第27話 発動条件
直耶は病室のカーテンを押し分け、目を細めた。
消毒の匂いと、乾いた足音。
病院の朝はいつも同じなのに、ここ数日はそこに別のものが混ざる。
誰かが走り、誰かが笑い、誰かが「撮れた?」と小声で確認している。
背中を庇うように歩くと、背中の打撲がじわりと痛んだ。
足の痛みも確かにある。が、今日はもうだいぶ楽だ。
…もう、歩けてしまう。固定具も昨日外れた。楽に、なってしまっている。
「はい次は~、問題の『境直耶』君ね~。
……おお、起きて歩いてる。偉い偉い。
もう良さそうって話を聞いて、冗談かと思ったわよ」
回診で回ってきた佐伯が、カルテを片手に言った。
白衣の裾を引きずるような歩き方は相変わらず雑で、目だけが妙に鋭い。
「褒められると逆に不安になるんですけど」
「褒めてないよ。観察してるだけ。ほら、そこ座って」
直耶が椅子に腰を下ろすと、佐伯は遠慮なくズボンの裾をめくった。慣れた手つきで包帯を外す。
冷たい空気が肌を撫でた。
「……ふうん。多少腫れてるけど、綺麗なもんだ。ねえ境君、昨日より痛い?」
「痛いは痛いです」
「そうじゃなくて。昨日と比べて、どう」
「……かなりマシです」
「だよね」
佐伯は短く笑い、カルテに何かを書き込んだ。
「嫌なこと言っていい?」
「だいたい嫌なことしか言わないじゃないですか」
「まぁそうね。で、オブラートに包まず言うと治りが早い。普通よりすごくね。
高梨君も早い方だったけど、彼は常識の範囲内。
境君は、はっきり言えば異常。
良いことのはずなのに、理由がわからないのがね。
魔法を使っているって言われたほうが納得できるレベルね」
直耶は視線を落とす。思い当たることがないわけではない。
でも、それを「そうかも」とは、恐ろしくて口にできなかった。
「どうして、早いのでしょうか?」
「言ったけど、理由がわからないのよ。意識が戻ってから、みるみる良くなってる。
どこまで行くかと思ってたらねぇ。様子見してて良かったと言うべきなのか、どうなのか」
「……様子見、ですか」
「うん。様子見。あぁ。あと、無理しないでね。
はっきり言って、意識が戻ってから見るたび、目が死んでるわよ」
そう言いながら、佐伯は直耶の額に指先を当てた。
熱を測るふりをして、目を覗き込む。
「…生きてますよ」
「色々あるだろうけど、ちゃんと切り替えなさいな。私の仕事、増やさないでね」
そう言うと佐伯はカルテを抱え直す。
「で。今日は呼び出し、来てるでしょ」
「……はい」
「日向さんの魔法テストだっけ。まぁ行ってきなさい。
現場の連中、医者の許可より上の権限持ってるから」
直耶が苦笑すると、佐伯は肩をすくめた。
「戻ってきたら処置室に来てちょうだい。もう一回見せて。短くでいいわ」
「短く……」
「私の『短く』は本当に短いから安心なさい。広報の『短く』とは違うわよ」
直耶は思わず笑ってしまい、背中が痛んで顔をしかめた。
佐伯はそれを見て目が座っていた。
「なんだ。ちゃんと痛いんじゃん」
「……はい」
*
建物の外に出ると、冬の空気が肺の奥まで入り込む。
直耶の頭が少しだけ冴えた気がする。
集合場所の回廊入口へ向かうと、人だかりができていた。
「境」
森山が手を挙げて呼んだ。
「お待たせしました」
榊の隣には日向がいた。
髪は綺麗にまとめられ、頬に薄く色が乗っている。
病室で見た疲れた顔とは別人に見えた。
ただ、杖をつく手に力が入りすぎているように見える。
「…大丈夫ですか」
直耶が声を掛けると、日向は一瞬、笑顔を見せる。
「……大丈夫、って言う癖がついちゃって」
「それは、俺もそうかも」
「境くんも?」
「たぶん、他のみんなも」
日向が小さく息を吐き、肩の力をほんの少し抜いた。
その背後で広報のスタッフが機材を抱えて待っている。
カメラの台数が多い。
病院の病室で行われた取材より、回廊入口の方が「絵」になるのだろう。
入口の照明は明るく、壁面の反射が均一で、陰影が綺麗に出る。
「今日はテストだけだ。無理に『見せる』必要はない」
森山が言い切る。
広報側が「はい」と返したが、どうも信用できなかった。
榊が直耶に耳打ちする。
「日向さんの方は、落ち着いてます。……話は後で」
「了解です」
直耶は視線を奥へ向けた。
回廊入口ゲートの先、エレベーターシャフトがそこにはある。
空気が薄く歪んで見えた気がした。
*
テストは単純だった。
回廊の入口手前で一度。
回廊のエレベーターまで近づいてもう一度。
同じ動きを繰り返す。
「まずは外から。お願いします」
榊が合図すると、日向は両手を前に出した。
息を整え、指を開く。
肩が少し震える。
だが、何も起きない。
「……今のは、魔法を意識してますか?」
榊が確認すると、日向はコクコク頷いた。
「なんだか、感覚が違うんです。使える気がしません」
「では、中で」
日向がゆっくりと、エレベーターに近づく。
アスファルトからコンクリの床へ踏み込んだ時、空気が変わったのが直耶にも分かった。
耳が詰まるような圧。
皮膚が乾くような冷え。
「……ここなら、出来ます」
日向が言った。声が少し低くなる。
同じ手順。
息。指。視線。
ぱち、と乾いた音がして、掌の上に小さな火が灯った。
大きくはない。けれど鮮やかだ。
光が日向の頬を橙に染める。
直耶の背筋がぞくりとした。
「よし、一度終了だ。榊、記録はいいか」
森山が即座に言い放った。
日向は頷き、掌を握った。火はふっと消えた。
外側のスタッフが息を飲む音が伝わる。
拍手しそうな空気が生まれ、森山の視線だけがそれを押し潰した。
「もう一回。再現性を確認します」
榊が淡々と告げる。
二回目。
外では空振り。中では点火。
三回目。
同じ。
「……回廊内限定で使用可能、というのが濃厚ですね」
榊が研究側の人間に向けて言う。
研究者は頷きながらメモを取り続けていた。
カメラは回り続けるが、日向の顔はあまり映していないようだ。
榊がそう指示したのだろう。
日向の呼吸が荒い。
結論は明確だった。
そして、そこから先の情報は、相変わらず人間の感覚に頼るしかない。
「ストップ、今日はここまで」
森山が言うと、広報側が何か言いたそうにしているのが気に入らなかった。
*
撤収の最中、直耶は日向の横を歩いた。
日向は杖に体重を預けながら、広報のスタッフに囲まれている。
質問が飛ぶ。
笑顔を求める視線が飛ぶ。
日向の口角は上がるが、目の奥が乾いて見えた。
「日向さん」
直耶が呼ぶと、日向は助け船を見つけたような顔をした。
「境くん……」
「今日は、ちゃんと休んでください」
「うん。……うん。そうだね、ちょっと疲れちゃったよ」
日向がぽつりと言った。
遠くでフラッシュが焚かれ、誰かが英語混じりで叫んだ。
意味は分からない。でも、熱だけは伝わる。
日向の指先が、無意識に掌を撫でた。
さっき火が乗った場所だ。
直耶は足の包帯の下で、わずかに疼くのを感じた。
佐伯の言葉が蘇る。治りが早い。理由がわからない。
理由がわからないものが増えていく。
それでも、進むしかない。
直耶は回廊の入口に振り返った。
回廊は変わらず、そこにあるままだった。
*
戻ると、森山が短いブリーフィングを始めた。
「確認できたのは二つ。回廊外では再現しない。回廊内では再現する。以上」
「記録映像は十分です」
広報の男が言う。顔が明るい。非常に嬉しそうだ。
直耶は、その明るさの理由が分かってしまうのが嫌だった。
「十分すぎるほどですね」
榊がぽつりと返した。
広報が聞き返そうとして、森山の視線に引っ込んだ。
研究側の人間がタブレットを掲げる。
「海外からも問い合わせが来ています。昨夜の放送の切り抜きが拡散していて……翻訳付きで回ってます」
「もう向こうまで行ってんのかよ」
隊員の誰かが呟く。
タブレットの画面には、字幕付きの短い動画が並んでいた。
日向の掌に小さな火。歓声。拍手。
「“かわいい”ってコメントが多いですね」
研究員が困ったように、でもどこか嬉しそうに報告する。
森山が手を2回叩いて、空気を切り替える。
「余計な話は後だ。日向、戻って休め。境、お前も病院に戻れ」
*
病院に戻ると、処置室へ向かう。
「お?思ったより早く戻ったね」
「早く戻れって言ったのは佐伯先生です」
「言ったっけ?さて、さっさと済まそうか」
そういうと佐伯は直耶の腕を消毒し、採血を済ませた。
「さて、もう少し詳しく足を診せてもらおうかな。…え?」
そこにはもう、腫れの引いた足があった。
「うそでしょ?なら、背中の打撲は?そういえば顔の傷は?
あら、こっちは普通にあるのね。足だけが異常に早い」
面白そうに、佐伯が笑っていた。
*
病室に戻った直耶は、ベッドに倒れ込む前にスマホを見た。
通知が、あり得ない数で点滅している。
社内の連絡。
外部ニュース。
匿名掲示板のまとめ。
海外の反応を翻訳したスレッド。
全部まとめて通知を消した。
気になる掲示板だけ眺めていると、画面の上に日向の名前があった。
苗字も、下の名前も。写真もある。
隠し撮り。
どこで撮ったのか、病室内の写真だ。
そのスレにいくつもレスが付いている。
「かわいい」
「推せる」
「日本のウィザード!」
直耶は呆れたようにスマホを伏せた。
目をつぶるとさっきの実験の様子が頭の中で流れ出す。
掌に灯った小さな火。
入口の壁に映った影。
あまりに鮮明な光。
それに浮かぶ、日向の笑い方を思い出した。
口角だけが上がって、追いつかない笑顔。
あれを「希望」と呼ぶのは、あまりに都合がいい。
背中がわずかに引き攣った。
その引き攣りさえ、明日にはもっと軽くなるのかもしれない。
枕元でスマホがまた震えた。
榊からの短いメッセージ。
『明日、入口で追加テストがあります。今度は外部の記者が来る予定です。
日向さんの負担を減らせるなら減らしたいので、手伝ってください』
直耶は返信欄に指を置き、少しだけ迷ってから打った。
『了解。俺も行きます』
送信すると、画面の明かりが消えた。
部屋が暗くなる。暗いのに、眠気が来ない。
直耶は息を吐き、肩の力を抜いた。
考えても仕方がないことが増えすぎている。
それでも明日は来る。明日の段取りも、もう決まっている。
直耶は天井を見上げたまま、ようやく目を閉じた。
眠りに落ちる直前、直耶は思った。
押し流されるなら、せめて誰かの手を掴んだまま流されたい、と。




