浮(ふ)
「水」が印象的な絵画だった。
◆
学芸員になる夢が叶って一週間。
気になっていることがある。
(またアノ子だ)
水の反映が描かれた絵画を食い入るように見つめる麦わら帽子をかぶった少年。
「あの——」
「話しかけるな」
私が声をかけようとすると、ジャケットの袖が軽く後ろへ引っ張られた。
「八柳館長……」
「すみません」と頭を下げると、白髭を蓄えた雇い主は口を噤み、定位置である中庭の池の畔に戻っていった。
(そうよね、あんなに真剣に作品を鑑賞してるんだから、声をかけるなんて野暮だったわ)
ここ『八柳美術館』は江戸時代から続く豪商四垂一族の蒐集品をもとに、六代目当主である八柳館長が設立し運営している個人美術館である。
主に十九世紀の西洋絵画を展示していて、中庭の手入れも行き届いている。夏の今は、池の周りで涼しげに枝垂れ柳がそよぎ、睡蓮や黄菖蒲、紫君子蘭が咲いている。
◆
雨が降る日アノ子は来ない。
私は展示室の大きな窓から中庭を眺める。
地雨に佇む枝垂れ柳が池に滴る様に、つい水墨画の幽霊を思い浮かべてしまった。
肌が粟立ち背後が気になる。
そこには温湿度計があり、展示室が温度20℃湿度50%に保たれていることを示していた。
それに枝垂れ柳はガラスの向こう。
安全圏から観る幽霊は嫌いではない。
「夏だしね」
◆
家電の音さえ蝉の声に聞こえるような熱帯夜。
私は夢の中でアノ子が見ていた自分の身長よりも大きなカンヴァスに描かれた水面と向き合っていた。
赤い睡蓮が咲く水面に雲が描かれていて、水の中を揺蕩う筆致に天と地が溶け合う。
◆
夢に見たからだろうか。
アノ子が見つめる絵画が気になって仕方がない。
夢の中の画を探しに中庭へ向かう。
池の淵に蹲み赤い睡蓮に手を伸ばして水面に映る自分と入道雲を覗き込む。
「鏡みたい」
逆様な世界は絵画への入り口のように思えた。
(どこに繋がっているんだろう)
魅せられた私は池の水へ手を伸ばす。
(きっとこれ以上進んではいけない)
まるで警鐘が鳴るみたいに、一滴の汗が顎を伝って池に垂れた。
水面の均衡が崩れた途端堰を切ったように生ぬるい風が吹き、水の輪郭が曖昧になる。
枝垂れ柳が靡いて私の顔を覆った。枝葉が落ち着くと視界が開けて展示室の大きなガラス窓が見えた。
【アノ子】がこっちを向いている。
初めて目が合ったと思った瞬間全身の毛が逆立った。
【アノ子】には顔がなかった。
思えば麦わら帽子の中を見たことがなかった。
「ひぃ」
今すぐ逃げたいのに体が動かない。勝手に震える手足を鎮めるために池の淵で四つん這いになるのが精一杯。水面が鏡みたいなせいで私の背中に麦わら帽子の【アノ子】が乗っているのに気づく。重い。体が沈み込む。
池の水はぬるかった。入道雲が波紋と混ざり合う。
夢で見た揺蕩う筆致のように枝垂れ柳が絡まる。天と地がわからなくなる。常世と浮世の境目がわからなくなる。自分の形が、わからなくなる。
それはまさに夢に見た絵画で、溶けて混ざり合って繋がった。
◆
「起きろ」
私が池に顔をつけていたところを八柳館長が助けてくれたらしい。
『八柳館長は全部ご存じだったんですか?』と、言いかけてやめた。態々こちらから深淵を覗く必要はない。
私は枝垂れ柳が落とす影の中から展示室を見遣る。
「水」が印象的な絵画だ。
カンヴァスいっぱいに描かれた池。
水を依代にして雲と睡蓮は天と地まで色彩の境地を広げた。
溶け合って自由になった麦わら帽子の少年はわからないけれどなんだか笑っていたような気がする。
お読みいただきありがとうございました。
小説はすべてフィクションです。
実在の人物・団体等とは一切関係ございません。
あなたさまにとって涼しい夏になりますように。