのかもしれない)


そう考えると、少しだけ呼吸が楽になった。


それが、本当に良いことなのかどうか。

そのぶん、どこか別の場所で誰かのサイコロがひどい目を出しているのかどうか。


そこまで考え始めると、頭の中が暗くなりそうで、

直耶は意図的に思考を止めた。


「……今日は、当たりでも大当たりでもないけど、ハズレでもなかった日。

 それでいいか」


自分にそう言い聞かせて、目を閉じる。


胸の奥の、小さなコンパスみたいな感覚だけが、

うっすらと回り続けていた。


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