第32話 初夢
足元が湿って、歩くたびに嫌な音を立てる。
苔の匂いが濃い。
柔らかい土が踝まで沈み込む。
石は冷たいのに、空気は生ぬるい。
天井が高く、広い。
暗いが、夜目の効く自分には関係ない話だ。
壁をとらえるように手をつく。
指先まで覆う手袋。
手首に絡む留め具はどんな動きにも邪魔をしない。
動かしても違和感が一切無い。
しなやかなのに硬い、素材が揃うまで苦労した自慢の一品。
全身同じように思い入れのある装備ばかりだ。
慣れた様子で槍を握る。
燃えるような紅蓮の穂先。
触れれば焼ける、魔性の槍。
柄は黒く、握った部分だけが自分の指に馴染む形に僅かに沈む。
今日もひとりだ。
足が一歩前に出る。
前方の闇が揺れた。
羽音が聞こえる。
小さな嵐のような音が。
火の匂いが微かに香る。
影がいくつも飛び出した。
小型の――ドラゴン。
頭は犬より大きい。
鱗は煤けた緑。
羽根は薄いのに、風を切って宙に浮く。
群れがグルグルと回るように動き、こちらを見下ろす。
一体が喉を震わせた。
赤い光が口の奥で膨らむ。
慣れた手つきで外套を引き上げた。
それだけでいい。焦りはない。
炎が吐き出された。
熱がぶつかる。
髪が焦げるような匂いが一瞬だけ走るが、外套が受け止めた。
熱を吸って、受け流して、表面で燃え尽きるように。
赤い光が薄くなる。
自慢のブーツが地面をとらえる。
湿った地面を蹴り、槍を振りかぶった。
紅蓮の穂先が、空を裂く。
一体の翼を貫いた。
ドラゴンが甲高く鳴き、落下しながらも炎を吐こうとする。
だが、その炎が出る前に地面へ叩きつけられて塵となった。
手をかざすと、槍は何も無かったように収まっていた。
流れるようにまた投げる。
今度は二体。
片方の口、片方の胸。
火の芽を潰して、宙を奪う。
落ちて塵になる。
一息ついて警戒しながら落下地点を調べると
光が見えた。
拳大の結晶。
いつものように、指で掴めるほど軽い。
慣れた手つきで背嚢を開いた。
中が広い。
いや、広すぎる。
入れても入れても、底が遠い。
妙に伸縮する。
鼻歌でも歌いたくなりそうだ。
結晶を放り込み、爪のような欠片を入れ、鱗と牙を拾う。
少し離れた所に群れはまだいるようだ。
炎がまた来る。
外套で受ける。
受け流す。
槍を投げる。
戻る。
投げる。
落とす。
いつもの作業だ。
そして、もっと奥へ行ける。
洞窟の向こう側へ。
まだ見ぬ空間へ。
もっと価値のあるものへ。
ひとりで潜って、ひとりで帰る。
そうすれば――
誰かの視線が変わる。
酒場で、受付で、通りすがりの女の目が。
あの羨望の眼差し。
それが当たり前で。
それが好きで。
それが自分の居場所で。
だから、もっと奥へ――
足が一歩前に出た瞬間。
背後の闇が、違う鳴き方をした。
低い。
重い。
さっきまでの小型とは別の気配。
振り向きかけ――
そこで、目が覚めた。
*
二段ベッドの裏が目に入る。
直耶は一度だけ笑った。
「……何だよ、それ」
喉が乾いている。
汗をかいている。
なのに、胸の奥が妙に軽い。
バカみたいだ。
ドラゴンだの、なんだのかんだの。
子供が見そうな夢だ。
上段で高梨がもぞもぞ動いた。
「ん……なに?今笑った?」
「あぁ、そうみたいだ」
「怖い夢でも見たか?」
「逆。めちゃくちゃ強い夢」
「何それ」
「俺が一人で洞窟潜って、ドラゴンみたいなの狩って、結晶拾いまくって、モテてた」
「は?」
高梨が布団から顔だけ出した。
暗いのに、目だけがやたら生きている。
「夢の欲望が雑すぎんだろ」
「だって。そういう夢だったんだよ」
「ドラゴン?炎吐くやつ?
それ、今日のスライムよりヤバいじゃん」
「たぶん即死級だわ」
「だろ? でもお前勝ったんだ?」
「勝った。……勝ち方知ってた」
直耶は言ってから、少し黙った。
勝ち方を知ってた。
言葉にした瞬間だけ、妙な感覚が胸に残った。
夢の中の自分は、迷っていなかった。
怖がっていなかった。
やることが決まっていた。
現実の自分は、こんなにも迷っているのに。
高梨があくび混じりに言った。
「じゃあ明日から『槍投げ職人・境』で行こうぜ。
盾溶けても距離取って投げれば勝ちだろ」
「簡単に言うなって」
「……でもさ、ヒントじゃね?
夢って変なとこ当たる時あるし」
「ただの夢だよ」
「夢でもいいじゃん。現場じゃ、生き残れば勝ちなんだよ」
高梨はそう言って、また布団に潜った。
直耶は目を閉じかけて、手のひらを見た。
槍を握っていないのに、握っていた感覚だけが残っている。
投げる角度。
戻ってくるタイミング。
踏み込みの重心。
――覚えてる。
馬鹿げてる。
でも。
直耶は、もう一度だけ息を吐いた。
距離を取る戦い方を、もう少し真面目に考えよう。
ただ、手の中に残った槍の感覚だけを、眠りの底へ沈めていった。
*
朝。
起床のアラームで、直耶は体を起こした。
高梨が上で「寝足りねぇ」と唸りながら、妙に元気に言う。
また今日も回廊だ。




