第8話 報告書の行間
群れとの遭遇から3日。
筋肉痛は、ようやく「いつもの訓練の延長」くらいのキツさに戻りつつある。
だが、そのざわつきだけは、胸の奥にこびりついたままだった。
*
「——じゃあ、第三探索チームB班の巡回ログ、ここから」
薄暗いブリーフィング室。
正面のモニターには、見慣れた回廊のマップが投影されていた。
浅層Cブロックから、問題のC〜D境界帯へ。
その先に、太い赤線でぐるりと囲まれた範囲がある。
『要警戒エリア(暫定)』
太字でそう表示されていた。
「あそこ、前は“比較的安全な巡回ルート”って書いてませんでしたっけ」
隣で小声を漏らした三宅に、直耶は「だよな」と心の中で頷く。
前列では、管制の係官が淡々と説明を続けていた。
「3日前のB班巡回時、C〜D境界帯にて小〜中規模の群れと3度交戦。
1度目、ケモノ系3体。
2度目、2体。
3度目、4体以上と交戦ののち、合流ポイントC4方向へ後退。
現行の危険度ラベルに対して、遭遇頻度が高すぎるという判断で——」
係官は、マップの赤い輪の縁をレーザーポインタでなぞる。
「この範囲を一時的に“要警戒エリア”に変更。
巡回は、当面A班主体。B班は合流ポイントC4手前までに制限」
スクリーンの右端には、B班の行動ログが箇条書きになっていた。
『10:12 境界帯にて敵性生物3体と接触、排除
10:24 敵性生物2体と接触、排除
10:41 敵性生物4体と接触、後退。負傷者なし(研修生)/軽傷1(大熊)』
そして、その下に小さく一行。
『行動評価:適切な撤退判断・危険回避』
(……それだけ、か)
あの時の息の詰まる感じも、盾越しに伝わった重さも、
日向の短い悲鳴も、
大熊が噛まれたときの嫌な音も、
全部まとめて、「軽傷1」と「適切な判断」で片付く。
もちろん、こういう紙の上の整理が必要なのは分かっている。
分かってはいるのだが——胸のどこかが、きゅっと縮むような違和感があった。
「境」
「はい」
前方から森山に名前を呼ばれ、思わず背筋を伸ばす。
「ここの3戦目な。報告書だと“合流ポイント方向へ後退”で一行だけど」
森山は、スクリーンに写ったルートに指先を這わせる。
「実際には——ここで1回、境の提案で左右入れ替えてる」
赤い線の途中、曲がり角の手前に小さな印が追加される。
「敵の密度と通路幅の関係上、あそこで盾役をローテしてなかったら、
おそらく“軽傷1”じゃ済んでねえ。最悪、誰か1人は持ってかれてた可能性が高い」
室内の空気が、少しだけ沈んだ。
「ログ上の文言はそのままでいい。
ただ、B班に関しては“あそこで隊列調整を入れる判断ができた”ってことは覚えておけ」
そう言って、森山はちらりと直耶を見た。
「……たまたま、頭に浮かんだだけです」
反射的にそう言うと、前列の榊が小さく肩をすくめた。
「何度も言うけど。
たまたま浮かんで、たまたま口に出して、たまたま全員がそれで動けたんなら、
そういう“たまたま”は大事にしといた方がいいですよ」
*
ブリーフィングが終わると、研修生たちは三々五々部屋を出ていった。
「……あれ、ログってあんな感じでまとめられるんですね」
廊下を歩きながら言うと、横を歩いていた三宅が頷く。
「ですね。管理局の公開資料見ると、もっと数字とグラフ増し増しですけど」
ポケットからタブレットを取り出し、画面を手早く操作する。
「ほら、“浅層C〜D境界帯、過去半年の敵性生物遭遇頻度グラフ”」
棒グラフと折れ線が並んだ画面が、一瞬だけ目に入る。
「こうやって見ると“ちょっと増えてる”くらいなんですけどね。
中にいた身としては“ちょっと”じゃないっていうか」
「“軽傷1”も、“折れ線がちょっと下に触れてるだけ”って感じか」
「そういうことです」
三宅は苦笑いした。
「……まあ、“数字にしないと予算も出ない”のは分かるんですけどね」
そう言ってから、ふっと声を落とす。
「でも、“数字にならない部分”が1番怖いんですよね。回廊、そういうの多そうじゃないですか」
(それは、そうだ)
崩れかけの床を踏まずに済んだことも
“なんとなくこっちだ”と感じた方角が当たっていたことも
誰も死なずに戻れたことも。
全部、グラフの上では「ちょっとした変化」の一部でしかない。
*
その日の午後、B班には「簡易健康診断」の予定が入れられていた。
「はい次、第三探索チームB班の人たちー」
医務室前の廊下。
看護師に呼ばれて、直耶たちが順番に中へ入っていく。
血圧、脈拍、簡単な反応テスト。
それから、ごく短時間のL値チェック。
「境くんね」
ヘッドセットをかぶせながら、佐伯がカルテをめくる。
「前回が82。さて、どのくらい削れてるか」
「削れる前提なんですね」
思わずこぼすと、佐伯は「前提だよ」と淡々と返す。
「目閉じて。深呼吸。変なこと考えない」
「……“運の帳尻合わせ”とか考えない方がいいですか」
「そういうのは検査終わってから」
はぐらかされて、直耶は目を閉じた。
耳の奥で、前と同じような微かなノイズが走る。
病院の白い廊下と、回廊の灰色の壁が、頭の中でごちゃ混ぜになる感じ。
やがて、「はい、おしまい」とヘッドセットが外される。
「で、どうでした?」
訊ねると、佐伯はモニターをちらりと見て、ペン先でカルテをとん、と叩いた。
「81」
「……1、ですか」
「誤差+3日前の筋肉痛、ってところだね。
測定のブレもあるし、“1”で騒ぐレベルじゃない」
そう言いつつも、佐伯は視線だけ少し真面目になる。
「ただし。
“1”が100回積み重なると、“大したことない”とは言えなくなる。
そういう削れ方をする、ってことは覚えときなさい」
「100回……」
「浅層巡回だけで、すぐそのくらい行くからね」
さらっと言われて、喉の奥が少し乾いた。
「高梨さんの方は、どうなんですか」
前から気になっていたことを、ついでのように口にする。
「命に別状はないって聞きましたけど」
「筋肉やられてる方ね」
佐伯はカルテを閉じ、椅子の背にもたれた。
「L値そのものは、そんなに落ちてない。
むしろ、あれだけの損傷で済んでるのが“運が良かった”側」
「……本人、『労災と保険下りるなら悪くない』って言ってましたけど」
「あの子はそう言うだろうね」
口元だけ、少しだけ笑う。
「“壊れやすいけど、一発のリターンは大きい駒”ってところかな。
境くんは逆。
“壊れにくくて、長く使える駒”。
どっちが幸せかは、正直分からない」
「そういう言い方、やっぱりあんまり好きじゃないです」
「私もあんまり好きじゃないよ」
佐伯は肩をすくめた。
「でも、現場の人間はみんな、だいたいそういう目で数字を見てる。
“報告書の行間”は、そういうところに溜まるからね」
行間。
さっき見たログの文字と、目の前の医者の言葉が、妙にきれいに重なった。
*
診断を終えて医務室を出ると、廊下のベンチに大熊が座っていた。
右肩にはまだしっかりと包帯が巻かれている。
「どうだった」
「1ポイント削れたってさ。まだ“壊れにくい”枠らしい」
「はは、贅沢な悩みだな」
大熊は笑って立ち上がった。
「こっちは、“筋肉の再生具合は良好。ただし無茶したらまた千切れる”だとよ。
当たり前だっての」
「しばらく前に出るのは禁止ですか」
「“全力タックルは禁止。壁役メインで様子見”だとさ。
森山さんも、“しばらくは境に正面任せるか”って顔してた」
それはそれで、プレッシャーのかかる話だった。
大熊はそんな直耶の顔を見て、肩を軽く小突く。
「まあ、壊れにくい方が前に立つのは理にかなってんだろ。
俺はしばらく、壁とアンカー役だな」
「……お互い、長持ちする方向で行きましょう」
「おう」
拳を軽くぶつけ合う。
包帯ごしでも、手のひらの熱はちゃんと伝わってきた。
*
夕方。
寮の食堂で夕飯を済ませ、自室に戻ると、スマホの画面には通知がいくつも並んでいた。
《第三探索B班(仮)》
同期数人+森山+榊が入っているグループチャット。
高梨:『リハビリ室なう』
高梨:『今日は自力で立てたぞ。2歩で力尽きたけど』
日向:『2歩でもすごいですよ! 次は3歩目指しましょう!』
大熊:『筋トレ自慢してたくせに、今じゃ俺より細くなってるらしいな』
高梨:『黙れゴリラ。筋肉は戻せる、骨は戻せねえ。今回は筋肉で済んだんだから運がいい』
スクロールを少し下に動かすと、別のメッセージが目に入る。
高梨:『労災と保険とやらで、当面の生活費はなんとかなりそうってよ』
高梨:『親父のローンもしばらく猶予つくかもって母ちゃんが喜んでた。……まあ、“その代わりお前はしばらく真面目にリハビリしろ”って怒られたけどな』
(よかった)
直耶は、ついさっき佐伯から聞いた「壊れにくい」「長く使える」の言葉を思い出す。
——誰かが1発で大きく当たって、
——誰かが細かく長く削られて。
どっちがマシなのか、簡単には決められない。
『リハビリ頑張ってください。筋肉戻ったら、また前で文句言ってください』
そう打ち込んで送信すると、すぐに「既読」が付き、
高梨:『おう。俺が戻るまでに、境の盾スキルもっと上げとけよ。次は“命の危険付きコンビニバイト”じゃなくて“命の危険ちょい控えめ高給バイト”くらいにしてくれ』
と、よく分からないハードルの上げ方が返ってきた。
(……命の危険、ちょい控えめ、ね)
苦笑しながらスマホを伏せる。
そのまま寝転がり、天井を見上げた。
寮の薄い壁越しに、どこかの部屋のテレビの音がかすかに聞こえる。
『——第三探索チームによる浅層巡回は、本日も安全に終了しました。
回廊管理局によりますと、浅層エリアでの事故は年々減少傾向にあり——』
ニュースのアナウンサーの声は、やけに明るい。
(“安全に終了”。“事故減少”。“適切な撤退判断”。)
どれも嘘ではないのだろう。嘘ではないけれど。
そこに自分の息の上がり方、盾を押し込んだときの衝撃
大熊の肩に噛み付いていた“何か”の感触。
それらは書き込まれない。
そんなことを考えた瞬間、胸の奥で、小さな針がまた動いた。
寮。
訓練センターのグラウンド。
母のいる病院。
そして、地の底でゆっくり形を変えている回廊。
いくつかの「点」が、頭の中で線で結ばれていく。
その線の上を、目に見えないサイコロが転がっているようなイメージが浮かんだ。
(……考えすぎか)
自分で自分にツッコミを入れて、目を閉じる。
少なくとも今日は、誰も死なずに帰ってきた。
L値は1だけ削れて、報告書には一行追加されて、
ニュースでは「安全に終了」の一言でまとめられた。
「……まぁ、いいか」
小さく呟いて、布団をかぶる。
明日もまた、どこかの班のログが
新しい一行としてどこかの画面に追加されるのだろうと思いながら。




