第26話 点滅する数字
ぴ、と短い電子音が鳴った。
ベッド脇の小さな端末に数字が浮かぶ。
53。
私はその数字を見て、口角が少し引きつった。
「はい、終わりました。目、しみませんでしたか?」
看護師さんが手に持っていたのは、ペンライトのような細い測定器だった。
先端の白い光が残像としてまだ残っている。
「大丈夫です」
「よかった。最近はこれで済むので楽ですよね。
昔のヘッドセット、髪がぐちゃぐちゃになりますし」
看護師さんはそう軽く笑って、端末に数値を送った。
L値。今日の値。
ここ数日、毎朝同じ手順で測っている。
ぴ、ともう一度。送信完了の合図らしい。
53。
(私、入社の時は67だったのに⋯
昨日も53だった。もう……増えないの?)
いや、まだ決めつけるのは早い。
お医師さんも、榊さんも、三宅くんも言っていた。
L値の回復速度は基本的に一定。
睡眠をとろうが点滴を入れようが、劇的に跳ね上がることはない。
日々じわじわ戻る。
だから今日も昨日より少しだけ楽になる――はずだった。
なのに、ここ数日は同じ数字が続いている。
ベッドの横のテーブルには、検査結果の紙が重なっていた。
52、53、53、53。
「疲れが残ってますね」
看護師さんがカルテを見ながら言う。
「顔色、昨日よりはいいですけど」
「……寝てるのに、足りない感じがして」
「それ、みなさん言われますよ。回廊帰りの方は特に」
みんな。
森山隊長、榊さん、大熊さん、高梨くんに三宅くん。
そして、はぐれた境くん。亡くなった吉永さん。
境くんは別室にいると森山隊長が言っていた。
足をやったと。固定していると。
(気分転換に、顔でも見に行こうかな)
生きてるって分かってても、見ないと落ち着かない。
そう思った直後に、別の事が脳裏に並ぶ。
(今日……また呼ばれるんだろうな)
撮影。
その単語が、嫌な熱を連れてくる。
昨日も、今日も、明日も。
広報が「少しだけ」と言っていたのに。
全然少しだけで終わらない。
枕に頭を戻した。シーツが冷たい。
点滴のチューブが腕に触れて、現実に引き戻される。
「今日は、このあと面会の予定が入ってます」
「……誰のですか」
「会社の方ですね。あと、チームの方の面会予約も入ってます」
胸の奥が少しだけ落ち着く。
榊さんだろうか。
メディックを兼任しているからか、連日お見舞いに来てくれる。
看護師さんがカーテンを閉め、足音が遠ざかった。
病室の外は妙に賑やかだ。
笑い声まで混じっている。
同じフロアには、同じ回廊帰りがいるはずなのに。
そんなことお構いなしに様々な単語が耳を撫でる。
軽く目を閉じると、暗さの裏に回廊の暗さが重なる。
あのとき自分の手から出た火は、まだ感覚として残っている。
温かい。
怖い。
それでも、体のどこかが「助かった」と思ってしまう。
その思いが、小骨みたいに喉の奥に残る。
嬉しがってる場合じゃない。
誰かが死んで、誰かが怪我をして、自分は生き残っただけだ。
なのに外の世界は、そこを違う角度から切り取っていく。
カーテンの向こうでドアが開く音がした。
すぐに控えめなノック。
「日向さん、入ります」
柔らかい声。広報担当の女性だ。
照明がまた近づく。
ライト。カメラ。マイク。
この病室の端だけが、別の場所になる。
「今日も短くで大丈夫です。昨日の放送、反響がすごくて」
「反響……」
「はい。『勇気をもらった』って。『希望だ』って。問い合わせも増えてます」
希望。
その言葉を、心の中で転がした。
回廊の中で希望なんて、そんな綺麗な形では見えなかった。
必死に息をして、足を動かして。
誰かの背中を見失わないようにする。
それだけだ。
でも、外では希望になる。
広報担当は手際よくタブレットを開いた。
画面には、ニュースサイトの切り抜きや短い投稿が並んでいる。
私の顔。
私の火。
私の名前。
そのどれもが、別世界の出来事に思えた。
「今日のコメント、こちらで下書きしています。
読んでいただいて、違和感があれば調整します」
「……私が、言うんですか」
「もちろん。日向さんの言葉として、です」
タブレットの文章は綺麗だった。
怖かった。
でも乗り越えた。
仲間がいた。
応援が力になる。
次も頑張る。
全部、嘘じゃない。
嘘じゃないのに、自分の中から出てきた言葉みたいには感じない。
私は一番簡単なところだけを掴んだ。
「……怖かった、は本当です」
「はい、そこは残しましょう。正直さが大事です」
正直さ。
その言葉が便利に使われる瞬間を知ってしまった気がして、息が浅くなる。
ドアの向こうで低い声がした。
森山隊長の声だ。
榊さんの声も混じる。
「日向に負担をかけるな」
「現状、世論対応が必要です。スポンサーも――」
「スポンサーの前に、隊だろ」
言い合いが続く。
つい目を伏せた。
自分のせいで、また誰かがぶつかっている。
(火が出たせいなのかな)
そう思った瞬間、胸の奥で別の感触が動く。
苦さと一緒に、ほんの少しだけまた――助かったという言葉。
助かったのは事実だ。
事実だからこそ、変えようがない。
カーテンがもう一度開く。
森山隊長が顔を出し、その後ろに榊さんが続く。
「日向、今日はここまでだ」
森山隊長が言い切る。
広報担当は一瞬だけ口を開きかけて、閉じた。
笑顔を作って引いた。
「……すみません」
反射で口をついて言葉が漏れる。
謝ることじゃないのに、謝る言葉が先に出る。
「謝るな」
森山隊長の声は硬い。
怒っているというよりも、むしろ疲れているようだった。
榊さんがベッドの横に立っていた。
いつも通り、冷静に努めているように見える。
「体調はどうですか」
「……大丈夫です」
大丈夫じゃないのに、つい大丈夫が先に出る。
榊さんは私の顔を一目見て、目を逸らさないまま言った。
「大丈夫ではないですね。L値の推移も確認しました」
胸がきゅっと縮む。
「……止まってます?」
「現時点では『止まっているように見える』だけです。
上限の計測手段はありません。分かるのは現在値のみです。
入社の時だって、あくまでも現在値でしたから」
森山隊長が腕を組む。
「三宅も言ってた。回復速度は基本一定だと。
だから、こういうときほど慌てるなって」
「はい」
榊さんが頷く。
「ただ、一定以上に回復しない状態が続く場合、削れている可能性が高いと推測されます」
喉が冷える。
「……削れた、って」
言葉を探しても、うまい言い方が見つからない。
「回復しないこと、でしか分からないんです」
淡々としているのに、胸に残った。
回廊の中で代償を払ったのは、火を出した自分だけじゃない。
吉永さんが死んだ。
境くんが怪我をした。
他の皆も擦り傷だけで済む話じゃなかった。
森山隊長が、言いにくそうに咳払いをしている。
「あー、境の見舞いにでも行くか。
医務に話は通してある。あいつは暇そうにしてたからな」
「……行けます?」
「車椅子だがな。無理はするな」
「はい」
*
廊下はさっきよりも明るかった。
窓から差し込む昼の光が床に反射している。
白が多すぎて、目が疲れる。
車椅子を押すのは森山隊長だ。
大きい。回廊の外でも、頼りになる人だった。
「……隊長」
「なんだ」
「私、変ですか」
自分でも驚くほど小さな声になった。
森山隊長はすぐには答えなかった。
車輪の音だけが続く。
「変、ってのは便利な言葉だな」
ようやく言う。
「戻りきってないだけだ。体も、頭も」
「……はい」
少しだけ納得しかける。
納得しかけたところに、次の思考がまた浮かぶ。
戻りきってないなら、戻せばいい。
次がある。
考えた瞬間、自分で自分に驚いた。
そんな簡単な話じゃない。分かっているのに。
境くんの病室の前で森山隊長が足を止めた。
ノックをして、返事を待つ。
「入るぞ」
カーテンの向こう。
境くんの顔が見えた。
白い天井の下で、境くんは少し痩せて見えた。
でも、目はちゃんと開いている。
「日向……さん?」
「やっほ。来ちゃった」
いつもの調子を出そうとして、声が途切れた。
元気なふりはできる。笑顔も作れる。
でも笑った瞬間に肺が浅くなる。
境くんが眉を寄せた。
「無理してない?」
「……してない、って言いたいけど。してるかも」
正直に言ってしまった。
境くんが少しだけ笑って、すぐに顔を戻す。
「ごめん。俺の方が……」
「謝らないでよ。謝るなら、私も謝らなきゃいけなくなる」
言ったあとで、自分の言い方が引っかかった。
誰に? 何に?
境くんの右足は固定具で固められている。
その足を見たら、胸の奥が熱くなった。
「生きててよかったね」
それだけ言った。
言ったら喉が痛くなった。
境くんは一瞬だけ目を閉じて、伏せ目がちに呟いた。
「……日向さんもね」
短い言葉。
それで十分だった。
森山隊長は気まずそうに咳払いをして、カーテンの外に出た。
私と境くんだけだ。
私はベッド脇の棚を見た。
透明な袋。私物。汚れた装備。
境くんの指先が、無意識に右手をさすっている。
「手、どうしたの」
「……なんでもない。変な感覚が残ってるだけ」
「変な感覚」
「うん。……ごめん。今はうまく説明できない」
そんな事もあるのだろう。
私は一度だけ深呼吸した。
「私も、説明できないことがある」
「え」
「火のこと。
……みんなはスゴイって言うけど、私は怖かった。今も怖い」
「……そりゃ怖いよ」
境くんはそう言って視線を落とした。
「でも、外は……盛り上がってる」
「うん。盛り上がってる。すごい勢いで。
私、今日も撮影だった」
「嫌だった?」
「……嫌、って言うと、また違う。
嫌なのに、ちょっと……ちょっと、嬉しいって思っちゃう。
有名になるとか、私だけ特別とか⋯。
そういうの。……良くないよね」
「そんなことないよ」
境くんが即答した。
「それ、普通だと思う。……たぶん」
私は境くんの顔を見た。
「でも、普通って何?」
「回廊の中で普通だったこと、外では普通じゃないでしょ?
よく考えてみて。
道が都度変わって、敵が出て。
機械仕掛けはうまく動かず肉弾戦。
怪我して、人も死んで、ボロボロになって。
かと思ったら魔法。
普通なわけ、ないじゃん?」
境くんが小さく「急にごめん」と息を吐いた。
驚いた。
こんなに話す人だったんだ。
「……でも、それが今は普通。普通になったんだ」
境くんが自分に言い聞かせるように言っている。
そっか。私はもう、そこを考えないようにしてた。
「⋯まぁ、そうだね。でも、そんなもんじゃない?」
「⋯俺は全然慣れないんだ。ズレてるのかな」
自嘲気味に笑ってる。
釣られて笑いそうになって、咳払いで誤魔化した。
「ねえ、境くん」
「なに」
「前の日常に戻りたい感じ?」
「……どうかな。戻りたい、って訳じゃ⋯ないと思う。
色々上手くいかなかったから。
今は生きてるって感じ、するし」
「私も似たようなものだよ。……怖いのに、ちょっとだけ楽しいって思う時がある」
「⋯そういうもの、なのかな」
「もっと楽に考えて良いと思うよ?
回廊が世界に出て、世の中の空気も変わってる。
スポンサーも研究も、動きが早いし。
私はまさかの魔法使いだもん」
境くんがイタズラっぽく言う。
「それ、後で皆と聞かせてよ。何がどうだったのか」
「もちろん。境くんもソロでの生還劇、皆と聞かせてね」
「やめてくれ、そんなカッコいいもんじゃないよ」
「私だって、そうだよ」
なんとなく、2人で困った顔して笑い合った。
一息ついた所で、不意に言ってしまった。
「私の数字が……止まったかもしれない」
境くんが眉を寄せる。
「L値?」
「うん。今、53」
「……日向さんの、いままでって?」
「最初は67だったんだ。
回廊に潜って減ることはあっても、休めばまた67には戻ってた。
でも、いまはここから上に上がらないんだよね」
笑ってごまかそうとして、笑えなかった。
「榊さんが、上限が削れた可能性があるって」
「……そっか」
境くんはそれ以上言えなかった。
言えない沈黙が病室に落ちる。
その沈黙を、テレビの音が割った。
廊下の待合スペースから流れてくる笑い声とニュースのテロップ。
もう何度も同じような話題が流れてる。
湾岸。回廊。帰還者。未知の現象。
魔法の火。希望のエネルギー。
誰かが拍手している。
私は境くんの顔を見て、何も言えなくなった。
辛そうな顔をしている。
でも、強い目で私を見返した。
「日向さんさ、俺の考え、話してもいいかな」
「え?なに?」
「俺、回廊はまだ何も終わってないと思うんだ」
どういうこと?
私がキョトンとした顔をしていると、境くんが続ける。
「今回こんな事があって、きっと変わった。
何かが変わったんだ。
敵も倒せばすぐに塵になって、何かが残るようになった」
「そ、そうだね。最初見た時ビックリしたよ。
だから、これから先は、今までと違う?」
「今思うと、魔法を使うヤツは昔もいたんだよ。
高梨、アイツの足抉ったの、多分魔法だったんだと思う」
「あーーー、確かにいたね」
「だから、きっともっと何かある。L値だって、きっと戻せる何かがあるよ」
胸の奥が少し軽くなる。
私を元気づけてくれている。
私も、切り替えないといけない。
回廊内ならもっと何かが起こるかもしれない。
だって未知なんだ。
L値だって、何かの拍子で本当に戻るかもしれない。
*
その夜、私は上手く寝付けずにいた。
眠っているはずなのに意識が浅い。まぶたの裏で光がちらつく。
測定器の光。
回廊の暗さの中で見た火。
テレビの派手な照明。
全部が混ざって、同じ白に寄っていく。
ベッドの上で静かに呼吸した。
点滴の落ちる音が一定のリズムで続いている。
ぴ、ぴ、ぴ。
規則的な音は、本来なら安心材料のはずだった。
なのに、頭の中の数字は居座ったままだ。
それは「今の私」を見せつけるというより、もっと無邪気に、次を数えさせてくる。
次の日の53。
その次の53。
数字が続く未来の方だけが、妙に具体的だった。
息を吐く。白い天井に吸われていく。
回廊の外は安全だ。安全なはずだ。
でも、安心の手触りがない。
代わりに、回廊の中の感覚だけがまだ残っている。
火が出た瞬間の、あの熱。
怖さで手が震えていたのに、同時に、確かに――進めた。
進めた、という事実が胸の奥で確信に変わる。
あれがなかったら、と考えると喉が締まる。
あったから助かった、と考えると少しだけ楽になる。
廊下の向こうの笑い声が遠くで続いている。
同じフロアで誰かが苦しんでいるのに、外はお祭りみたいに熱い。
その熱が窓の隙間から入り込んで、私の皮膚を撫でる。
火は危ない。
火は必要だ。
そういう言葉が、頭の中で並ぶ。
私の火で探索が楽になれば、誰かが生き残る確率は上がる。
それはたぶん正しい。
拍手。
名前。
画面の中の私。
それを思い出した瞬間、胸の底がちりっとする。
喜び、と呼ぶには小さすぎる。
手を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
痛みで、少し現実に戻ったような気がした。
私は別に英雄になりたいわけじゃない。
たぶん。
ただ――次があるなら、今度はもっと落ち着いてやれる。
だから一旦、受け入れることにした。
怖い。
でも、やれる。
やるんだ。
ぴ、ぴ、ぴ。
一定の音に合わせて、呼吸も落ち着いていく。
点滴の冷たさが、腕の内側でゆっくり温度を奪っていく。
さっきより少しだけ心が軽い。
境くんの言葉を思い出す。
きっと、大丈夫だ。
私は目を閉じた。
閉じたまぶたの裏で、回廊の暗さがちらつく。
暗さの中に、火だけが鮮やかに残っている。
温かい。
怖い。
それでも、今夜はそれを見つめるだけで、眠れそうだった。




