第2話 L値
現実はまず、ひたすら走らされるところから始まった。
*
「はいラスト1周ー! 歩くな! 止まるな! 死ぬな! 死ぬのは回廊ん中だけで十分だー!」
グラウンドに教官の怒鳴り声が響く。
真夏一歩手前の陽射しが、砂を白く照り返している。
喉が焼けるみたいに痛い。肺は裏表ひっくり返っている気がする。
「……っ、は、っ、は……!」
境直耶は、足が鉛になったみたいな感覚のまま、前を走る研修生たちの背中を必死に追いかけていた。
右膝が、さっきから微妙に笑っている。
それでも足を止めたら、本当に終わる気がした。
「はいそこ、ゴール! 境くーん、タイム……微妙!」
ゴールラインを踏み抜いたところで、教官がストップウォッチを押す。
その“微妙”の一言が、変に心に刺さった。
「……っす……」
まともな返事になっていない返事をすると、教官はクリップボードに何かを書き込む。
「境、平均ちょい下。
でも最後まで走り切ってるだけマシ。途中で歩いたら普通に落とすからな。忘れんな」
(平均ちょい下……)
小学校のマラソンも、中学の持久走も、高校の体力テストも、だいたいそのポジションだった。
ビリじゃないが、前にも出られない。
ここに来ても、やっぱり自分は“そこ”なのかと、苦笑いしたくなる。
グラウンドの隅では、1人の研修生が日陰に寝かされていた。
医務係が氷嚢を首に当てている。どうやら軽い熱中症だ。
「まだ……まだ走れます……」
「はいはい、根性ポイントは加点しとくから今日は終わり。点滴ね」
医務係がさらっと言い捨てる。
倒れた研修生は唇を噛んで、悔しそうに空を睨んでいた。
(ここで“帰される”のか、“続行させられる”のかも、運のうちなんだろうな)
そんなことを考えてしまうぐらいには、頭がぼんやりしている。
「午前の体力測定はここまでー! 水分補給して、午後は座学と健康診断な!」
号令と同時に、研修生たちが一斉に水筒や紙コップに群がった。
「おっつかれー。マジで死ぬかと思った」
隣で、短髪の男が水をあおっている。
昨日自己紹介したときに、高梨だと名乗っていた。土木現場上がりだという。
「現場で鍛えられてるから余裕っす、みたいな顔してたじゃん」
「見栄張っただけだって。ここ自衛隊の訓練所かよ……」
高梨は頭をがしがし掻きながら、へたり込む。
「境は? どっから来たんだっけ」
「……コンビニとか、倉庫とか。いろいろ」
「“いろいろ”は大体ブラックって意味だな」
「まあ、潰れたけどね。店ごと」
「うわ、それは……運が悪ぃ」
軽い調子で言われても、事実なので否定しづらい。
「午後の座学、寝るなよ。寝たやつは翌日追加メニューだってよ」
「……それはさすがに困る」
大学にいた頃、午後の講義はだいたい睡眠時間だった。
ここで同じことをやったら、本当に生き残れない。
直耶は、重くなったまぶたを指でぐりぐり揉みながら、教室へ向かった。
*
冷房の効いた教室は、外のグラウンドとは別世界のようだった。
前には白髪混じりの講師が立ち、スクリーンには大きくタイトルが映っている。
《回廊基礎1:今わかっていること/わかっていないこと》
(タイトルからして不穏なんだが)
直耶が思わず眉をひそめていると、講師が口を開いた。
「じゃ、始めます。
まず、みなさんが一番気になっているであろうポイント——」
クリック音とともに、スライドが切り替わる。
《回廊とは何か?》
その下に、箇条書きが並ぶ。
・3年前、東京湾岸に突如出現した“穴”の1つが《第七湾岸回廊》
・世界各地に類似の“回廊”が確認されている
・内部は、人類の科学ではまだ説明できない現象が多い
「結論から言うと——」
講師は1拍置いてから続けた。
「分かってません。」
教室のあちこちから、半分笑い、半分どよめきみたいなものが漏れる。
「“地下空間説”“別次元干渉説”“異常空間説”とか、いろいろ学者が言ってますが、
どれも決め手に欠ける。
少なくとも、敵性生物の存在と、その危険性の確認はできています。」
スライドには、いくつかの説のタイトルだけが箇条書きされていた。
「出現からまだ3年ちょっと。
人類が深海や宇宙を探索し始めた初期と同じで、今はまだ“手探り”の段階です」
淡々とした口調のわりに、その「手探り」という言葉がやたら重く感じられた。
「みなさんが覚えておくべきは、現時点で1行だけ」
講師はスクリーンを指さす。
「“今の科学では、まだ説明できない穴”——以上」
前列の誰かが、ボールペンをくるくる回しながら小さくうなずいた。
「で、その“説明できない穴”の中で、実際に何が起きているか」
スライドが切り替わる。
《内部の特徴(現場レベルで把握していること)》
・形状は潜るたびに変化する(固定マップではない)
・ある程度の“危険度帯”は経験から分かっている
→ 浅いゾーン/中間ゾーン/危険度の高いゾーン(俗に“浅層”“中層”“深層”)
・一定のラインより深くなると、無線通信がほぼ通らない
「ニュースで“公認到達ゾーン○”なんて言ってるのは、この危険度帯のラベルです。
ゲームみたいな“階段何階”って意味じゃない」
講師は指し棒で図をなぞる。
スライドがもう1度切り替わる。
《現代兵器について》
・回廊内部では、銃火器・爆発物などの現代兵器は基本的に“まともには使えない”
→ 起爆しない、作動しない、威力が極端に落ちる、などの現象が多発
・高出力のエネルギー兵器や、大型兵器も同様
→ 電子制御系が死ぬ/起動そのものが不可能になるケースが大半
「テレビだと、入口付近で銃構えてる映像とか流れますね。かっこいいやつ。
でも、少しでも中に入れば、ああいうのはほぼ“重い鉄の棒”です」
講師は肩をすくめた。
「“運が良ければ動く”んじゃない。
“当てにしてはいけないもの”と扱え。
ここでみなさんに叩き込むのは、まず——」
1拍置いて、教室をゆっくり見回す。
「走り込みと、素手・白兵戦。
“自分の手足”だけは、回廊の中でも間違いなく動きますからね」
そこで1度、場の空気を切り替えるように手を叩く。
「浅層は、みなさんがまず足を踏み入れる場所。
中層以降は、今のところ熟練の探索者しか行きません。
深層については——まあ、ここで詳しく話すと寝る前に変な夢を見るのでやめておきます」
苦笑交じりの本音に、教室が少しだけざわついた。
「次、敵性生物。名前はいろいろ付いてます。“内部生物”“敵性生物”“モンスター”」
切り替えられたスライドには、モザイク処理された写真がいくつか並んでいた。
四足獣、昆虫めいたもの、よく分からない塊状の影。
遠目には人型に見えなくもない黒いシルエットもあるが、細部は潰れていて判然としない。
「こいつらが“何者か”までは、正直よく分かってません。」
講師は1拍置いてから、言い方を変える。
「ただし——3年分の実戦データから分かっていることが1つある」
スライドが切り替わる。
《実戦から分かっていること》
・こちらを“敵勢力”として認識していると見ていい
・形がどうあれ、“こちらを殺せる意思と手段”を持っている
教室が少し静かになった。
「言葉は、まず通じません。
日本語も英語も、向こうには通じない。
何か叫んでることはあるけど、こっちには意味不明な音の羅列です」
スライドがまた切り替わる。
《遭遇時の基本》
・“話せば分かる”は、最初から捨てる
・これまでの交戦で、先に攻撃してきたのは向こうの方が多い
・“様子見して近づいたチームが消えた”事例は、もう数えきれない
「世界中で、もう何千件も“最初の接触=殺し合い”が起きてます。
ニュースではオブラートに包みますが、ここでは包みません」
そこで、講師はわざと1枚のスライドを出した。
岩陰からこちらをうかがう、四足の影。
体格は大型犬かそれ以上だが、関節の位置がおかしい。
別の画像には、細長い脚がいくつも生えた何かが、壁を這っている。
「サイズが小さいから大丈夫だろ、とか、
“ノロそうに見えるから近寄っても平気だろ”って油断して近づいたチームが、
まとめてやられたケースが実際にある」
笑いが、すっと引いた。
「見た目がどうであれ、まず“安全そうだ”なんて決めつけないこと。
向こうにも向こうの事情や理屈はあるでしょうが、回廊ん中でそれを考えるのは学者の仕事じゃない」
別のスライドが出る。
《現場ルール》
・見た目で油断するな
・形が人に近くても獣に近くても、“敵性生物の一種”として対応する
・“本当は話せたかもしれない”と悩むのは、生きて帰ってから
「覚えといてほしいのはそこだけ。
“回廊の中で出会うものは、まず危険物だ”」
講師は最後にそう言って、ペンを指の間でくるりと回した。
「倫理の話は、この部屋の外で好きなだけ悩んでください。
ここでは、生き残り方だけ教えます」
教室の空気が、少しだけ重く沈んだ。
「ここまでで質問ある人?」
誰も手を挙げない。
講師は「じゃ、次」と言って、スライドを切り替える。
《L値(ライン値)とは?》
画面上に、見慣れないアルファベットとカタカナが並ぶ。
「さっき軽く説明があったと思いますが、L値。ライン値。
簡単に言うと、みなさんの“メンタルのHP”です」
教室のあちこちから、ペンの走る音がした。
「元々は自衛隊や警察で使われていたストレス耐性評価を、回廊向けにいじったもの。
睡眠、ストレス、トラウマ、性格傾向。
いろいろな検査結果をまとめて0〜100の数値にしてます」
《目安》
・60台:研修生の平均的レンジ
・70台:高め。適性あり
・80台以上:かなり優秀。深いゾーンにも耐えられる可能性が高い
・40未満:黄色信号(要観察)
・30未満:赤信号(現場から外すレベル)
「L値が高いからって偉いわけじゃありません。
ただ、訳の分からない穴の中で、急に壊れにくい、ってのは事実」
講師は画面を一瞥し、淡々と続ける。
「このあと医務室で、1人ずつL値を測ってもらいます。
結果は個別に伝えますが——」
そこでわざと間を取った。
「他人と比較して騒がないこと。
“あいつL値低いから足手まとい”とか言ったやつは、逆に鍛えます」
教室の空気が、少しだけ緩んだ。
「詳しい解説は医務室の先生から。
質問なければ、座学はいったんここまで」
そう締めくくって、講師は教室を出ていった。
直耶はノートを閉じながら、頭の中で単語を並べる。
(回廊:3年前に現れた、よく分からない穴
敵性生物:正体は分からないけど、敵
L値:メンタルのHP)
どこまでいっても「分かっていない」がベースにある世界。
だけど、その「分からなさ」の上に、もう“殺した・殺された”の実績だけは積み上がってしまっている。
背筋に冷たいものが流れた気がした。
*
「境さんー、どうぞー」
健康診断の列は、病院みたいに淡々と流れていた。
身長・体重・視力・聴力。採血と心電図。
そこまでは、母に付き添って何度も見た光景と変わらない。
違うのは、その先だった。
案内された部屋は、診察室というより、簡素な実験室のようだった。
白い壁に机と椅子が1つずつ。
その奥には、少しだけ場違いな機械が鎮座している。
ヘッドセットと、手を乗せるパッド。
側面には「L-SCAN」とアルファベットが印字されていた。
(なんか、ゲームセンターにありそうな名前だな)
そう思っていると、机の向こう側の白衣が顔を上げた。
30代前半くらいの女性。黒縁の眼鏡越しに、静かな目がこちらを見る。
「境直耶くん?」
「はい」
「どうぞ、座って。
回廊管理局・訓練センター医務班の佐伯菜穂です。よろしく」
「……よろしくお願いします」
椅子に腰を下ろすと、佐伯はカルテに目を落としながらペンを走らせた。
「まず、普通の問診からね。最近、眠れてる?」
「ここ来てからは……あんまり、かもしれません」
「まあそうだよね。入所直後は大体そう。 食欲は?」
「あります。むしろ増えたかもです」
「それは良いこと」
抑揚の少ない声なのに、妙に安心感がある。
「じゃ、ざっくりメンタル面。
ここ数ヶ月で、“何も手につかない”“何日も眠れない”レベルの状態になったことは?」
「そこまでは……。
イラついたり、落ち込んだりは普通にありますけど」
「それは人間として正常」
さらっと言われて、少し肩の力が抜けた。
「強いショック受けた出来事は?」
直耶は少し考えてから答える。
「……事故現場とか、病院で……。
母の検査結果聞いたときとか」
「うん。そういうのは普通に効くからね。
聞き方変える。人生通して、“俺運悪いな”って思ったこと、多い?」
図星すぎて、一瞬言葉に詰まった。
「……正直、はい」
「自覚があるタイプか。なるほど」
佐伯は「運悪い」に丸をつけるみたいな動きでペンを走らせた。
「じゃ、L値測りましょう。
痛くはしないから安心して。頭にこれ付けるね」
ヘッドセットがそっと頭にかぶせられる。
こめかみに当たる金属部分が、ひやりと冷たい。
「手はこのパッドの上。指輪とかはしてないね。
目を閉じて、深呼吸して。
変な映像が浮かんでも、あんまり気にしないように」
「変な映像って、具体的には——」
「説明すると気になるでしょ?」
はぐらかされて、仕方なく目を閉じた。
耳の奥で、かすかなノイズが鳴り始める。
気のせいかもしれない。
ただ、何かが自分の中をじっと覗いているような感覚があった。
病院の白い廊下。
待合室の古いテレビ。
「検査、増やしましょう」と言った医者の口元。
コンビニのバックヤード。ハローワークのポスター。
「運のいい奴が生き残る場所だ」と笑った森山の顔。
(やめろ、そういうのはあんまり見返したくないんだけど)
そう呟いたところで、ノイズが1瞬だけ強くなった気がした。
「はい、おしまい。目、開けていいよ」
目を開けると、ヘッドセットは外されていて、佐伯がモニターを覗き込んでいるところだった。
画面には、素人には意味の分からない波形と数字が並んでいる。
「……ふむ」
例の「ふむ」が出た。
「あの、どうですか」
恐る恐る聞くと、佐伯は椅子をくるっと回してこちらを向いた。
「境くんのL値、82」
「……高いんですか?」
「研修生の平均が60台。70超えたら“適性高め”。
80超えは、“かなり優秀”の部類」
優秀、という単語が、少しむず痒い。
「要するに、“壊れにくい”ってこと。
訳の分からない穴の中に放り込まれても、すぐポキっとはいきにくい」
「……それは、良いこと……なんですよね?」
「生き残る確率、ちょっとだけ上がるからね」
佐伯はモニターを指先でとん、と軽く叩いた。
「現場の人間からすると、こういう子は“長く使える”って言い方になる」
「……あんまり嬉しくない表現ですね」
「事実だからね。オブラート剥がすとそういう話になる」
淡々とした口調なのに、その分だけ言葉が重い。
佐伯はそこでペンを1度置き、姿勢を少し崩した。
「L値の説明は、だいたいそんなところ。
ここから先は、公式マニュアルには載ってない話ね」
「載ってない話……」
「私個人の、愚痴混じりの観察結果みたいなもの。
医学的な裏付けがあるわけじゃないから、話半分で聞いて」
そこで初めて、佐伯の声色がほんの少しだけ砕けた。
「回廊に関わる人たちを、この3年ずっと見てきたんだけどね。
“妙に運が良くなる人”っていうのが、一定数いる」
母の病院の待合室で見たポスターが頭をよぎる。
“回廊帰りのお医者さんの挑戦”。
「たまたま治療法の合う医者に当たる。
偶然、新しい薬の治験に滑り込める。
研究が、あり得ないくらいスムーズに進む」
佐伯は、手元のペンを軽く回した。
「そういう“上振れ”が、回廊帰りの人間の周りで目立つようになったのは事実。
少なくともこの3年、ここで診ている範囲ではね」
「ニュースでもやってますよね。“回廊探索者出身の起業家が〜”とか」
「そうそう。あれ全部が全部プロパガンダってわけでもない。
もちろん盛ってはいるだろうけど」
「……じゃあ、やっぱり“回廊帰りは運が良くなる”って、本当に——」
「そこがね、“公式には否定するしかない”ラインなわけ」
佐伯は苦笑いを浮かべる。
「“運が良くなるメカニズム”なんて、科学的に説明のしようがない。
“回廊と運の相関”を本気で研究しようとしたチームは、上から全部潰された」
「潰されたって……」
「予算が切られたり、配置換えになったり、ね。物騒な意味じゃなく」
物騒じゃないと言われても、十分物騒な話だ。
「で、問題は“上振れの反対側”」
佐伯は机をとん、と指先で叩いた。
「誰かのツキが信じられないくらい良くなっている時、
どこかの誰かに、不自然なくらい“悪いこと”がまとめて降ってるように見える」
直耶の背筋を、冷たいものが走った。
「……それって」
「大規模事故とか、意味の分からないタイミングでの急な病状悪化とか。
もちろん、全部“たまたま”だよ。統計を取ればいつでもどこかで起きてる」
「でも?」
「でも、この3年見てると、“妙に塊で起きる瞬間”がある」
佐伯は言葉を選ぶように、少しだけ目を細めた。
「誰かが回廊から帰ってきて、“やけにツイてるな”ってケースの影でね」
母の数値。
病院で隣のベッドのおばあさんが急に運ばれていった日のことを、直耶はふと思い出した。
「もちろん、これは私個人の愚痴混じりの観察。
医学的な話じゃない」
佐伯は両手を軽く上げてみせる。
「ただ、“人の運には帳尻合わせがあるんじゃないか”って気がしてる」
——運の、帳尻合わせ。
直耶は、その言葉を頭の中でゆっくり繰り返した。
「誰か1人だけが、ただただツキ続ける世界って、あんまり綺麗じゃないでしょ。
どこかで誰かが、外れクジをまとめ引きしてる方が、むしろ“自然”に見える」
「……綺麗じゃない、ですけど」
「回廊は、その“帳尻合わせ”と相性が良すぎる気がするのよ」
佐伯は窓の外、遠くに見える巨大なコンクリートの壁の方に視線を向けた。
「命を賭けて潜って、生きて帰ってきた人間に“ご褒美”が乗る。
その分、どこかで誰かの何かが、妙なタイミングで崩れていく」
直耶は、自分の手のひらを見た。
さっきまでパッドの上に乗せていた指先が、かすかに汗ばんでいる。
「……それでも潜る人がいるのは、“今よりマシな状況”を引き寄せたいからか」
「そう。で、境くんはその1人ってこと」
佐伯は、カルテに何かを書き込みながら言った。
「境直耶。L値82。
壊れにくい。
運の悪さについて、自覚あり」
「……診断名みたいに言わないでください」
「実際、カルテだしね、これ」
さらっと返されて、反論の余地がない。
「で、ここからが一番大事な質問」
佐伯はペンを置き、真顔になった。
「それでも行く?」
部屋の中の空気が、少しだけ重くなった気がした。
ここで「やっぱり無理です」と言えば、どうなるのだろう。
“L値が高いからもったいないね”と苦笑されて、家に帰されるのか。
別の道を探せ、と言われるのか。
(……帰って、何をする)
バイト先はもうじき閉まる。
新しい仕事を探すにも、カードは少ない。
奨学金、家賃、治療費。
父の再就職はいつになるか分からない。
ここから逃げて、どこに行ける。
「……行きます」
自分でも驚くくらい、声は静かだった。
「そう」
佐伯は、ほんの少しだけ目を細めた。
「じゃあ、できる限り壊れずに帰ってきて。
何度も」
「……努力します」
「努力でどうにかならない部分が多いのが、また嫌なところなんだけどね」
皮肉とも本音ともつかない一言を添えて、佐伯はカルテにサインをした。
「はい、終わり。次の人呼んできて」
直耶は立ち上がり、機械の横を通り過ぎながら、ちらりとモニターを見た。
そこには、自分の名前と「L=82」という数字が、小さく表示されている。
ただの数字。
でも、この先の自分の扱われ方を変える数字。
扉を開けると、廊下のベンチで待っていた高梨が顔を上げた。
「お、どうだった。L値」
「82って」
「マジかよ。チートじゃん!」
「ゲームじゃないって、さっき言ってただろ」
「だってよー、俺60ちょいだったぞ。“まあ普通です”ってやつ」
高梨は大袈裟に肩を落とした。
「じゃ、精神担当はお前に任せるわ。
俺がパニクったら殴って正気に戻してくれ」
「……それでL値下がりそうなんだけど」
いつも通りの軽口を交わしながらも、胸の奥ではさっきの会話が反芻されていた。
——壊れにくい。
——長く使える。
——運の帳尻合わせ。
数字の裏に、見えない何かが貼り付いている気がする。
*
夜。寮の2人部屋で、消灯時間前の薄暗い明かりだけが灯っている。
高梨は上のベッドで早々に寝息を立てていた。
直耶は下のベッドに寝転がり、スマホの画面に浮かぶ文字を見つめていた。
メッセージアプリには、母からの短い文字列。
『今日は付き添いありがとうね。
検査ちょっと疲れたけど、大丈夫。
あんたも体に気をつけて』
その後に、少し間をあけて1行。
『回廊のニュース、またやってたよ。
すごいねえ、ああいう人たち』
直耶はしばらく画面を見たまま、何も打てなかった。
やがて、「大丈夫」「こっちは元気」「こっちはこっちでがんばる」と、
あまり中身のない言葉をいくつか打ち込む。
本当は、「L値82だった」とか、「壊れにくいらしい」とか、
そんなことを冗談めかして送ろうとした指が、結局途中で止まった。
(言っても意味分からないしな)
送信ボタンを押すと、「既読」がすぐに付いた。
しばらくしてから、「ふふ、頼もしいね」とだけ返ってくる。
頼もしいかどうかは、自分が一番怪しいと思っている。
画面を消し、天井を見上げる。
頭の中で、今日聞いた言葉がぐるぐる回る。
——“運のいい奴”が、生き残る場所だ。
——L値82。“壊れにくい”
——“人の運には帳尻合わせがあるんじゃないか”
窓の外、遠くに黒いシルエットが見えた。
巨大なコンクリートの壁。その向こう側に口を開けている、暗い穴。
ニュースでは“戦争のない時代を支える希望の施設”と呼ばれている場所。
直耶にとっては、“やり直せるかもしれない場所”であり、
同時に、“誰かを歪めるかもしれない場所”にも思えた。
(それでも——)
目を閉じる。
(それでも、行くしかない)
向かうのは、訓練センターのグラウンドでも、寮のベッドでもなく、
あの黒い穴の中。
L値82という数字が、その行き先を少しだけねじっている——
直耶は、そんな気配から目を逸らすように、浅い眠りへと落ちていった。




