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第3話 浅層Cブロック・初潜行

走るのは、もう日課になっていた。

グラウンドの砂も、教官の声も、肺の軋みも。

最初の数日は「地獄」だったものが、2週間もすると「いつもの朝」に変わってくる。


「そこまで! 境、タイム……お、ちょっとだけ縮んだな」


ストップウォッチを止めた教官が、珍しく口角を上げた。


「……マジっすか」


しゃがみ込んだまま、境 直耶は喉を焼きながら答える。


「平均ちょい下から、“ギリ平均”ぐらいにはなった」

「微妙にディスられてないですか、それ」

「褒めてる褒めてる。“落とす理由はない”ラインだ。大事なのはそっち」


教官は、ぱん、と手を叩く。


「じゃ、今日の走り込みはここまで。シャワー浴びて、9時にブリーフィング室集合。

 ——浅層Cブロック、実地行くぞ」


ざわ、と周りの研修生の空気が揺れた。


「マジで?」「やっと本物かよ」「帰ってこれるやつ?」


高梨が、横でタオルを肩にかけたまま、半笑いで直耶の肩を小突く。


「おい境、“初潜り”だってよ」

「……聞こえた」

「テンション上げろよ。死ぬのは回廊ん中だけって教官が——」

「それ全然励ましになってないからな」



ブリーフィング室は、いつもの座学教室より少しだけ狭かった。

壁際には大型モニターと、簡単な立体マップのホログラム装置。

前には、制服姿の係官と、簡素な防具ベストを着た現場の隊員が1人立っている。

モニターには、《第七湾岸回廊 浅層Cブロック 実地訓練》の文字。


「じゃあ、簡単に今日の内容説明する」


前の係官が、レーザーポインターで画面を指した。


「目的は3つ。1つ、浅層の“空気”に慣れること。

 2つ、基本行動——隊列、報告、撤退判断の徹底。

 3つ、敵性生物に遭遇した場合の“実物”の感覚を掴むこと」


背後のホログラムに、回廊入口から浅層Cブロックまでの概略図が浮かぶ。


「ルート自体は、訓練用に選んであるから、そう難しくない。

 入口からCブロックの分岐を通って、浅層の見学ポイントまで行って、そこで折り返し」


ホログラム上に、青いラインといくつかのマーカーが灯る。


「みんなはまだ研修生だから、単独行動は一切なし。

 各班に1人、現場経験者を付ける。判断はその人間に従え。

 敵に遭遇したときは——」


現場の隊員が1歩前に出る。腕には「訓練指導」の腕章。


「基本、“見て覚えろ”だ。お前らは余計なことすんな。

 距離を保って、盾の後ろにいろ。勝手に飛び出したやつから順番に殴るからな」


後ろの方から、乾いた笑いが洩れた。

係官が続ける。


「使用装備は、訓練で触ったものとほぼ同じ。

 ヘルメット、軽装ベスト、警棒、簡易シールド。

 今回は実弾もスタンも無し。銃は持たない。

 ——回廊の中では、銃は当てにしてはいけない。座学でやった通りだな?」


「はーい」


生返事が部屋を満たす。


「じゃあ、班分けと担当者の紹介」



装備庫は、金属と油と洗浄液の匂いが混ざっていた。

規則正しく並んだシールドとベスト。

番号が振られたヘルメット。

壁際のラックには、警棒や折りたたみ式の簡易槍。


「境、こっちー。お前、B班な」


係の隊員に呼ばれ、直耶は自分の名前が貼られた装備棚に向かう。

ヘルメットの内側には、昨日まで汗を吸った匂いが残っていた。


「あ、B班。指導役は——森山さーん」


名前を聞いた瞬間、直耶はわずかに背筋を伸ばした。

奥の扉から、あの無精髭の男が片手をポケットにつっこんだまま入ってくる。

ジャージではなく、実戦用の軽装ベストにヘルメット。

首からぶら下がるカードには「第三探索チーム 森山」と印字されている。


「よー、研修生ども。今日のお守り係、森山でーす」


いつもの軽い声。

だが視線だけは、ひとりひとりを刺すように確認していく。


「ほら、並べ並べ。B班……4人か。境、高梨、それと——」


名前を読み上げられた研修生たちが、緊張した面持ちで前に出る。


「こいつらはうちの3番隊の浅層仕様。

 今日はCブロックの浅いとこまで。

 “遊園地の新アトラクション”だと思って並んできた奴は、今のうちに帰っとけ」


誰も動かない。


「よし、全員バカだな。いいことだ」


森山はニヤリと笑った。


「いいか。今日の目的は、“死なないこととビビること”だ」

「……ビビること?」と、高梨が小声で繰り返す。


森山は聞こえていたのか、顎をしゃくった。


「そう。初めて入って怖くなかったら、それはそれで頭がイっちまってる。

 怖がって、ちゃんと足がすくんで、それでも1歩出す。

 ——それができりゃ、L値が多少ヘボくても生き残る」


ベストのバックルを締めながら、直耶は小さく息を吐いた。



入口施設のエレベータホールは、工場のような、軍事基地のような無機質さだった。

コンクリートの壁。

黄色と黒の注意喚起ライン。

頭上には「あらゆる装備はこのラインより内側に持ち込むこと」と書かれた看板。

巨大なシャフトの口には、安全柵とゲート。

その向こうに、何本ものケーブルと階段が闇に落ちている。


「これが、テレビで見てた——」


高梨が、ぽつりと呟いた。


「《第七湾岸回廊》の入口だ」


森山が、その横顔をちらりと見る。


「テレビだと、もっとライトアップされてるだろ。

 実物はこうだ。でかい穴と、落ちたら死ぬ高さと、よく分からん暗闇」


ゲート前で、最終チェックが行われる。

ヘルメットの通信テスト、ベストとシールドの固定、心拍とL値のモニターリンク。


「B班、通信正常。心拍ベースライン良好」


オペレーターの声がイヤホンに届く。


「じゃ、降りるぞ」


森山が先頭に立ち、シャフト内のエレベータに乗り込む。

狭い鉄の箱に、5人分の装備が擦れ合う音だけが響く。

鉄格子越しに上へ流れていくコンクリートの壁。

数字の表示が地上からマイナス方向へ下っていく。

——ゴウン、ゴウン。

胸の奥まで振動が伝わる。


(ここから先が、“地上じゃない場所”)


直耶は、手に持ったシールドの縁を指先でなぞった。



エレベータを降りた先は、半分人工、半分自然のような空間だった。

最初の通路はコンクリートで固められている。

壁には配管と配線。天井のライトが、一応の明るさを保っていた。


だが、その先——施設側の通路が終わる手前で、空気ががらりと違う。

白いタイル張りの床が途切れ、岩ともコンクリートともつかない

あの妙な素材の地面が続いている。

壁には薄い筋模様。

照明は人工のライトから、隊員たちのヘルメットライトにバトンタッチされる。


「ここから先が、本物の“回廊”。

 まだ入口付近だけどな」


森山が言う。


「列—縦1列、間隔1メートル。前から俺、境、高梨、他2人。最後尾に補助員の榊」


後ろにいるもう1人の隊員が、軽く手を上げた。


「はい榊でーす。撃たれ役じゃなくてフォロー役なんで安心してくださーい」


軽口で少し緊張が和らいだ気がした。


「盾役は基本、境。前の授業で“壊れにくい”ってお墨付きもらったろ」

「……医務室の会話どこまで筒抜けなんですか」

「必要な情報は共有される。それが現場」


ヘルメット越しでも、森山がニヤついているのが分かった。


「ビビったら素直に言え。ビビるのは悪いことじゃない。

 黙ってパニくるのが、一番タチ悪い」



施設側の灯りが後ろに遠ざかる。

回廊の壁は、ヘルメットライトの輪の中で、静かに光を散らしていた。

足音が、前後に長く伸びていく。


「前方、分岐」


森山の声に、直耶は足を止めた。

右と左に分かれた通路。

右側は、壁に施設側の白い矢印マーカーと「C→」の表示。

左は、まだあまり人が入っていないのか、印が薄い。


「今日は教科書どおり。Cブロックの浅層ルートを時計回りだ」


森山は、右の通路を指さす。


「さっき習ったろ。“浅層Cブロック 想定安全ルート”。

 現場だと、想定どおりなのはだいたい最初の5分だけだが、今日はそこまでも行かん」


ゆっくりと右の通路に入っていく。

足元は少し湿っている。

遠くから、水の滴る音が微かに聞こえた。


「——なあ」


小声で、高梨が後ろから話しかけてくる。


「何かいると思う? 今日は」

「……いるかどうかは、運じゃないの?」

「そういうこと言うなよ。運悪い方に寄る気しかしないだろ」


軽口のつもりだが、声の端に本当の不安が滲んでいる。

直耶自身も、「今日は何も出ませんでした」で終わってほしい気持ちは大きかった。

だが、それでは訓練としては不充分なのだろう。


(“敵性生物の実物の感覚を掴む”。——さっき言われたばかりだ)


喉の奥に、乾いた緊張が張り付く。



しばらく進むと、通路が少し広がった。

天井が高くなり、壁には意味の分からない模様のような筋が濃く出ている。

床の一部が、しっとりと暗い色をしていた。


「ここ、浅層Cの“見学ポイント1号”」


森山が言う。


「足元気をつけろ。ちょっと滑りやすい」


彼はポーチから何かを取り出し、壁際に白いマーカーを1本引いた。

チョークのような、それでいて粉がすぐに消えない特別な印。


「こうやって、毎回誰かが線引いてんのよ。

 “こっから先は浅層C”“ここまでは帰ってきたやつがいる”って目印」


榊が補足するように説明した。


「テレビじゃ、こういう泥臭いとこあんま映さないけどな」


直耶はその印を見て、ふと、母が言っていた病院の廊下の表示を思い出す。

「これは出口です」「ここは診察室です」と教えてくれる親切な文字。

ここにはそれがないから、人間が1本ずつ線を足していく。

胸の奥が、じわりと冷たくなる。


「——止まれ」


森山の声が、急に低くなった。

直耶は反射的に足を止め、シールドを少し前に出す。


「前方20メートル。低い影、1体。……見えるか」


ヘルメットライトをそっと上げると、通路の先の暗がりで、何かが動いた。

床近くを、四つん這いのような姿勢で、ゆっくりと移動する影。

犬より少し小さい。

だが、関節の位置がおかしい。

黒い毛並み。光を吸うような暗さ。

脚の節が1つ多い。


「Gタイプ……っすか」


榊が、ぼそりと呟いた。


「いや、あれは“ケモノ系の小型”。Gは人型だろ。耳付いてるやつ」


森山が短く返す。


「どっちにしろ、浅層の“よく見る顔”だ。

 研修生は——」


森山は、後ろを1度見た。


「境、ここから1歩だけ前に出ろ。

 高梨たちは、その後ろ。盾の影から絶対出るな」

「……了解」


足が、かすかに震える。

だが、腰より上は案外冷静だった。

シールドを胸の前に構え、1歩前へ。

ライトの輪が、黒い影を捉える。


“それ”は、こちらに気付いたのか、一瞬だけ頭を上げた。

光を反射する2つの目。

低く喉を鳴らす音が、空気を震わせる。


「距離、15。……警告射撃もできねえからなあ」


森山が呟く。


「榊」

「はいよ」


榊が、後ろから長めの警棒——簡易槍を受け取り、1歩、森山の隣に出た。


「境、そのまま。盾の角度だけ気をつけろ。

 あいつが走ったら、1歩だけ下がって受けろ。こっちは横から刺す」


短い指示。


“それ”は、低く身構えた。

肩の筋肉が、ライトの光の中でわずかに波打つ。


(来る——)


直耶の喉が、ひゅ、と音を立てた。


次の瞬間、黒い塊が床を蹴った。


「——っ!」


真正面から、一直線。

余計なフェイントもなく、ただ重さだけを乗せて突っ込んでくる。


直耶は、足を引きながらシールドを前に倒すように構える。

衝撃が、腕から肩へと一気に突き抜けた。


同時に、森山が右側から踏み込む。

榊の槍が、黒い影の脇腹を浅く抉った。


鈍い音。短い悲鳴。


“それ”の勢いが、一瞬でしぼむ。

床に爪を立て、慌てて距離を取ろうと、横へと跳ねる。


(逃げる——)


動きは単純だった。

真正面に突っ込んで、痛みを覚えたら、そのまま真横に逃げるだけ。

さっきまで座学で見せられた「浅層の典型パターン」と、ほとんど同じだ。


「逃がすな」


森山が短く言い、榊がもう1歩踏み込む。

逃げ腰になった黒い背中に、今度は深く槍先が突き刺さった。


今度は、明らかに骨か何かを貫いた手応えが音になって響いた。

“それ”が、短く痙攣する。

床に、暗い液体がぽたぽたと落ちた。


「止め刺す」


森山が1歩出て、ナイフを抜く。

ヘルメットライトが、その一連の動きを白く照らした。


直耶は、シールド越しに、ただそれを見ているしかなかった。


——グッ。


短い音。

黒い身体の動きが、完全に止まる。


鼻を突くような鉄っぽい匂いが、ヘルメットの内側に薄く入り込んでくる気がした。


「……これが、“Gでもケモノでも関係ない、敵性生物”ね」


榊が呟く。

高梨が、たまらず小声で言った。


「……ゲームの“被ダメージ表示”とか、あった方がまだ気楽だな」

「ねえよ、そんな親切仕様」


森山は短く笑ったが、すぐ真顔に戻った。


「境」

「……はい」

「よく受けた。初見でよろけなかったのは上出来」


褒められているのかどうか、よく分からない。

ただ、膝の震えはまだ止まらない。

目の前には、さっきまで動いていたものの“死体”。

ゲームのテクスチャじゃない。本物の質感と匂い。


「研修生は5秒だけ見ろ。5秒以上見たら変に慣れるから、今日はそれでいい」


森山は、わざとらしく腕時計を見た。


「1、2、3、4、5。——はい終了。顔上げろ」


直耶は、息を飲んで目線を切る。



帰路は、行きより少しだけ早かった。

同じ通路を戻っているはずなのに、壁の筋模様が違って見える。

さっき付けた白い線が、やけに心強く感じられた。


施設側のライトが見えたとき、直耶は初めて、肺の奥まで息を吐き出した。


エレベータで地上へ戻る途中、高梨がぽつりと呟く。


「……なあ境」

「ん」

「……帰ったら、また座学で映像見せられるんだろうな」

「“復習”ってやつだな」

「俺、復習より“二度と見たくない”側なんだけど」


くだらない会話で、ようやく足先の震えが少し落ち着いてきた。



地上に戻ると、ブリーフィング室とは別の小さな部屋で簡単な報告が行われた。


「浅層Cブロック、実地訓練B班。

 敵性生物1体と遭遇。榊が排除。研修生に怪我なし。——以上」


森山が端的にまとめる。


「境」

「はい」

「感想」

「……怖かったです」


考えるより先に、それが口から出た。

森山は、一瞬だけ目を細めた。


「よし、正常」

「……それでいいんですか」

「怖くなくなったやつから順番に変な死に方するんだよ」


それから、少しだけ声を落とす。


「怖くて、それでもシールドを出せるやつ。それが一番だ」


自分にも出来ることが、少しはあるのかもしれない。

膝はまだ震えていた。

それを「武者震いだ」と言い聞かせれば、なんとか立っていられる気がした。



夜、寮のベッドの上で、直耶は天井を見つめていた。

スマホの画面には、母からのメッセージ。


『今日もお疲れさま。

 こっちはこっちでがんばるから、あんたも体に気をつけてね』


ニュースアプリの通知欄には、

《第七湾岸回廊 日本チーム、公認到達ゾーン更新》の文字が並ぶ。


「……浅層の入口でちょっと歩いただけの俺が、“回廊でがんばってる”側にカウントされてるわけだ」


自嘲ともため息ともつかない声が漏れた。


(まだ入口付近で騒いでるだけだ、俺は)


今日見たケモノの死体。

黒い血。匂い。シールド越しの重さ。


あれは浅層でも“よく見る顔”だと言われた。

この先には、まだ見ぬものがいくらでもいる。


今はまだ、自分がどれくらい“入口付近でしか騒げていない”のか、

ちゃんとは分からない。


でも、やるしかない。


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