第36話 騒乱
湾岸を離れたのは午前10時を回った頃だった。
講堂での全体通達、班ごとの割り振り、装備の再点検。
「急げ」と「落ち着け」が同時に飛び交い、時間だけが削られていく。
まだ、現実味が薄い。
現場に行けば人がいて、事故が起きていて、救助が要る。
自分に勤まるのだろうか――その問いだけが、喉の奥に残っている。
都心に近づくにつれ、空は白っぽく明るくなっていった。
昼へ向かう光が、街の輪郭を必要以上にはっきりさせる。
森山は信号のたびにミラーを確認しつつ、淡々とハンドルを回していた。
三宅は後部座席でタブレットを操作しながら、同じ内容を紙のメモにも落としていた。
「……来てますね。もう」
「見えるか」
「はい。車列が止まり始めてます。中継車っぽいのもいます。
ネットに入口の場所情報がアップされてるみたいです」
首都高の分岐を過ぎたあたりから流れが詰まった。
作業車の点滅灯、パトカー、テレビ局の車両。すべてが同じ方向へ吸い寄せられている。
「あれ?電波が弱い?」
三宅が眉をひそめた。画面の読み込みが露骨に遅い。
「隊長、回線が混んでそうです。配信と通話の影響でしょうか」
「かもしれんな。現地で見て判断するぞ」
高速を降りた頃、車はとうとう動かなくなった。
クラクションが鳴り、路肩に停められた車が列を作る。
歩道に乗り上げて止める車まで出てきて、広いはずの車線が潰れていく。
歩道では人が同じ方向へスマホを見ながら小走りになっていた。
「……心苦しいが、仕方ない。車を置いて歩くぞ。会社の腕章を忘れるな」
「はい」
紙のメモを胸ポケットに押し込みながら、三宅も頷いた。
*
群衆の流れに沿って進む。
ビルの間を抜けた先で、景色が急に抜けた。
潮の匂いと、湾の向こうの高層群。――お台場海浜公園だ。
直耶は遊歩道の柵際まで来て、思わず足を止めた。
園路の高さから見ると、手前の陸地が長く
その先で砂浜が一段落ちて短く広がる。
そして、そのまま海へつながっている。
そのせいで、人の流れがいやでも見えた。
上から見下ろせば、砂浜へ降りる地点がいくつもできていた。
階段やスロープ、柵の切れ目をすり抜け、群衆がぞろぞろと砂浜へ下りていく。
砂浜は人で埋まり、さらにその先へ吸い寄せられていく。
「下がって!危険です!止まって!」
拡声器が響いた。
ロープとカラーコーンに警官の列。
警察は砂浜の縁で規制線を張り、人の波を止めようとしている。
だが、止めきれていないように見える。
「危険です!押さないで!撮影もしないで!」
「落ち着いてください!転倒します!危険です!」
砂浜という皿の底――その底の真ん中に、むき出しのエレベーターが立っていた。
地面から、まさに「出ている」。
筒状の骨格と扉の枠だけが、潮風を受けて平然と立っている。
周囲より低い砂浜にそれがあるせいで、余計に目立つ。
脇にはテントが張られているようだ。
「今なら行けるって!警察も足りねぇし!」
「じゃあお前が行けよ!」
「撮れ撮れ!万バズ狙えるぞ!」
「緊急で回してます!皆様見えますかぁ~!?登録、高評価ボタンよろしくー!」
スマホやアクションカメラを掲げ、手を伸ばす。
規制線の内側では顔色の悪い人々がしゃがみ込み、吐き気をこらえるように蹲っていた。
笑い声と青ざめた顔が、同じ場所に同居している。
砂浜の端には消防車が一台、低い段差を慎重に越えて入ってきた。
救急隊員が担架を下ろし、ひとまず運べる道を作ろうとしている。
森山は正面を見据えたまま言った。
「境。三宅。まず警察の現場指揮所に顔を出すぞ。多分、あのテントだ」
「はい」
「了解です」
*
「失礼!CORRIDOR JAPANです!通してください!」
人垣をかき分け、文句を言われながら規制線へたどり着いた。
「止まって! 中は関係者以外立入禁止だ!」
「CORRIDOR JAPANです。要請を受けて来ました」
森山は腕章を見せ、社員証を一瞬だけ掲げた。
警官は無線で短く確認し、顎でテントを示す。
「……どうぞ。動線だけは塞がないように!」
規制線の内側、園路の脇に臨時の指揮所が組まれていた。
白いテント、机、地図、無線機。警察官が数人、消防の隊員が数人。
そこへ、CORRIDOR JAPANの腕章をつけた男が一人立っていた。
「お疲れ様です、運用部の佐川です。部長から現場連絡の担当を仰せつかっています」
「お疲れ様です。第三探索の森山です」
「こちらも今しがた到着したばかりです。他の運用部は後からすぐ合流予定です。
なにせ、現場が混乱しておりまして……」
「わかりました。まずは指揮をとられている方を教えてもらえますか?」
佐川は一人椅子に腰かけている壮年の警察官のもとへ、森山を案内した。
「CORRIDOR JAPANです。回廊関連の情報提供、協力で参りました」
「来てくれましたか。助かります。まず一点。
砂浜の押し合いが危険です。転倒と器物損壊は止めたい」
「承知しました。こちらは警察・消防の動線を妨げない範囲で、入口付近の状況だけ見ます。
救助要請の整理も、CORRIDOR JAPANに上げます」
「助かります。ただ――」
指揮官は砂浜の方を一瞥した。
「正直に申し上げますと、全員を物理的に止めるのは難しい状況です。
暴行や破壊行為は取り締まりますが、立ち入りそのものは説得が中心になります」
「…危険性の周知はこちらでも協力します。
ですが、立ち入りは自己責任、という理解でよろしいですか」
森山は、努めて声のトーンを落として意見を伝える。
「その通りです。暴動は抑えます。救急の妨害も許しません」
消防隊員が、短く付け足した。
「悔しいですが、こちらも同じです。
ただ、救助の優先順位は付けます。手が足りませんので」
佐川が小さく諦めたように息を吐く。
そのとき、外がどよめいた。
人垣の間を縫うようにCORRIDOR JAPANの腕章を付けた人員が続々と到着しているようだ。
装備は森山達と違い、軽装だ。
「私の同僚みたいですね」
運用の補助と、記録と、連絡。
いまは少しでも手が欲しい。
森山が視線だけで状況を測る。
「……よし。境、三宅。砂浜へ戻るぞ」
直耶は頷いた。
止める。守る。
それが今日の仕事だ。
*
入口の前は、より騒然としていた。
倒れた三脚。絡まったライトのコード。
ロープの外で押し合う群衆。内側で踏ん張る警官と、担架を通すために声を張る消防。
「押さないでください!危険です!」
「皆さん下がってください。転倒します!」
バットを持った男。フルフェイスのヘルメットの女。
軍手とリュックだけの高校生。スマホだけ持って配信の準備をしている若者。
誰もがウズウズとした顔でエレベーターを見つめている。
「おい!お前ら回廊の会社なんだろ!プロなんだろ!入らせろよ!」
男が叫ぶ。
直耶が口を開く前に、森山が一歩だけ出た。
「すでに倒れてる方がいます。被害を増やすわけにはいきません」
「脅しか!?そんなんで止まるかよ!」
「現実です。倒れたら救援が必要になります。手が減れば、助かるはずの人が死にます」
男の笑いが少し薄くなる。
そのとき。
「開いた!」
誰かが叫んだ。
エレベーターの扉が左右に割れた。
暗い箱の中から手が伸びる。
赤黒い汚れで濡れた手。
汗か、泥か、血か――。
次に、人が転がり出た。
「た、助けて……!中に……!」
若い男だった。
足首が不自然に曲がっている。
痛みで顔が引きつり、視線が宙を泳ぐ。
「救急!担架!」
救急隊員が駆け、担架が砂に沈みながら近づく。
森山は男に顔を寄せて尋ねた。
「中で、何がありましたか。分かる範囲で構いません」
男は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で叫んだ。
「ゴブリンだよ……!数が……多くて!
こっち見てた!こっち……見てたんだ……!」
それが事実か、パニックの誇張か。
暗闇の縁にもう一人、影が見えた。
次に覗いた顔は、目つきがどこか危うい。
男はふらつきながら笑って言った。
「……次、行こ。次は勝てる。学習したから」
その言葉に反応したのは群衆だった。
「うおおおお!初めて帰ってきたぞ!」
「生還報告だ!いけるってことじゃん!」
「今の、撮れた!?撮れた!?」
ロープがたわみ、押す力が増す。
直耶は腕で線を支えながら、奥歯を噛んだ。
「下がってください!救助中です!」
「なら俺らも後で救助してくれよ!生意気に迷彩服着やがって!
お前らに何の権限があるんだよ!」
「そんな事言っている場合じゃ…!」
「はい!離れて離れて!」
警官が境と群衆の間に入り、なんとかその場を止めていた。
「まいったな、パニックにはなっていないけど、空気感が異常だ」
「境さん、大丈夫ですか!?」
ロープから少し離れた直耶に、三宅と森山が駆け寄った。
三宅は周囲の空気に飲まれつつも紙のメモに時刻を書き、タブレットにも打ち込む。
「……エレベーターより帰還者2名。うち、負傷者1名。」
森山が頷く。
「それでいいぞ、三宅。事実だけでいい」
直耶は改めてエレベーターの箱を見る。
湾岸より小さい、ただの10人乗り程度のエレベーター。
見た目だけなら本当に普通だ。
さっきの「学習した」と言っていた男も座り込み、息を荒くしていた。
ブツブツと何かを繰り返している。
救急隊員が声をかけた。
「大丈夫ですか。こちらに来られますか」
男は一瞬、こちらを見て――首を振った。
「だめだ……取られる……」
「何がですか」
「……俺の…ポイントだよぉ!ほら!ステータスオープン!」
言葉が続かない。
男は叫びながら虚空を見て指を動かす。
タップするような仕草だけが空を踊っていた。
救急隊員は一瞬だけ視線を泳がせ、それでも手は止めなかった。
「……はい、移動します。暴れないでください。
大丈夫です。今、安全なところへ移動しますから」
森山が視線を切って現場を一巡し、短く結論を出した。
「外は警察に任せよう。俺たちは回廊内の救助。
初めての生還者ということは、まだ中にいるはずだ」
その判断を受け、佐川が無線で社内へ連絡を入れ
到着した運用の面々は様々な補助に回る。
三宅が端末から顔を上げる。
「森山さん、西方面も同様のようです。横浜で救助要請が増えていると」
「どこも同じか……」
森山はエレベーターへ視線を戻した。
判断しなければならない。
「……行くぞ。俺、境、三宅。三人で入る。5分で戻るぞ」
「はい」
直耶は反射で答えていた。
佐川がぎょっとした顔だ。
「ちょっと森山さん――」
「そのために来たんだ。だから5分だ」
森山はそれだけ言った。
そして直耶の目を見る。
「中でやることは、いつもと同じだ。分かったな」
「…はい」
「…了解です」
森山は頷いた。
「よし。救助要請の声が届いてるうちが勝負だ。
戦闘はしない。接敵したら引くぞ」
緊張しているのだろうか。少し暑い。
直耶は無意識に、襟元を指で引っ張った。
*
森山が先に乗り込み、直耶と三宅が続いた。
扉が閉まる。
普通のエレベーターのように、ただ閉まる。
なのに、閉まった瞬間から外の音が遠い。
——ゴウン、ゴウン。
湾岸を思い出させる音が響き、下っていく。
何事もなく扉が開いた。
暗い前室。
湿った匂い。
足元の砂利のような感触。
湾岸と同じだ。
少なくとも、入り口の感じは。
不意に森山が声を張り上げた。
「CORRIDOR JAPANです!救助に来ました!」
救助要請の声は確かに近かった。
「こっち……たすけて……!」
「…か………たす……」
森山が合図し、三宅がライトを落とし、直耶が前へ出た。
近場に複数人いるのか、声が重なる。
ライトの光に倒れた男が映し出された。
肩を押さえ、呼吸が浅い。口元が乾いている。
森山が腕を掴み、直耶は反対側を取った。
三宅は記録を残しながら、出口の位置を見失わないよう後ろへ下がる。
そのとき、ライトの光が床をなぞり、きらりと瞬いた。
結晶――。
直耶が目で追う間もなく、森山が男の体を持ち上げ直した。
服の皺に引っかかっていたのだろう。
小さな欠片がぽろりと落ちる。
直耶は反射で肩を入れて支えた。
前屈みになった胸元へ欠片が滑る。
襟ぐりの隙間から、冷たいものがすっと入り込んだ。
皮膚の上で一瞬だけ止まり、次の瞬間――どこかへ消えた。
「……っ」
声に出せない。両手が塞がっている。確かめる暇もない。
「戻るぞ!」
森山の声で、直耶は救助に意識を戻した。
今は出口へ。
引きずり、押し、担ぐ。
胸が熱い。体温が上がる。
人を担ぐのはこんなにも大変なのか。
三人は前室へ戻り、エレベーターへ飛び込んだ。
扉が閉まり、上がってゆく。
扉が開くと、歓声と潮の匂いが押し寄せた。
いやに明るい砂浜の光が目に刺さる。
担架が走り、医療班が叫び、スマホが一斉に上がる。
直耶は反射で怒鳴った。
「撮らないでください!下がってください!」
「おー!さすがプロ!早速だ!」
「撮れ撮れ!」
直耶の腹に怒りが溜まる。
何を無責任に。
「境、落ち着け。まずは運ぶぞ」
「っ~~~!はい!」
森山が見覚えのある笑顔で笑っている。
訓練の時、爆発する寸前の時の笑顔だ。
直耶の頭がスッと冷える。
この隊長はヤバい。
とばっちりはゴメンだ。
ふと三宅に目をやれば、目が合った。
多分、同じことを思い出したのであろう。
苦笑いをしていた。
「救急に渡せ!次に行くぞ!」
「はい!」
直耶は踵を返し、エレベーターに向かう。




