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第11話 『特別危険ではない』場所

「——上!」


叫び声と同時に、視界の端で何かが落ちてきた。

直耶の体は、ほとんど反射で動いた。


シールドを頭上に押し上げ、肘を固定する。

膝を少しだけ曲げる。


——ドン。


鈍い衝撃が腕に走る。

発泡材のブロックがシールドに弾かれ、そのまま床に転がった。


「悪くない」


前方から聞こえた声は、どこか楽しそうだった。


「反応、今くらいで十分。迷ったらまず守る」


シミュレーションルームの天井には、発泡材ブロックがまだいくつもぶら下がっている。

通路の金属フレームと簡易照明の光が、その影を細かく揺らしていた。


「はい、一旦ストップ」


壁際で端末を操作していた榊が、手を上げた。

頭上のブロックがゆっくり初期位置に戻っていく。


「お疲れさまです。どうでした?」

「地味に怖いっすね……これ」


シールドを下ろした大熊が、腕を振って力を抜いた。


「頭の上から来るの、やっぱり反射で身構えちゃいます」


後ろの列でしゃがんでいた日向も、ヘルメットをごつんと軽く叩く。


「今は発泡材だからまだ笑ってられますけど、本番これ石とかコンクリですよね……」

「たまに金属片も混じるな。敵の殻だか欠片だか分かんないやつが混ざる時もある。

 音がうるさいんだ、あれ」


前列の少し先に立っていた男が、ヘルメットを外しながら言った。

第二探索チームA班、盾役の吉永だ。


「さっきも言ったけど、“何が落ちてくるか見てから”考えたら遅い。聞こえたら、考える前に腕が動くくらいでちょうどいい」


そう言って、指で自分のこめかみをとんとんと叩く。


「境は、まあ……動きは悪くない」

「“まあ”が気になりますけど」


直耶はシールドを肩に乗せながら答えた。


「腕がちゃんと上がるタイプは、つい前にも出たがるからな」

「……何か刺さる言い方ですね」

「褒め言葉だよ?」


吉永は、笑っているのか真顔なのかよく分からない表情で肩をすくめた。



訓練が始まる少し前——。同じ日、少し時間を巻き戻す。


ブリーフィング室のスクリーンには、湾岸回廊の簡略図が映っていた。

入口から伸びる線。Bブロックをかすめて、少し曲がりながら進む先に、「Cブロック」と表示されたエリアがある。

その一角に、小さく「C2」と数字が浮かんでいた。


「今回の任務範囲は、この浅層Cブロック内——入口からここまで」


スーツ姿の係官が、レーザーポインターでスクリーンをなぞる。


「目的は3つ。

 1つ、Cブロック内ビーコンのログ再取得と、一部交換。

 2つ、C2周辺の構造状況の再確認。

 3つ、今後の巡回ルートとしての適性評価だ」


「ビーコンって、あの壁についてる箱ですよね?」


日向が手を少しだけ上げて尋ねる。


「そうだ。通路ごとの温度や振動、それから“歪み”のログを取り続けるセンサーだ。

 位置の基準点にもなっている。

 ここを通ったときの記録を積み上げておくと、回廊がどれくらい描き変わったかも後で追える」


係官は、教科書を読み上げるような調子で答える。


「C2って、前に立ち入り制限かかってたとこですよね」


三宅が小声で確認する。

すぐ前の席にいた大熊が、顎を引いてうなずいた。


「過去に小規模な崩落が1度発生しているため、念のためチェック……」


係官は、決められた文言をなぞるように続ける。


「報告書の結論としては、“材質のムラと通行時の振動が重なった自然崩落”だ。現在の評価も、ここにある通り——」


スクリーンの端に、テロップのような文章が出る。


『特別危険ではないが、頭上に注意』


(ニュースの言い方と、たいして変わらないな)


直耶は、その文言をどこかで聞いたことがあるような気がした。

「重大事故は発生していません」「比較的安全な」——テレビで散々聞かされてきたやつだ。


係官は続ける。


「今のところだが、C2周辺は構造的に“上からいろいろ入り込みやすい”形になっている。

 崩れた欠片も、敵の一部も、頭上から落ちてくる可能性がある場所だ」


前列の何人かが、わずかに背筋を伸ばした。


「とはいえ、一度何かあった場所は、その後の様子を見ておく必要がある。だから今回、第二探索チームA班と第3探索チームB班の一部で合同編成を組む」


係官の視線が、前列の右側と左側に向けられる。


「現場指揮は、第二探索チームA班の班長・木戸。後列の統括は、第3探索チームB班の森山。

 序列としては木戸の指揮優先、森山は後列と研修生の管理だ」

「了解」


森山が短く返事をする横で、榊が静かにメモを取っていた。


「詳細な隊列と役割は、このあと各隊長から。その前に——C2周辺では、頭上と足元の確認を怠らないこと。“特別危険ではない”からといって、油断していい理由にはならない」


頭上と足元。

入口の黄色いテープと、押せないフロアのボタンが、直耶の頭の中で並んだ。


「説明は以上だ。各班ごとに移動してくれ」


そこでようやく、今のシミュレーションルーム行きが決まった。



「じゃ、もう1回だけやるか。“会話中に上が来た”パターン」


現在に戻る。

榊の提案に、日向が露骨に嫌そうな顔をした。


「さっきのだけで十分だった気が……」

「さっきのだけじゃ、さすがに本番で反射出ないですよ」


榊はさらりと言い切る。


「回数よりも、“どんなときに声が飛ぶか”の感覚を体に入れたいんです。

 話してても、水飲んでても、聞こえたら反応できるように。

 崩れた天井でも、敵の飛び道具でも。

 来るものに対して、まずやることは同じなので」

「水飲んでるときはやめてほしい……」


三宅がぼやく。


「はい、じゃあ境と大熊、もう1回前列。日向と三宅は後列で避ける側。吉永さん、“いやなタイミング”でお願いします」

「任せろ」


吉永が歯を見せて笑った。


(……任せたくないタイプだって思うんだから、きっと適任なんだろうな)


直耶は心の中だけで突っ込んで、通路の先頭に立った。

合図がかかり、人工的な足音と、砂の落ちる音がまた流れ始める。


「……でさ、Cブロックってやっぱ広いんですか?」


日向が、小声で吉永に話しかける。


「Bブロックよりはちょっと広いかな。

 天井高いところもあるし、音の感じも少し違う」

「音?」

「たとえば——」


吉永がそこまで言いかけたところで。


「——上!」


声が、さっきより近くで響いた。


体に染み込ませたばかりの動きが、自然と体をなぞる。

シールドを上げる。肘を固める。膝を少し曲げる。

ブロックが落ちてきて、鈍い音が頭上で鳴る。


(今度は、さっきより早く動けた)


そう自覚した瞬間、直耶はほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「はい、そこまで。いいでしょう」


榊が終了の声をかける。

天井のブロックがゆっくり上がっていく。


「本番でもやることは同じです。上を見たくなる気持ちは分かりますけど、まずは自分の頭を守ること。“見てから怖がる”のは、そのあとでいい」

「怖がる前提なんですね……」


日向が苦笑する。


「怖がれない人は、別のラインを越えちゃってる可能性が高いので」


榊はさらっと物騒なことを言った。

高梨がいたら、「お前が言うな」と真っ先に突っ込んでいたかもしれない。



訓練が一区切りついたあと、休憩時間。

B班は、センターの裏手にある喫煙所横のベンチに集まっていた。

タバコを吸うのは一部の隊員だけで、直耶たちは自販機の近くに座っている。


「頭上注意、か……」


自販機の缶コーヒーを一口飲んで、三宅がぽつりと言った。


「『特別危険ではないけど頭の上には気をつけろ』って、ニュースが一番好きそうな言い方ですよね」

「嫌な想像するなよ」


大熊が空き缶を片手で回しながら言う。


「でもまあ、ニュースはいつもそんなもんだ」

「“重大事故は発生していません”ってテロップの横で、ストレッチャーが映ってる感じですかね」


日向も、どこか諦めたように笑う。

その会話を、少し離れたところから聞いていた吉永が、ベンチの背にもたれた。


「まあ、こっちは“重大事故にならないように”動く側だからな」

「……経験、あるんですか」


直耶が恐る恐る聞くと、吉永は少しだけ目線を空に向けた。


「ギリギリ手前で止まったことは、何回か。止まらなかった現場も、1回」

「……」


空気が、ちょっとだけ重くなる。


「崩落ですか?」


三宅が慎重に尋ねると、吉永は首を振った。


「色々だよ。“何が落ちたか”の中身が違うだけで、やることはだいたい同じだよ」


そう言って、わざと肩の力を抜いた声を出した。


「みんなが今行くとこは、ちゃんと“浅層”だから安心しろ。浅層で怪我してたら、奥には行かせてもらえなくなるからな。変な張り切り方だけはしないように」

「榊さんと同じこと言ってますね」


日向が少し笑う。


「言ってることは同じだけど、榊くんの方が“面白がってる感”は強いかな」


吉永は、榊のいる方角にチラリと視線を飛ばす。


「あいつ、入口のグラフ見てすげえ嬉しそうな顔してたからな。『境くん、扉に近づくほど安定してるんですよ』って」

「やめてください、その言い方」


直耶は、耳が熱くなるのを感じた。


「前に立たされるタイプは、前に立つことでしか分からないこともあるって話さ」


吉永は、さっきシールドを受け止めた直耶の腕を、軽く指で叩いた。


「怖かったら怖いって言えよ。『上』でも『前』でも、『いやな感じ』でもいい。

なんか引っかかったやつが声を出す。それだけで助かることもあるから」

「……はい」


短く返事をすると、さっきまでぼんやりしていたCブロックの図が、

少しだけ輪郭を持ち始めたような気がした。



その日の夜。

寮の談話室では、ニュースがいつものように回廊の話題を流していた。


『——浅層での運用は、現在も安定しています』

『事故件数は、前年同期比で減少傾向です』


テロップの下には、入口前で整列している回廊要員の映像。

頭に何かをつけて立っている隊員も、何人か映り込んでいる。


「これ、こないだの入口実験ですよね……」


日向が、ソファの背にもたれて画面を見上げる。


「“安全対策の一環”ってテロップ出てるな」


大熊が袋入りのスナックをつまみながら応えた。


『専門家は、「更なる安全性の向上が期待できる」と——』


続くコメンテーターのコメント。

画面の外では、夕飯を終えた研修生たちが思い思いに談話室を出入りしていく。


「Cブロックの話は、さすがにニュースには乗らないっすね」


三宅が、眼鏡を押し上げながら呟いた。


「ビーコンのログ取りに行きます、なんていちいち言わないだろ」

「『立ち入り制限解除されたエリア』『念のための安全確認』あたりのワード、

 そのうちどっかで使われそうではありますけど」


「……フラグみたいなこと言うな」


直耶は、今日もう何度目か分からないその台詞を口にした。


ソファの背に腕を預けて、テレビから目をそらす。

窓の外には、湾岸の光がにじんでいた。



3日後。


入口前のエレベーターホールには、見慣れた銀色の扉と、黄色いテープのライン。

その手前に、いつもより少し多い人数が並んでいた。


A班とB班、そして後列を支える別班の要員たち。

ヘルメットの色と腕章で、所属がいくつかに分かれているのが分かる。


「先行確認は、A班の吉永と第3の境。その後ろにシールド2枚、隊列は——」


前列で、木戸班長が淡々と指示を出していく。

低い声が、ホールの金属に少しだけ反響した。


「境、聞いてるか?」


森山が横から小声で確認してきた。


「はい。前列、吉永さんの右、ですね」

「そうだ。くれぐれも、張り切りすぎるな」

「……最近、それよく言われます」

「理由がないわけでもない」


森山はわずかに口元だけ笑って、すぐ真顔に戻った。

榊はといえば、後方で医務課の職員と何やらタブレットを見ている。

今日はバンドは付けられていないが、どこか同じような視線の鋭さがあった。


「じゃ、そろそろ行きましょうか」


木戸がそう言うと、エレベーターのランプが静かに点灯した。

分厚い扉が、音を立てずに左右に開く。

冷たい空気が、一呼吸分だけこちらに流れ込んできた気がした。


「乗れ」


木戸の声で、先頭から順にエレベーターに足を踏み入れる。


直耶は吉永のすぐ右に立つ。背中側に、シールドを構えた大熊の気配がある。

扉が閉まり、わずかな揺れとともに、箱ごと落ちていくような感覚が始まった。


エレベーターの中の照明は、訓練センターの廊下より少し暗い。

誰も口を開かない時間が、数十秒ほど続いた。


やがて、わずかな減速とともに、耳の奥がふっと軽くなる。


「開け」


木戸の指示で、扉が前方に開く。

そこは、いつものBブロックに続く通路より、少しだけ広い空間だった。


壁の材質も、完全なコンクリートではなく、ところどころ鋼材が顔を出している。


「ここからCブロック側に入っていく。ビーコンまでは、曲がり角2つ。C2までは、さらに1つ」


吉永が、手首の端末のマップをちらりと確認する。


「境、最初の角までは、頭上と右側の壁。大熊と日向は左側と足元。声は短くでいい。『上』『右』『段差』とか」

「了解」


声に出すと、喉が思ったより乾いているのが分かった。


通路に足を踏み入れると、空気の重さが、地上とは少し違っていた。

どこか、音が吸い込まれていく感じがする。


「——進行」


木戸の短い号令で、隊列がゆっくりと動き出した。

足音が、ヘルメットの内側でくぐもって響く。

ビーコンの薄い点滅が、通路の奥に1つ、また1つと見え隠れした。


(浅層、か)


ニュースの中の「浅層」は、もっと明るくて、もっと整った場所に見えた。

実際に歩く「浅層」は、思っていたよりも無骨で、ところどころに補修の跡がある。


最初の角を曲がる手前、天井の一部に新しいボルトと金属板が打ち込まれているのが見えた。

その少し横には、古いヒビの線が薄く残っている。


(ここで、何かが落ちた)


誰も口には出さないが、その場にいた全員が同じことを思ったような気がした。


「境」


前を歩く吉永が、小さく呼びかける。


「はい」

「さっきのシミュレーションと違って、ここでは“本物”が落ちてくる。でも、やることは同じだ。『上!』って聞こえたら、まず腕」

「……分かってます」

「怖かったら、それでいい。さっきも言ったけど、怖いって思ってるやつの声の方が役に立つこともあるからな」


前を向いたままの吉永の声は、なぜか少しだけ軽かった。

2つ目の角を曲がったあたりで、ビーコンの本体が見えてきた。

壁に取り付けられた箱型の装置が、規則正しく点滅している。


それが、さっき説明に出たビーコンだ。日本の小さな観測点。

地図の上ではただの記号でも、ここでは線をつなぐための杭みたいなものだった。


「ビーコン交換班、準備」


木戸の指示で、後方の技術要員が前に出る。隊列が一時的にその場で固まり、前後の警戒だけが続いた。


「C2は、この先まっすぐ行って、次の分岐を左」


吉永が、小声で直耶にだけ聞こえるように言う。


「そこは、少し広くなってる。頭上は、さっきより“ごちゃっと”してると思っておけ」

「ごちゃっと……」


想像しにくい形容詞に、直耶はヘルメットの内側で小さく息を吐いた。


スクリーンの文字よりも、ニュースのテロップよりも、

今はこの通路の天井に刻まれたボルトとヒビの方が、よほど説得力があった。


ビーコンの交換作業が終わり、再び隊列が動き出す。


C2まで、あと少し。


直耶はシールドの持ち手を握り直し、視線を自然と天井側へと上げた。

次の角の向こうに広がる空間を、まだ見ぬまま、腕と脚だけがわずかに緊張していく。



角の向こうで、誰かの声がかすかにした。


「——段差あり」


まず足元の情報が飛んでくる。

直耶は、一歩だけ歩幅を狭めた。


視界の端で、天井の形が変わるのが分かる。

その変化の意味を、まだ言葉にする前に——。


耳の奥で、訓練ルームの「——上!」が蘇った。

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