第3話 浅層Cブロック・初潜行
走るのは、もう日課になっていた。
グラウンドの砂も、教官の声も、肺の軋みも。
最初の数日は「地獄」だったものが、2週間もすると「いつもの朝」に変わってくる。
「そこまで! 境、タイム……お、ちょっとだけ縮んだな」
ストップウォッチを止めた教官が、珍しく口角を上げた。
「……マジっすか」
しゃがみ込んだまま、境 直耶は喉を焼きながら答える。
「平均ちょい下から、“ギリ平均”ぐらいにはなった」
「微妙にディスられてないですか、それ」
「褒めてる褒めてる。“落とす理由はない”ラインだ。大事なのはそっち」
教官は、ぱん、と手を叩く。
「じゃ、今日の走り込みはここまで。シャワー浴びて、9時にブリーフィング室集合。
——浅層Cブロック、実地行くぞ」
ざわ、と周りの研修生の空気が揺れた。
「マジで?」「やっと本物かよ」「帰ってこれるやつ?」
高梨が、横でタオルを肩にかけたまま、半笑いで直耶の肩を小突く。
「おい境、“初潜り”だってよ」
「……聞こえた」
「テンション上げろよ。死ぬのは回廊ん中だけって教官が——」
「それ全然励ましになってないからな」
*
ブリーフィング室は、いつもの座学教室より少しだけ狭かった。
壁際には大型モニターと、簡単な立体マップのホログラム装置。
前には、制服姿の係官と、簡素な防具ベストを着た現場の隊員が1人立っている。
モニターには、《第七湾岸回廊 浅層Cブロック 実地訓練》の文字。
「じゃあ、簡単に今日の内容説明する」
前の係官が、レーザーポインターで画面を指した。
「目的は3つ。1つ、浅層の“空気”に慣れること。
2つ、基本行動——隊列、報告、撤退判断の徹底。
3つ、敵性生物に遭遇した場合の“実物”の感覚を掴むこと」
背後のホログラムに、回廊入口から浅層Cブロックまでの概略図が浮かぶ。
「ルート自体は、訓練用に選んであるから、そう難しくない。
入口からCブロックの分岐を通って、浅層の見学ポイントまで行って、そこで折り返し」
ホログラム上に、青いラインといくつかのマーカーが灯る。
「みんなはまだ研修生だから、単独行動は一切なし。
各班に1人、現場経験者を付ける。判断はその人間に従え。
敵に遭遇したときは——」
現場の隊員が1歩前に出る。腕には「訓練指導」の腕章。
「基本、“見て覚えろ”だ。お前らは余計なことすんな。
距離を保って、盾の後ろにいろ。勝手に飛び出したやつから順番に殴るからな」
後ろの方から、乾いた笑いが洩れた。
係官が続ける。
「使用装備は、訓練で触ったものとほぼ同じ。
ヘルメット、軽装ベスト、警棒、簡易シールド。
今回は実弾もスタンも無し。銃は持たない。
——回廊の中では、銃は当てにしてはいけない。座学でやった通りだな?」
「はーい」
生返事が部屋を満たす。
「じゃあ、班分けと担当者の紹介」
*
装備庫は、金属と油と洗浄液の匂いが混ざっていた。
規則正しく並んだシールドとベスト。
番号が振られたヘルメット。
壁際のラックには、警棒や折りたたみ式の簡易槍。
「境、こっちー。お前、B班な」
係の隊員に呼ばれ、直耶は自分の名前が貼られた装備棚に向かう。
ヘルメットの内側には、昨日まで汗を吸った匂いが残っていた。
「あ、B班。指導役は——森山さーん」
名前を聞いた瞬間、直耶はわずかに背筋を伸ばした。
奥の扉から、あの無精髭の男が片手をポケットにつっこんだまま入ってくる。
ジャージではなく、実戦用の軽装ベストにヘルメット。
首からぶら下がるカードには「第三探索チーム 森山」と印字されている。
「よー、研修生ども。今日のお守り係、森山でーす」
いつもの軽い声。
だが視線だけは、ひとりひとりを刺すように確認していく。
「ほら、並べ並べ。B班……4人か。境、高梨、それと——」
名前を読み上げられた研修生たちが、緊張した面持ちで前に出る。
「こいつらはうちの3番隊の浅層仕様。
今日はCブロックの浅いとこまで。
“遊園地の新アトラクション”だと思って並んできた奴は、今のうちに帰っとけ」
誰も動かない。
「よし、全員バカだな。いいことだ」
森山はニヤリと笑った。
「いいか。今日の目的は、“死なないこととビビること”だ」
「……ビビること?」と、高梨が小声で繰り返す。
森山は聞こえていたのか、顎をしゃくった。
「そう。初めて入って怖くなかったら、それはそれで頭がイっちまってる。
怖がって、ちゃんと足がすくんで、それでも1歩出す。
——それができりゃ、L値が多少ヘボくても生き残る」
ベストのバックルを締めながら、直耶は小さく息を吐いた。
*
入口施設のエレベータホールは、工場のような、軍事基地のような無機質さだった。
コンクリートの壁。
黄色と黒の注意喚起ライン。
頭上には「あらゆる装備はこのラインより内側に持ち込むこと」と書かれた看板。
巨大なシャフトの口には、安全柵とゲート。
その向こうに、何本ものケーブルと階段が闇に落ちている。
「これが、テレビで見てた——」
高梨が、ぽつりと呟いた。
「《第七湾岸回廊》の入口だ」
森山が、その横顔をちらりと見る。
「テレビだと、もっとライトアップされてるだろ。
実物はこうだ。でかい穴と、落ちたら死ぬ高さと、よく分からん暗闇」
ゲート前で、最終チェックが行われる。
ヘルメットの通信テスト、ベストとシールドの固定、心拍とL値のモニターリンク。
「B班、通信正常。心拍ベースライン良好」
オペレーターの声がイヤホンに届く。
「じゃ、降りるぞ」
森山が先頭に立ち、シャフト内のエレベータに乗り込む。
狭い鉄の箱に、5人分の装備が擦れ合う音だけが響く。
鉄格子越しに上へ流れていくコンクリートの壁。
数字の表示が地上からマイナス方向へ下っていく。
——ゴウン、ゴウン。
胸の奥まで振動が伝わる。
(ここから先が、“地上じゃない場所”)
直耶は、手に持ったシールドの縁を指先でなぞった。
*
エレベータを降りた先は、半分人工、半分自然のような空間だった。
最初の通路はコンクリートで固められている。
壁には配管と配線。天井のライトが、一応の明るさを保っていた。
だが、その先——施設側の通路が終わる手前で、空気ががらりと違う。
白いタイル張りの床が途切れ、岩ともコンクリートともつかない
あの妙な素材の地面が続いている。
壁には薄い筋模様。
照明は人工のライトから、隊員たちのヘルメットライトにバトンタッチされる。
「ここから先が、本物の“回廊”。
まだ入口付近だけどな」
森山が言う。
「列—縦1列、間隔1メートル。前から俺、境、高梨、他2人。最後尾に補助員の榊」
後ろにいるもう1人の隊員が、軽く手を上げた。
「はい榊でーす。撃たれ役じゃなくてフォロー役なんで安心してくださーい」
軽口で少し緊張が和らいだ気がした。
「盾役は基本、境。前の授業で“壊れにくい”ってお墨付きもらったろ」
「……医務室の会話どこまで筒抜けなんですか」
「必要な情報は共有される。それが現場」
ヘルメット越しでも、森山がニヤついているのが分かった。
「ビビったら素直に言え。ビビるのは悪いことじゃない。
黙ってパニくるのが、一番タチ悪い」
*
施設側の灯りが後ろに遠ざかる。
回廊の壁は、ヘルメットライトの輪の中で、静かに光を散らしていた。
足音が、前後に長く伸びていく。
「前方、分岐」
森山の声に、直耶は足を止めた。
右と左に分かれた通路。
右側は、壁に施設側の白い矢印マーカーと「C→」の表示。
左は、まだあまり人が入っていないのか、印が薄い。
「今日は教科書どおり。Cブロックの浅層ルートを時計回りだ」
森山は、右の通路を指さす。
「さっき習ったろ。“浅層Cブロック 想定安全ルート”。
現場だと、想定どおりなのはだいたい最初の5分だけだが、今日はそこまでも行かん」
ゆっくりと右の通路に入っていく。
足元は少し湿っている。
遠くから、水の滴る音が微かに聞こえた。
「——なあ」
小声で、高梨が後ろから話しかけてくる。
「何かいると思う? 今日は」
「……いるかどうかは、運じゃないの?」
「そういうこと言うなよ。運悪い方に寄る気しかしないだろ」
軽口のつもりだが、声の端に本当の不安が滲んでいる。
直耶自身も、「今日は何も出ませんでした」で終わってほしい気持ちは大きかった。
だが、それでは訓練としては不充分なのだろう。
(“敵性生物の実物の感覚を掴む”。——さっき言われたばかりだ)
喉の奥に、乾いた緊張が張り付く。
*
しばらく進むと、通路が少し広がった。
天井が高くなり、壁には意味の分からない模様のような筋が濃く出ている。
床の一部が、しっとりと暗い色をしていた。
「ここ、浅層Cの“見学ポイント1号”」
森山が言う。
「足元気をつけろ。ちょっと滑りやすい」
彼はポーチから何かを取り出し、壁際に白いマーカーを1本引いた。
チョークのような、それでいて粉がすぐに消えない特別な印。
「こうやって、毎回誰かが線引いてんのよ。
“こっから先は浅層C”“ここまでは帰ってきたやつがいる”って目印」
榊が補足するように説明した。
「テレビじゃ、こういう泥臭いとこあんま映さないけどな」
直耶はその印を見て、ふと、母が言っていた病院の廊下の表示を思い出す。
「これは出口です」「ここは診察室です」と教えてくれる親切な文字。
ここにはそれがないから、人間が1本ずつ線を足していく。
胸の奥が、じわりと冷たくなる。
「——止まれ」
森山の声が、急に低くなった。
直耶は反射的に足を止め、シールドを少し前に出す。
「前方20メートル。低い影、1体。……見えるか」
ヘルメットライトをそっと上げると、通路の先の暗がりで、何かが動いた。
床近くを、四つん這いのような姿勢で、ゆっくりと移動する影。
犬より少し小さい。
だが、関節の位置がおかしい。
黒い毛並み。光を吸うような暗さ。
脚の節が1つ多い。
「Gタイプ……っすか」
榊が、ぼそりと呟いた。
「いや、あれは“ケモノ系の小型”。Gは人型だろ。耳付いてるやつ」
森山が短く返す。
「どっちにしろ、浅層の“よく見る顔”だ。
研修生は——」
森山は、後ろを1度見た。
「境、ここから1歩だけ前に出ろ。
高梨たちは、その後ろ。盾の影から絶対出るな」
「……了解」
足が、かすかに震える。
だが、腰より上は案外冷静だった。
シールドを胸の前に構え、1歩前へ。
ライトの輪が、黒い影を捉える。
“それ”は、こちらに気付いたのか、一瞬だけ頭を上げた。
光を反射する2つの目。
低く喉を鳴らす音が、空気を震わせる。
「距離、15。……警告射撃もできねえからなあ」
森山が呟く。
「榊」
「はいよ」
榊が、後ろから長めの警棒——簡易槍を受け取り、1歩、森山の隣に出た。
「境、そのまま。盾の角度だけ気をつけろ。
あいつが走ったら、1歩だけ下がって受けろ。こっちは横から刺す」
短い指示。
“それ”は、低く身構えた。
肩の筋肉が、ライトの光の中でわずかに波打つ。
(来る——)
直耶の喉が、ひゅ、と音を立てた。
次の瞬間、黒い塊が床を蹴った。
「——っ!」
真正面から、一直線。
余計なフェイントもなく、ただ重さだけを乗せて突っ込んでくる。
直耶は、足を引きながらシールドを前に倒すように構える。
衝撃が、腕から肩へと一気に突き抜けた。
同時に、森山が右側から踏み込む。
榊の槍が、黒い影の脇腹を浅く抉った。
鈍い音。短い悲鳴。
“それ”の勢いが、一瞬でしぼむ。
床に爪を立て、慌てて距離を取ろうと、横へと跳ねる。
(逃げる——)
動きは単純だった。
真正面に突っ込んで、痛みを覚えたら、そのまま真横に逃げるだけ。
さっきまで座学で見せられた「浅層の典型パターン」と、ほとんど同じだ。
「逃がすな」
森山が短く言い、榊がもう1歩踏み込む。
逃げ腰になった黒い背中に、今度は深く槍先が突き刺さった。
今度は、明らかに骨か何かを貫いた手応えが音になって響いた。
“それ”が、短く痙攣する。
床に、暗い液体がぽたぽたと落ちた。
「止め刺す」
森山が1歩出て、ナイフを抜く。
ヘルメットライトが、その一連の動きを白く照らした。
直耶は、シールド越しに、ただそれを見ているしかなかった。
——グッ。
短い音。
黒い身体の動きが、完全に止まる。
鼻を突くような鉄っぽい匂いが、ヘルメットの内側に薄く入り込んでくる気がした。
「……これが、“Gでもケモノでも関係ない、敵性生物”ね」
榊が呟く。
高梨が、たまらず小声で言った。
「……ゲームの“被ダメージ表示”とか、あった方がまだ気楽だな」
「ねえよ、そんな親切仕様」
森山は短く笑ったが、すぐ真顔に戻った。
「境」
「……はい」
「よく受けた。初見でよろけなかったのは上出来」
褒められているのかどうか、よく分からない。
ただ、膝の震えはまだ止まらない。
目の前には、さっきまで動いていたものの“死体”。
ゲームのテクスチャじゃない。本物の質感と匂い。
「研修生は5秒だけ見ろ。5秒以上見たら変に慣れるから、今日はそれでいい」
森山は、わざとらしく腕時計を見た。
「1、2、3、4、5。——はい終了。顔上げろ」
直耶は、息を飲んで目線を切る。
*
帰路は、行きより少しだけ早かった。
同じ通路を戻っているはずなのに、壁の筋模様が違って見える。
さっき付けた白い線が、やけに心強く感じられた。
施設側のライトが見えたとき、直耶は初めて、肺の奥まで息を吐き出した。
エレベータで地上へ戻る途中、高梨がぽつりと呟く。
「……なあ境」
「ん」
「……帰ったら、また座学で映像見せられるんだろうな」
「“復習”ってやつだな」
「俺、復習より“二度と見たくない”側なんだけど」
くだらない会話で、ようやく足先の震えが少し落ち着いてきた。
*
地上に戻ると、ブリーフィング室とは別の小さな部屋で簡単な報告が行われた。
「浅層Cブロック、実地訓練B班。
敵性生物1体と遭遇。榊が排除。研修生に怪我なし。——以上」
森山が端的にまとめる。
「境」
「はい」
「感想」
「……怖かったです」
考えるより先に、それが口から出た。
森山は、一瞬だけ目を細めた。
「よし、正常」
「……それでいいんですか」
「怖くなくなったやつから順番に変な死に方するんだよ」
それから、少しだけ声を落とす。
「怖くて、それでもシールドを出せるやつ。それが一番だ」
自分にも出来ることが、少しはあるのかもしれない。
膝はまだ震えていた。
それを「武者震いだ」と言い聞かせれば、なんとか立っていられる気がした。
*
夜、寮のベッドの上で、直耶は天井を見つめていた。
スマホの画面には、母からのメッセージ。
『今日もお疲れさま。
こっちはこっちでがんばるから、あんたも体に気をつけてね』
ニュースアプリの通知欄には、
《第七湾岸回廊 日本チーム、公認到達ゾーン更新》の文字が並ぶ。
「……浅層の入口でちょっと歩いただけの俺が、“回廊でがんばってる”側にカウントされてるわけだ」
自嘲ともため息ともつかない声が漏れた。
(まだ入口付近で騒いでるだけだ、俺は)
今日見たケモノの死体。
黒い血。匂い。シールド越しの重さ。
あれは浅層でも“よく見る顔”だと言われた。
この先には、まだ見ぬものがいくらでもいる。
今はまだ、自分がどれくらい“入口付近でしか騒げていない”のか、
ちゃんとは分からない。
でも、やるしかない。




