第13話 静かすぎる朝
目を開けると鉄パイプが視界にあった。
二段ベッドの上段の裏側だ。
高梨がいない空間は今日もそのまま静かに残っている。
寝起きの空気は冷たかった。
喉が乾き肩が重い。
昨日の訓練の疲れなのか眠りが浅かったせいなのかは分からない。
どちらにしても似たような朝が続いていた。
カーテンの隙間から細い光が床に落ちている。
二段ベッドと机とロッカーと小さな冷蔵庫だけの部屋は必要十分なはずなのにどこか狭く感じた。
慣れ始めているはずの暮らしに薄い息苦しさが残る。
スマホには母親から短いメッセージが届いていた。
《朝ごはん食べた?》
返事を打とうとして指が止まる。
仕事が終わって落ち着いた頃に返した方がいいと思い直し、そのままポケットにしまった。
洗面所で顔を洗うと冷たい水が頬に触れ、ゆっくりと意識が浮かび上がってくる。
鏡には、少しだけ鋭くなった気がする自分の顔が映っていた。
この生活が長くなってきた証拠かもしれない。
廊下を抜けて食堂へ。
早番と夜勤明けが混ざる時間帯は、歩く速度も視線の向きもばらばらだ。
そんな空気を通り抜けると、食堂の明かりが見えてくる。
パンとスープと卵。
いつもと変わらない朝食。
席に着くと三宅がすでに食べながら端末を見ていた。
「境さん、おはようございます」
「おはようございます」
三宅はログを上下に何度もスクロールしていた。
細かい点を見落とさない姿勢は相変わらずだ。
「しばらくはA班と合同でしたっけ。今日、C2の手前までって聞きましたけど、確認作業なんですかね」
「昨日、ログに何かあったんですか」
「問題というほどではなかったみたいですけど、判断しづらい部分があったらしいです。反響の落ち方が少し変だったみたいで」
そこへ日向がスープを持って座る。
湯気がふわりと上がり、鼻先をくすぐった。
「境、寝不足っぽい顔してるねぇ。何かあった?」
「いつも通りですよ」
「そう?ならいいけど」
日向は続ける。
「今日もさ、空気変だったら絶対すぐ言いなよ。境のそういうとこ、わりと頼りにしてるんだから」
「頼られても困りますよ」
「危険に敏感って、ここの仕事だと立派な適性だと思うよ?」
言い返せずスープを口に運ぶ。
温度がちょうど良く、喉を通る感覚だけが安心をくれた。
日向がふと思い出したように言う。
「そういえばさ、昨日また出てたよ。“ソロで潜ってみた”動画」
「まだあるんですか、あれ」
三宅が眉をひそめる。
「“マジで撮れました”とか言ってたけど、画面ブレブレだし、明らかに作り物なんだよね」
「そもそも中で撮れないですしね」
三宅がため息をついた。
「うちの装備ですらログ欠けるのに、一般人がスマホで撮れるわけないですよ」
「でもコメント欄は盛り上がるんだよね。“関係者だけどこれ本物です”とか」
「関係者がそんな書き方するわけないじゃないですか」
三宅のツッコミは真っ当だ。
“ソロで潜ってみた”。
文字だけなら軽い遊びに見えるのに、胸の奥が少しざらつく。
知識がない方が、気楽に騒げるのかもしれない。
食事を終えて寮を出る。
湾岸の朝の風は冷たく、金属と潮の匂いが混ざって鼻に入る。
施設までの短い道が、少しだけ気持ちを整えてくれた。
ゲートをくぐり、地下行きのエレベータに乗る。
下降していくにつれ、空気が冷たく硬く変わっていく。
Cブロックの準備室に入ると、A班の吉永が盾のバンドを確かめていた。
無駄のない動きだ。
「おはようございます」
声をかけると吉永は視線だけを向けて軽くうなずいた。
装備を点検していると、何かに気づいた三宅が近づいてきた。
「境さん、胸のバックル。もう少し締めた方がいいですね」
「……本当だ。すみません」
「いえ。危険な場所ですから。」
「境、昨日のフェイク動画見た?」
日向が横から顔を出すと、面白そうに聞いてくる。
「見てないです」
「見なくて正解。どう見ても生成AIで作ったやつだし」
「見ただけで分かるものなんですか?」
三宅が首をかしげる。
「動きがそれっぽすぎるの、逆に。本物ってもっと雑でしょ」
「……なんとなく分かる気がします」
三宅は苦笑した。
「それにうちの記録班が解析してましたよね、一度。全部フェイクって」
「あー言ってたね、『こんな高精度で撮れるんなら、こっちが機材換えたい』って」
くだらないやり取り。
そこにはいつもの日常があった。
その時、準備室の扉が開く。
ヘルメットを小脇に抱えた森山隊長だ。
「集合」
短い声に周囲の空気が締まる。
「今日のルートはCブロック浅層からC2手前まで。昨日のログで反響が不安定な区画があった。確認を兼ねる」
森山は壁際のモニタに短く視線を送ってから続けた。
「機材側の問題という可能性もあるが、そうでないかもしれないという前提で動け。“いつも通り”に見える時ほど注意しろ。以上」
それだけ言うと森山は自分の装備に手を伸ばす。
余計な言葉が一つもないのに、指示ははっきりしていた。
ヘルメットをかぶり顎のベルトを締める。
視界の縁が狭くなり、自分の息だけが近く聞こえた。
エレベーターの低い音が耳に届く。
*
階段を降りていくうちに、外の世界は遠くなった。
足音と装備が触れ合う音だけが、細く連なっている。
しばらく黙って降りていると、三宅が前を見たまま言った。
「なんか、今日、音が軽い気がしますね」
「具体的に」
森山の声が前から返る。
「反響が薄いです。壁に当たる前に、音がそこで終わってる感じというか」
森山は振り返らず言う。
「境はどうだ」
「……自分も違和感あります。いつもより、通路が“広く”感じるというか」
自信のない言い方しかできないが、森山は否定しなかった。
隊列の後ろで榊が端末を確認している。
「確かに反響音が少し落ちてますね。ただ、環境ノイズの範囲内と言えばギリギリそうとも言えます」
「なら、その“少し”を覚えておこう。あとで見返した時、“いつもと違った”と言える材料になる」
浅層の通路に入る。
ライトがコンクリートの壁を照らし、補修跡が浮かび上がる。
何度も見てきたはずの光景なのに、今日はほんの少し滑らかに見えた。
「今日、歩きやすくないですか」
日向が小さく言う。
「段差、少なくない?」
「言われてみれば、そうですね」
三宅が前を見たまま頷いた。
「浅層って、もう少しガタガタしてましたよね」
「楽だからって、油断するなよ」
大熊が短く言った。
榊が後ろから説明する。
「浅層は“少しずつ違う”のが普通です。形が変わらない日の方が珍しいですね」
「珍しいからって、良い日ってわけじゃないってことですか」
日向が訊く。
「まあ、だいたいそうですね」
そのやり取りだけで、背中に小さな冷たいものが貼りついた気がした。
少し開けた区画に出たところで、前方から低い唸り声のような音が聞こえる。
「前方、動体」
吉永の声だ。
ライトの輪の中に、あの獣が現れる。
地を這うような姿勢で牙を見せていた。
二匹が正面、もう一匹が左側の影から回り込もうとしている。
視界の端に、さらに一つ、低い影が見えた。
「右にも、ひとつ」
吉永の短い声。
三宅のラインを狙うように飛び出した。
「──っ!」
考えるより先に身体が動いていた。
「三宅さん!」
肩を掴んで後ろに引く。
爪が目の前をかすめ、空気を裂いた。
次の瞬間、大熊が前に出て盾の縁を獣の頭に叩きつけた。
鈍い音が響き、獣が崩れ落ちる。
粉塵がライトに舞い、視界が一瞬白く濁った。
「境さん、今のはさすがに危ないですよ」
三宅が息を荒くしながら言う。
「助かりましたけど、無茶はやめてください」
「すみません。勝手に身体が……」
自分でも説明がつかなかった。
訓練で同じことをやれと言われても、再現できる気がしない。
榊が端末を見ながら言う。
「さっきの回避、ログ取れてます。反応、かなり早いですね。境さん、自覚は?」
「いえ。気づいたら動いてました」
「そうですか。じゃあ今日は、感覚も含めて覚えておいてください」
森山が短く区切る。
「この話は戻ってからだ。今は前に集中しろ」
「了解」
それ以上は何も言わなかった。胸の奥が少し熱い。
その熱がどこから来ているのか、自分でもよく分からない。
*
さらに進むと、壁の一部に目立つ傷があった。
ライトを当てると、一メートル八〇くらいの高さに深い爪痕が何本も重なっている。
「ここ、昨日はなかったな」
吉永が言う。
榊が近づいて傷の縁を軽くなぞった。
亀裂の隙間に細い毛が挟まっている。ピンセットで抜き取り、簡易スキャナにかけた。
「……熊ですね。地球の熊にかなり近いデータです」
「熊?ベアーの熊?」
日向が思わず声を上げた。
「ここから熊がいる山まで、どれだけ離れてると思ってるんですか」
三宅が首を振る。
大熊がぼそっと言った。
「銃火器もろくに使えないのに、熊と当たったら洒落にならないな」
「確定したわけではない。敵性生物の体毛なのかも大きさも、確実に判断はできん。推測は後だ」
森山が言う。
「帰りにもう一度確認する。先に進むぞ」
*
C2の手前にある広場に足を踏み入れた瞬間、音の響き方が変わった。
天井は高く、壁には古い模様のような傷が散っている。
何度か通っているはずの場所なのに、やはり今日の広場は少し違って見えた。
一歩、足を出す。
靴底が床を打つ感触は確かにあるのに、音がすぐそばでしぼむ。
いつものように壁まで届かず、足元で小さく折りたたまれるような感じだ。
「……静かだな」
思わず声に出した。
その声も、広がらず近くで留まる。
「昨日より、だいぶね。なんか、吸い込まれてる感じしない?」
日向が小さく言う。
「反響、ここもかなり弱いですね」
三宅が周囲を見る。
「音が“遠くまで行かない”っていうか」
榊が端末を見て眉を寄せた。
「ここだけ反射が落ちてます。数値だけ見れば、吸音材が多い部屋って言われてもおかしくないレベルですね」
「そういう構造に“なった”ってことか」
森山が広場を見回す。
「⋯音は聞こえてる。聞こえ方だけが違う。忘れるな」
森山は広場を一望し、小さく息をついた。
「今日は、ここまでにする」
日向が思わず声を上げる。
「もう? C2、すぐそこですよ?」
「“すぐそこ”だから戻る」
森山の声は静かだった。
「“ここまで来たんだから”は理由にならない。
それに嫌な予感がする。引き返すぞ。」
誰も反論しなかった。
この広場の静けさが、反論を吸い込んでしまいそうだった。
隊列が向きを変える。
広場を離れるにつれ、少しずつ音が戻ってきた。
足音が壁に跳ね、装備のこすれる音が耳に返ってくる。
さっきまでいた場所の静けさは、まるで厚い布の裏側のようだった。
そこに長居しなくてよかったと、思わずにはいられない。
帰り道で、壁の熊の爪痕をもう一度確認した。
榊が写真だけ撮り、短く言う。
「形はやはり熊ですね。地上のものと大きな差はありません」
「地上のものがここまで来たんじゃないとしたら、どこから来たんでしょうね」
三宅が呟く。
「そういうのを考えるのは上の仕事だ」
森山が区切った。
「俺たちは、目の前の道だけ見てろ」
それで会話は終わった。
*
地上に戻ると、空気が少しだけ柔らかく感じた。
装備を外していくたびに、緊張が剥がれていく。
簡単な聞き取りを終えると、医務ブロックに呼ばれた。
「境さん。L値、測りますね」
佐伯がいつもの調子で声をかける。
端子をこめかみに当て、数秒待つ。
短い電子音がして画面に数値が出た。
「はい……安定してますね。むしろ、ほんの少しだけ上がっています」
「上がることも、あるんですね」
「まれにだけどね」
佐伯はカルテに記入しながら言う。
「さっき、“静かすぎる感じがした”って言ってたでしょ?」
「はい。足音が、すぐ消える感じでした。心臓の音だけは、はっきりしてて」
「似た報告、たまにあるのよ」
佐伯はペンを指の間でくるくる回した。
「落ち着くって言う人もいれば、境さんみたいに“中だけうるさい”って言う人もいる」
「どっちが普通なんですか」
「どっちも普通なんじゃないかな」
佐伯は少し笑った。
「回廊の方が、同じ顔して近づいてきてくれるとは限らないから」
「それ、いいことです?」
「半分くらいは、そうね」
「さっきの場所に入って、具合が悪くなった人は?」
「今のところ、そこまで極端な例はないわね。ただ、境さんみたいに感覚が揺さぶられる人はいるみたい」
佐伯はカルテを閉じた。
「何か変わった夢を見たり、よく眠れなくなったりしたら、教えてください。すぐにどうこうはなりませんから」
「分かりました」
医務室を出ると、廊下の静けさがちょうどよかった。
回廊の静けさと違って、音が戻ってくる場所だ。
寮へ向かう途中で、日向と三宅に追いついた。
「どうだった」
日向が訊く。
「L値は問題なしだそうです。ちょっと上がってるって」
「いいじゃん」
日向が笑う。
「静かすぎる場所行って逆に落ちるって言われたら、やるせないしね」
「境さん、さっきの動き、本当に危なかったですからね」
三宅が真面目な顔で言う。
「助かったのは事実ですけど、ああいうのは一回成功すると、次もってなりやすいので」
「分かってます」
口ではそう言ったが、身体の方は、まだどこか落ち着かない。
さっき、自分でも驚くほど自然に動けた感覚が残っていた。
「午後、軽い訓練入ってますよ」
三宅が端末を見ながら言う。
「浅いルートで、さっきみたいな“違和感”を言葉にする練習だそうです」
「“なんか変”で済ませるなってやつだね」
日向が肩をすくめる。
「境の出番じゃん」
そう言われて、少しだけ返事に困った。
出番と言われるほど、自分の感覚を信じきれてはいない。
*
午後の訓練は、本当に浅い区画で行われた。
“環境感知訓練”という名前はついているけれど、やることは地味だ。
一歩歩いて、立ち止まって、「さっきと何が違うか」を言葉にする。
A班がやっている間はB班が外周を押さえ、逆の時は立場が入れ替わる。
装備はほぼ本番と同じで、斥候の練習も兼ねている。
机の上でやる事前訓練とは違って、ここでの発言はそのまま“生き残りやすさ”の判断材料になる。
回廊に入る前にも同様の訓練は行うが、経験値がまるで違う。
隊長が時々立ち止まり、「ここはどうだ」と試すようにこちらへ目を向ける。
日向は機敏性に加え、匂いや空気の重さによく気づくようだ。
三宅は数字や記録と結びつけて分析をしている。
二人とも角度は違うが向いているかもしれない。
大熊は⋯まぁ、お察しだ。見た目通り斥候よりもタンクが得意。
自分は音と、急に胸がざわつく瞬間がある。
なんだろう。経験なんだろうか。なぜか“怪しい場所に目が行く”。
自分のこの感覚は、正しいのだろうか。
そう思いながら口にした“怪しい場所”の予想は、だいたい当たっていた。
才能なんて言葉を使うのは気が引ける。
ただ、妙にしっくりくるのも事実だった。
隊長に「やるじゃないか」と言われるたび、少しだけ胸が軽くなる。
訓練が終わったあと、日向と三宅は資料室に用事があるらしい。
「またあとで」と手を振って別れた。
寮へ戻る通路をひとりで歩く。
さっきまでいた回廊の静けさが、じわじわと遠ざかっていく感覚があった。
高梨が戻ってきたら、今日の話をどう説明しようか。
「やたら静かな広場があってさ」と言ったら、あいつはどう返すだろう。
「運悪いな」と笑うか、「そういう場所、覚えとけよ」と真顔で言うか。
どちらにしても、今日のことは忘れない方がいい気がした。
静かすぎる場所。
音が届かない広場。
そこでだけ、妙に身体がよく動いた自分。
それらを一つずつ頭の中に並べながら、境は寮の階段を上った。




