物事を「善と悪」で語るという卑劣さ
善とはなにか ―― 自らにとって居心地の善い考え方、もしくは存在。
悪とはなにか ―― 自らにとって居心地の悪い考え方、もしくは存在。
物事を「善と悪」で語る者たちは、総じてバカである。
筆者から言わせれば、それは単なる「屁理屈」に過ぎない。
宗教における善とは、自らが信奉する神の側に立つもの。
多数決社会における善とは、数の多い側の価値観、居心地。
資本主義社会における善とは、より多くの富を与えてくれるもの。
(民主主義社会における善とは、民主主義と同様に常に二律背反している)
―― 全ては価値観の相違から来る「立ち位置」に過ぎず、それを善と悪で語ると行為は、自らの快楽のために他者の快楽を否定し、断罪まで行う蛮行とも言える。
単なる不愉快の表明を「悪への断罪」へと衣替えさせ、物事の本質を歪ませる。
―― 私が最も不快感を覚えるのは、宗教間などにおける「善悪の闘争」だ。
自分たちの善性は「思考停止」状態でこれを認め、対立宗教が持つ善性もまた思考停止的に悪と断ずる。その姿は「悪と悪」が、どちらがより悪かを競い合っているようにしか筆者には映らない。
善と悪の闘争における勝者とは、善という名の下に敗者からの略奪を正当化し、同時にそのことに快感まで覚える欲望の権化のような存在に過ぎない。
―― イスラエル政府による侵略は善か悪か。
イスラエル政府の主張はハマスへの報復だそうだが、ハマスでも何でもないガザの民間人への断続的な虐殺行為をも正義とする考えに、世界のユダヤ人たちは何も違和感を覚えないのだろうか?
資本主義国家である欧米諸国は、自らの神である富の大半をユダヤ人たちが牛耳っているため、不快感の表明すら声を潜めたままだ。
―― 二元論で物事を語ると全ては虚構となる。
私はただ、現在の状況が「猛烈に不愉快である」とだけ、述べておくにとどめる。
人は心に「正しい」というものを作り出すことによって、同時に「正しくない」ものを生み落とす。
差別や憎悪の根幹には、自分自身の善性と価値観を絶対に疑わないという思考停止の状態が横たわる。
最初にでっち上げた「正しい」がたとえ血に染まっていたとしても、それを疑うのは自らのアイデンティティの否定につながるので、見なかったことにする卑怯者たちが、常に「善と悪」という概念を口にしている。