第23話 いきること
息を吐いたぶんだけ、ヘルメットの内側が曇った。
膝に手をつく。
左足がじんじん痛む。
さっきの影のような獣は消えた。
消えた、というより――闇に溶けていった、と言ったほうが近い。
良かった。引いてくれた。
直耶は、首をゆっくり回して自身の装備を見直した。
ヘルメットのライト。
右手の槍と、左腕に固定している小盾。
スポンサーの体防具一式。
腰ベルトには大振りのナイフ。
バックパック内の乾いた非常食と空の水筒。
医療キットは気休め程度。
それが全てだ。
回廊の天井には相変わらず電灯が付いている。
だが、普段よりずいぶん光量が足りない。
そもそも、この光は信じていいのだろうか。
どこから電気が通っているのだろうか。
いや、今は明かりがあるだけ有難い。
顔を向けた方向だけがより明るくなる。
腕で光を持たないぶん、視線と首が頼りだ。
だから、怖いものを見るときほど、首が固くなる。
(……追ってこない。追ってこない、はず)
「こちら境。……獣は、離れました。俺は無事」
無線に返事は来ない。
返事どころか、音がちゃんと飛んだ感触すらない。
アイコンが点いているだけで、薄いまま変わらない。
頼るな、と自分に言い聞かせる。
いま頼れるのは足の裏と、壁の印と、自分の“なんとなく”だけだ。
足を踏み出す。
左足首の痛みが、容赦なく返ってくる。
やはり、さっきからずっと同じ場所に痛みを感じる。
崩落の時、変に捻ったのかもしれない。
だが、立ち止まって確認している余裕はなかった。
通路が細くなってきた。
湿った空気が肌に張りつく。
壁の筋模様がライトを散らし、輪郭をぼやかす。
視界の端がいつも暗い。
暗い場所に何かがいる気がして、いちいち心臓が跳ねる。
(……C2。合流点。今はそこまで出よう)
口の中が乾いていた。
唾を飲み込もうとしても、飲み込むものがない。
粉塵の味だけが舌に残る。
グネグネと折れ曲がる通路を、独り歩く。
このまま自分はどこへ向かうのか。
もしかして、むしろ深くへ行ってはいないか。
不安になる心を抑え、進み続ける。
*
ふと、壁に白い印が見えた。
矢印だが擦れている。
自分たちの印かもしれないし、別班の古いものかもしれない。
だが、あるだけでありがたかった。
人の痕跡はきっと、出口の気配に違いない。
矢印の向きに合わせて進む。
ふと、背中が冷えた。
いや、違う。
首の後ろの皮膚が、ぞわっと粟立つ。
あの感覚だ。
訓練のときには笑い話で済ませられたのに、回廊の中では笑えない。
(……嫌だな)
直耶は反射で足を止めかけ、踏みとどまった。
音が大きくなる。
自分の呼吸が。
自分の心拍が。
自分の足音が。
首だけをゆっくり回す。
ライトの輪が壁を舐め、床を舐め、曲がり角の奥をかすめる。
何もいない。
何もいないのに、嫌な感じだけが残る。
(……俺の勘って、こんなに当てにならなかったっけ)
胸の奥に意識を落とす。
寮の天井を見ていたときのように、思い浮かべる。
地上の空気。
エレベーターホールの灯り。
帰還口を。
胸の中で、小さな針が動くような感覚。
……が、途中で感覚が消えた。
動こうとして、動けない。
無理に動かそうとすると、こめかみの奥がきしむ。
「……っ」
喉の奥が熱くなり、吐き気が込み上げた。
口の中に酸っぱいものが出そうになって、慌てて飲み込む。
(……ダメだ)
直耶は壁に手をつき、数回だけ深呼吸した。
ヘルメットの中で空気がこもり余計に気分が悪くなる。
(今の、何だ。……俺、何をやろうとした)
分からない。
分からないが少なくとも「いまはこれ以上使えない」ということだけは分かった。
針は動かない。動かせない。
回廊を出るまで、たぶん――もう。
「……そういう事だけ、都合よく分かるな。
なんで分からないのに解かるんだよ。クソッ」
独り言が、やけに大きく響いた。
歩くしかない。
直耶は槍を握り直し、ゆっくり前へ進んだ。
*
ふと喉の渇きに気づく。
気づいたらもうダメだった。
身体が勝手に荷物を探している。
舌が上顎に貼りつく。唇がひび割れそうだ。
喉が痛い。息をするたび、粉塵がまだ残っている気がする。
壁に滲んだ湿気を指で掬って舐めてみた。
塩っぽい。鉄っぽい。
気休めにもならない。
それでも何もしないよりはマシだった。
角を曲がると崩れた区画だった。
天井の一部が落ち、通路の端に瓦礫が積もっている。
完全に塞がってはいない。
人が一人、身体を横にすれば抜けられる程度の隙間が残っていた。
嫌な汗が背中を流れる。
こういう場所は、嫌いだ。
崩れやすい。
足を取られる。
何より、視界が悪い。
直耶は槍の穂先で瓦礫を軽く突き、動かないことを確かめた。
小さな石が転がり乾いた音が走る。
その音が妙に遠くまで届いた気がした。
余分な事は考えるな。
他に道はない。通るしかない。
小盾を先に入れる。
身体を横にする。
ヘルメットのライトが瓦礫に近づき、反射が眩しい。
粉が舞って、目が痛い。
体を捻りながら、狭い隙間を這うように進む。
慌てず急がなければならない。
今襲われたら終わりだ。
よし、抜けた。
息を吐いて立ち上がろうとした瞬間だった。
右足が、ふっと沈んだ。
反射で左足で踏ん張った時だった。
ぐにゃ、と足首が嫌な方向に折れ曲がる。
「――っ」
声が出かけて、喉の奥で噛み殺した。
痛みが遅れて来る。遅れて来て、まとめて殴ってくる。
視界が一瞬だけ白くなり、胃の中が持ち上がった。
(……くそ、マジかよ)
直耶は槍の柄に体重を預けた。
痛みで呼吸が勝手に速くなる。
奥歯をかみしめて立ち上がり、足を少し引きずるようにして歩く。
速度は落ちるが、止まれない。
ナニカに追いつかれるかもしれない。
言いようのない不安が身を包む。
*
通路が少し広くなった。
天井が高い。
空気が、わずかに動いている。
湿気が薄くなる。
――外に近づいているのだろうか。
希望が胸に浮かびかけて、すぐに切り替えた。
希望は油断だ。
気を抜くな。
そんな隊長の声が聞こえた気がした。
ふと目を落とすと、床に何かが落ちている。
迷彩の布。
ヘルメットと小さなバッグ。
腰に付けるようなサブポーチだ。
回廊の泥と砂で汚れているが、ファスナーは生きている。
直耶は一瞬迷って、拾った。
(すまん)
中を開ける。
布。
医療用の小さなパック。少ないが包帯。
――そして、小型ペットボトルに半分くらいの水。
喉が勝手に鳴った。
直耶はキャップを少しだけ緩め、口に含む。
ほんの一口。水はぬるい。
だが、世界が戻ってくる味がした。
「……ありがとう」
誰に言ったのか分からない言葉を吐いて、キャップを閉めた。
続けて足の治療を試みる。
素人治療でも、無いよりマシだ。
シューズを脱ぐと、腫れた左足。
どのタイミングだったのか、出血もしている。
自分のキットから消毒液を出し傷にまき散らす。
痛みで涙が滲むが、生きている証拠だと自分に言い聞かせた。
ぐるぐると包帯を雑に巻き付け固定を試みる。
やらないよりマシだろう。
血で汚れたシューズを履き直した。
その後ポーチを自分のベルトに付けると
重みが妙に現実的で少しだけ心が落ち着いた。
その直後。前方で何かが擦れる音がした。
――カリ。
床を爪が掻くような音。
直耶は足を止め、槍を前に出した。
小盾を少し前へ。
ライトの輪を曲がり角に向ける。
床と壁の境目に白い身体がべたりと張りついていた。
猫ほどの大きさ。だが細すぎる。
影の獣とは、明らかに違う。見たことのない個体だ。
ハッキリと爪と牙が見て取れる。
低く、低く、張り付くように姿勢を保ち、壁に張り付いたまま近づいてくる。
一体だけじゃない。
輪の外側で、もう一つ、天井にさらに一つ。
胴体が呼吸をするように、僅かに伸び縮みしている。
(……多い)
心臓が速い。
呼吸が荒くなる。
止めろ。音を立てるな。
――いや、落ち着いてられるわけない。
直耶は後ろを見た。
瓦礫の区画を今の足で戻るのは無理だ。
それに、戻ってもここまで一本道だ。
なら、前。
帰るには前に出るしかない。
通路の幅を確かめる。
人が二人並べる程度だ。
よし。相手はそれほど横に広がれないだろう。
直耶は槍の穂先を床すれすれに落とし、左右に振る。
届く距離を見せる。
ここから入ってくるなと意思を見せる。
だが、じりっ、と近づいてくる。
槍の範囲に入るか入らないかの位置から、一体が踏み込んできた。
直耶は軌道を読んで穂先を構えた。
床と獣の間に槍を差し込む。
ガ、と硬いものに当たり、獣が一拍止まる。
そのまま槍を凪いだ。
ギャ!
吹き飛ばされるように壁に獣が打ち付けられ、鳴き声が響く。
その声に反応して、他の二体が動きをとめた。
どうやら、相手には考える知能があるらしい。
ピンチだがチャンスだ。
うまくすれば撤退を誘えるかもしれない。
別の一体が飛びかかってきた。
疾い!
軌道を読んで槍で突く。
ぞふっ
当たりどころが良かったのか、貫いた。
そしてそのまま、獣は直耶にもたれるように塵になる。
塵を見て、残りの二体は唸って足を止めている。
「かっ!かかってこい!俺はお前らを殺せる!
殺されても道連れだ!!こい!!」
自分でも信じられないほど大きな声が出た。
去勢だ。そんな勇気はない。
だが、伝わるか分からないが、意志は示した。
踏み込む足に痛みが走る。
力が入り切らない。
もうヤバい。
だが、弱みは見せられない。
槍の柄を滑らせ、穂先の向きを変える。
横へ凪いで牽制だ。
幸い通路の壁が味方になってくれている。
横を塞いでくれる。
ブンブン振り回すだけでも効果があった。
獣が低く鳴いた。
鳴いたと言うのだろうか。空気が擦れた。
一斉に来られたら終わる。
小盾で強く壁を叩いて音を出す。
喉はもう限界だ。
来ないでくれ。
獣が一拍、引いた。
その一拍で、歯を食いしばって前へ進んだ。
進む。進む。
痛む足を堪えて進む。
槍をずらし、通路の中心を奪う。
そのまま無理やり押し抜けた。
獣が背後にまとわりつこうとする、が、また槍を振り回す。
体を入れ替え、振り回す。
はたから見たら情けない姿だ。
だが、関係ない。
自分も相手も、死んだら終わりなのだから。
槍のぶん、距離ができた。
(……頼むから、来るな。行かせてくれ)
頭の中で何度も唱えながら、牽制しながらジリジリ下がる。
敵は動かない。
数十歩。
さらに数十歩。
気配が薄くなった。
音もしない。
首の後ろの冷えだけが残り、それもじわじわ消えていく。
直耶はやっと息を吐いた。
吐いた息が、ヘルメットの内側をまた曇らせた。
*
C2手前だろうか。
見覚えのある場所に出た。
通路が広い。
天井が高い。
壁の印が増える。
矢印が増え、新しい筆跡の文字が増える。
人間が何度も通った匂いがする。
湿った汗と、油と、布の匂い。
その匂いを嗅いだだけで、膝が抜けそうになった。
(……やっと⋯来た)
だが、誰もいない。
足音も声もない。
ライトの光が壁を照らし、空間の広さだけが強調されるようだった。
広い場所は、障害物で逃げ場がある。
だが、同時に――隠れる場所も増える。
直耶は中心に出ず壁沿いに進んだ。
頭のライトが壁を舐め、筋模様が光を散らす。
その中に光る何かがあった。
ヘルメットのパーツ。
胃がきしんだ。
(……これ、やっぱり⋯)
人間の探索装備。
ヘルメット。その先には迷彩服が仰向けで倒れている。
胸のロゴは――読み取れない。
砂と埃で汚れている。
動かない。
近づくな、と頭が言う。
だが、身体が止まらない。
直耶は距離を保ったまま声をかけた。
「……生きてますか」
返事はない。
ライトの輪を少しだけずらし、顔のあたりを照らそうとした瞬間。
その身体が、さらさら、と崩れた。
風もないのに、砂が流れる。
形がほどける。
服の中身だけが、空っぽになっていく。
直耶は息を止めた。
喉が鳴った。胃液が上がる。
(……吉永さんも⋯)
考えた瞬間に足が震えた。
足首の痛みが一気に現実を引き戻す。
立ち上がり、背を向けた。
見るな。
これ以上見たら、止まる。
止まったら、自分もそうなる。
前へ。
目印を追う。矢印を追う。
出口へ続くであろう人間の痕跡を追う。
――そして、見えた。
明るい光。
いつも入口にあるエレベーターとは違うが
同系統の小型エレベーターに見える。
周囲は入口ホールと似た作りに見える。
こんな場所、あっただろうか?
だが、視界がにじんだ。
泣く余裕はないはずなのに、目の端が勝手に熱くなる。
だが、ホールはいつも通りではなかった。
明るく見えたのは通路側だけで、ホールの照明はいくつか落ちていた。
壁に亀裂。
床に砂と瓦礫。
安全柵が歪んでいる。
エレベーターの扉は閉じたまま、パネル表示は暗い。
それでも――ここしかない。
ボロボロになってでも、ここへ来れた。
これで帰るしか手がない。
直耶はホールの端に背をつけ、周囲を見回した。
聞こえるのは自分の不揃いな足音と、息遣いだけだ。
無線に息を押し込む。
「……こちら境。C2付近。エレベーターホール発見。
……応答、お願いします」
『――かい――――だっ――――』
一瞬だけ、空気が割れたような声が入った。
だが、すぐノイズに呑まれる。
……偶然か。頼れない。自分でやるしかない。
直耶は操作盤へ近づき、ボタンを押す。
反応はない。もう一度。やはり無音だ。
(止まってる……?)
壁際に、非常用のパネル。
本来なら工具で開けるタイプだろう。
だが、隙間が少し浮いている。誰かが開けようとした跡だろうか。
直耶は槍の穂先を差し込み、てこの要領でゆっくり力をかけた。
足首が痛んで踏ん張れない。
腕と体重だけで、じわじわ押す。
ぎし、と嫌な音。
縁が割れて、パネルが浮いた。
指を掛けて引き剝がす。
奥には配線の束と、白く汚れたプレート。
【非常解錠】
かすれた文字の横に、赤いタグの付いた細いワイヤが見えた。
(……頼む)
直耶は二本指でつまみ、引いた。
動かない。
もう少し強く、歯を食いしばって引き切る。
ガツン、とどこかで金属が噛み合う音。
同時に、天井の非常灯がひとつ、ぼうっと点いた。
薄い光。だが、光だ。
直耶は扉の縁に指を掛け、押す。
動かない。
もう一度、体ごと預ける。
ぎ、と重い音を立てて、扉が数センチだけ開いた。
隙間から油と埃の匂いが流れ込み、下のほうから微かな風が頬を撫でた。
――外の空気に近い。
(……開いた)
ライトで中を確かめる。
箱――かご室が、ある。
床は見える。
直耶は槍を先に差し入れ、床を突いて位置を確かめた。
大丈夫そうだ。
小盾を扉の縁に当て、身体を横にして、じわりと隙間を広げた。
ようやく、人が通れる幅ができた。
片足を踏み入れると、痛みで身体が傾く。
壁に手をつき、呼吸を止めるようにして体重を移す。
――その瞬間だった。
ヒュッ。
ガン!
ヘルメットの横を何かが掠めて、かご室の壁に当たった。
金属が鳴る。石だ。投げ込まれた。
次の瞬間、背中にドスンと衝撃。
誰か――いや、何かが、肩口にぶつかってきた。
足音が、背後から一気に迫る。
爪が床を掻く音。湿った息遣い。
直耶は前だけを見て、壁を手探りした。
扉のそばに、点検口のようなな小さなハッチ。
取っ手だ!
手が震えて、うまく掛からない。
もう一度。指が引っ掛かった。
ぱき、と外れて、ハッチが開く。
中にまたプレート。薄暗い文字。
【点検/救出用操作】
【戸閉/戸開】
直耶は迷わず「戸閉」を押し込んだ。
モーターのうなり。
扉が、ゆっくり、確実に動き始める。
――その隙間の向こう。
ライトの輪に、何かがいくつも跳ね込んできた。
走る音が、ただの足音じゃない。
爪が床を掻く、軽くて速い音。
甲高い吠え声がいくつも重なっている。
照明に照らされて見えたのは、犬の頭。
毛むくじゃらの身体、子どもほどの背丈。
なのに、手に棍棒や石を握っている。
二足で走っているのが、いちばん気持ち悪い。
よだれが飛び、牙が白い。
数は――5、いや、もっとだ!
「う、うわ……!」
直耶は反射で槍を前に構える。
扉が閉まりきる――そう思った瞬間。
一体が、隙間に身体をねじ込んだ。
犬頭の口が裂けて、吠えた。
目が、光を弾いて細くなる。
「ッ――!」
次の瞬間、肩に衝撃が走る。
勢いのまま組み付かれ、直耶は仰向けに倒された。
背中を床に打ちつけて息が詰まる。
外扉がドカドカと鳴った。
外の何体かが閉じた金属に体当たりしている。
その音が箱の中で増幅されて、胃がひっくり返りそうになる。
エレベーター内は、直耶と犬頭が一体。
グルルル――喉の奥で鳴る低い音。
近い。息が獣臭くて、熱い。
よだれが頬に飛ぶ。
槍の柄を挟んで、お互いが押し合っていた。
直耶は柄を胸で押さえ、犬頭の牙がそこに届かない距離だけを必死で保つ。
だが、相手の力が妙に強い。
子どもサイズの重さじゃない。
爪が、防護ベストの表面をガリ、と掻いた。
痛みはまだないが、あれが素肌だったら――と考えた瞬間、喉が冷える。
(刺される!噛まれる!)
犬頭が槍の柄を横から噛もうとして、顔をずらした。
その一瞬、隙間があいた。
直耶は左腕の小盾を無理やり間にねじ込み、獣の鼻先を押し返した。
小盾に牙が当たって、ガッ、と乾いた音が鳴る。
腕が痺れる。
「……っ!」
右腰。ベルト。サバイバルナイフ。
直耶は槍を手放せないまま、身体を捻って鞘に指を掛けた。
手が滑る。汗と粉塵で、感覚が薄い。
犬頭が怒ったように吠え、押し込んでくる。
牙が盾の縁を噛み、ぐい、と引かれる。
盾ごと腕を持っていかれそうになる。
(今だ!)
直耶は歯を食いしばり、鞘から刃を引き抜いた。
刃が空気を切る小さな音。
その音がやけに大きく聞こえて、逆に冷静になった。
犬頭がもう一度噛みつこうと顔を突っ込んできた瞬間――
直耶は、ナイフを下から突き上げた。
顎の下。首の付け根。ここしかなかった。
ズブ、と鈍い感触。
獣の身体が、びくりと跳ねた。
「……っ、動くな!」
もう一度。深くねじ込む。
抜いて、また。
血の匂いが一気に広がって、喉の奥が熱くなる。
犬頭の力が、ふっと抜けた。
牙が盾から離れ、重みだけが直耶の胸に落ちてくる。
グルル……という音が、掠れて消え、そのまま塵になっていく。
直耶は荒く息を吐き、体を払った。
刃先が震えているのが、自分の手のせいなのか分からない。
ただ――身体が勝手に動いた。
訓練で染みついた手順が、今だけは命綱になった。
外扉の向こうで、まだドン、と音がする。
だが、手順を踏まなければ開かないはずだ。
そのときエレベーターが、きし、と小さく鳴って
――上に動き始めた。
直耶は壁にもたれ、床に座り込む。
頭のライトが金属を照らし、足元に転がる光る石を白く浮かせた。
(……生きてる……動いた)
息が熱くて、ヘルメットの内側がまた曇った。
それでも、今だけは――曇りが救いに見えた。
どれくらい上がったのか分からない。
時間の感覚が壊れている。
だが、上から空気の匂いが強くなる。
湿気が薄くなる。
音が変わる。
ガタン、と衝撃。
止まった。
次の瞬間、上の扉の向こうから人の声が漏れ聞こえる。
「……誰かいるのか!」
これは現実なのか分からない。
だが、直耶は口を開いた。
「……います。第三探索、境……」
声が掠れて、途中で咳き込む。
だが、しっかりと伝えた。
「……開けて、ください」
扉が軋む音。
光が差し込む。
外の空気が流れ込んでくる。
直耶はその光を見て、やっと――
やっと、胸の奥に張りついていたものが少しだけ剥がれるのを感じた。
立ち上がろうとして、足首が悲鳴を上げた。
それでも、前へ出た。
光の中へ。




