第12話 C2の天井
「——上!」
自分の声が、思ったより大きく響いた。
訓練のときと同じ言葉。
けれど、今度は本物の通路の中だ。
シールドを持ち上げる。
肘を固める。膝をわずかに曲げる。
その、ほんの一瞬あとで——。
バラバラッ、と乾いた音が頭上から降ってきた。
粉になったコンクリートと、小さな欠片がシールドの上を転がる。
少しだけ重みのあるものが、ガン、と一度だけ強く当たった。
「っ……!」
視界の端で、日向が反射的に身をすくめる。
「止まれ!」
木戸の声が、通路の空気を一気に固めた。
隊列が、その場でぴたりと止まる。
「被害は」
「大丈夫です、かすっただけです!」
日向が慌てて立ち上がり、自分のヘルメットを触った。
表面に、白い粉と黒い点がいくつか付いている。
「境のシールドにほとんど落ちてるな」
背後から大熊の声がした。
シールドの上には、砕けたコンクリート片と、
それとは違う、薄い殻のような欠片が混ざっていた。
「……これ、敵の?」
日向がつつきかけて、あわてて手を引っ込める。
「触るな」
吉永が短く言った。
「あとで回収班が見る。
上のパネルが一部浮いてるな。崩落ってほどじゃないけど……前に何か通ったか、当たったか」
視線の先、天井の一部がわずかに歪んでいる。
二重天井用のパネルの端が、ほんの少しだけ下に反っていた。
その隙間から、元の天井らしいコンクリートと、古そうな梁が覗いている。
「境」
名前を呼ばれて、直耶はようやく呼吸を意識した。
「はい」
「今の、どうだった」
「……間に合った、とは思います」
「そうじゃなくて」
吉永は、目だけをこちらに向ける。
「『いやな感じ』の方だ」
「……」
さっき、「段差あり」の声を聞いた瞬間から、
胸の奥でざわざわしていた違和感を思い出す。
「天井の形が、さっきまでと違うなって……。
説明しろって言われると、うまく言えないんですけど」
「それで十分だよ」
吉永の口元が、ほんのわずかだけ緩んだ。
「声、出ただろ。『上』って言えたなら、今日ここまでの訓練分くらいは元取れてる」
「……はい」
答えながらも、直耶はシールドの上の殻から目を離せなかった。
それは、敵の体の一部なのか、ただの抜け殻なのか。
どちらにしても、頭の上から落ちてきてほしいものではない。
*
最初の緊張が一段落すると、隊列は組み直された。
「今のは記録しておけ。あとでビーコンのデータと一緒に見る」
木戸の声に、後列の技術要員が端末にメモを打ち込む。
「C2までは、もうすぐだ。気を抜くな」
号令とともに、足音がまた動き出した。
二つ目の角を抜けた先。
通路が、急に開ける。
「……広い」
日向が、小さく息を漏らした。
そこが、C2だった。
天井は、今までの通路より少し高い。
だが、高いからといって、すっきりしているわけではなかった。
「ごちゃっと、ってこういうことか……」
ヘルメットの下で、直耶は思わずつぶやく。
古い梁と新しい梁が、何本も交差している。
太さも色もまちまちの鋼材に、後から溶接されたらしいプレート。
その下側には、人があとから取り付けた二重天井用のパネルが貼られている。
一部のパネルは、さっきの通路と同じようにわずかに浮いていた。
隙間からのぞくのは、回廊の「元の天井」らしいコンクリートと、
いつの時代のものか分からない梁の断面。
C2の天井は、最初からこうだったわけじゃない——と、説明では聞いている。
回廊が見つかった当初から「梁の入り方が変だ」と言われていた区画に、
安全基準に合わせて補強を足してきた。
小さな崩落のあとには仮設材とプレートを継ぎ足し、
さらに配線と照明のためのパネルを被せた結果。
何世代分もの「あとから足されたもの」が、一か所に積み重なっているような天井だった。
(そりゃ、“上からいろいろ入り込みやすい”って言われるわけだ)
係官の言葉が、今になって実感を伴う。
「境、口あけて見上げるな」
吉永が小声で突っ込んできた。
「はい」
慌てて顎を引き、視線を少し落とす。
C2の中央付近、少し開けた場所に、
他のものより一回り大きいビーコンが取り付けられていた。
四角い箱から伸びる配線が、天井の梁に沿って何本も走っている。
その一部は、古い配管ラックと絡まり合うようにして奥まで続いていた。
「ここが例の“問題児ビーコン”か」
技術要員のひとりが、工具バッグを降ろしながら言う。
「前の崩落の前後ログが一番はっきり残ってるやつ。
歪みの値も、他より振れ幅がでかい」
「つまり?」
日向が小声で聞くと、技術要員は簡潔に答えた。
「ここだけ、回廊の“揺れ方”が他とちょっと違うってことです。
だから一回ログを取り直して、必要なら位置も少しだけずらすかもしれない」
「揺れ方……」
直耶は、C2の床を足裏で軽く押してみる。
他の場所と特別違う感覚があるわけではない。
(でも、数字の方は違うってことか)
入口前の黄色いテープを思い出す。
扉に近づくほど静かになっていった自分のグラフ。
(こっちは逆に、“落ち着かない場所”ってことなんだろうか)
「ビーコン交換班、作業開始」
木戸の声で、技術要員たちが動き出した。
前列と後列は、C2の周囲に散るようにして警戒に立つ。
「境、天井側。大熊は左の梁、日向は右の壁と背後」
吉永が手短に割り振る。
「了解」
直耶はシールドを少し下げ、視線だけを天井と梁のあいだに走らせた。
ところどころで、二重天井のパネルが外れかけている。
その奥に見えるのは、港湾時代の設備シャフトの名残だと説明された古い梁と、
回廊発見後に足されたらしい補強材。
以前、技術要員の誰かがぼやいていたのを思い出す。
——この区画だけ、最初期の設計図と梁の本数が合わないんですよね。
——古い図面が残ってないから、全部「昔の施工」ってことで片づけられてますけど。
どこまでが初めからの形で、どこからが後付けなのか。
素人目には、もう判別できなかった。
「境」
背後から、別の声がした。
振り返ると、少し離れた位置で榊がこちらを見ていた。
「さっきの、『上』のタイミング。体感的には、どのくらい余裕ありました?」
「余裕……ですか」
質問の仕方が榊らしい、と一瞬思う。
「ギリギリ、ってほどじゃないですけど。
“あ、嫌だな”って思った瞬間にはもう腕が動いてた感じです」
「なるほど」
榊はいつもの癖で顎に指を当てながら、短くうなずいた。
「境くん、入口のときもそうでしたけど、
『嫌な感じ』から動きに行くまでが、ちょっと早いんですよね」
「それって、悪いことなんですか」
思わず聞き返すと、榊は首を横に振る。
「いえ。“数字の上では”今のところ、悪くはなさそうです」
「数字の上では、ですか」
「はい。あとは、その早さでどこまで持つかの問題です」
さらりと言って、榊はタブレットに視線を戻した。
(どこまで、って……)
その先に何を想定されているのか、あまり考えたくない言い方だった。
「作業班、カバー外しました。ログ転送に入ります」
ビーコンのカバーが外され、中の基板と配線が露出する。
古いユニットから新しいユニットへ、データのコピーが進んでいく。
「C2周辺、異常なし」
後列の誰かが報告した。
「こちらも、今のところ大きな変化はなし」
大熊が、左側の梁を見上げたまま答える。
(このまま、何も起きずに終われば、それが一番いい)
そう思う一方で、さっきの小さな落下が「何かの手前」だったらどうしよう、
という考えが頭の隅から離れない。
「境」
今度は前の方から、吉永の声が飛んできた。
「はい」
「C2の天井、どう見える?」
「どう、って言われると……」
直耶は、改めて上を見上げた。
古い梁の上に、新しい梁がかぶさり、
補強材とプレートとパネルがその下に継ぎ足されている。
「……“持たせてる”感じがします」
言葉を選びながら答える。
「もともと強い場所っていうより、あちこち継ぎ足して“持たせてる”感じです。
数字とかじゃなくて、見た目だけですけど」
「それでいい」
吉永は、短くうなずいた。
「現場で『どう?』って聞かれたら、そうやってそのまま言えばいい。
『大丈夫そうです』って雑に言われるより、よほど役に立つ」
「……そんなもんですか」
「そんなもんだよ」
淡々とした口調なのに、不思議と説得力があった。
「ビーコン側、交換完了。最終チェック入ります」
技術要員が声を上げる。
新しいユニットが取り付けられ、
小さなランプが規則正しく点滅し始めた。
「ログ転送も問題なし。前回崩落時のデータは、あとでこちらで精査します」
「了解。作業班は後列に合流。前列はC2周辺の簡易確認をしてから戻る」
木戸の指示で、隊列が少しだけ形を変える。
C2の端から端まで、一度ゆっくりと歩く。
床の段差、梁の位置、視界の抜け方。
出口側の通路を覗くと、そこにもいくつかビーコンの点滅が見えた。
「C2の出口の手前、こういう“つまづきポイント”がいくつかあるからな」
吉永が、わずかな段差を指さす。
「撤退のときにここで誰か転ぶと、だいたいろくなことにならない」
「縁起でもないこと言いますね」
「経験則だ」
本気とも冗談ともつかない調子だった。
(今日は、ここより先には行かない)
頭の中で、地図の線をそこで止める。
「——戻るぞ」
木戸の声で、C2からの退避が始まった。
*
戻りの通路は、行きより少しだけ早い。
「段差」「右」「梁低い」——
短く飛び交う声とともに、隊列が来た道を確かめるように進んでいく。
さっき落下があった場所には、
いつの間にか目立たない色のマーカーが付けられていた。
「もう印付けたんですね……」
日向が感心したように言う。
「こういうの拾っていくのが仕事だからな」
大熊が肩越しに答えた。
エレベーター前に戻るころには、
さっきよりも足の裏の汗が増えている気がした。
「全員確認。乗れ」
木戸の号令で、再び箱の中に詰まる。
扉が閉まり、上昇の感覚が始まる。
重力の向きが、じわじわと変わっていく。
「……無事に戻ってきたけどさ」
日向が、ヘルメットを少し持ち上げながら小声で言った。
「“特別危険ではないが、頭上に注意”って、やっぱ現場で聞くと別の意味に聞こえますね」
「どういう意味だと思った」
森山が視線だけ向ける。
「ちゃんと見てないと危ないけど、
事故にならなければ“危険じゃなかったことになる場所”、ですかね」
「言い方がリアルだな」
大熊が苦笑した。
直耶は、壁にもたれたまま自分の手を見下ろす。
指先には、さっきシールドの上を転がった殻の感触が、
まだ残っているような気がした。
扉が開く。
訓練センターの、見慣れた光と空気が流れ込んでくる。
「お疲れさまです」
誰かの声に合わせて、自然と頭を下げた。
*
簡単な報告と装備の返却を終えると、
B班はそれぞれロッカールームに戻っていった。
「初Cブロック、お疲れ」
森山がロッカーの扉を閉めながら言う。
「どうでした?」
日向が上着を脱ぎつつ振り返る。
「……思ったより、“普通”でした」
直耶はそう答えてから、自分で少しだけ言い直した。
「“普通の仕事”としての怖さは、ちゃんとありましたけど」
「それなら合格だ」
森山は、ほんの少しだけ笑った。
「“普通じゃない怖さ”を感じる場所は、ちゃんと別にある。
そこに行く前に、今の怖さに慣れすぎないようにな」
「……難しいこと言いますね」
「言うだけならタダだからな」
そう言って、森山はロッカールームを出ていった。
1人残されたところで、直耶はスマホを取り出す。
画面には、出動前に届いていた母からのメッセージがそのまま残っていた。
『こっちは変わりなし。そっちは仕事、無理してない?』
さっきと同じ短文を、もう一度読み返す。
『今日は、ちょっと奥まで行ってきた。浅いとこだけど、気は使う』
そう打ち込んでから、送信ボタンの手前で親指が止まった。
C2の天井のパッチワークを思い出す。
継ぎ足して、補強して、それでもどこか不安定に見える天井。
(あれが、俺たちの「ほどほど」の先だったりしたら笑えないな)
結局、最初に打った文のまま送信した。
送信済みの文字列を見つめているうちに、
エレベーターで感じた揺れと、頭上から転がり落ちた殻の感触が、
少しずつ現実味を取り戻していく。
ロッカールームの天井は、白くて平らだった。
そこにはヒビも梁の影もない。
それでも、視線は一度だけ、無意識に「上」を確かめてから落ちてきた。




