第29話 扉の先
夜更けまで続いた高梨の雑談は、最後はほとんど子守唄のようになっていた。
直耶は相槌を返しながら、いつの間にか視界の端がぼやけていくのを感じていた。
地下ホールで見た「扉」。
白い壁の奥に、急に増えた一枚。
隙間から流れる冷たい気配。
直耶は眠りの底で、その隙間だけを何度も見ていた。
*
寮のカーテンの隙間が白む。
寝返りを打つと、背中の鈍い痛みが応えた。
直耶は息を吐いて枕元のスマホを取ると、ぼんやり画面を見つめる。
通知は夜中にも増えていたが、今朝一番のものは短い。
『探索事業:段階的再開(本日より)』
『集合時刻:08:30/第三探索チーム』
切り替えて潜ろう。
直耶は画面を一度閉じ、家族のグループを開いた。
母から夜のうちにメッセージが来ていたようだ。
『無理しないでね。病院の先生にもちゃんと診てもらってる?』
その下に妹のスタンプが続いた。
高校二年生らしい、やたらテンションの高い文字が躍る。
『兄ちゃん、昨日担任に言われた!奨学金の書類、出さなくていいって! やばくない?
兄ちゃんマジで稼ぐ人になってるじゃん』
そして一番新しいのは父からだった。
『今から面接。終わったら連絡する』
短い。
直耶は画面の文字を眺めながら、親指を止めた。
返す言葉は、たくさんあるはずなのに、まとまらない。
結局、短く返した。
『大丈夫。今日から再開。終わったら連絡する。
父さんも頑張って。』
妹にはスタンプを一つ送る。
ゆっくりベッドから起き上がる。
寮の朝は驚くほど普通だ。
洗面台で顔を洗い、髪を整える。
鏡の中の自分は、どこか変わったのだろうか。
直耶は小さく首を振って荷物をまとめた。
*
寮の食堂は早い時間から人がいる。
再開初日。いつもより多い。
ざわざわと、妙に明るい。
「お、境。起きてたか」
高梨が紙コップを持って近づいてきた。
顔色がいい。
昨日の夜まで喋っていたのに、相変わらず元気なようだ。
「起きてたよ」
「足、いける?」
「…たぶん」
直耶がそう言うと、高梨は「健康が一番だよな」と笑った。
食堂を出ると、息が白くなる。
直耶と高梨は他の隊員と合流し施設へ向かった。
直耶は歩きながら昨日の家族のメッセージを思い出す。
母の病状が落ち着く。
奨学金の心配がなくなる。
父が面接に行く。
全部、良いことだ。
良いことのはずなのに、直耶の胸の奥には何故かざらつきが残る。
良い事に違和感を覚えるなんて、と自嘲してしまう。
そんな気持ちを抱えて歩いた。
集合場所。ゲート前。
今日は取材の姿はない。
代わりにスタッフと作業員が増えていた。
腕章の色がいくつか違う。
誘導の声もはっきりしている。
第三探索チームのチームリーダーは、疲れをおくびにも出さず
背筋を伸ばして立っていた。
周囲には日向以外の班メンバー全員が揃っていた。
「おう。全員揃ったな」
森山は一度全員を見回し、予定を告げる。
「今日から再開だ。ただし、いきなり前と同じには戻さない。
今回は俺も潜る。日向は広報だ。各自装備は今まで通り。以上!」
「お!隊長もっすか!?」
高梨が面白そうに反応した。
真剣な顔をしている三宅の横から、大熊の質問が飛ぶ。
「今日はどこまでですか?」
「まずは入口から地下ホールまで。で、問題なけりゃ扉の前まで。
行けそうならその先まで。ただ、深追いはしない」
「扉って、新しく生えた、あの扉ですか?」
森山は表情を変えずに頷いた。
「ああ。そのいきなり増えたやつだ。あれがどうなってるか確認する。
見て、戻る。分かったな」
「余計なことをしない、って言われると逆に警戒しちゃって怖いな」
冗談めかす高梨に、森山は少しだけ口角を上げた。
「何度も言っただろ。怖いなら正解だ。怖いのに慣れた奴が一番やばい。
今回は俺も出て、直接確かめる」
「りょーかいでーっす」
怖いのに慣れた奴が一番やばい。
何度も言われたその言葉が直耶の胸に引っかかる。
周囲の危機感の薄さ。
状況に慣れているように見えるのは気のせいだろうか。
森山の隣に榊が立つ。
「本日、終了後に境さんは体調申告をしてください。
昨日退院扱いになっていますが、佐伯先生より様子を見るよう依頼がありました」
「……はい」
森山が手を叩いた。
「よし。行くぞ。準備後ゲート内に入る。合図は大きくな」
ゲートの内側はいつも通りに見える。
直耶は一度深呼吸して、皆と準備へ向かった。
*
回廊のエレベーターは静かに待っていた。
扉が閉まり、降下が始まる。
腹がふわりと浮く。耳がさらに詰まる。床がわずかに震える。
箱が縦に落ちていく。
隣で高梨が小さく息を吐いた。
「なぁ境、昨日さ。寝る前、扉の話してたろ」
「……したっけ?」
「してたって。『あれ、増えてた』って。声ちっちゃかったけど
どんな感じだったんだよ」
「どうって…」
うまく答えが出なかった。ちょっと見ただけだ。
榊が前を向いたまま言う。
「報告が増えるのは構いません。ただし、推測は混ぜないでください。
見たことだけを言う。それが一番です」
扉が開くと地下ホールだ。
森山が短く合図した。
「列を崩すな。左右確認」
隊員が散り、ホールの隅を確認していく。
直耶は視線を奥へ向けた。
あった。
なかったはずの扉が、ホールの奥に一枚。
白い壁にやけに自然に馴染んでいた。
扉の隙間から冷気が漏れ、砂っぽい匂いも混じる。
高梨がぽつりと言った。
「やっぱあるな。見間違いじゃなかったんだな」
「榊さんも見てるんだから、勘違いじゃない」
直耶も小声で返すと、森山が前に出る。
「榊。境。高梨。前に来い。大熊と三宅は背後を警戒。
全員は近づかない。ここから先、隊列を絞る」
榊が扉の前に立ち、隙間を覗き込む。
手袋越しに扉の縁に触れた。
扉がスっと動いた。
「開きます」
「開くのかよ」
森山の指示が飛んだ。
「開けて中を見るぞ。確認は最低限。合図があるまで勝手に踏み込むな」
榊が扉に手をかけると滑るように開いた。
音がほとんどない。
扉の向こうは、暗い。
え?
誰の声だったのだろうか。
見えたのは岩と土。
壁はゴツゴツしている。
床は土。ところどころに石が転がっている。
乾いた匂いが強い。
洞窟というより掘られた通路に近い。
暗いはずなのに視界がそれなりに効くのは何故だろうか。
白いホールとは別世界だった。
「……ずいぶん変わったな」
「隊長。昨日までの環境とは一致しません」
「榊、見ればわかる」
「今までのマップはもう使えないかもしれませんね。
構造体だけが変わって、構造そのものが同じだと楽なんですけどね」
森山が頷く。
「かもしれんな。今日の目的は確認だ」
直耶は喉が渇くのを感じた。
乾いた空気のせいだけとは言えない。
「境」
森山が直耶を見る。
「行けるか」
「……行けます」
森山が短く息を吐いた。
「よし。境と高梨、俺と榊で先行。
残りはホールで待機。扉は閉めない。いつでも戻れるように」
隊員が頷き、配置につく。
直耶たちは扉の向こうへ足を踏み入れた。
ざり
ずしゃ
土が靴底に沈む。
音が変わる。
コンクリの硬い反響が消え、吸い込まれるような足音がした。
*
通路は緩やかに曲がって見通しが悪い。
だが暗いはずなのに視界が意外と効く。
岩肌に混じる白い粒が、脈打つように淡く明滅している。
地面や壁そのものが微かに光っている。
「見えるだけ助かるな。足元注意。転倒警戒」
森山の声は落ち着いている。
その声で、冷静さを取り戻した。
榊が頷き直耶に目線で合図を送ると、直耶は前を見て息を整えた。
状況は止まらない。
行くしかない。
曲がり角に差し掛かった時だった。
その先で小さな音。
石が転がる音。乾いた擦れ。
立ち止まった直耶に釣られて高梨も止まる。
森山が手を上げ、全員を制止した。
覗き込んだ先には――犬の頭をした影がいた。
ぼんやりと見える姿は背が低く二足歩行。
耳が尖っている。細い腕。
手には何か、石の欠片のようなものを握っている。
首から上が犬――あの時の噛みつき。生臭い息。
細かいディテールは違うようだが、犬頭だ。
「……コボルトだぁ!」
高梨が声を殺しきれず漏らした。
小さな声に反応し、影がこちらを見る。
目がぎらりと光った。
瞬間、身を翻して駆けだそうとする。
直耶の身体が反射で動いた。
大きな一歩で間合いを潰し、穂先を背中に突き立てる。
コボルトが甲高く鳴いて激しく倒れ、甲高い声が洞窟に反響した。
遠くに、別の音が混じった気がした。
返事のような――。
「隊長!奥に敵影!もう一体!」
「境、そのまま足止め。高梨は境のフォロー。俺が仕留める」
直耶は前に出た。
奥から現れたコボルトは身軽で、土の上を滑るように駆けてくる。
速い。槍では無理だ。
直耶は焦らなかった。
まだ動きを感じる槍を手放し、腰からナイフを抜く。
左手は流れるように小楯を前に構えた。
焦らない自分に驚く。
足が土を踏み、体重を乗せる。刃を低く。
コボルトが飛びかかってきた。
石を握った手が振り下ろされる。
直耶は半歩下がり、小楯で受けた。
がつん
衝撃は軽い。いける。
強く踏み込んだ。
小楯で押し、コボルトがよろけた瞬間。
高梨が横から盾で殴りつけた。
「悪いな!」
倒れたコボルトに森山が一気に距離を詰め、刃を喉へ突き立てる。
息が抜けるような音を立ててコボルトは塵になった。
背中に槍を生やした一匹は、まだビクビクと動いている。
榊が近づきナイフを突き立て塵に変えた。
ガラン
槍の転がる音が響き、洞窟に静けさが戻る。
直耶は呼吸を整え耳を澄ませた。
音は、もうしない。
「よし。倒せたな」
森山が言う。
「これ、牙?」
「こちらは体毛でしょうか」
塵になったあたりを調べると、高梨は犬歯のような牙を。
榊はコボルトに生えていた体毛を発見したようだ。
「回収して社に持ち帰ります。用途があるかもしれません。
残念ですが、結晶は無いようですね」
榊が直耶を見る。
「境さん、体調は」
「……大丈夫です」
アドレナリンの影響か、身体がまだ軽い。
森山は洞窟の奥を見て指示を出した。
「ここまでだ。戻るぞ。今日の目的は達成した。これ以上は後だ」
直耶は奥を見た。先が続いている。
曲がり角の先に何があるのか分からない。
興奮が体を走っている。
まだ、行ける。
高梨が肩を叩いた。
「境。帰るぞ」
「…わかってる」
*
地下ホールに戻ると、警戒していた大熊と三宅がこちらに気づき、笑顔を見せる。
「よかった」
「音がしていたから、援護に行こうか迷っちゃいました」
森山が短く報告する。
「いや、指示を守ってくれて助かった。
扉の先は洞窟。小型の新種を二体確認。素材も回収した。今日はここまで」
「了解です」
地上に戻るエレベーターの中で、高梨が牙を入れた袋を見ながら言った。
「境、これさ、ナイフにしたら絶対強いだろ」
「…そう?」
高梨は笑って続ける。
「ドロップアイテムなんだからさぁ、なんか有りそうじゃん?」
「話は後。まずは安全確保だ」
「了解っす、隊長」
高梨の軽口に、森山は苦笑していた。
*
地上は寒い。
けれど、地上の空気は地下より湿っている。
直耶はそれを肺で感じ、少しだけ現実に戻った。
入口にいる素材回収班に提出してから、寮に戻る道すがら高梨が言った。
「明日、どうなると思う?」
「何が?」
「次はさ、もっと出るって!コボルトが一匹で終わるわけないって」
「ゲームじゃないんだぞ?」
「いやいや、今回楽勝だったじゃん!大熊や三宅も入ればもっと楽だって」
「…昔足抉られたのに、随分余裕じゃないか」
「同じヘマはしないって。境の動き見てたら、何とかなる気がしてきちゃったよ」
高梨の会話は寮まで続いた。
いつもの部屋の二段ベッド。
変わらない空間が、少しだけ安心する。
直耶はベッドに腰を下ろし、どっかりと横になる。
指先にまだ興奮が残っている気がする。
直耶はスマホを手に取り、母に一言だけ追加で送った。
『今日は無事。洞窟みたいな場所になってた』
送信してから、直耶は少しだけ後悔した。
母がどんな顔をするか想像してしまったからだ。
でも取り消せない。
取り消さなかった。
潜れば稼げる。稼げば家は回る。
それは、今日も変わらない。
変わったのは扉の向こうだ。
土と岩の通路。
小さな影。
硬い牙。
乾いた匂い。
つまり――回廊にはもっと先がある、ということだ。
この先には財宝でもあるのだろうか。
もしかしたら、ドラゴンがいるとか?
変わる前の先には何があったのだろうか。
扉の向こうの、土の匂い。
塵の後に残ったもの。
思考が散漫になり、そのまま眠りに落ちた。




