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第0話 第七湾岸回廊

息が、喉の奥で熱く絡んでいた。


ヘルメットの中で呼吸がこもる。防護ベストの内側は汗で湿り、手のひらはシールドのグリップに張り付いている。

このベストの表面には、回廊由来の繊維素材が一部使われているらしい。ニュースでは「夢の新素材」と持ち上げられていたやつだ。

実際に着てみると、ただの、少し重い防具にしか感じない。


足を踏み出すたび、足首から脛にかけてずきずきとした痛みが走った。


境直耶は、浅いとは決して言えない呼吸で、自分の足音だけを数えていた。


——一歩、二歩、三歩。止まるな。


通路は人が二人並んで歩けるくらいの幅だ。壁は岩ともコンクリートともつかない素材で、薄い筋模様が走っている。

ヘルメットのライトが前方を照らし、その光が壁に当たると、筋がかすかに光を散らした。

ライトの輪の中だけは、それなりに輪郭がはっきり見える。輪から半歩外に出れば、すぐ墨を流したみたいな暗さだ。


「……くそ」


ヘルメット越しに漏れた声は、耳の内側でやけに大きく響いた。


さっきまで、直耶は森山たちと同じ列の中にいた。

第三探索チームの中ほど、いつもと同じ位置。前に二人、後ろに三人。

全員の足音と軽い会話が、この狭い通路の空気を埋めていた。


それが、ほんの一分もしないうちにひっくり返った。


——床が、揺れた。


初めは地震かと思った。実際、ヘルメットの表示も微弱な振動を示していた。

だが次の瞬間、頭上から細かい破片がぱらぱらと降ってきて、前を歩いていた隊員が短く悪態をついた。


『上、まずいかもな——』


そう言いかけたところで、天井の一部が崩れ落ちた。


耳を叩く鈍い音。砂と粉塵。

前列と後列の間に、ほとんど一瞬で土砂と瓦礫の壁ができる。


直耶は反射的にシールドを頭上に上げた。

肩に何かがぶつかる衝撃。膝をつく。それでも、意識は飛ばなかった。


崩落が収まったとき、前方のライトは薄くしか見えず、無線越しの声もノイズ混じりになっていた。


『前の三人、生きてるか!』

『……こっちはなんとか。後ろは?』

『直耶! 後ろ組、返事しろ!』


「境、無事です!」


咳き込みながら叫ぶと、ヘルメットの内側で通信アイコンが一瞬だけ点滅した。


『そっち何人残ってる』

「——二人。いや、一人です。さっきの衝撃で、吉永さんが——」


後ろにいた隊員の名前を呼びかけたが、返事はなかった。

振り返れば、後ろの通路は天井ごと潰れ、ヘルメットのランプだけが瓦礫の下で弱く光っている。


そこから先には、もう行けない。


『……了解。後ろ側、完全に潰れてるな。そっちから引き返すルートは?』


森山の声が、少しだけ遠い。

直耶はライトを壁に向け、崩落していない方向をざっと見渡した。


「さっき分岐した通路が一本ありました。マップには——」

『入り口から見て左側の枝だな。一応、浅層Cブロックの想定ルートには入ってる。合流ポイント“C2”まで出られるはずだ。』


管制室の声も混じる。

「マップ」といっても、回廊が毎回同じ形をしているわけではない。

何十回分もの探索ログから、「この辺りにだいたい合流帯が出やすい」という“傾向”だけをまとめた図だ。


短い会話が交錯し、すぐに決定が下された。


『境。お前はそのまま単独でC2を目指せ。』

「単独で、って……」

『他に選択肢がねえ。そっちにいるの、お前一人だろ。』


そう言われて、ようやく自分が本当に一人になっていることを意識した。


背中にいたはずの仲間はいない。

前の三人とは、厚い瓦礫の壁に隔てられている。


訓練では何度も「単独行動は禁止」と叩き込まれた。

誰かが列から勝手に飛び出そうとするたび、教官は容赦なく怒鳴り、ペナルティを課した。


——だが今、直耶は意図しない単独行動の中にいる。


『いいか境。落ち着いて聞け。』


森山の声が、少しだけ低くなった。


『ルート自体はそう難しくない。想定ルート通りに行けば、C2でまたこっちと繋がる。

 途中で何かに遭遇したら、基本は視認だけ。無理に倒そうとするな。やばかったら、とにかく距離を取って戻れ。』


「了解です。」


『——それから境。』


ほんの一瞬だけ、間が空く。


『さっきの崩落で、お前が真っ先に頭庇ったの、誰が見てたと思う?』


直耶は思わず返事に詰まった。


「あの、その……」

『佐伯先生。ヘルメット越しに、ニヤニヤしながら見てたぞ。

 “ほらね、あの子、簡単には壊れないから”って。』


医務室で聞いた言葉が、喉の奥に蘇った気がした。


——壊れにくい。


『だからって、調子に乗って突っ込むなよ。

 壊れにくいのと、壊れないのは違うからな。』


「……了解。」


『よし。じゃあ、さっさと合流してこい。長く迷子やってると、俺が説教する。』


ノイズ混じりの声が途切れる。通信アイコンはまだ点いているが、これ以上の会話は状況を悪くするだけだろう。


直耶は、瓦礫の壁から視線を外し、まだ開いている方の通路を振り返った。


ライトの円錐の先に、暗がりが口を開けている。


足元の岩を踏みしめ、進む。

足首の痛みを無視して、一歩、また一歩。



分岐まで戻ると、通路は二つに割れていた。


一つは、崩落で塞がれた本来のルート。

もう一つは、まだ誰も足を踏み入れていないように見える細い道だ。


壁に描かれた白いチョークの線が、かろうじて「C2→」の矢印を示している。

だがその下の印は、ところどころ擦れていた。前に潜った別チームか、数日前の自分たちの印かもしれない。


「……こっち、か。」


声に出して確認してから、直耶は狭い方の通路に身を滑り込ませた。


足音がさっきよりもよく響く。

天井は少し低くなり、ライトの光がすぐ近くで跳ね返る。

壁の筋模様も、どこかさっきとは違って見えた。

人間の建築なら、設計者の意図や作業の癖みたいなものが読めるが、ここにはそれがない。


「誰が作ったのか分からないもの」というのは、それだけで気味が悪い。


いや、そもそも「作った」という前提が正しいのかどうかも分からない。


訓練の雑談で聞いた、回廊オカルト話を思い出してしまい、すぐに頭を振った。


数分歩いたところで、視界の端で揺れる影がひとつ。


直耶は反射的に足を止め、シールドを少し前に出す。

呼吸を殺し、手の震えを抑えながらライトの角度をそっと変えた。


ライトの輪の端、床近くで、低く動く黒いモノ。

床を掴むように、何かの足がわずかに踏み込み、筋が浮かぶ。


(……犬? 違う、もう少しでかい)


現代っ子の自分のは、実物の野犬もクマも、ニュースと映像でしか見たことはない。

訓練で見せられた「襲ってくる動物」の素材とも、完全には重ならないケモノ。


ライトがほんの少しだけ前に滑る。


通路の先、曲がり角の影から、黒い身体が半分だけ顔を出していた。


大型犬ほどの体格。だが、細すぎる。

肋骨と背骨のラインが妙にくっきりしている。

四本の脚は、節の位置が少しおかしい。人間が描いた“動物の脚”の絵を、誰かが勝手に一節足したみたいに見えた。


頭の形も、犬や猫のそれとよく似ているようで、どこか違う。

鼻面が少し長すぎるのか、顎のあたりが割れているのか、暗がりの中ではうまく形が掴めない。


ライトの光がケモノの目に当たった。


二つの光点が、一瞬だけ細くなった。

こちらを見ている——としか言いようがない動き方をした。


「……こちら、境。前方の分岐の先に、敵性生物と思われる影一体。サイズ大きめ。詳細不明。」


声を低くして報告する。

返事はすぐには戻ってこなかった。ノイズが一度だけ入る。


『状況把握中。無理するな』


管制の声が短く入ったその瞬間——

黒い影が、通路の中に滑り込んできた。


「っ——!」


直耶がシールドを掲げたのは反射でしかなかった。


乾いた衝撃音。

何かがシールドの表面にぶつかり、滑っていく感触が腕に伝わる。

爪か歯か、それとも別の何かか。判断している余裕はない。


その重さで一歩分、後ろに押し戻される。


ライトの輪の中に入りきった“それ”は、四本の脚でしっかりと床を掴んでいた。

体毛は真っ黒というより、光を吸うような暗い灰色で、ところどころに薄く模様のようなものが浮いている。

尻尾はあるが、振ってはいない。背骨からそのまま延長線上に伸びて、静かに揺れているだけだ。


口元がヘルメットのライトに照らされる。

牙が見えた。鋭い、というよりは“長い”。

本来なら口の中に収まっているはずの長さの一部が、外にはみ出しているようにも見えた。


(近い)


ヘルメット越しでは匂いまではわからないが

至近距離で感じる熱と、筋肉の張り具合ははっきりと伝わってきた。


“それ”は、シールドに前脚をかけるようにして、もう一度力を込めた。

肩のあたりの筋肉が、大きく波打つ。


直耶は腰を落として足の位置をずらし、崩れないよう足に力を込める。


真正面から体当たりしてくるだけなら、まだ分かりやすい。

訓練の受け身と同じ要領で衝撃をいなすこともできる。


だが、こいつはそうしてこなかった。


押すふりをして、次の瞬間、身体が横に滑った。

シールドの角を軸に、胴体だけが半歩ずらされる。


視界の端で、後ろ脚の位置も変わっているのが見えた。

四本の脚をばらばらに動かしながら、常に別の方向に力をかけてくる。


「っつ……!」


シールドで受けた衝撃と、足元を掠めるように振られた尾——あるいは脚の一部——で、身体のバランスが崩れかける。


訓練で何度も味わった「投げられる前の感覚」が、背中を走った。

柔道場の畳では、受け身を取ればそれで終わりだった。

ここで同じように転べば、次に何をされるか分からない。


——転ぶな。


頭より先に、身体が動いた。


足を引きずるようにして一歩横へ。

シールドの角度を変え、相手の重さを滑らせる。

そのまま自分の右手に持った警棒を、黒い塊の脇腹めがけて突き出した。


鈍い手応え。


警棒の先端が、厚い毛皮か筋肉か、何か硬いものを叩いた感触があった。

短い唸り声が、ヘルメット越しにかすかに聞こえる。


“それ”は一瞬だけ退いた。前脚を床に突き、低く身構える。

ライトの輪の中で、背中がわずかに膨らむのが見えた。


こちらも深追いはしない。

呼吸を整える暇も惜しみ、距離を一定に保つ。


訓練で教わったことが、頭の中でバラバラにつながっていく。


——無理に倒すな。

——足を狙われたら、まず下がれ。

——相手の得意な距離に付き合うな。


教官は「イノシシやクマが突っ込んでくる動画」を見せて、

「こういう動きだったら、こう避けろ」と言っていた。


目の前の黒い塊は、そのどれにも当てはまらない。

突っ込んでくるのではなく、じりじりと角度を変えて、どこか別の場所を狙っているように見えた。


(……なんなんだ、こいつ)


言葉にならない疑問だけが、ぐるぐる回る。


“それ”が再び踏み込んできた。

今度は正面からではない。ライトの輪の端、見えづらいギリギリの位置を舐めるように動く。


視界から消えないように、ライトごと上体をわずかに回す。

それでも、脚の一本一本の動きまでは追い切れない。


重さと速さの感覚だけが、ぎりぎり身体の反応を先行させてくれている気がした。


——倒しきる必要はない。


警棒をほんの少しだけ伸ばす。

相手の胴体の中心ではなく、前脚と床の間の、かすかな隙間へ。


届かないかもしれない。

届けば儲けもの。

どちらでもいい。


結果、ぎりぎりで何かを叩いた感触があった。


「ガッ」と短い音がして、黒い塊の動きがほんの一瞬だけ止まる。

次の瞬間には身を引き、ライトの輪の外側に滑り出ていた。


距離を一気に開ける。


“それ”は、暗がりの中からこちらを見ている——ような気がした。

目だけが、わずかに光を返している。


追ってくるかと思ったが、二歩ほどこちらに出たところで、ぴたりと止まる。


前脚が一度だけ床を叩いた。

爪か何かが岩を掻く、低い音が通路に響く。


数秒間、互いに動かなかった。

通路の奥から、遠くの水音だけが微かに聞こえる。


やがて、“それ”は一度だけ低く喉を鳴らした。

震えるようなその音が、何を意味しているのかは分からない。


次の瞬間には、左右どちらとも判別しづらい、妙な動きで通路の脇に身を消した。

四本の脚と尾の位置がばらばらに動き、壁と床の隙間に溶けるように飲み込まれていく。


ライトを動かしても、もうその姿はどこにも見えなかった。


「……は、っ……」


直耶は、意識して大きく息を吐いた。

胸の奥に溜まっていた空気を全部吐き出し、肺の空洞を感じる。


膝が笑いそうだった。

だが、まだ立てる。

シールドは、縁が少し凹んでいるが、使えないほどではない。

警棒の表面には、さっきの衝撃でついた小さな傷が増えていた。


「こちら境。遭遇…一体。交戦短時間。

 向こうが離れた模様。

 自分は軽い打撲のみ、行動可能です。」


なるべく簡潔に報告する。

数秒後、ノイズ混じりの返事が返ってきた。


『了解。心拍数ちょっと上がってるが、まだ許容範囲だ。』

管制の声だ。

『そのままC2へ向かえ。交戦記録は帰ってから聞く。』


『——よくやった。』


最後の一言だけ、森山の声だった。


『追いかけなかったのは正解だ。浅いところでも、欲張った奴から先にいなくなる。』


「……欲張る余裕なんて、なかったですよ。」


直耶は、半分本音で呟いた。


もう一度だけ呼吸を整え、通路の奥へライトを向ける。

先ほどの影は、もうどこにも見えない。


足を踏み出す。

足首が抗議するように痛みを送ってくる。

それを「生きている証拠」くらいに雑に片付けて、歩き続けた。



どのくらい歩いただろうか。


時間感覚は、ヘルメットの表示なしではとっくに壊れていた。

内部タイマーの数字だけが、現実の世界との糸のように頭の片隅にぶら下がる。


右手の壁には、ところどころに白い線が残っていた。

「C2→」という表示も、最初よりはっきりとしたものが増えてきた。

時々、第三探索チームが引いた新しい印も混じる。


彼らの足跡の上を、自分も辿っている——それだけが、心細さを少しだけ和らげた。


C2の手前で、一度通路が広くなっていた。


天井が高くなり、中央に向かって緩やかな傾斜がついている。

床の色も、さっきまでよりも暗く、しっとりとした質感を帯びていた。


まるで、誰かが意図して作った広場のようだ。

だが、そこにベンチも照明もない。

あるのは、壁に刻まれた意味不明な模様だけ。


ライトを動かすと、その模様が一瞬だけ浮き上がるように見える。

目を凝らせば凝らすほど、「何かを読めそうで読めない」感覚だけが増していく。


「……読める文字だったら、どれだけ楽か。」


誰にともなく呟いた。


母の病院の待合室には、いつも分かりやすい日本語と数字が並んでいた。

診察室の前にも、廊下にも、薬の袋にも。

「検査結果」や「次回予約」といったラベルは、嫌でも目に飛び込んでくる。


ここには、それすらない。


「これは出口です」「ここは安全です」と言ってくれる表示は、どこにも書かれていない。


だから、線を引く。

だから、紙に描き起こす。

だから、誰かが何度も同じ道を往復する。


一ヶ月前までは、テレビの中でしか見なかった穴だ。


ニュース番組のスタジオ。

「第七湾岸回廊」というテロップ。

明るい声のキャスターと、右肩上がりのグラフ。


病院の待合室で見たそれと、今自分が立っているこの場所が、同じ名前で呼ばれているのが、まだどこかで不思議だった。


グラウンドで走り込んでいた日々。

医務室で佐伯に「壊れにくい」と言われたこと。

高梨のくだらない冗談。

母のメッセージ。


全部が、一枚の紙の上に雑に書き込まれたメモみたいに、頭の中で重なっている。


そのメモの端っこに、小さく「第七湾岸回廊」と書かれている。


——そんな気がした。


『境。』


無線が呼びかける。


『C2まで、あと五十メートル。右手側に開けたスペースがあるはずだ。そこまで来たら止まれ。』

「了解です。」


右手の先に、暗がりの向こうの明るさが見える。

そこが、合流ポイント“C2”。


そこまで行けば、もう一人じゃない。

そう思うと、足の動きがわずかに軽くなった。


まだ、ここは浅い場所にすぎない。

それでも、今の直耶にとっては充分に深い。


このとき、自分が「まだ入口付近で騒いでいるだけだ」と知るのは、もう少し先の話だ。



——数ヶ月前。


まだ、境直耶が「回廊」という言葉を、病院のテレビと求人ポスターでしか見ていなかった頃。


ニュースの画面の中で笑う“回廊インフルエンサー”の男は、今の直耶のような顔をしてはいなかった。


あのとき、ソファにもたれながら「……はいはい、人生逆転ね」と呟いた自分が、

こんな場所を一人で歩くことになるなんて、想像すらしていなかった。

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