第15話 動く躰
直耶は、胸のざわつきがまだ完全には消えていないことに気づいていた。
昨夜の夢の中で踏んだ、ざらついた足場。
見えない闇の中で、一歩踏み出したときの“変に滑らかな”身体の動き。
目が覚めても、その残りかすだけが筋肉の奥に引っかかっている。
(……夢だろ)
自分にそう言い聞かせながらも、足は勝手に回廊のリズムで歩いていた。
今日のルートはC1からC2手前の周辺確認。
正式な調査班がC2付近に入る前に、“いつも通りかどうか”を確かめるのが仕事だ。
森山を先頭に、盾を構えた大熊。
そのすぐ後ろに直耶と日向、少し引いた位置に三宅と榊。
最後尾を吉永が固める、いつもの布陣。
今日はB班のみ。
装備の重さも、ヘルメット越しの呼吸音も、今日に限っては妙に遠く感じる。
その違和感を押し込むように息を吐いた瞬間、前方の空気がぐっと張りつめた。
獣の匂いがした。
「前方、動体」
隊長の声が硬い。
その一言で、隊の足が止まる。
ライトの輪の外、通路の暗がりが揺れた。
影が三つ、床を這うように姿を現す。
骨格が細く、動きが異様に速い。
角のような突起が肩から伸び、頭部と背中の境目あたりが不自然に盛り上がっていた。
「距離約15。初見だ。注意。」
榊が端末を構えかけるより早く、一体が側壁を蹴って跳ね上がった。
影が天井に貼りついたかと思うと、真上から落ちてくる。
「下がれ!」
大熊が反射的に盾を強く押し出す。
——ゴギンッ!ギャン!
何かが折れる音と獣の悲鳴が重なった。
「大熊さんナイス!」
日向の声が踊る。
そんな中、先ほどの軌道が直耶の胸の奥のナニカをくすぐる。
——まただ。
夢の中で見た、跳ね上がる影。
あのときの“嫌な角度”と、ほとんど同じ重さで迫ってきた。
色は違う。だけど。
森山と榊、三宅が警戒しながら一体目を囲んでトドメを刺している。
大熊と日向は二匹を牽制中だ。
そんな中、体の方が、先に思い出した。
「境っ!?」
日向の叫びが、どこか遠いところから聞こえた。
直耶は前に出ていた。
自分でも制御しきれないほど滑らかに、右へ重心をずらし、
大熊の盾の内側へ滑り込む。
爪が頬をかすめる。
薄い火花のような痛みとともに、ヘルメットの縁が軽く揺れた。
足元で何かが砕ける音がした。
床に転がるのは、角の根元のような白い破片。
大熊が折ったものだ。
直耶の手が、それを拾い上げていた。
乾いた骨の手触り。
手槍にするには心もとない長さなのに、不思議と重心が手に馴染む。
——使える。
意識より先に、足が通路を蹴った。
二体目が横から回り込んでくる。
床に爪を引っかける音が、やけに薄く聞こえた。
それでも身体は止まらない。
角片を握りしめ、獣の腹の下をくぐるように滑り込み、
横腹に向けて横殴りに叩きつける。
骨を叩いたはずなのに、手に返ってくるのは、どこか空洞を突いたような感触だった。
獣の体が一瞬ひしゃげ、低い声が漏れる。
「境、戻れ! 下がれ!」
大熊の怒鳴り声。
直耶の耳には、さらに遠くなって届いた。
反響がおかしい。
昨日の広場ほどではないが、“音が遠くまで行かない”。
今の戦闘音は、全部この場から数メートルの中で押しつぶされているようだった。
三体目が、今度は真っすぐ直耶に向かって突っ込んでくる。
膝をわずかに折り、身体を開きながら角片を逆手に持ち替える。
——ここ。
肩口と首の境目。
急所だと、何の根拠もなく分かった。
獣が跳躍する。
直耶は半歩だけ後ろに引きながら、その肩に角片を突き立てた。
勢いを殺しきれなかった獣が、そのまま横へ逸れて壁に叩きつけられる。
砂利をまき散らすような音。
細かい破片がライトの中に舞う。
「—っ!っは!っは!はぁ!」
そこでようやく、時間が追いついてきた。
呼吸をしないまま戦っていたことに気づき、肺が勝手に酸素を求めて暴れ出す。
直耶は角片を握りしめたまま、何度か浅い呼吸を繰り返した。
「——っぶねぇだろおまえ!」
遅れて日向が駆け寄ってくる。
「境! なに突然やってんの!?」
近くで見ると、日向の手も小刻みに震えていた。
声が少し裏返っている。
「……はぁっ!はぁ、はぁ⋯す、すみません」
直耶はそれしか言えなかった。
「“すみません”で済むかっての。今の、一歩間違えたら両方まとめてやられてるよ」
怒っているが、それ以上に“怖かった”が混じっている。
そういう声だった。
三宅が追いつき、角片を見つめる。
「それ……さっきの角ですか」
「たぶん」
「たぶん、って」
三宅は苦笑に近い息を漏らし、すぐ表情を引き締めた。
「境さん。あの動き、訓練記録にはありません。
僕、横で見てて……正直、ぞっとしました」
「……自分でも、よく分かりません」
直耶は正直に答えた。
意図してやったわけではない。
夢の通りに動いた、という言葉が喉元まで出かかって、飲み込む。
通路に残っていた獣の残骸は、砂の山のように輪郭を崩し始めていた。
ところどころに、白い骨片のようなものが混じっている。
榊が近づき、小さなピンセットで残渣の一部をつまんで検査箱に入れた。
「……やっぱり、地上の骨のデータとは合うものは不明ですね。似てはいるけど、完全な一致ではないです。
異常には慣れているつもりですが、まさか遺骸が崩れ消えるなんて」
「⋯今までは、こんなことなかったですよね?」
日向が眉をひそめる。
「はい。ハッキリと異常です。素材だけ残して消えるなんて都合が良すぎますね」
「⋯隊長、報告に戻りましょう。」
榊の言葉に三宅が返す。
直耶は、まだ手の中の角片から意識を離せないでいた。
さっきまで獣の一部だったものが、いま自分の手の中で静かに冷えている。
(……なんで、これだと思った)
床には他にも破片がいくつか散らばっていた。
なのに、自分は迷わずこれを拾い、迷わず振り回した。
「境」
森山の声が飛んでくる。
「はい」
直耶は姿勢を正した。
「怪我は」
「かすり傷だけです。頬と……少し腕を」
「後で医務に行け。消毒だけでもしてもらえ」
「了解です」
森山は頷き、通路全体を見渡した。
「残渣は十分取れた。これ以上深入りはしない」
榊が端末を見ながら言う。
「反響値、この一帯だけ落ちてますね。
音の減衰がさっきの戦闘前から少し変です。昨日の広場ほどではないですけど」
「……境」
また名前を呼ばれ、直耶はわずかに身構えた。
「さっきから、何か感じているか」
訊かれてようやく、自分がずっと胸のざわつきを抑えようとしていたことに気づく。
「……さっき、あの三体が見えたときから、音が軽い感じがしてました。
足音も、声も、すぐ近くで折れてるというか。昨日の広場ほどじゃないですけど」
日向が小さく相槌を打つ。
「私も、いつもより静かだなとは思った。あんまり言いたくなかったけど」
三宅も端末から目を離し、短く言う。
「“聞こえ方がおかしい”って意味なら、僕も同意です」
森山はしばらく黙ってから、判断を下した。
「……撤退する。今の状態で進むのは得策じゃない。何より遺骸が消滅した。戻るぞ」
その声は、いつも以上に迷いがなかった。
隊列が組み直される。
大熊が盾を前に出し、日向と三宅がその後ろにつく。
直耶は角片を握り直し、腰のベルトに固定した。
今は手放す気にはならなかった。
通路を戻り始めると、少しずつ音が“厚み”を取り戻していく。
靴底が床を打つ音、装備と装備が触れ合う音。
いままでは当たり前すぎて意識しなかったものが、やけに鮮明だった。
(……さっきまでは、やっぱりどこかヘンだった)
その違和感が、今になってじわじわと怖くなる。
「境」
後ろから大熊に呼ばれる。
「はい」
「さっきのは、褒められた動きじゃない。だが、助かったのも事実だ」
大熊は視線を前に向けたまま、淡々と言う。
「謝るのは、全部終わってからにしろ。今は歩け」
「……すみません。ありがとうございます」
「だから謝るのはあとでって言ってるだろ」
言葉だけ聞けば叱られているのに、声の温度はどこか柔らかい。
直耶は苦笑しそうになるのを抑えた。
日向が小声で割って入る。
「境、頬に血ついてる。帰ったらちゃんと見てもらいなよ。あと、その骨」
角片を顎で指す。
「……それ、正直、あんまり好きな見た目じゃないんだけど」
「俺も、です」
「なのに、けっこう自然に振り回してたよね。そこが怖いんだってば」
三宅が前を見たまま口を開く。
「境さん。さっきの反応速度、数値で見たらきっと“良い”評価になると思います。
でも、現場で見ていた僕としては、“良い”だけでは片付けたくないです」
「……怖かった?」
「はい。境さんだけ、違うルールで動いているように見えたので」
その言い方が妙に真っ直ぐで、直耶は返事に困った。
否定しようとしても、さっきの自分の動きに自分で説明がつけられない。
「……俺も、あんまり自信ないです」
そう答えると、三宅は少しだけ息を抜いた。
「その自覚があるうちは、まだ大丈夫だと思います」
「それ、褒めてます?」
「境さん相手には、たぶん褒めてます」
日向が笑いをこらえきれず、ヘルメットの中で肩を震わせていた。
地上に戻るエレベータ内で、直耶は自分の手のひらをじっと見た。
グローブ越しなのに、骨の冷たさがまだ残っている気がする。
夢の中の足場。
静かな広場。
音の届かない通路。
跳ね上がる影と、勝手に動いた身体。
全部バラバラの出来事なのに、一本の線で繋がりつつあるように思えた。
それが、嫌だった。
それと同じくらい、嫌じゃない自分がいることも、分かっていた。
エレベータの扉が開くと、地下の冷えた空気とは別種の、乾いた気配が広がっていた。
装備解除エリアには、すでに別班のメンバーが何人か戻ってきている。
血痕の有無をチェックする係員の目が、直耶の頬で止まる。
「境くん、出血あり。医務で見てもらってから寮に戻って」
「了解です」
装備を外していくたびに、緊張が剥がれ落ちていく。
肩のベルト、胸のバックル、膝のプロテクター。
最後にヘルメットを外すと、空気が急にやわらかくなる。
とはいえ、今日はそれがあまり心地よくなかった。
「境さん」
更衣室の入口で声をかけられる。
振り向くと、森山だった。
「医務のあと、人材管理課にも寄れと言われている。
さっきの動きと、通路の感覚について、口頭でいいから整理しておけ」
「……分かりました」
「怒られるとかじゃないから、そこは安心しろ。
“分からないこと”をそのまま持って帰る方が、こっちとしては怖い」
森山はそう言って、軽く背中を叩いた。
その一言で、直耶の中の何かが少しだけほどけた。
医務ブロックに入ると、いつもの消毒液の匂いが鼻をついた。
待合の椅子には何人か先客がいる。
足を引きずっている者、肩を押さえている者、ただぼんやり座っている者。
ほどなくして名前を呼ばれ、診察室に入る。
「はい、境さん。……おお、今日もちゃんと戻ってきたね」
佐伯が椅子を回転させてこちらを向く。
白衣のポケットにはいつも通りペンが詰め込まれていた。
「頬、見せて」
指示されるまま、横を向く。
指先がそっと傷口に触れ、少しだけしみる。
「浅いね。消毒すれば問題なし。……腕は?」
肘のあたりの擦り傷も見せると、佐伯はひと通りチェックを終えてからタブレットに何かを書き込んだ。
「じゃあ、ついでにL値も測っておきましょうか。昨日と今日で差があるかもしれないし」
額に冷たい端子が貼り付けられる。
数秒、小さな電子音が鳴り、そのあとで画面に数値が表示された。
「……うん。ほぼ変化なし。
昨日より、ほんの少しだけ上がってるくらいね」
「上がるんですね」
「たまにね。全部が全部、削られていくだけじゃないのよ」
佐伯は端末をくるりと回し、数値を自分だけ見える角度に戻した。
「で。さっき、隊長から話聞いてるけど……
“音が軽かった”って?」
「はい。さっきの通路では、さっきまでいた場所よりも、足音も声もすぐ近くで終わってる感じがしました。
昨日の広場ほど極端じゃないですけど」
「胸のざわざわは?」
「……戦闘の前からありました。今も、少し」
「ふむ」
佐伯はペンのキャップを指先で弾きながら、しばらく黙った。
「境さん、昨日変な夢見たって言ってたよね」
「はい。内容はあまり覚えてないですけど、ざらついた地面を一人で歩いてて……
前から獣みたいなのが来て、避けたような気がします」
「今日も、似たようなのが来た」
「……そうなります」
佐伯は、ため息ともつかない息をひとつ吐いた。
「“回廊の夢”を見たって言う人は、時々いるの。
全部を真に受ける気はないけど、気にしないようにするっていうのも無理がある」
「医務としては、どう扱ってるんですか」
「“よく観察する”」
佐伯はあっさりと言ってのけた。
「夢の内容が現実を引っ張ることもあれば、現実に引っ張られて夢を見ることもある。
どっちが先かは簡単には言えないけどね」
そこで視線が、直耶の腰に止まる。
「で、ソレ。……さっき隊長から聞いてたけど、見せて」
角片だ。
回廊の出口を通っても消えなかったソレ。
直耶はベルトからそれを外し、手のひらに載せた。
佐伯は手袋をはめ、できるだけ指先でつまむようにして持ち上げる。
「……骨ね。たぶん。
でも、地上の獣の骨格標本で見たものとは少し違う」
光に透かしたり、角度を変えたりして観察する。
「境さん」
「はい」
「今日のあの動き、この骨を持っていたからできたと思う?
それとも、骨がなくても同じように動けたと思う?」
直耶は答えに詰まった。
骨を握った瞬間、“これだ”と身体が判断した感覚があった。
けれど、槍の形をしていれば何でもよかったのかもしれない。
「……分かりません。
でも、さっきは“これしかない”と思ってました」
「なら、一旦これとは距離を置いた方がいい」
そう言って、佐伯は角片を小さな専用ケースに入れた。
「保全班に回して解析してもらう。
結果がどう出るにせよ、“分からないもの”をあなたのすぐ傍に置いておくのは、今はおすすめしない」
「俺が原因、ってことですか」
「半分くらいは、そう」
佐伯は笑った。
「でもそれでいいの。
“何が起きるか分からない人”は、回廊では大事に扱わないといけない」
大事に、という言葉がどこかひっかかる。
使い方次第で、“便利に使う”にも“壊れないようにする”にも意味が変わる。
「夢の内容、もしあとから思い出したら、必ず教えて。
どんな細かいところでもいいから」
「分かりました」
診察室を出ると、廊下の静けさがちょうどよかった。
音が普通に届いて、普通に返ってくる場所。
少なくとも、今は。
医務ブロックを出ると、人材管理課のオフィス前でちょうど岸と目が合った。
「あ、境くん」
岸は書類のファイルを抱えたまま、軽く手を挙げる。
「さっきの件、森山隊長から聞いてる。
今日は長くは引き止めないから、ちょっとだけいい?」
「はい」
小さな打ち合わせ用の部屋に通される。
机と椅子が四つだけの、簡素なスペースだ。
「まずは、おかえり」
腰を下ろすと、岸はそれだけ言った。
「戻ってこられた時点で、こっちとしてはだいぶ助かってる」
「……ただいま戻りました、でいいんですかね」
「いいのよ、それで」
岸は軽く笑ってから、手元のタブレットに目を落とした。
「さっきの戦闘記録、速報だけ見た。
境くんの位置データ、普通の斥候よりも一歩前に出てる」
「……怒られますか」
「怒るつもりはないわ。隊長の方で判断してるでしょうし」
岸は画面を指でスクロールしながら言う。
「ただ、“一歩前に出すと何が起こるか分からない人”が、いちばん手前にいる隊ってね、
運用としては正解な時もあれば、不正解な時もあるの」
「……はい」
「だから、これは確認。
境くん自身、今日の動き、どう受け止めてる?」
「自分でも、よく分からないです。
頭で考える前に、身体が勝手に動いてて」
「怖さは?」
「……あります。
ただ、それと同時に、“動けてしまうこと”に、少しだけ安心している自分もいます」
言葉にしてみて、自分で驚いた。
岸は少しだけ目を細める。
「正直でよろしい」
そう言って、机を軽く指で叩く。
「境くんみたいなタイプは、“全部怖い”でも、“全部平気”でもダメなの。
怖いと思いながら、それでも前に出るかどうかを毎回選べるかどうか。
今日のところは、ギリギリセーフってところかな」
「ギリギリ……ですか」
「ギリギリ。
次も同じ距離で出られるとは限らないし、さっきのがたまたま上手くいっただけかもしれない。
そこだけ勘違いしないでくれれば、私はしばらく今の配置を支持する」
そう言い切られると、逃げ道がひとつ潰された気がした。
同時に、足場をひとつ渡されたような感覚もある。
「……了解しました」
「怖くなくなったら、ちゃんと誰かに言うのよ」
「それは、どういう」
「怖くなくなったら、それはそれで検査対象だから」
冗談めかした言い方なのに、岸の目は笑っていなかった。
夕食の時間になる頃には、噂はもう半分くらい広がっていた。
食堂に入ると、あちこちで色々な話が盛り上がっているようだ。
そんな会話を聞き流しながら、直耶はいつものテーブルに向かった。
「境、こっち」
日向が手を振る。
三宅と大熊もすでにトレーを前に座っていた。
「今日も騒がしいですね」
直耶が座りながら言うと、日向は苦笑した。
日向はスープをかき混ぜながら話を続ける。
「で。境。さっきの件、なんか言われた?」
「医務では、骨は一旦預かるって言われました。
人材管理課では、“怖くなくなったらまた来い”って」
「それ、多分半分脅しだよね?」
日向が顔をしかめる。
「“怖いままでいてください”ってことだよね?」
「そんな綺麗な言い方はされませんでしたけど」
直耶はパンをちぎりながら答えた。
大熊がスプーンを置き、ゆっくり口を開く。
「境。さっきも言ったが、あの動きは褒められたもんじゃない。
だが、俺たちは助かった。どっちも事実だ」
「はい」
「だから今日は、それでいい。
明日も同じことをやろうとしたら、その時は止める」
「……了解です」
日向が口を挟む。
「ていうかさ、境。あんた、自分が“ちょっとヤバい位置にいる”って自覚は持っときなよ?」
「ヤバい位置?」
「普通の人が“あ、無理だ”って引くところを、“まあ一歩くらいなら”って出ちゃう位置」
日向の言い方は軽いが、目だけは真面目だった。
「危ない橋渡る人ってさ、最初は“たまたま大丈夫だった”の積み重ねなんだよね」
三宅が静かに頷いた。
「だから、僕らも見てます。境さんのこと」
「監視対象みたいに言わないでください」
直耶がそう返すと、テーブルの空気が少しだけ柔らかくなった。
食事を終えて寮に戻ると、部屋はいつも通りの狭さで迎えてきた。
二段ベッド、机、ロッカー、小さな冷蔵庫。
高梨の寝ていた上段は、相変わらず空っぽだ。
制服の上着をハンガーにかけ、ベッドの端に腰を下ろす。
大学時代の余りのノートに続きを足す。
——C1〜C2手前ルート確認。
——初見の獣、三体。
——角のような部位が破壊され、骨片として落ちる。
——それを拾って武器として使用。
——身体が勝手に動いた感覚あり。
——音が軽い。
——反響が途中で折れるように感じる。
文字にすると、どれも大したことがないように見える。
それでも書いておかないと、そのうち全部ごちゃ混ぜになってしまいそうだった。
ペン先を少し止めてから、隅の方に小さく書き足す。
——夢の足場と少し似ている。
——“怖さ”と“動けることの安心”が同居している。
書いてから、自分で苦笑した。
(こんなの、高梨に見られたら何て言われるか)
「中二か」と笑うか、「まあ書いとけ」と真顔で言うか。
どちらも容易に想像できる。
最後に一行だけ追加する。
——高梨が戻ったら、今日の話をする。
ノートを閉じ、引き出しに戻す。
カチリと閉まる音が、部屋の中に小さく響いた。
その音が消えたあと、静けさがじわりと広がる。
寮の夜は、普段なら完全な無音ではない。
遠くの車の音、廊下の足音、空調の低い唸り。
耳を澄ませば、そういう音が少しずつ拾えるはずだった。
(……静かすぎるな)
直耶はベッドに仰向けになり、天井を見上げた。
胸の奥が、ゆっくりとざわめき始めた。
夢の足場。
暗闇の中で、なぜか足場だけ分かった感覚。
前にいる“何か”に意識が吸い寄せられる感覚。
枕元で、スマホが一度だけ小さく震えた。
母親からのメッセージだと分かっていて、画面を開く。
《元気? 無理しないでね》
短い文。
それに少しだけ迷ってから、返信を打つ。
《元気でやってるよ。ちゃんと気をつけてる》
送信ボタンを押すと、小さな振動が指先に伝わる。
その余韻を追うように、意識が少しずつ遠ざかっていく。
静かな広場。
静かな夢。
静かな寮の部屋。
それぞれの静けさの“質”だけが、微妙に違っている。
その違いを、いつか言葉にできる日が来るのだろうか——
そんなことをぼんやりと思いながら、直耶はようやく目を閉じた。
眠りの手前で、ざらついた石の感触が、また足の裏をかすめた気がした。




