第17話 不運な者たちのテーブル
ブリーフィングルームの椅子は、長く座るには向いていない。
高梨悠人は背もたれに半分だけ体重を預け、右脚の付け根あたりに意識を向けていた。
……もう痛みってほどではない。
えぐれた筋肉は、今ではきちんと埋まっているはずだ。
歩く、走る、跳ぶ。検査のたびに課されるメニューは全部クリアした。
数値の上では「問題なし」。
労災や会社の保険、その他諸々があり実家の生活は落ち着いている。
オヤジも最近はよく寝られているようで何よりだ。
それでも、たまに古傷のあたりが“そこにあった痛み”を思い出したようにざわつく。
あの日、浅層の通路で、足元が一瞬消えた感覚。
鉄骨とコンクリート片と、自分の血の匂い。
…医務で佐伯センセに言われた言葉を思い出す。
「心折れず壊れず、ケガしてでも戻ってくるタイプは現場側としてはありがたいのよ。
個人的にはあまり褒めたくないけど」
ありがたいのかありがたくないのか、よく分からない評価だった。
気を取り直そう。今日から復帰だ。
リハビリがてら、訓練は行っていた。
現場の勘なんてよくわからないが、細ゴリラがフォローするって言ってるんだ。
大丈夫だろう。
ブリーフィングルームでみんなを待つ。
第三探索チーム。空いていた椅子を俺が埋めている。
俺が抜けた後もみんな見舞いに来てくれて嬉しかった。
いっつもクジ運がないラッキーも、なんだかんだ一緒にきてくれたな。
マッドはフラっと傷の様子見に来てくれたっけ。
頭の中でこっそり付けたメンバーのあだ名。
細ゴリラ、メガネのマジメ君、でっけーからダイちゃん、日向っち。
榊サンはマッド、そんでラッキー。
うっかり呼んだら地獄を見そうだとニヤついてしまう。
扉が開くと、見舞いの顔ぶれが入ってきた。
自然と笑顔になっちまう。
さぁ。今日からまた頑張って稼ぎますか!
…ってあれ?うちらB班だけじゃなく、A班もゾロゾロ入ってきた。
*
直耶は高梨の隣に腰を下ろし、壁際の席からブリーフィングルームのお立ち台へ陣取った森山を見ていた。
スっと空気が引き締まっていく。
「A班の元隊長は先日付で退職された。理由は言わなくてもわかると思うが言えん。
で、一時的にだが今日から私がA・B班両方の統括もすることになる。
合同訓練以来のメンバーもいるだろうが、よろしく頼む」
いつもの静かな顔だ。
「そして、本日から高梨が復帰だ。今までのブリーフィング内容は共有済みだが
私もフォローに回る。お互い情報共有や伝達に齟齬の無いよう気を引き締めろ。
では、ブリーフィングを開始する」
湾岸回廊の簡略図。C1、C2、その手前に赤い丸印。
さらに、C2側の中層に向かって、いくつか細い線が引き足されている。
「まずは、ここ最近の変化についてだ
浅層と中層の境目――いわゆる“境界帯候補”での遭遇記録。
新しい小型個体との交戦ログと、遺骸の砂化タイミングについて、保全班・解析班から速報が出た」
スクリーンに見たような簡略図が映る。
通路の線、その上を光点がゆっくりと移動していく。
「まず、“熊”について整理する」
森山の言葉に、室内の空気が少しだけ強張る。
「誤解のないように言っておくが――
現時点で“熊型個体そのもの”と交戦した記録は、第三探索チームにはない。
また、先を調査している最前線チームやその他チームも同様だ。」
スクリーンに、壁の写真が映る。
大きな爪痕。剥がれたコンクリ。付着した毛の繊維。
「あるのは、こうした“痕跡”だけだ。毛と、爪痕と、幾つかの破壊痕。
DNAも、地上の熊と確かに似ている部分はあるが、完全一致ではない」
その言葉に、日向が小さく息を吐く。
「ニュースで“熊型”とか騒いでるせいで、
現場であの毛を見ると、それだけで妙に緊張するんですよね」
森山は、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「名前は便利だ。 同時に、名前だけが先に走ると、足をすくわれることもある」
パッと画面が切り替わる。
今度は、砂になりかけの遺骸と、そのそばに残った骨片のスケッチだ。
「次に、小型個体について。昨日回収した骨片の解析結果が一部出ている。
榊、読み上げてくれ」
「関節構造が、地上生物のものとは一部異なります。
可動範囲が広く、“あり得ない曲がり方”ができるような設計です。
あの機動性と整合的だと考えられます」
森山がまた画面を切り替えた。
今度は、線グラフ。いくつかの点が線で結ばれている。
「問題はこっちだ。遺骸の砂化タイミングの変化だな」
棒グラフの一本が、入口近くで急激に落ちている。
「従来」と書かれたラベル。
別の一本は、通路の途中でじわじわと下がっている。
「境界帯候補」と書かれたラベル。
「これまでの浅層では、倒した個体の遺骸は――」
森山は指で一点を示す。
「回廊の入口を越えたあたりで砂化するのが大半だった。
現場では形を保っているが、対象の生死に関係なく入り口に近づくにつれ崩れる。」
前列で大熊が小さくうなずく。
「その片付けにまた人が要るあれですね」
「そうだ」
日向が苦笑混じりに言うと、森山は短く肯定しグラフのもう一方を指した。
「それが、境界帯候補とされるゾーンでは――戦闘現場周辺で砂化が始まっている。
骨の一部だけは残るが、肉や皮膚に相当する部分は、早い段階で崩れてしまう」
直耶は、自分の手の中で冷たく固まっていた骨片を思い出した。
もうあれは、手元にはない。
「そして、この状態は先日までの話しだった。
現在は回廊内全体で同現象が発生している。深度に関係なくだ。
回収班からは、“運ぶ量が減って楽になった”と、ありがたいコメントも来ている」
森山の声には、皮肉が薄く混じっていた。
「……だが、“楽になった”と片付けるには、楽観的に過ぎる。
回廊内部の条件が変化しつつある可能性は、否定できない」
室内の温度が、わずかに下がった気がした。
「上の判断として、当面――
第三探索チームの活動範囲は“最大でも中層まで”とする。
深層寄りの高難度ルートは、一時的に全部ストップだ」
誰かが、小さく息を吐く。
「その代わり」
森山は、画面の別の部分を指した。
C2へ向かう細い線がいくつも引かれている。
「浅層から中層にかけて――とくにC2方面のルート整備と情報収集を優先する。
“いつか”C2攻略に入ることを前提に、その準備を進める」
「いつか、ってどれくらいの“いつか”ですか」
A班の吉永が手を挙げて尋ねた。
森山は少しだけ間を置いてから答える。
「現時点の計画では、数ヶ月単位だ。ただし、境界帯の状態次第では前後する」
数ヶ月。
“その頃には、C2側の中層ルートの整備が一区切りついている”という意味でもある。
「具体的な編成だが――」
森山は手元の端末を見ながら続ける。
「A班は、C2側中層の事前ルート確認と安全度評価。
吉永は、その中でも“北側ルート”の担当だ」
「了解です」
吉永があっさりと答える。
「B班は、浅層から境界帯手前までの“輪郭取り”を継続。
境界線をどこに引き直すかの目安を増やす。
同時に境、お前は近接武器の訓練も入れる。気を抜くなよ」
森山の視線が、ふと直耶の方を掠めた。
「境界線の手前で“嫌な感じ”を拾ったら――
昨日と同じだ。半歩出て、一歩下がれ」
直耶は小さくうなずいた。
「……はい」
「ほかに質問は?
………よし。
A班は三十分後に装備室、B班は午前は訓練、午後に簡易ブリーフィングだ。解散」
椅子が動く音が、一斉に重なった。
*
午前の訓練メニューには、ここ最近「近接武器」の項目が少し増えていた。
とはいっても本物の武器ではなく、重さだけ本番に寄せた樹脂製の棒とダミーシールドだ。
構え方、間合いの詰め方、下がり方。
斬るでも突くでもなく、「押し返す」「いなす」を前提にした動きが中心になる。
「境、もう半歩だけ後ろで構えろ。
前に出る前提なのは分かるが、戻る位置も決めておけ」
指導役の隊員にそう言われ、直耶は足の位置を何度か調整した。
通路で大熊の盾の後ろに立つときの距離感を、訓練場の白線の上でなぞるように確かめていく。
「……前に出る練習なのに、下がる練習ばっかりですね」
こぼすと、指導役は少し笑った。
「前に出るのはどうにでもなる。
問題はどうやって無事に戻るかの方だ」
汗で手のひらに貼りついた訓練用グリップを握り直しながら、直耶はその言葉を反芻した。
訓練後の食堂は、いつも通り騒がしい。
金属トレーがぶつかる音と、テレビから流れるニュースの音声と、人の声がごちゃ混ぜになっている。
直耶はトレーを持ったまま視線を走らせ、見慣れた顔ぶれのテーブルに向かった。
「境、こっちこっち」
日向が手を振る。
大熊と三宅がすでに座っていて、その向かいには、高梨が足を投げ出すようにして腰掛けていた。
「……先に食べ始めてたんですね」
直耶が腰を下ろすと、高梨がにやりと笑う。
「おう。訓練サボってまでメシ食うほど堕ちちゃいねーよ。
ちゃんとメニューこなしてから来てんだよ、こっちは」
テレビでは、ちょうど「回廊で人生逆転!」みたいなテロップが踊っていた。
若い探索員の笑顔と、スポンサー企業のロゴ。
「出た出た…『夢を掴め! 回廊でセカンドチャンス!』」
「うわ……」
日向が眉をしかめながら、ナレーションが元気よく叫ぶのに合わせるように言う。
三宅が小さく苦笑した。
「現場の人間に見せる番組じゃないですね、これ」
高梨がテレビを顎で指す。
「なあ、俺ら、ああいう“チャンスを掴んだ側”って顔に見えるか?」
テーブルに視線が集まる。
誰もすぐには答えない。
「……そもそも、ここにいる時点で、そこそこ不運だと思いますけどね」
三宅がぽつりとこぼした。
大熊が、スプーンを置いて静かに頷く。
「まともな運の持ち主は、わざわざこんな穴には潜らんよ」
「じゃあ、自己紹介します?」
日向が肩をすくめる。
「“みなさん、不運な者同士、よろしくお願いします”って」
「それ言うならまず、お前からだろ」
高梨が日向を指さす。
「はい自己申告、不運ポイント」
「うわ、雑」
日向は一瞬嫌そうな顔をしたが、すぐに観念したように息を吐いた。
「……資格試験、三連続で落ちました。
地元の仕事も全部タイミング逃しました。
残った選択肢がここだけでした。以上です」
「はい、立派な不運」
高梨が満足そうにうなずく。
「三宅は?」
「研究費、全部切られました」
「淡々というねぇ」
「ラボごと畳まれて、職場がなくなりました。
“回廊関係なら予算つけやすいですよ”と言われて採用されました。
喜ぶべきかどうかは今も迷ってます」
「大熊さんは?」
日向がふる。
「俺か」
大熊は少しだけ目を伏せた。
「ギリギリまで現場にしがみついて、組織とケンカして、職を失った。
それでも“鍛えた体の使い道はありますよ”と勧誘された先がここだった」
「……だいたい全員、人生このタイミングって感じだな」
高梨が笑う。
「じゃ、俺のターン」
彼は自分の右腿を軽く叩いた。
「ここ来る前に推薦飛ばしてんだよ、俺。
“ここでこける?”ってとこで、きっちりこけた」
日向が少し呆れたように笑う。
「誰がいちばん不運か競ってどうするんですか」
「で、トリは境」
高梨の視線が、真正面から直耶を捉えた。
「お前、自分では“普通”だと思ってそうだから、一回整理しとけ」
「……えーっと」
直耶はパンをちぎりながら、言葉を探す。
「普通に就活して……普通に全部ダメで……。
たまたま説明会で回廊の話を聞いて、“まあ話だけでも”って――」
「たまたまね」
高梨が口の端を上げる。
「その“たまたま”の数が多すぎるって話をしてんだよ。
電車の遅延、面接日程のズレ、受けた会社が全部不景気直撃。
訓練のときも、雨の日担当率、高かったよな?」
「雨は……まあ、確かに多かった気はしますけど」
「境、あんたさ」
日向がスープのスプーンをくるくる回しながら言う。
「不運っていうか、“悪い目に当たり続けて、なぜかギリギリ死なない人”って感じなんだよね」
「そんなひどい定義あります?」
直耶が苦笑すると、大熊までがわずかにうなずいた。
「分からんでもない」
三宅も、真面目な顔のまま口を開く。
「訓練データ見てると、境さん、わりと“ギリギリライン”を踏んでる回数が多いんですよ。
でも全部、“致命傷にはなっていない”。統計的には、ちょっと不思議な偏りです」
「……フォローになってる気がしないんですが」
直耶がぼやくと、高梨が笑い声を立てた。
「いいじゃねえか。不運続きで、ギリギリで戻ってくる。
なんとなく、"らしい"だろ、お前さん」
それから、少しだけ真顔になる。
「でもまあ――」
パンをちぎって口に放り込みながら、高梨は言う。
「相変わらずの運で安心したぜ」
「安心、ですか」
「“急に全部上手く行き始めた境”とか、逆に怖いだろ。
どうせまたどっかで転ぶ。それなら、見える範囲で転んでくれてた方がマシだ」
言い方は乱暴だが、そこにあるのは妙な信頼だった。
(……そういうもんだろうか)
直耶は曖昧に笑う。
食堂のテレビでは、まだスポンサー企業のロゴが流れている。
「夢を掴め!」「セカンドチャンス!」
そんな言葉たちと、テーブルの上の現実の距離が、やけに遠く感じられた。
*
食堂を出て廊下を歩いていると、少し前を歩く吉永の背中が目に入った。
A班のベテラン。
いつもは淡々とした足取りだが、今日は少しだけ急ぎ足に見える。
「吉永さん」
直耶が声をかけると、吉永は振り返った。
「お、境。どうした?」
「さっきブリーフィングで、C2側の話が出てましたよね」
「出たな。“数ヶ月先のいつかに向けて、せっせと下準備お願いします”ってやつ」
吉永は苦笑する。
廊下の端に寄り、他の隊員の邪魔にならないように並んで歩く。
壁にはホワイトボードが貼られていて、いくつもの予定が色ペンで書き込まれていた。
「“C2北側ルート事前確認”……これ、吉永さんのラインですよね」
「そう。ここからここまで」
直耶がそう言うと、吉永はボードのその部分を軽く指で叩いた。
C2に向かって伸びていく線。その途中に、いくつか小さな丸印がついている。
「なんか、橋の点検してる気分になるんだよな」
吉永がぼそっとこぼした。
「崩れる前の橋を、ずっと見てる感じ。
いつか誰かが本格的に渡るんだろうけど――
そいつが俺らなのかどうかは、実は誰も決めてない」
「……それでも、整備はしないといけない」
「そういうこと」
吉永は肩をすくめる。
「境はどうよ。境界帯の“手前”専門って、どんな気分だ」
「……正直に言うと、得した気分にはならないです」
直耶は少し考えてから答える。
「踏み込みすぎないようにって言われてるのに
一番“踏み込みたくなる場所”のギリギリに立たされてる感じがして」
吉永は、なぜか満足そうに笑った。
「でもさ。境界線の手前って、一番“戻りやすい場所”だと思うんだ」
「戻りやすい……」
「何かを感じて半歩下がるって、実はけっこう難しい。
足を止めない訓練をしてきたやつほど、余計にね」
吉永自身、かつてはそういう訓練を積んできたタイプなのだろう。
「お前はさ、“なんか嫌だ”を言語化して戻ってくるタイプだろ。
新隊長殿から聞いてるぞ。それ、ここじゃ案外、貴重なんだよ」
「俺だけの話でもない気もしますけど」
「まあな」
吉永は笑う。
「でも、“お前ならしゃーないな”って思えるやつが先頭にいるのは、結構大事なんだわ」
直耶は、その言葉の意味をすぐには咀嚼できなかった。
“しゃーない”の中に含まれているものが何なのか。
「吉永さーん!」
少し離れたところから、A班の別の隊員に呼ばれる。
「おっと。話の続きは、また今度な」
吉永は軽く手を挙げて走り出した。
右肩に掛けた装備バッグが、リズムよく揺れる。
直耶はしばらく、その背中を見送っていた。
◇
寮の部屋に戻ると、高梨はすでに上段のベッドに寝転がっていた。
天井を見たまま、片手だけをひらひらと振る。
「おかえり。吉永さんと話してたみたいだけど、なんか言ってた?」
「……橋の点検をしてる気分だって」
直耶は靴を脱ぎながら答えた。
「崩れる前の、って」
「うわ、縁起でもねえ」
高梨はそう言いつつも、声色はそこまで暗くない。
「でもまあ、そんなもんか」
直耶は机の引き出しからノートを取り出した。
大学時代の余りのノートに、細々と書き足してきたメモ。
今日のブリーフィングの内容。
境界帯の話。
遺骸砂化のタイミング。
C2側ルートの話。
吉永の言葉。
「そういえばさぁ、こないだの――」
「あぁ、それは――」
なんでもない会話が続いていく。
これから賑やかな夜になりそうだ。




