第1話 エントリーフォームはこちら
——回廊の猛者は、人生の猛者。
画面の中で、筋骨隆々の男が笑っていた。
迷彩柄のジャケットに、胸元には大きく「CORRIDOR JAPAN」のロゴ。
『あなたのつらい人生を、一発逆転!? 回廊探索者募集——高報酬、手厚い保障。未経験者も大歓迎です』
テンションの高いナレーションと一緒に、キラキラしたテロップが躍る。
元フリーターから一転、今は“回廊インフルエンサー”と紹介された男が
カメラに向かって親指を立てた。
『俺、昔はガチで底辺でさ。借金もあって、家賃も払えなくて——
でも、回廊に潜って人生変わりました。
迷ってる奴は、一歩踏み出した方がいい。マジで』
ワンルームの古い天井を見上げながら、境 直耶はソファにもたれた姿勢のまま、小さくため息をついた。
「……はいはい、人生逆転ね」
目の前のローテーブルには開きっぱなしの通帳と、奨学金返済の案内の封筒。
それから、病院の領収書。
テレビの音量を少し下げて、チャンネルを変える。
ニュース番組でも、やっぱり回廊の話をしていた。
『続いての話題です。本日、第七湾岸回廊において、日本チームが公認到達ゾーンを更新——』
「おお、また潜ったのか」
アナウンサーの明るい声に被せるように、解説者が早口で続ける。
『ええ、これで日本の“公認到達ゾーン”は世界でも上位ですね。
回廊関連産業も伸びていまして、国内景気の押し上げ効果が——』
スタジオのグラフには、右肩上がりの棒グラフが並んでいる。
回廊産業、装備メーカー、医療、保険。
『従来の重火器や大型兵器が回廊内部ではほとんど正常に機能しないため、
各国は歩兵と近接装備を中心とした“探索部隊”に予算を振り向けざるを得ません。
もともと軍事費やエネルギー開発に回っていたお金が、今は回廊探索と、その成果を使った新素材・新薬の研究に流れている形です』
解説者は、さらっとそう付け加えた。
テレビの中では、世界が回廊で明るくなっていく。
テーブルの上では、通帳の残高が静かに沈んでいた。
*
翌日、病院の待合室はいつものように白くて、静かで、妙に時間が遅かった。
番号札の電光掲示板が一つずつ数字を変えていく。
ふと目をやった雑誌コーナーには「回廊帰りのお医者さんの挑戦」なんて特集の見出しが見えた。
白衣のイケメンが表紙を飾り、さわやかな笑顔で直耶を見ていた。
「境さーん、診察室四番どうぞー」
看護師の声に立ち上がる。
隣で母も、少し息を切らしながら立ち上がった。
痩せた肩が白いカーディガンに埋もれている。
診察室の中。担当医は無表情なプロの顔でパソコンの画面を見つめていた。
「……うーん、やっぱり、あまり良くはないですね」
さらりと言う。母は小さく笑って、「ですよね」と返すだけだった。
「数値だけ見ると、今すぐどうこうというレベルではないですが——
このままだと確実に悪化します。
投薬を少し増やしましょう。それと、検査も——」
医師が説明する間、直耶は手元のメモ用紙に、必要な単語だけを書き込んでいく。
検査頻度:月1→月2。
薬:1種類追加。
費用:診察+検査+薬で、おおよそ——。
「だいたい、このくらいの負担になりますね」
出された数字を見て、喉の奥に何かが引っかかった気がした。
そんな顔を見せまいと、無理に口角を上げる。
「……まあ、なんとか、します」
診察室を出て会計を待つ間、母はいつも通りの調子で話しかけてくる。
「ごめんね、直耶。あんたにも仕事あるのに、付き合わせちゃって」
「いいよ、どうせ休みだったし」
「お父さんも来るって言ってたんだけどね、ハローワーク寄るって。
真面目な人だからさ、ああいうのちゃんと行かないと気が済まないんだよ」
「……うん」
父は真面目だ。たぶん、真面目すぎるくらい真面目だ。
だからこそリストラされたとき、そのまま折れてしまった。
「それにしても、最近はどこも回廊回廊ってうるさいねえ。
この前、病院のテレビでも特集してたよ」
母が笑いながら言う。
「“回廊帰りの人は運がいい”って、変なこと言ってたわよ。
病気も治るかも、なんて」
「……迷信だよ」
反射的に口ではそう言った。けれど、頭のどこかで、その言葉がしつこく残っている。
運がいい——。
いつから、自分はそれと真逆の位置にいると確信するようになったんだっけ。
*
バイト先のコンビニは、夕方前なのに妙にざわついていた。
「境くん、ちょっといい?」
品出しをしていると、オーナーに呼び止められる。
狭い事務所の中で、汗ばんだ顔のオーナーが申し訳なさそうに頭を掻いた。
「いやあ、その……店、来月いっぱいで閉めることになってさ」
「……は?」
言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。
「土地の更新がね、ほら、地主さんの都合で高くなっちゃって。
チェーン本部とも話したんだけど、この売上だと、ちょっとねえ」
オーナーは、あくまで「仕方ないんだよ」とでも言うように、両手を広げて見せる。
「で、シフトの方も徐々に減らしていくことになるからさ。
境くんも、次探した方がいいと思う」
「……わかりました」
わかりました、としか言えない。
こんなこと、今回が初めてじゃない。
大学を辞めた後、必死で探したバイトが三ヶ月で潰れたのも。
やっと慣れてきた倉庫仕事で、フォークリフト事故が起きたのも。
その日、たまたま「境くん、こっち手伝って」と言われて、ぎりぎりのところで巻き込まれなかったのも。
毎回、「たまたま」を言い訳にするには、少しずつ目に余る回数だった。
「……はあ」
勤務中に、三回目のため息をついたところで、カウンター側からベルが鳴った。
「すいませーん!」
入ってきた中年男は、いかにも面倒そうな客だった。
スーツのネクタイを緩め、顔は赤く、手にはビール缶。
会計を済ませるときに、レジ袋の有無を聞いただけで、男は顔をしかめた。
「なんだその態度。最近の若いのはほんと——」
そこからは、よくあるパターンだ。
店長を出せ、接客がなってない、教育はどうなってる——。
他のスタッフが同じことを言っても笑って済ませる客が、直耶には噛みついてくる。
オーナーに頭を下げさせられ、形だけの謝罪をして、やっと客が出ていったあと。
バックヤードで一人になって壁にもたれかかる。
「……俺、何かしたか?」
声に出してみても、空気が重くなるだけだった。
*
夜、実家で夕飯を囲む。といっても、父はまだ戻っていない。
テーブルの上には、スーパーの特売シールが貼られた総菜が並んでいる、ウチではよくある食卓の顔ぶれだ。
「今日ね、学校でさ——」
妹が、高校での出来事を楽しそうに話している。
来年の進路の話、こないだ配られた奨学金の案内。
「最近の奨学金、返さなくていいやつも多いんだって〜。
成績よかったら免除とかさ!
昔と違うんだよ」
無邪気に笑いながら言う。
「へえ、いい時代だね」
グラスの水を口に運びながら、直耶はそう答えた。
昔と違う。
それはつまり、自分が借りた奨学金にはそんな救いはなかったということでもある。
食後、母が皿を洗っている間、リビングのテレビからニュースが流れてきた。
『回廊探索者出身の起業家が、回廊由来物質を用いた新薬の開発に成功。
臨床試験も順調で——』
『回廊関連プロジェクトの成功率は、非関連プロジェクトより有意に高いという研究結果も出ています』
キャスターが笑顔で言う。
『専門家は「リスクを取って挑戦する人材が集まることで、成功の芽が増えるのでは」と話しています』
「リスクねえ……」
ソファに座り直し、リモコンを握る。
チャンネルを変えても、似たような特集が続くばかりだ。
『戦争のない時代へ——
今、各国は“回廊”へと競争の舞台を移しています』
『日本も例外ではありません。“第七湾岸回廊”への投資は、
かつて軍備拡張に使われていた予算の一部を振り替える形で行われており——』
画面の隅に、「回廊探索者募集」のテロップと、QRコード。
どのチャンネルを回しても、回廊、回廊、回廊。
「……うるせえな」
小さく呟いてテレビを消した。
テーブルの上には、また別の封筒が置かれていた。
母の字で、丸い文字で「奨学金」と書いてある。
開ければ返済督促と、今後の返済計画の見直し案。
丁寧な言葉で、「今後も遅れないように」と書いてある。
父はまだ帰ってこない。
玄関の方から、風の音だけが聞こえた。
*
数日後、ハローワークの掲示板の前で、直耶は立ち尽くしていた。
求人票の列には時給いくらのバイトや、見慣れた「契約社員募集」の文字。
その横に、一枚だけ異様に目立つポスターが、やたら色鮮やかに目に入ってきた。
——【回廊関連特別説明会】
——元フリーターでも参加可
——訓練費用は全額公費負担
隅には、見慣れたキャッチコピー。
回廊の猛者は、人生の猛者。
あなたのつらい人生を、一発逆転——。
「……ダサ」
思わず口から漏れる。
だけどそのダサさが、逆に妙に刺さる。
ターゲットが誰なのか、あまりにも分かりやすいからだ。
ポスターの下の方に、小さく日付と会場名が書かれていた。
「……今日、か」
予定は、バイトのシフトが削られたおかげで空いている。
立ち止まって考える時間がほんの数秒——。
気付いたときには、会場名と地図の写真をスマホに撮っていた。
*
区のホールの一室には、思ったより人がいた。
スーツ姿の若い男。
作業着のまま来た中年。
髪の色が明るい兄ちゃん。
明らかに不安そうな顔の女の子。
年齢も雰囲気もバラバラだが、どこか共通して感じるこの感覚。
「行き場のなさ」を皆が抱えているように見えた。
前方のスクリーンには、「回廊探索者 特別募集 説明会」とタイトルが表示されていた。
キィィン————
音の方に目をやれば、黒スーツにネクタイの担当者がマイクを片手に笑顔を張り付けていた。
「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。
回廊管理局・人材開発課の——」
内容は、テレビで見たものの延長だ。
——危険だが、その分高報酬。
——医療・保険・遺族保障も完備。
——未経験でも訓練で基礎から教える。
——国家を支える、誇りある仕事。
スライドには、ヘルメットと防具に身を包んだ探索者たちの写真が並ぶ。
笑顔で手を振るチーム。
無線機を持つオペレーター。
最前線のヒーローたち。
「また、回廊から戻った方々はその経験を買われ、
民間企業からの採用オファーも多く——」
担当者は一枚、スライドを切り替えた。
《報酬と財源》
・国の回廊特別予算(旧・軍事費やエネルギー予算の一部)
・民間企業からの共同探索・試料提供の委託料
・成果に応じた成功報酬ボーナス
「皆さんの基本給や危険手当、医療保障、遺族年金などは、
国の“回廊特別予算”から支払われます。
もともと戦車やミサイルに使われていたお金が、こちら側に回ってきていると思ってください」
会場から、微妙な笑いとざわめきが起きる。
「さらに、探索の成果として持ち帰った“回廊由来物質”を、
医療・素材・エネルギーなどの企業が買い取り、その委託料の一部が“成功報酬”として皆さんに還元されます」
スライドには、“基本給”“危険手当”“成功報酬”と書かれた棒グラフと、
その下に小さく「※成果は保証されません」の文字。
「もちろん、全員が大きな成功報酬を得られるわけではありません。
ですが——チャンスはあります」
うまい話ばかりだ、と途中までは思っていた。
説明が一段落したところで、「何か質問はありますか?」と担当者が言うと、後方から手が挙がった。
「回廊帰りは、運が良くなるって本当ですか?」
若い男の声。会場に笑いが起こった。
担当者も苦笑いだ。
少しだけ間を置いて質問に答える。
「いやあ、ネットでもよく言われてますね、その話」
スクリーンには「FAQ:よくある質問」と書かれたスライド。
「公式には、『そういう事実は確認されていません』というのが答えです。
ええ、統計的にも、“運が良くなる”というのは、なかなか測れませんから」
会場から、少し失望混じりの笑い。
「ただ——」
担当者が、言葉を選ぶようにして続けた。
「回廊に挑戦して、生きて帰ってきた人が“人生を掴む”確率は——
確かに高いように見えます」
スクリーンに、成功者たちの笑顔がまた映る。
「挑戦する人は、それだけチャンスを引き寄せる。
それを“運が良くなった”と呼ぶかどうかは、皆さん次第かもしれませんね」
うまいこと言ったつもりなのだろう。
前方の席の何人かが頷いている。
直耶は、窓の外に目をやった。
曇り空。ホールの外の道路を、救急車がサイレンを鳴らして走っていく。
——運が良くなった、ね。
フォークリフト事故の現場。
人身事故で止まった電車。
中止になった大会。
閉まるバイト先。
悪化していく母の数値。
自分はいつも、いい方の流れから外れている気がしていた。
あるいは、うまく行きそうなタイミングで限って、何か別の要因で押し戻される側。
もし、本当に“流れ”を変えられる場所があるのだとしたら。
——それが、回廊なのだとしたら。
「では、希望される方は、この後の個別面談で——」
説明会は、淡々と終わりに向かっていく。
退出の案内が流れ始めたところで、直耶は立ち上がる人の波を避け、
壁際に貼られたポスターを見上げた。
回廊の猛者は、人生の猛者。
ダサいキャッチコピー。
でも、ターゲット——つまり自分みたいな人間——に向けて放たれているのは、よくわかる。
ポスターの隅に、小さく「応募はWEBまたは窓口で」と書かれていた。
*
帰り道の電車の中、スマホの画面に「回廊探索者 募集」と入力している自分に笑ってしまう。
公式サイトが出てきて、さっきの説明と同じような言葉が並んでいる。
スクロールしていくと、「エントリーフォームはこちら」というボタン。
親指が、その手前で止まる。
(バイト、切られる)
(家賃)
(奨学金)
(母さんの治療費)
(父さんの再就職はいつになるか分からない)
頭の中で、数字と締め切りがぐるぐる回る。
回廊に行きたくなんかない。
殴り合いも、血を見るのも、怖いに決まっている。
だけど——。
『回廊帰りは、なんか運が良くなるらしいぞ』
ネットの匿名掲示板で、何度か見た書き込み。
馬鹿馬鹿しいと一蹴したその言葉が、今はやけに重く感じられる。
(どうせ、このままでもじわじわ詰むだけだ
だったら——)
車内アナウンスが、次の停車駅を告げる。
(だったら、一回くらい賭けてもいいだろ)
息を吸って、吐いて。「エントリーフォームはこちら」をタップした。
氏名、年齢、連絡先。
学歴と職歴。
健康状態。
画面の下に、「危険性について理解しました」のチェックボックス。
チェックして、送信ボタンの前で指が止まった。
戻ることはできる。
今なら、まだ「やっぱりやめた」で済む。
けれど、それを続けてきた結果が、今のこの通帳の数字で。
この家のため息の数で。
「……っ」
目を閉じて、送信ボタンを押した。
ぴろん、と軽い音がして、「応募を受け付けました」というメッセージが表示された。
世界は、何も変わらない顔をして揺れる。
変わったのは自分の中の「もう後戻りできない」という感覚だけだった。
*
数週間後。梅雨明け前の、湿気を含んだ朝。
回廊管理局・訓練センターの門の前に、ジャージ姿の人間が十数人、固まって立っていた。
直耶も、その一人だ。
胸には、支給されたばかりの名札。
「研修生 境 直耶」の文字が妙に薄っぺらく見える。
門の向こう側にはグラウンドと鉄筋コンクリートの建物。
敷地の先には遠く薄く、巨大なコンクリートの壁とその奥に口を開けた暗い穴が見えていた。
——第七湾岸回廊の入口。
「ほら、並べ並べー。点呼取るぞー」
教官らしき男の声が飛ぶ。言われるままに、研修生たちが列を作る。
走り込み、筋トレ、護身術。
募集要項にはそんな言葉が並んでいた。
これから数週間、その地獄を味わうことになる。
——それでも、ここに来るしかなかった。
「……おい、それ以上詰めんなって。窒息するぞ、お前ら」
列の後ろから別の声。
振り向くと、日焼けした顔に無精髭。
だらしなく見えるのにどこか隙のない男が歩いてくる。
年は三十前後だろうか。
ジャージではなく、簡素な防具ベストにスニーカー。
首から下げたカードには「第三探索チーム 森山」と書かれている。
教官とは違う、“現場”の匂いがした。
「今日からここに来た研修生は——十……何人だ、これ。まあいいや」
森山と呼ばれた男は、列をざっと眺め、欠伸を噛み殺した。
「俺は森山。
現場の三番隊のリーダーやってる。
お前らの何人かは、そのうち俺のところに回ってくるかもしれん」
軽い口調なのに、目だけは笑っていない。
「覚えとけ。ここは“根性のある奴”が生き残る場所じゃない」
少しだけ間を置いて、言い直す。
「————————“運のいい奴”が、生き残る場所だ」
一拍置いて、ニヤリと歯を見せた。
その言葉に、胸の奥がびくりと震えた。
運——。
自分が、最も遠ざけられてきたもの。
周りの研修生たちは、「はは」と軽く笑って流している。
だが、直耶の耳には、妙にクリアに響いたままだった。
「ま、心配すんな。
どっち側かは、潜ってみりゃそのうち分かる」
森山はそう言って肩をすくめると教官に何か小声で話し、
手をひらひらと振って建物の方へ歩いていった。
動き出した列の中で直耶は拳をぎゅっと握りしめる。
——運のいい奴と、悪い奴。
自分がどっちなのか。
回廊が、それをどう判定するのか。
もう戻る選択肢は、どこにもない。
足元の土を踏む感触だけが、現実感を確かめるように伝わってきた。




