第9話 見えない線
「はいラスト! 全力で行けー!」
教官の声に押されて、境直耶はスタートラインを蹴った。
前を走る三宅の背中が、じりじりと近づいて、また離れていく。
いつもなら視界の端に入る、もう1つ大きなシルエット――大熊の姿はない。
リハビリ中だから当然だが、足音が聞こえないだけで少し落ち着かない。
最後のカーブを抜けて、ゴールラインを駆け抜ける。
足を止めた瞬間、膝の裏が一気に重くなった。
「はー……」
息を整えていると、少し遅れて三宅がゴールしてきた。
肩で息をしながら、両手を膝に突く。
「……お疲れさまです」
「おつかれっす……今日は本気でしたね、境さん」
冗談とも本気ともつかない調子で言われ、直耶は肩をすくめた。
クールダウンのストレッチに移ろうとしたとき、
グラウンド脇のスピーカーから、事務的なアナウンスが流れる。
『研修生番号301番から320番は、本日10時より適性再評価面談があります。
指定の時間に第3会議室まで集合してください』
「……出た」
三宅がタオルで汗を拭きながら、顔だけ上げた。
「境さん、番号いくつでしたっけ」
「315」
「自分319なんで、見事にセットですね。
あ、302から305って、第2班の連中でしたっけ」
「だったはず。あと……」
直耶は、朝の点呼の列を思い出す。
「そういえば、田島見なかったな」
「……あー、あのやたら声デカい田島っすよね。
合同実習んとき、ずっと騒いでたじゃないですか。
前はグラウンド走ってるのよく見ましたけど、
最近『裏方に回された』って噂だけ聞きました」
“裏方”という言葉が、さっきのアナウンスと妙に重なる。
「適性再評価って、あれですよね。
L値と、この前の巡回の結果と、まとめて眺めるやつ」
「『現場の安全性向上のため』、ってやつな」
直耶は水を飲みながら、スピーカーを見上げた。
金属の網の向こうで、無機質な音声がさらに何かを告げている。
「このタイミングで301から320って、きれいに区切ってきましたね」
「うちの班と、その前後まとめて、ってことだろ」
点呼の列から少しずつ顔ぶれが変わっていくのを、ここ最近何度か見ている。
「家庭の事情」「自己都合」――そういう言葉で処理された退所通知も、既に何枚か見た。
「……今朝も、いなかったやついたよな」
「いましたね。
L値落ちたやつ、地味に増えてるって噂ですし」
三宅はタオルを握ったまま、目を伏せる。
「境さん、今いくつでしたっけ」
「81。昨日の検査だと」
「健康優良児じゃないですか。
自分、たぶん70台前半なんで、再評価って聞くだけで胃がキューッて」
「まだ余裕あるだろ」
「そういう人から前に立たされていくんですよ、どうせ」
言葉とは裏腹に、三宅の表情はそこまで暗くない。
それでも、「適性再評価」という単語が、胸の奥でじわじわと重くなっていく。
「10時か。シャワー浴びて着替えて、ちょうどいいくらいだな」
「ですね。せめて汗臭くない状態で評価されたいです」
直耶はストレッチで足を伸ばしながら、心の中で時間を数えた。
今日1日、筋肉痛とは別の場所が重くなりそうな予感がした。
*
第3会議室は、訓練センターの端の細い廊下を曲がった先にあった。
ドアには「会議中」の札と、「関係者以外立入禁止」のプレート。
その下に、「本日の面談対象者は入室可」と小さい紙が貼られている。
中は窓のない細長い部屋だった。
壁際に長机が2列並び、その両側に研修生たちが番号順に座っている。
前方にはスクリーンと簡易な演台。壇上にはスーツ姿の女性と白衣の医務課職員、それから探索部門の係官が1人ずつ立っていた。
「なんか、就職説明会の逆バージョンみたいですね……」
三宅が小声で漏らし、前列から「しー」と制される。
スクリーンには、簡潔な文字が映っていた。
『適性再評価について
・体力・反応速度の変化
・L値の推移
・メンタルチェック結果
・今後の配置方針(案)』
(“案”、ね)
ここで出される「案」に、どれだけの人間が逆らえるのか。
壇上のスーツの女性が、マイクを軽く叩いた。名札には《人材管理課 岸》とある。
「それでは、順番にお名前をお呼びします。
呼ばれた方は、後方の個室にお入りください」
番号が1つずつ呼ばれるたび、椅子の脚が床をこする音が部屋に広がる。
出て行く背中と、数分後に戻ってくる顔。
少しほっとした表情。
口元が固く結ばれたままの顔。
何を考えているのか読みづらい無表情。
見ないようにしても、自然と視界の端に入ってくる。
通路側の列には、別の班の研修生も混ざっていた。
腕に包帯を巻いた者、足をかばい気味に座っている者。
それぞれの表情が、「今後の配置方針(案)」の文字と重なる。
「315番、境直耶さん」
自分の番号が呼ばれ、直耶は椅子から立ち上がった。
背中に、いくつかの視線がざわりと集まる感覚があった。
*
個室用の小さな部屋には机と椅子が向かい合うように置かれ
机の向こうには壇上にいた岸と、タブレット端末を持った医務課の男性が座ってた。
エアコンの風のせいか、部屋の空気は廊下よりわずかに冷たかった。
「境さんですね。どうぞ、お掛けください」
岸は、柔らかい声でそう言った。
その目は、数字の表を読む人間の目だ。
「まず、体力と反応の指標について。
直近の測定結果では、いずれも前回よりわずかに上昇しています。
この点に関しては問題ありません」
「……はい」
「L値。前回82、今回81。
医務課としては“誤差の範囲内”という認識でよろしいですか」
隣の医務課職員が頷いた。
「ええ。回廊従事者としては、まだかなり余裕のある値です。
筋肉痛や疲労を考えると、むしろよく保っている方ですよ」
どこかで聞いたような言葉だった。佐伯も同じようなことを言っていた。
「メンタルチェックの簡易テストも、大きな偏りは見られません。
——自覚症状として、何か変化はありますか?」
岸はタブレットから視線を外し、真正面から直耶を見る。
「変化……」
少し考えてから、正直に口を開いた。
「この前の群れのことを思い出すと、胸のあたりがざわざわします。
寝る前にその光景が浮かぶことはありますけど、今のところ眠れないほどではないです」
「食欲の低下は?」
「寮の飯がもともとそんなに美味しくないので、そこは……」
言いかけて、自分で苦笑する。
医務課の男性が小さく笑い、すぐ真顔に戻った。
「すみません」
「いえ、正直な答えで結構です」
岸も口元だけ笑い、すぐ表情を整える。
「では、自覚症状としては軽度の不安反応程度。
境さんに関しては、現時点で配置変更の予定はありません。
第三探索チームB班、浅層巡回の研修コースを、このまま継続」
「……はい」
予想していたとおりの内容だ。
それでも、「継続」という言葉が、自分にだけ重くのしかかってくる。
「ただし」
岸の声が、わずかに硬さを帯びた。
「余裕のある方には、前に立っていただく場面が増えます。
その点は、認識しておいてください」
「了解しました」
「何か質問は?」
“ありません”と言おうとして、喉の奥で言葉が引っかかった。
代わりに、別の言葉が出る。
「……L値が低い人は、どうなるんですか」
一瞬、空気が固くなる。
岸と医務課職員の視線が、ぴたりと揃った。
「最初から基準値を大きく下回っている場合は、回廊要員としては採用しません」
医務課の男性が、事務的な口調で答える。
「途中で急に落ち込んだ人、あるいは変動が激しい人は、
様子を見ながら配置を変えることになります。
医務室への来室が増えたり、眠れない日が続いていたりする場合は、
現場ではなく地上の部署に移ってもらうことが多いですね」
「地上の部署……」
「設備管理や資料整理、分析補助などです。どれも大事な仕事です」
岸が言葉を引き取る。
「それでもなお、一定のラインを下回った場合は、
専門の病棟でしばらく休んでもらうこともあります」
「それは本人のためでもあり、一緒に潜る人たちのためでもあります。
線は、どうしても引かないといけないので」
(一定のライン、か)
81という数字が、頭の中でぼんやり浮かぶ。
紙の上では十分な余白がある。
でも、その余白がどれくらいの速さで削れていくのかは、誰にも分からない。
「……境さんの現状は、その線からは十分離れています。
少なくとも“今のところは”ね」
岸はそこで言葉を切り、「質問は以上でよろしいですか」と目で問うた。
「はい」
椅子から立ち上がるとき、脚が床に引っかかって、短い音を立てた。
その小さな軋みが、妙に耳に残る。
「次の方を呼んできてください」
*
会議室に戻ると、三宅がそわそわと椅子の上で体を揺らしていた。
直耶と目が合うと、小さく手を挙げる。
「どうでした?」
「現状維持。B班続行」
「まあ、そうなりますよね……」
安堵と、何とも言えない重さが混じった顔になる。
「『余裕のある人は前に立ってもらいます』ってさ」
「ひどい理屈だ……」
三宅は苦笑しながら、声を落とした。
「噂だとさ、
L値が“だいぶ下の方”まで落ちると、もう現場戻ってこれないらしいですよ。
具体的にいくつってのは、誰も教えてくれないですけど」
「“だいぶ下”って、どのくらいなんだろうな」
「さあ……。
同期で1人、医者に『この先は落とせないラインです』って真顔で言われて、
それっきり回廊には降りてないやつはいますけど」
田島の顔が、そこで頭に浮かぶ。
「319番、三宅祐介さん」
名前を呼ばれ、三宅がびくっと肩を震わせた。
「行ってきます。
戻ってこなかったら、今日の夕飯、誰かに譲っておいてください」
「変なフラグ立てるな」
直耶が苦笑すると、三宅は少し笑って部屋を出て行った。
扉が閉まる音を聞きながら、直耶はスクリーンを見上げる。
『今後の配置方針(案)』の文字が、さっきより近く感じられた。
(線から離れているうちは、前に出される)
(線に近づいたら、どこかで外される)
どちらも、自分で選べることではない。
*
面談がひととおり終わると、「本日の訓練は各自調整」とだけ告げられて解散になった。
寮に戻る者、個人訓練室を押さえに行く者。
番号順の列は、すぐにばらばらに散っていく。
直耶はなんとなく、センターの裏手へ足を向けた。
建物の影になった一角に、喫煙所とベンチがある。
タバコは吸わないが、人の出入りが多く、話をするにはちょうどいい場所だった。
自販機の前には、見覚えのある背中があった。
灰色のジャージ。少し色あせたスニーカー。
短く刈り込んだ髪。
「……田島?」
声をかけると、男が振り向いた。
「ああ。境か」
センターに入ったばかりの頃から、寮の廊下や座学のときにやたらと目立っていた同期――田島だった。
大声で喋って笑って、合同実習でも1番うるさかったやつだ。
その田島が、今日はただのジャージ姿で、声も妙に落ち着いている。
「最近、姿見ないと思ってました」
「最近、ってほど最近でもねえけどな」
田島は、自販機から出てきた缶コーヒーを片手で受け取り、プルタブを開けた。
ひと口飲んで、眉をひそめる。
「……相変わらず、薄いな、これ」
味の感想にしては、やけに真剣な顔だった。
一瞬だけ表情が固まり、それからふっと力が抜ける。
「こっち側の人間になっちまった」
「“こっち側”って?」
直耶が隣に立つと、田島はベンチを顎で示した。
「座れよ。立ってると、なんか落ち着かねえ」
言われるままに隣に腰を下ろすと、コンクリートの冷たさが汗ばんだ背中にじんわり伝わる。
以前ならもっと大きな声で、くだらない冗談の1つも挟んでいただろうところだ。
「現場上がりの裏方だよ。
清掃と設備点検と、自販機の補充と、新人の誘導と……」
1度、言葉がそこで途切れる。
何かを思い出したように、田島はグラウンド方向に一瞬視線を向けた。
「……たまに、訓練の声が“あっちの音”に聞こえるんだよな。
いや、冗談だ。気にすんな」
自分で首を振って、その話を打ち消す。
「L値、ですか」
慎重に尋ねると、田島は小さく笑った。
笑ってはいるが、目の奥はどこか遠い。
「まあ、そうだな。
元々高い方じゃなかったけど、この前ちょっとやらかしてな」
「やらかした、って」
田島は、缶の縁を指でなぞりながら、視線を遠くに投げた。
喫煙所の先には訓練用の壁、その向こうに管理局のビル群が重なって見える。
「浅層でさ。敵の数も、パターンも、大したことなかったんだよ。
教科書どおりにやれば、余裕でさばけるはずの場面だった」
「はい」
「なのに、急に視界が細くなってさ。
トンネル覗いてるみたいな感じ。
音も変に遠くて、自分の心臓の音だけやたらでかくてさ」
缶を持つ指先が、わずかに震えているのが見えた。
「足が、“ここにない”感じになってな。
動かそうとしても、誰か別のやつに指示飛ばしてるみたいなズレがあって……」
直耶は、境界帯での遭遇を思い出す。
盾を構えた腕の震えと、背中を伝う冷汗。
だが田島の言葉は、それより数段深いところの感覚に触れているようだった。
「盾出してるだけで精一杯でよ。
隊長に怒鳴られて、後ろに下げられて、なんとか戻ってきた」
田島はコーヒーをあおり、喉を鳴らす。
「で、検査したら、L値が“だいぶ下の方”まで落ちてたってさ」
「“だいぶ下”……?」
「詳しい数字は教えてくれねえんだよ。
モニターには何か出てたけどさ、医者の方がすぐ隠すから」
そこだけ、少し苦笑いが混じる。
「ただ、『この先は落とせないラインです』って、静かに言われた。
その言い方が1番怖かったわ」
「それで、現場から外されたんですか」
「“一時的な現場離脱”って名目だな。
まあ、『一時的』がどのくらいかは誰も言わねえけど」
言葉は軽くても、その隙間に沈黙が染み込んでいる。
「今は、どのくらいなんですか」
直耶が聞くと、田島は少しだけ肩をすくめた。
「『前よりはマシになってきてる』とは言われた。
でも、『だからと言ってまた中に入れていいかは別問題です』ってな」
缶を握る指に、力が入りすぎて、わずかにへこむ。
「……戻りたいと思うんですか」
自分で質問しておきながら、直耶は少し後悔した。
でも田島は、意外なほどあっさりと頷く。
「正直な話をすれば、たまには思うよ」
視線は、ビルとビルの隙間に向けられている。
「寮から駅まで歩いてるとさ、
視界の端に“あの壁”が見える時があるんだよ。
振り向くと、ただのコンクリなんだけどな」
「幻覚……ですか」
「さあな。
“似てるだけ”って言われりゃ、そうかもしれん」
自分で言いながら、どこか怯えたように笑う。
「病棟もあるだろ。
母ちゃんの病院、立ち入り禁止のフロアとか」
「……あります。
エレベーターのボタンが押せない階が、1つ」
「そういうとこに、しばらく入ってたやつも何人か知ってる」
田島は、喫煙所の脇にある別棟の屋上を見上げた。
そこには窓のない壁面があり、ただ白い面が空に向かって立っている。
「回廊の壁と病室の壁が、ごちゃ混ぜになってたってさ。
『ここ、どっちだっけ』って何回も聞かれた。
夜中に、誰もいない廊下から“足音”聞こえるとか」
声がだんだん小さくなる。
最後の方は、自分に言い聞かせるような調子だった。
「……その人たちは、戻ってきたんですか」
「体だけな。
現場には戻ってこなかった」
あっさりと言うが、重さがを感じずにはいれなかった。
「俺も、もうちょっと落ちてたらそっちコースだったかもしれん。
だからまあ、ここでモップとコーヒー相手にしてるくらいが、
俺にはちょうどいい……って、思うようにしてる」
「……」
直耶は、缶を持つ田島の手元を見る。
震えはもう止まっているが、握りしめた指の関節が白い。
「境はどうなんだ」
突然、名前を呼ばれ、直耶は瞬きをした。
「俺、ですか」
「L値もそうだし、続けるつもりなのかとか」
直耶は、自分の胸の内を探るように息を吸った。
「今すぐやめるつもりはないです。
母さんの病院代もありますし」
「そりゃそうだ」
田島は、どこか納得したように頷く。
「数字高いやつは、現場からしたらありがたいんだろうな。
壊れにくくて、長く持つコマ」
「その言い方、やっぱり好きじゃないです」
昨日の佐伯の言葉を思い出しながら、自然と口から出た。
「分かるけどよ」
田島は、笑いながら頭をかいた。
「でも、現場ってそういう回し方するだろ。
壊れにくいやつにはたくさん前に立ってもらって、
壊れやすいやつは、どっかで線引きされる」
さっき岸が言った「線」が、ここでも出てくる。
「……自販機の補充、楽しいですか」
ふと浮かんだ疑問を、そのまま口にした。
田島は一瞬きょとんとしてから、ふっと笑う。
「楽しくはねえよ。
でも、ここでこぼれた飲み物で滑って骨折るやつを減らせるんなら、
それはそれで意味はあるだろ」
「大事な仕事じゃないですか」
「だろ?」
田島は、へこんだ缶を軽く振って、空になったことを確かめた。
うるさく笑って場をかき回していた頃の印象と、目の前の静かな動きが、うまく重ならない。
そこでふいに、彼は喫煙所の向こうをじっと見つめた。
何もない空間を数秒眺めてから、首を小さく振る。
「……悪い。
たまに、あっちの通路の形が、ここに重なって見える」
「今ですか」
「今は、もう消えた」
軽く首を回して、自分で自分をほぐすみたいに肩を叩く。
「心配すんな。まだ“こっち側”にはいる。
だから、境はそっちを頼むわ」
「……」
「褒めてんだって。じゃ、そろそろ戻るわ。
売り切れランプ放っとくと、上から怒られるんだよ」
田島は立ち上がり、ゴミ箱に空き缶を放り込んだ。
去り際、少しだけ振り返る。
「またどっかでな。
数字、ほどほどにな」
背中は、回廊入口のある方角とは逆に曲がっていった。
*
夕方。
寮の食堂で遅めの夕飯をとり、自室に戻ると、スマホには通知がいくつも並んでいた。
《第三探索B班(仮)》
同期数人と森山、榊が入っているグループチャットだ。
森山:『明日のブリーフィングで、次回以降のルート調整の話をする。
一部、入口付近の待機時間が変わる』
榊:『ついでに、ちょっとした実験にも付き合ってもらいます。
安心してください、敵は出ません。たぶん』
直耶が「実験?」と首をひねるより早く、日向から返信が飛ぶ。
日向:『えっ、実験ってなんですか!? また新しい敵とかですか!?』
榊:『違います。
入口周りの設備に関する、簡単な協力です。
みなさんに、少しだけ長く立っていてもらうだけですよ』
大熊:『エレベーターの前で仁王立ちさせられるのか?』
高梨:『お前らだけ面白いことすんなよ。ちゃんと動画回しとけよな』
日向:『高梨さんも早く戻ってきてくださいよ! B班のツッコミ要員足りません!』
大熊:『いやそこは俺だろ』
三宅:『境さんがボケ担当なら、誰がツッコミ担当なんですかね……』
境:『待て、いつ俺がボケ担当になった』
軽口とスタンプが一気に流れて、画面があっという間に埋まっていく。
さっきまで田島の話で重くなっていた胸のあたりが、少しだけ軽くなった気がした。
(入口周りの設備、ね)
その言い方が、なんとなく引っかかる。
管理局のパンフレットには、「安全な昇降設備」とだけ書かれたエレベーター。
ニュース映像では、無機質な扉が開いて、装備を整えた人たちを飲み込んでいく。
(あそこで、何を測るつもりなんだろう)
L値に関係する何かなのか、それとも単に動線の改善なのか。
考えても答えは出ない。
スマホを伏せてベッドに仰向けになると、天井の白さが目に刺さった。
母がいる病院の天井も、同じような白だったことを思い出す。
(病棟……)
田島が言っていた「窓のない階」や「どっちの壁か分からなくなる病室」。
母の病室のフロアの奥にも、「関係者以外立入禁止」と書かれたドアがある。
――一定より下だと、そもそも回廊要員には回さない。
――その人たちは、“安全な浅層”からは消える。
グラウンドと回廊の間。
回廊と病棟の間。
数字の上と下の間。
見えない線がいくつも引かれているように思えた。
スマホがまた震え、新しい通知が2件増えた。
高梨:『まあ、とりあえず誰も死んでねえうちは勝ちだろ。
L値高いやつらはがんばれ。ベッドから応援しとく』
日向:『高梨さんが戻ってくるまでに、自分ももうちょっと役に立てるようにしておきます!』
思わず、小さく笑いが漏れた。
(……そうだな)
少なくとも、今日のL値は81で、
「現場続行」と判断された。
田島は、基準より“だいぶ下”まで落ちて回廊から外され、
どこかの誰かは、今日の面談で静かに列から抜けていったのかもしれない。
それでも――まだ、B班のグループチャットはいつもどおり動いている。
明日の集合時間を決めて、くだらないやりとりをして、スタンプで画面を埋めている。
榊:『明日は少し早めに入口前に集合してください。
“扉のこちら側”での変化を、少しだけ見てみましょう』
直耶はその文面を読み、ゆっくり目を閉じた。
エレベーターの銀色の扉が、まぶたの裏に浮かぶ。
その向こう側で削られていくものと、
こちら側で引かれている線のことを、ぼんやりと考えながら。
(とりあえず、明日もちゃんと起きて、入口前に並ぶか)
自分にそう言い聞かせるみたいに息を吐く。
「……ほどほどに、だな」
田島の言葉を少しだけ変えて呟いて、
直耶はようやく、布団をかぶった。
さっきよりほんの少しだけ軽くなった胸の重さを、そのまま抱えて。




