フライパン乙女はざまぁしたくない‼︎
「そ、そんな……あなただけが、私の希望でしたのに」
薔薇色だった彼女の頬は色を失くし、静かに紫水晶の瞳から涙をホロホロと流す。こんなときでも、美人は泣き顔も崩れないんだなぁ、とコゼットは社交界の妖精と噂される令嬢の顔を見て感心してしまう。
右手に持ったままのフライパンを下すと、『淑女の嗜みです!』と礼儀作法の教師に教わりながら刺繍をしたハンカチを、コゼットは目の前の高貴なご令嬢へと片手で手渡した。
「クリスティーヌ様。良ければ、こちらをお使いください」
コゼットが慣れない刺繍を繰り返した結果。ボロ切れと化したハンカチを渡すと、彼女はお礼を言うと、そっと涙を拭う。
ゲームのヒロインは誰にでも愛される美少女だったが、中身がコゼットに変わったことへの弊害か。狸がくしゃみを我慢したような顔になってしまうだろうとコゼットが思ったところで、ようやく、ここが使用人たちの出入り口だったことに気がつく。
「あのぉ。よろしければ、私の部屋でお話しをしませんか? どうやらお互い、元同郷のようですし」
クリスティーヌはコゼットの言葉にうさぎのように腫れたまっ赤な目を瞬き、小さく、首を縦に頷いた。
コゼットが自分の前世の記憶を思い出したのは、孤児院で木登り対決をして木から落ちた衝撃だった。どこかの貴族が寄附してくれたお菓子が人数分なく、女子たちの代表として木に登ることになったのだが、結果は競争相手を落とそうとして自分が落ちた。
シスターにしこたま怒られたあと、水桶に映った自分の姿をみて、コゼットは絶望をした。
ゲームや漫画でしか見たことがないようなピンクの髪に貴族にしか現れないという蒼色の瞳。
自分は間違いなく、『少女コゼット。下剋上は上等だ!』のヒロインだ。
ギャグなのか? と思わせる題名ではあるが、作画が売れっ子のイラストレーターと若手の人気声優を起用したこともあり、そこそこ売れていたゲームだった。
コゼットは伯爵家の女好きで知られる男と男爵家の母の間に出来た子であったが、父は母から子供が出来たことを知らされると、あっさり見捨てたらしい。曰く、お前のことなんて知らない、だそうだ。
父は顔だけがいい屑だった。
両親にこのことが知られたら、子供ごと殺されると恐れた母は家出をし、身分を隠したまま母子だけで暮らす道を選ぶ。
元々、体が弱かった母が流行病に罹患して亡くなるとコゼットは一緒に暮らそうという村人たちの優しさを断り、自ら孤児院に行った。もしかしたら、自分たちを裏切った父に復讐出来る機会があるかもしれないと思ったからだ。
コゼットは優しい母を見捨てた屑を許せなかった。
結果、コゼットは自分の賭けに勝った。
孤児院で暮らすなか。実の父だという伯爵家から迎えが来ると、病弱な義姉に変わって、コゼットは父の政治のための道具として生きることになる。
伯爵家では大人しくしていたコゼットだったが、学園に入るないなや、下剋上だ! と自分の生家を没落させる為だけに攻略対象達に次々とハニートラップを仕掛けていく。
伯爵家といっても名ばかりになっていた家の娘がどうやって身分が高い貴族たちに近づくか。コゼットには武器があった。母と暮らしている時に何故か、引き出しの奥にしまわれていたフライパンだ。母の日記から、このフライパンが魔法がかけられた特別なものと知る。このフライパンで料理を作って食べて貰うと、相手の好感度が上がるのだ。
貴族の令息たちが知らない女子生徒の作った食事なんて食べないだろうとツッコミが入りそうなものだが、そこはミニゲームになって上手く誤魔化されていた。
きっと、魅了のような付与効果が備えられたフライパンなのだろう。
母と自分を苦しめた伯爵家を最終的には、没落させるだけの為にコゼットは攻略対象に様々な料理を食べさせ、まずは相手の胃袋から攻略していくのだ。
それぞれの攻略対象には、悪役令嬢と呼ばれる婚約者達がいるが、中でも皇太子ルートの悪役令嬢クリスティーヌは見た目は妖精。中身は聖女であり、ヒロインの方が悪役令嬢なのでは? とプレイヤー達の間では叩かれていたし、前世のコゼットも『このヒロインはねぇわ』冷めた笑いを浮かべながら、ゲームをプレイしていた。
優しい聖女のような悪役令嬢から婚約者を奪ったヒロインの人気は底辺だった。
かつて最低だと見下していたヒロインに生まれ変わってしまったコゼットは、鬼のような顔をしたシスターの説教を聞き流しつつ、今後の自分の行く末を思って、枕を涙で濡らしたが、ゲームが始まる前に前世の記憶を思い出したことは幸いだった。
自分が亡くなった理由は思い出せないが、多分、毎日、繰り返される更年期としか思えないお局から、パワハラを受けたストレスでの酒による失敗だろう。
ゲームのように下剋上などは考えず、大人しくモブとして生きていこうと前世の記憶が蘇った新コゼットは決意する。
最近は悪役令嬢がヒロインをざまぁするという展開も流行っているし、悪役令嬢がコゼットと同じ転生者である場合、彼女もなにかしら行動をしているかもしれない。
コゼットはどうか、悪役令嬢は攻略対象と結ばれてくださいと祈りつつ、万が一にそなえて、フライパンを護身用に持っておく、という周囲から見れば奇行をしていた。
初めはシスター達からフライパンを取り上げられそうになったが、『私の生命線なんです』と大泣きしたのがよかったのだろう。シスターたちも諦めたのか、コゼットからフライパンを奪うことはなかった。
その後、ゲームの通り伯爵家に引き取られたコゼットは、フライパンの力を借り、まず義母を料理で懐柔することにした。
攻略対象者達を頼らない道を選択した今、伯爵家を没落させては未来のコゼットが大変になるだけなので現状維持を考えているが、父のことは別だ。父を追い払わなければ、コゼットの未来はお先真っ暗だろう。
この国は家の主人に何かがあれば、妻が代わりに爵位を持つことが許されている。初めは使用人のような扱いを受けていた義母に少しずつ自分の料理を食べて貰い、実の娘のように接して貰えるようになると、父の不正の証拠を集め、母と共謀をして父を家から追い出した。
不正を見抜いたことと王家に財産を渡すことで、自分たちが父同様、貴族から平民になることはなかった。父は死ぬまで、鉱山で働かされるだろう。
その後、義母が伯爵家を任されることになると彼女と協力をし、伯爵家を建て直し、義姉の病気の薬も買えるようになる頃には、ふたりはコゼットを溺愛するようになった。
魔法のフライパンの効果を目の当たりにしたコゼットは今後、フライパンは自分の護身用だけにしようと決意する。
その後、貴族令嬢としての勉強やマナーを学ぶ日々を過ごしていたコゼットだったが、腹心の専属メイドのアンナから、何故か、公爵家の令嬢であるクリスティーヌが使用人側の入り口にいると聞き、コゼットはいよいよ、このフライパンの出番が訪れてしまったのかとフライパンを握りしめる。
自分が悪役令嬢に生まれたら、ヒロインからの逆襲を待つのではなく、ゲームが始まる前にヒロインを仕留めようと思うだろう。自分の権力を使わずに単身で訪れたクリスティーヌをコゼットは立派だと思う。
アンナにこっそり案内をされ、社交界の妖精と謳われるクリスティーヌはコゼットをその目に宿した途端、いきなり見事な土下座をした。
こんな姿を誰かに見られたら、コゼットたちが必死になって建て直した伯爵家なんて、砂山の砂のように崩れるだろう。
「ヒロイン様! どうか、どうか、エミリオ様を攻略してください‼︎ 私、あなた様だけが頼りなんです!!!」
いきなり目の前で高貴な方に土下座をされたら、どうしたらいいのか。そんな礼儀作法なんて、コゼットは学ばなかった。アンナはこんな時ばかり、使用人は空気です、を実践している。高貴な方には相手が名乗るまで自分から声をかけてはいけないと散々、口を酸っぱく言われたが、この場合も当てはまるのだろうか。
コゼット達の動揺を知った彼女は立ち上がると、綺麗な礼をする。
「失礼致しました。私、クリスティーヌ•グライスナーと申します」
「ご挨拶をありがとうございます。クリスティーヌ様。私はコゼット•シュトイゼです。あの……私、クリスティーヌ様とお会いするのは初めてかと思うですが」
「私、今日はコゼット様にお願いがあってきたんです」
「私に、ですか?」
「はい! 私、コゼット様とエミリオ様の恋を応援したいんです!」
クリスティーヌは花のように、にっこりと微笑む。
コゼットが居酒屋のように『喜んで!』というとでも思っていたのか、クリスティーヌの顔は怪訝そうだ。
エミリオはこの国の第二王子だ。この言葉にさすがにアンナも顔を変えたが、コゼットはそっと、彼女に出て行って貰うように指示をする。
「エミリオ様は、この国の第二王子ですよね?」
「そ、そうね」
「……私に遠回しに死ね、と仰っているんですか?」
ゲームでのクリスティーヌと第二王子は、姉弟のような間柄だったが、コゼットの耳に入ってきた貴族たちの噂では皇太子という婚約者がいるのにも関わらず、エミリオは人目を気にせずクリスティーヌを溺愛しているとの話だった。
コゼットはこのことから、クリスティーヌが転生者だと確信し、彼女が皇太子よりも第二王子推しだったのかと思ったくらいで気にもしなかったが、自分に害が及ぶかもしれないなら別だ。
ふたりの仲を邪魔をすれば、コゼットに待っているのは幽閉か隣国へ追放と見せかけた死だろう。
そんな馬鹿な、と周囲が笑えないほど、エミリオのクリスティーヌへの愛は狂気じみていると聞く。『クリスティーヌ様は皇太子の婚約者ですのに』と王家との縁を狙って、陰口を叩きそうな高貴な令嬢たちでさえ彼女の評判とエミリオの執着を知り、おふたりはお似合いだとヨイショするくらいなのだ。
「大丈夫よ! 今は私にぞっこんのエミリオ様でも可愛らしいヒロイン様の存在を知れば、強制力が働いて溺愛対象も変わるでしょう。そうしたら、私はお役目御免になって自由になれるし、貴方も下剋上が出来るし。お互いにハッピーエンドよね?」
多分、クリスティーヌはゲームの知識通り、コゼットが下剋上をしたいと思っているのだろうが、今のコゼットにそんな思いは露ほどもない。
父はとっくの昔に追い出したし、現在はモブ令嬢の道を歩むべく、日々、過ごしている。
「いえ、クリスティーヌ様。私、現状の生活に満足しております。エミリオ様を攻略するなんて恐ろし……いえ、畏れ多い野望など抱いておりません」
「そ、そんな……あなただけが、私の希望でしたのに」
そうして、現在に至る。
「あの、クリスティーヌ様も転生者なんですよね?」
今更な質問ではあるが、コゼットはクリスティーヌに質問をする。
「ええ。私が記憶を思い出したのは、エミリオ様と初めて、お会いしたときでしたの。何故か、エミリオ様はゲームとは違っていて……」
クリスティーヌが言い淀んだのは、コゼットも聞いているエミリオの彼女への執着だろう。
「だから、ヒロイン様が学園入学をする前に、エミリオ様を堕としてくれたら、私は面倒なだけの王妃教育からも逃れて、ただのモブ令嬢になれるかと」
「あの、クリスティーヌ様。残念と言っていいのか分かりませんが、多分、この世界はもうゲームからは逸脱していると思うんです」
「それは、この世界がゲームと似ているだけの現実、ということかしら」
「はい。まず、孤児院の優しいと書かれていたシスターは現実には鬼ババアでした。そして、私は伯爵家に引き取られたあと、父をとっとと追い出して、義母に爵位を継いで貰ってます」
「まぁ。ずいぶんと変わったのね」
「あの、クリスティーヌ様は、エミリオ様がお嫌いなんでしょうか?」
エミリオはゲーム通りなら金髪、蒼色の瞳の一見、穏やかそうな美青年だ。女性的な麗しい外見に騙される者には破滅が待っていると聞いたが、コゼットはまだ社交デビューをしていないので、彼がどのような人物なのか噂でしか知らない。
「コゼット様。私の婚約者は皇太子だってご存知よね?これはここだけのお話にして欲しいのだけど」
「? はい?」
「本当は私、皇太子のフェルゼンと婚約が結ばれる予定でしたのに、いつの間にか、相手がエミリオ様に変わっていたの。フェルゼンは苦笑をしてたし、エミリオは当然だって」
「……は、はい?」
「お父様に確認したのだけれど、初めからお前の婚約者はエミリオ様と言うばかりで。私、自分の頭がおかしくなったのかと」
「確かに、クリスティーヌ様のお家柄ですと、先にフェルゼン様と」
途中まで口に出そうとして、コゼットは身震いする。
クリスティーヌを好きなエミリオがどんな手を使ったのかは分からないが、クリスティーヌを手に入れる為に彼は最善を尽くしたのだろう。
コゼットはにっこりとクリスティーヌに微笑みかける。
「私、クリスティーヌ様とエミリオ様の仲を応援しておりますわ」
どう考えてもこのふたりに関わってしまえば、平穏とは程遠い日々になるだろう。クリスティーヌには悪いが、彼女の話を聞く限り、どう考えても恋の邪魔をされたとして無実の罪を着せられてもおかしくはない。
「助けてください、コゼット様。私、ヒロイン様が現れたら、エミリオ様から逃げられると思って生きてきたんですよ」
何回かノックの後に、アンナが顔を出す。
「どうしたの? アンナ」
「それがお嬢様。王宮の使いの方が、クリスティーヌ様がいらしてないかと」
この言葉に『ひぃ』とクリスティーヌが喉を鳴らす。
「え、えっと、この世界に追跡魔法はあったかしら」
「魔法があるなんて、相変わらず、お嬢様は夢みがちですね。多分、クリスティーヌ様に王室の影がついているのではないかと」
「アンナ。クリスティーヌ様はお帰りになられたと言って」
「ですが……分かりましました」
アンナが頭を下げて部屋から出ると、クリスティーヌに両手をとられると涙ぐまれる。
「コゼット様。あなたは私の命の恩人ですわ」
コゼットは苦笑をしつつ、彼女の手を放すと、クリスティーヌにフライパンを見せた。
「あらこれ、懐かしいですわね」
「はい、ゲームでも使われていた『魔法のフライパン』です。私、このフライパンを使っていて気づいたのですが、まず料理を渡す想い人を浮かべます。そのときに好感度を上げたいと思った相手には、好感度が上がる料理が作れるんです。つまり、好感度を下げたいと思ったら」
「好感度を下げられる料理が出来上がるんですね!」
「ええ。なので、このフライパンで料理を作ってみませんか?」
「是非‼︎」
コゼットはクリスティーヌと一緒に使用人たちが使う厨房に来ると、クッキーの材料を彼女に手渡していく。
「この材料をフライパンに入れてください」
「え、ええ」
クリスティーヌはコゼットに言われるまま、フライパンの中に薄力粉や砂糖などの材料を入れていく。蓋を閉めて、火をつけると、ボンッという音がして、クッキーの出来上がりだ。
「簡単でびっくりしましたわ。もう出来上がりだなんて」
「ですよね。このフライパンのこともあって、この世界が乙女ゲームなんだって確信しました」
コゼットは簡単にクッキーを袋詰めをすると、クリスティーヌに渡す。
「このクッキーを食べてもらえば、エミリオ様の好感度は下がるはずです。クリスティーヌ様、私の穏やかな未来の為にも、どうか頑張ってください」
「ありがとうございます‼︎」
クリスティーヌは何度も頭を下げると、コゼットの家を後にする。これでもう自分の乙女ゲームが関わることはないとコゼットは久々にゆっくりと安眠することが出来た。
「こ、コゼット様。第二王子様とクリスティーヌ様がいらしています」
「は、はぁ⁉︎」
コゼットが慌てて来賓室に行くと、虚な目つきをしているクリスティーヌとこの世の春が来たとばかりに輝いている第二王子の姿があった。
コゼットが頭を慌てて下げると、第二王子が口を開く。
「楽にしてくれ。今まで、兄と僕以外に友達のいなかったクリスに初めて友達が出来たって聞いてね。挨拶をしに来ただけなんだ」
彼の顔は爽やかな笑顔を浮かべているだけなのに、何故か肌寒くなり、腕をさすりたくなってくる。
「それは」
「それにきみに言われて、クリスが初めて、ぼくの為だけにクッキーを作って来てくれただろう? だから、きみのことは目を瞑ることにしたんだ。学園に通ったら、防波堤も必要になるって思っていたところだったしね」
「あ、ありがたいお言葉です」
「クリスがきみと話しがしたいっていうし、僕は先に失礼するよ。分かっているよね? コゼット•シュトイゼ?」
「は、はぃぃ‼︎ 私は今日から殿下、いえ、クリスティーヌ様の犬です‼︎」
彼は満足したように頷くと、クリスティーヌの手の甲に口付けをしてから去る。クリスティーヌは幽鬼のように、コゼットの両腕を掴んだ。
「ど、どうして、好感度が下がるどころか、がん上がりしてるんですか‼︎」
「クリスティーヌ様、殿下の好感度、カンスト状態なのでは? それなら、クリスティーヌ様がどんな態度をとられても殿下の中では『可愛い人だな』になってしまいます。今日は此処で失礼させてください。私、今から、やらなくてはいけないことがあるので」
「私の将来よりも大切なんですか?」
「もちろん‼︎ 今後、学園でクリスティーヌ様に男子が声を掛けようものなら、お前に責任があるからだとなんでも、私のせいになることが目にみえています。幸い、隣国への伝手があるので、学園が始まる前に私は逃げます!」
「コゼット様。どうか、ヒロインとして、エミリオ様を引き取ってください‼︎」
「お断りします‼︎ 私はざまぁする必要がないので!」
「そこをなんとか」
コゼットの命は必ず、自分が責任を持って守るというクリスティーヌの必死の説得に負けて、コゼットはしぶしぶ、学園に通う羽目になる。
愛らしい妖精の隣には、ピンク色の髪をしているフライパンを持った乙女がいると噂になることを、コゼットはまだ知らなかった。
数多くある作品の中からお読み頂き、有難うございます。よろしければ、ブクマや評価を頂ければ、嬉しいです。