第10話 扉のこちら側
目覚ましの音が、いつもより遠くに聞こえた。
直耶は枕元を探る手でスマホをつかみ、画面を押さえ込むようにしてアラームを止める。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、やけに白い。
(……起きるか)
もう一度親指で画面を点けると、通知の一覧が目に入る。
銀行アプリからの「自動振替完了」と、病院名の入ったメール。毎月見慣れた文面だが、差出人の欄だけはまだ慣れなかった。
その下に、母からのメッセージが一件。
『今月もありがとう。こっちは変わりなし。
そっちは仕事、無理してない?』
(変わりなし、ね)
点滴と白い天井の下で打たれた短文を想像する。こっちの「変わりあり」を、どう説明したものかは分からない。
『大丈夫。こっちも変わりなし。
浅いとこだから、安全寄りだよ』
とりあえず、そう返して送信した。
母の「安全」のイメージが、ニュースの中の浅層で止まっていることは分かっている。それをわざわざ直す理由も、今のところは見つからなかった。
布団から足を出すと、ふくらはぎに鈍い筋肉痛が走った。昨日の走り込みと面談の緊張が、じわじわと足腰に残っている。
顔を洗って歯を磨き、簡単に髪を整えてから、ロッカーから作業着を引きずり出した。袖を通す前に、枕元のスマホが一度震える。
B班グループの通知だ。
森山:『おはよう。今日は入口前に少し早めに集合。
榊さんの“実験”付きだ』
日向:『おはようございます! ちゃんと起きました!』
大熊:『起きた。まだ昨日の筋肉痛とれない。』
三宅:『入口前で何させられるんですかね……輪になって自己紹介とかだったら帰りますよ』
直耶:『それはそれで怖いからやめてほしい』
スタンプが数個流れてから、「既読」の数が一気に増えていく。高梨からはまだ何も来ていない。時間的に、朝の検温だろうか。
(……入口前、ね)
昨夜、榊が言っていた言葉が頭に浮かぶ。
――“扉のこちら側”での変化を、少しだけ見てみましょう。
「こちら側」とわざわざ言い分ける必要があるのか。考えても答えは出ないまま、直耶は作業着のジッパーを上まで引き上げた。
*
訓練センターのロビーは、朝の空気にまだ少し冷気が残っていた。受付カウンターの向こうで職員が交代の挨拶を交わし、廊下の奥ではストレッチをする研修生の姿がちらほら見える。
入口側のエレベーターホールへと続く廊下は、「関係者以外立入禁止」の札で区切られていた。札の横に、見慣れた顔が立っている。
「お、境」
森山が軽く手を挙げた。
「おはようございます」
「おはよう。早いな。予定より十分前だ」
壁にもたれかかっているのは大熊、その隣には日向が立っていた。日向はなぜか、いつもより姿勢が良い。
「おはようございます、境さん! 今日、何するか聞きました?」
「まだ。『入口周りの設備に関する実験』ってだけ」
「ああ、それそれ」
大熊が肩を回しながら、あくびを噛み殺す。
「入口で待機してる時間とか、並び方とか見直すんだと。
“みんなの負担を減らすため”とか言ってた」
「負担を減らすために、まず負担をかけるタイプですね……」
三宅が後ろから歩いてきて、ぐったりした声を出した。
「実験って聞くだけで、なんかL値吸われそうな気が」
「そういう発想やめろ」
直耶が苦笑しながら言うと、森山が腕時計をちらりと見た。
「よし、全員……じゃないな。一人足りない」
「え、誰ですか?」
日向がきょろきょろ辺りを見回す。
廊下の奥から、脚を軽く引きずるような足音がした。
「悪い、ちょっと物療が伸びてさ」
高梨だった。ジャージ姿で松葉杖はついていないが、まだ完全には元通りとは言えない歩き方だ。
「おまえ、来てよかったのか?」
「“入口で立ってるだけ”って聞いたからな。
立てるなら参加しとけって、リハ室の先生に背中押された」
そう言って、いつもの調子でニヤリと笑う。
「現場復帰のためのリハビリだ。入口の前に立つくらい、やっとかねえとな」
その言葉に、日向がなんとなく背筋を伸ばす。森山が一度頷いてから、廊下の先を顎で示した。
「よし、行くか。時間だ」
*
エレベーターホールは、普段と少し違う様子だった。
床には黄色いテープで印がいくつも貼られ、扉から一定の間隔をあけた位置に番号が振られている。「①」「②」「③」……一番扉に近い印は、扉のすぐ手前にあった。
天井近くには小型カメラが増設され、壁際には折り畳みテーブルが並んでいる。テーブルの上にはタブレット端末と、腕時計のような形をした黒いバンドがいくつも並んでいた。ホールの中央には、白衣を着た医務課職員と、見慣れたスーツ姿の男が立っていた。細身のフレーム眼鏡と落ち着いた表情がなんとも似合っている。
「おはようございます、みなさん」
榊だった。
「おはようございます」
B班の面々が揃って頭を下げると、榊は軽く手を振った。
「いつも通りでいいですよ。今日はちょっとだけ、実験に付き合ってもらいます」
榊の隣で、医務課職員がバンドの入ったトレイを持ち上げた。
「これを皆さんの手首につけさせていただきます。心拍と皮膚温、それから簡易的なストレス指標を測る装置です。痛みはありませんので、ご安心を」
「ストレス指標……」
三宅が、ほとんど聞こえないくらいの声で繰り返す。バンドは黒いゴムと薄い金属板を組み合わせたような造りで、思ったより軽い。
「一応、落としたり叩いたりはしないでくださいね。
けっこう高いので」
医務課職員が冗談めかして言うと、日向が小さく笑った。
「高いんだ……」
「数字の前に、まず機械が壊れたら洒落になりませんからね」
榊はそう付け加えてから、全員の手首を一度ぐるりと見回した。
「じゃあ、ざっくり説明します。
これから皆さんには、扉から離れた位置から順番に、一歩ずつ近づいていってもらいます」
榊が指さした先、床のテープの印の横には、小さく「距離」の数字が書かれている。
「⑤が扉から五メートル、④が四メートル……一番手前の①が1メートルです。
各ポイントで数分間立ってもらって、そのときの反応を数字にしてます」
「榊先生ぇ、これ何の反応調べるんですかぁ?」
森山が少しふざけたように尋ねると、榊は肩をすくめるようにして答えた。
「入口前で、どれくらいしんどくなるか。距離とか待たされる時間で、どのくらい変わるのか。
そのへんを、ざっくり数字で見てます」
「敵は出ないんですよね?」
日向が念を押すように聞く。
「出ません。今日は扉もエレベーターも止めてあります。
……少なくとも、予定では」
最後の一言に、日向の表情が一瞬固まる。
「冗談です」
榊は苦笑し、片手を上げた。
「入口“前”に立っていてもらうだけです。扉のこちら側、ですね」
その言葉の選び方に、直耶は昨日のチャットを思い出した。
「何か体調に異変を感じたら、すぐに手を挙げてください。途中でやめても、それはそれで立派なデータですから」
医務課職員もそう言って頷いた。
「じゃあ、班ごとにいきましょう。今日は、B班から」
榊がそう告げた。
*
「まずは⑤のラインに並んでください」
B班は扉から五メートルの印の上に、横一列に並んだ。扉を正面にした位置だと、エレベーターの銀灰色の面が、ほぼ視界の中心に入る。
床から天井までを覆う金属の扉は、何度見ても実感の湧かない存在だった。ニュース映像では何度も流されているのに、実物を目の前にすると、まるで画面の向こうのものがここに貼り付けられているように感じられる。
(扉の向こうが、回廊)
直耶は胸の奥でつぶやいた。その向こう側で、自分たちのL値が削られていく。
「そのまま、楽な姿勢で立っていてください。しゃべっても構いませんが、走ったり跳ねたりはしないように」
医務課職員がそう言ってタブレットを操作すると、バンドが一瞬わずかに熱を帯びたように感じられた。
「カウント開始」
榊の静かな声とともに、ホールに人工的な静けさが降りる。
「……微妙に気まずいですね、これ」
小声で言ったのは三宅だ。
「何分立ってるんすかね」
「3分だ」
森山が腕時計の秒針をちらと見て答える。
「3分ここで、少し休憩して、同じことを繰り返す。扉にだんだん近づきながらな」
「地味にキツいやつだ……」
日向が情けない声を出した。
会話はそれきり途切れた。空調の風の音、遠くの廊下の足音が、普段よりも大きく聞こえる。銀色の扉は、何の変化もなくそこにあるだけだった。
「はい、⑤はここまで。一度下がって、④に」
声に従って一歩前に出る。扉が、わずかに大きくなる。
④のラインでは、さっきよりも扉の存在感が増していた。それでも、まだ「ただのエレベーターの扉」の範囲内と言えなくもない。
「なんか、目が合ってる気がする……」
日向がぽつりと漏らした。
「扉と目が合うって何だよ」
大熊が小声で突っ込みながらも、視線は扉からなかなか離れない。直耶は呼吸を意識的にゆっくりにした。心臓の音が、妙に耳の奥で響く。
(まだ、何も起きてない)
頭ではそう分かっているのに、背中のどこかがじわじわと冷えていくような感覚があった。
「……④、終了。次は③です」
③のラインまで進む。扉からの距離は三メートル。そこまで近づくと、扉の表面のわずかな傷や、微妙な色のムラが目に入ってくる。手のひらを伸ばせば届きそうな距離ではないが、自分の体温が金属に伝わりそうな錯覚を覚える。
(こうやって、毎日、何人もここを通ってる)
回廊要員だけでなく、設備の人間や点検の人間も含めれば、扉の前を通り過ぎる人数はかなりのものになるはずだ。それでも、扉の向こうに実際に足を踏み入れる人間は、その中のごく一部だけ。
手首のバンドが、かすかに脈を打つように締め付けを変えた。その感覚に、直耶は首筋の筋肉がこわばるのを自覚する。
榊はそんな彼らの様子を、ホールの端から静かに見ていた。
「……③までで、けっこう差が出てきますね」
医務課職員が小声で呟く。タブレットの画面には、複数の波形と数字が並んでいるのが見えた。
「個別の値はあとでゆっくり見ます。数字だけ見ると、なかなか面白い並びですね」
「面白い、って言い方やめてくださいよ……」
大熊がぼそっと言う。榊は小さく肩をすくめた。
「じゃあ、“現場的には助かる”にしときましょう」
「③、終了です。一度、後ろのベンチで短く休憩を」
扉から目を離した瞬間、直耶は自分の肩が思った以上に上がっていたことに気付いた。意識して息を吐き、肩の力を抜く。
「地味に疲れますね……」
日向がベンチに腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「敵も出てないのに、足の裏が妙に汗かいてる」
「扉見てるだけで、なんか試験受けてる気分だな」
三宅も、靴の中で足の指を動かしながら言う。
高梨は少し離れたベンチに座り、膝を軽くさすっていた。
「膝は大丈夫か」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫だ」
大熊の問いに、高梨はいつもの調子で曖昧な返事をする。
「動き回るわけじゃないからな。ただ立ってるだけなら、怪我人にもできる仕事だ」
その言い方が、どこか自嘲気味に聞こえた。
「次は②と①ですね」
森山がそう確認したところで、医務課職員が声をかけた。
「あと2回で終わりです。無理はしないでくださいね」
直耶は水を一口飲み込み、立ち上がった。
(あと2回)
たったそれだけのはずなのに、扉がさっきより重く見えた。
*
②のラインは、扉から2メートル。そこまで近づくと、エレベーターの両脇の壁も視界に入り、扉そのものが「穴」に見えてくる。足元の床と扉の境目が、細い線になって意識に引っかかった。
(この線を踏めば、向こう側)
実際には扉は閉じているのに、そんな感覚が頭をよぎる。扉の向こうにある空気の重さを、想像だけで肺に感じるようだった。
「……うわ」
隣で日向が小さく声を漏らす。
「なんか、耳がキーンとする」
「高度変わったわけじゃないからな」
目は扉に向けたまま答えたのは大熊だ。
手首に締め付けるバンドの感触が、さっきよりはっきりしてきた。鼓動と一緒に、手首の内側で何かが測られている。
(あの向こうで、田島たちは削られて……)
考えかけて、直耶は意識的に思考を遮った。
「はい、②も終了」
声が聞こえたとき、ホールの空気が少しだけ緩んだように感じられた。
「では最後、①に」
一歩前に出る。扉から1メートル。
そこに立つと、扉の存在が全身に覆いかぶさってくるようだった。視界のほとんどが金属の灰色で埋まってしまう。
光沢の薄い扉の表面にはかすかな歪みが映り込み、自分の姿がぼんやりと影のようにそこに混ざるようだ。
(近い)
もしこの扉が音もなく開いたら、そのまま足が前に出てしまうのではないか。そんな、妙な引力の感覚があった。
呼吸を整える。肺の奥まで空気を入れて、ゆっくり吐き出す。
(……あれ)
胸のざわめきが、さっきより少しだけ静かになった。
②に立っていたときの方が、足の裏が心細かった。今は、扉が目の前にある分、むしろ「ここだ」と決められた場所にいるような感覚がある。
(変だな)
境界帯で盾を構えたときに感じた恐怖とは、まるで逆の変化だった。あのときは、前に出るほど怖くなった。
今は、引き返す方が怖いような気がする。
「……」
榊はホールの端で、タブレットの画面に目を落としていた。そこに表示されている複数の線のうち、一つだけが、他と少し違う動きをしている。
扉から遠いときは他と大差ない。しかし、扉に近づくにつれて、その線だけがわずかに揺れを収束させていた。
「どうですか」
医務課職員が小声で尋ねる。
「ええ。数字だけ見れば、きれいに差が出てます」
榊は目を離さずに答えた。
(扉に近づくほど、落ち着くやつが一人いるな)
声に出すことはしなかった。その名前に、さっと目を走らせるだけだ。
――境 直耶。
「①、終了です。お疲れさまでした」
医務課職員の声とともに、測定が止まった。
「バンドを外しますね」
手首からバンドを外されると、急に腕が軽くなったように感じられた。
「どうも……」
直耶が礼を言うと、医務課職員はにこりと笑った。
「良いデータが取れましたよ。
皆さんの協力に感謝します」
「“良い”って言い方が、やっぱり怖いんですけど」
三宅がぼそりと呟き、日向が小さく笑う。
榊が一歩前に出て、B班の方を向いた。
「協力ありがとうございました。さっきのは、入口前で立ってるとどのくらいしんどくなるか、距離ごとに数字を取らせてもらっただけです」
「……だいぶ負担でしたけど」
「ですよね」
日向の言葉に、榊は少しだけ目を細めた。
「その負担を、ちょっとでもマシにするために、待機位置とか時間をいじっていきます。今日の分は、その材料です」
「待機時間の調整、っていうのは……」
森山が尋ねると、榊は「そうですね」と前置きしてから続けた。
「たとえば、入口の前でぼーっと突っ立ってる時間を短くして、装備の最終確認はもう少し後ろでやるとか。あるいは、扉に近い列と、一歩引いた列で役割を分けるとか」
「距離で、ですか」
「扉のすぐ前に立つ人間と、少し離れたところで控えてる人間。負荷のかかり方が違うので」
その言葉に、直耶はさっきの感覚を思い出す。
扉に近いときほど、心臓の音が静かになった自分。扉から離れているときほど、足元が落ち着かなかった自分。
(俺は、どっちの側に立たされるんだろうな)
榊はB班の顔を一人一人見渡し、最後に直耶のところでほんの少しだけ視線を留めた。
「細かい運用変更は、そのうち紙が回ります。B班には、“前に立ってもらう場面”が、今までより増えると思っておいてください」
「やっぱりそういう話……」
三宅がうなだれる。大熊がその背中を軽く叩いた。
「まあ、俺たち、そういう仕事だしな」
「……そうだな」
直耶は扉を一度振り返り、その金属光沢を目に焼き付けるように見つめた。扉は何も答えない。
*
入口実験の翌週から、B班の生活リズムは少しずつ変わっていった。
集合時間は、以前より少し早くなった。入口前での待機時間は、短くなったようでいて、結局「扉の近くで準備をする」場面は増えた。
「先行確認班」と呼ばれる役目が新設され、そこにB班のメンバーがよく割り当てられた。扉の前に先に立ち、扉が開くのを待つ役目。
「まあ、入口前でぼーっと立ってるだけなら楽でいいじゃないか」
最初にそう言ったのは、どこか別の班の隊長だった。でも、「楽」という言葉は、扉の前に立ってみると、すぐに違うものに変わる。
(楽、ではないよな)
…すぐそこまで何かが寄ってきている気配が、はっきりと背中に張り付く日もある。
L値の数字は、変動の範囲に収まっていると医務課は言う。それでも、日ごとに、扉の前に立つという行為は、確実に体のどこかを削っていくように感じられた。
「最近、入所者増えたと思ったら、辞めてくやつも増えましたね……」
食堂での昼休み、三宅がトレイの上のメニューをつつきながら言った。掲示板の片隅には、「退所のお知らせ」が増えている。「自己都合」「家庭の事情」「体調不良」――理由はいつも似たような言葉だ。
「新しいやつも、すぐ見なくなるな」
大熊が味噌汁をすすりながら呟く。
「山岸みたいに、説明する間もなく消えるときもあるし」
その名前に、日向が箸を止めた。
「……境さんたちは、山岸さんと同じ班だったんですよね」
「だった、な」
「自分が入ったときには、もういなくて。『家庭の事情』って聞きましたけど」
「そう書いてあったな」
直耶はご飯を口に運びながら、掲示板の白い紙を思い出す。そこには何も書かれていないのと同じだった。
「入口前で待ってるとさ」
日向が少し声を落とした。
「たまに、列の後ろに人が増えた気がするんですよ。振り返ると、誰も増えてないんですけど」
「やめろ」
三宅が即座に遮る。
「そういうのやめろマジで」
「すみません」
日向は自分で苦笑いを浮かべた。
「でも、田島さんみたいに“こっち側”に回された人って、他にもいるんですよね」
「いるな」
大熊が頷く。
「今日もセンターの裏の方で見たぞ。モップ持って歩いてた」
「田島、どうしてるんですかね」
直耶は昨日の喫煙所での会話を思い出した。
――心配すんな。まだ“こっち側”にはいる。
――だから、境はそっちを頼むわ。
(そっち、か)
境界線を挟んだ向こうとこちら。扉の向こうとこちら。病棟の押せない階と、面会フロア。見えない線だけが、いくつも頭の中に浮かぶ。
「境?」
森山の声で、直耶は我に返った。
「悪い。何でもないです」
「寝不足か?」
「いや、大丈夫です」
そう答えながら、自分の胸の奥を探る。L値の数字は、相変わらず「81」を中心にした小さな揺れの範囲にいるらしい。
でも、そこからほんの少しずつ、余白が削れていく感覚は消えない。
*
季節が、少しだけ進んだ。
寮からセンターまで歩く道の空気が、ほんの少し冷たくなる。朝の集合時刻は変わらないが、空の色や光の角度がじわりと変わっていく。
入口前での待機は、日常になった。銀色の扉に向かって立つ時間は、「仕事の一部」として体に染み付いていく。
高梨はリハビリを続けながら、たまにB班の訓練に顔を出した。
「あと少しで、走る許可が出そうだ」
そう言って笑う顔の下で、膝にはまだサポーターが巻かれている。
新しい研修生が何人か入り、何人かは退所していった。名前も覚えないうちに消える顔もあった。
「事故件数は減少傾向にあります」
夕方のニュースのアナウンサーは、相変わらず同じ文句を読み上げる。
――浅層における重大事故は、ここ数ヶ月発生していません。
テロップの下に映るのは、入口前で整列した回廊要員たちの姿。その中に、B班の誰かが映っている日もあった。
頭に何かを付けて立っている映像に、スタジオのコメンテーターが疑問を投げる。
『あれは何をしているんでしょうね』
『安全対策の一環だと思いますが……』
画面の向こうで何が言われていようと、扉の前に立つ足の裏の汗の感触は変わらない。
*
ある日の夕方、B班に一本の通達が届いた。
《Cブロック合同任務に関する説明会 第三探索部門所属 B班》
日時と場所が記された簡潔な通知だ。
「合同任務……」
森山が紙を読み上げる。
「Cブロックって、どんなとこなんですか?」
日向が尋ねると、大熊が頷いた。
「浅層の中では、広場みたいな場所が多いエリアだ。分岐も多いから、ルート取りの訓練にはちょうどいい」
「前に、何かあったって話は聞きましたけど……」
三宅が、言葉を選ぶように付け加える。
「寮の談話室で、別の班の先輩が言ってましたよ。『ちょっと前まで、一部が立ち入り制限かかってた場所』だって」
「“ちょっと”で済んだのかどうかは知らないがな」
大熊はそう言いながら、通知を見つめた。
(Cブロック)
この前、別の任務の事故報告で見た地図の中に、その文字があったのを思い出す。…浅層の割に、やたら注意マークが付いていたエリア。
今、自分たちが向かおうとしているのは、その少し先だ。
地図の上では“浅層”の枠内に収まっているはずの場所。
「明日、説明会がある」
森山が紙を折りたたみながら言った。
「入口前で立っているだけじゃない仕事が、そろそろ回ってくるってことだな」
「……そうですね」
直耶は小さく頷いた。
扉のこちら側で測られた数字と、向こう側で削られる余白。そのどちらも、これから試されるのだと、ぼんやりと理解していた。
自室に戻ってベッドに横たわると、天井の白さが視界いっぱいに広がる。
母がいる病院の天井も、同じような白だった。押せない階の上にある天井も、きっとどこかで同じ色をしている。
(扉のこちら側)
目を閉じると、銀色の扉が浮かぶ。その手前に貼られた、黄色いテープの線。その線のどちら側に自分が立たされるのか――もう、ほとんど決まっているのだろう。




