リビーは怒っている
夜に憩う人々で賑わう酒場で、私は濁流のような怒りに任せてピアノを弾き乱れる。
ああ…思い出すほどに腹ただしい。
あの時は自分が悪いような気がしていたけれど、よく考えたら…いいえ、よく考えなくても私ちっとも悪くないじゃない?
勝手に勘違いしていたのはアノ人。
騙したのはアノ人。
結婚だ離婚だと、私の人生を振り回したのはアノ人。
ーー振り回したと言えば、お姉様もよ。
『身を弁えた』という言い分が本当だったとしても、そのことが後々与える影響の大きさに思い及ばなかったのかしら?
アノ人の勘違いに気づいていたのなら早く教えてくれたらよかったのだわ。
自分がホンモノだと最初から名乗り出てくれたらよかったのだわ。
今回のことはタチが悪すぎる。
あー!もう!
大っ嫌いよ!
アノ人のこともお姉様のことも、大っ嫌い!
呪ってやる。
心の赴くままに。
私を口汚く罵ってきたアノ人を。
タチの悪い姉を。
2人とも不幸になってしまえばいいのに!!!
ーーピアノを弾き終えて拍手喝采の中で立ち上がった私に、酒場の客たちが声をかけてくる。
「いや〜今日もすごい気迫だったな、リビー」
「リビー、あたしゃアンタのピアノを聴くと、なんでか知らないけど気持ちがスッキリするんだよ」
「君のピアノは聞き応えがある。剥き出しの情念を巧く技術に落とし込んでいるね」
「ありがとうございます」
チップを受け取りながら私はクールに手を振り、大衆酒屋に相応しいチープな赤いドレスを翻してその場を後にした。
そうして酒場の2階に間借りしている小さな部屋に戻る。
どれどれ…今夜の儲けは……っと。
この酒場にピアノ弾きのリビーとして住み着いてから4週間が経った。
日に日に高まる評判と、増えていくチップに、私の荒みきった心が癒されていくのがわかる。
「……助かってしまった時はどうしようかと思ったものだけれど、こんな暮らしも悪くないわね……」
温室育ちの私が市井で生きていけるとは到底思えなかったけど、腹を括って暮らしてみれば案外なんとかなっている。
通りかかった商船の人々により海から引き上げられた”身元不明のお嬢様”である私は、助けてくれた商人に連れられてリイシャ領にある港町にやってきた。
よりにもよってリイシャ……と思ったものの、王国随一の港を有するこの街は人も仕事も多くて、私のような寄る辺のない者が身を置くにはちょうど良かった。
そして私は部屋を借り、仕事を得て……
そりゃあもちろん大変な事も戸惑う事も多いわよ?
でも、なんといっても社会的な立場が無いことの身軽さといったら!
人目を気にすることもない。
嫌いな人を嫌うことに引け目を感じることもない。
快適極まりない!
「ーーもうちょっとお金を稼いだら、旅でもしてみようかしら?」
コインにキスをしながら独り呟いた時、部屋のドアがノックされた。
「リビー、リビー、ちょっと来ておくれ。オマエにお客さんだよ」
酒場の女将さんの呼びかけに私は首を傾げた。
お客さん?
今の私に訪ねてくるような知り合いはいないはずだけれど……
+++++++
女将さんに連れられ応接間に入った私は、見覚えのあるその顔に凍りついた。
「……お久しぶりです。先ほどは素晴らしいピアノの音色でした、リビー……」
私の数少ない友人と呼べる人物。
3年間の妃教育の間に距離ができてしまったけれど……
彼は今、『リイシャ侯爵』と呼ばれる立場にいる。
少年の面影を残した黒髪の貴公子は、私との距離感を図るようにゆっくりと近づいてきた。
……嫌。
エリビアに戻るのは絶対に嫌。
でも、私はどう見てもエリビアなのだもの。
誤魔化すことはできそうにない。
絶望する私の気持ちを察してか、1つ年上の幼馴染は困ったように微笑んだ。
「そう怯えないでください。僕はアナタを地獄に引き戻すようなことはしませんよ」
「……本当に?」
ーーじゃあ、何しに来たのかしら?
侯爵は疑問に思う私の心中をこれまた察して、説明をしてくれた。
そもそも私を助けたあの商人は、侯爵直属の間諜であるということ。
あの日、私の乗る船の近くにリイシャの商船がいたのは偶然ではないということ。
酒場の女将さんも民間の間諜の1人で、私の正体こそ知らないものの侯爵命令で私を保護してくれていたこと。
まっさらな環境の中で私の心が回復しつつあるのを見計らって会いに来たこと。
「貴方を保護したことは全て僕の一存です。国王陛下にも知らせていません。貴方が望むのなら、このままピアノ弾きのリビーとして暮らすと良いでしょう」
「いいの?」
「但し、元の身分が身分ですからこのままずっと酒場に住まうのは危険です。僕の屋敷に部屋を用意しますからそこから職場へ通ってください」
「……平民でいていいのね?」
「もちろんです。……王族には戻りたくないのでしょう?」
私は込み上げてくる涙をこらえながら、大きく頷いた。
「私……私はもう王族ではないから…何の立場も義務もないただの民間人だから…だから人を恨んだっていいし、嫌ってもいいの。怒りを抑え込まなくていいの。だから生きていられるの……」
「それでいいと思いますよ」
侯爵の優しい微笑みに安堵しながらも、私は不思議に思った。
「……アナタはどうしてこんなに私を尊重してくれるの?いくら幼なじみとはいえ……」
「僕はただ、愛する人を守りたいと思っているだけです」
サラッと言ってのけた侯爵に私は顔を紅潮させた。
というのは一瞬のことで、嫌なことを思い出させる『愛』という言葉にたちまち眉根を寄せた。
「………ねえ、それ本当に私?本当に私で間違いないでしょうね?」
「ええ、間違いなく。リビー、貴方を愛しています」
「人違いじゃないでしょうね?後になって”エリー”がどうとか言い出さないでしょうね?」
「言い出すわけないです。それだけは絶対にありません」
ーー本当かしら?
侯爵だってアノ人のように在りし日の”エリー”に会っているはずだもの。
「お姉様じゃなくて、間違いなく、確実に、私のことが好きという解釈で間違いないのね?」
疑心暗鬼に陥っている私は、念を押すように険しい顔で侯爵に問う。
「僕の初恋は…今もなお愛しているのは、間違いなくリビーです。”エリー”ではありません」
侯爵の気持ちに応えるかどうかすら分からないのに、私はその言葉にホッとした。
だってもうご御免なのよ…勘違いで愛されるのは。
侯爵はそんな私を安心させるように、もう一度言った。
「僕が愛しているのはリビー、貴方です」
ーーそして、続けてとんでもない言葉も言い放った。
「そもそも例の『初恋のエリー』はエレーナ王女ではありませんからね」
…………
………………
…………………………は?
お姉様は『初恋のエリー』ではない……???
事の真相を…”エリー”の正体を知ってしまった次の日の夜。
酒場にて、私の呪いのピアノが炸裂したのは言うまでもない。
+++++++
ドロドロした恨みツラみを抱えつつ侯爵邸に住まいを移した私は、侯爵お抱えのピアノ弾きという名目で屋敷の奥に部屋を与えられた。
男が女に部屋を与えるという事がどういうことか。変な噂を立てられないかと心配したけれど、そこは侯爵の人徳というか、侯爵邸の民度の高さというか、心配するようなことはなかった。
私に接してくるのは屋敷内でも限られたごく一部の人たちだけ。
かつてリイシャ離宮で一緒に遊んだ執事の娘のエリサや料理長の娘のエライザ、昔馴染みの使用人たち。
再会した親切な人々に囲まれて、酒場と侯爵邸を行き来しながら働く日々は充実していた。
幸せ…と言っても過言ではなかった。
ーーそんなある日、私の部屋にやってきた侯爵は最悪のニュースを告げた。
帝国の皇太子夫妻がリイシャ離宮へやってくるというのである。
「短い間ですがお世話になりました!」
立ち去ろうとした私の手を侯爵が捕まえる。
「まだ話は途中です。落ち着いてください」
「あの人たちと同じ地を踏んで同じ空気を吸うなんて耐えられない!」
「彼らはこの侯爵邸に来ることはありませんから。大丈夫ですよ」
「………あの人たちが来ている間だけ旅に出てもいいかしら?絶対に関わり合いたくないの。例え少しでも、会ってしまう可能性があることすら耐えられないの……」
侯爵は泣いて嫌がる私の涙を拭いながら言う。
「旅もいいですが、リイシャに居ればおもしろいモノが見れるかもしれませんよ?」
「………おもしろいモノ?」
「或いは、貴方が彼らと決別するまたとないチャンスかもしれません」
+++++++
数日後、私はリイシャ離宮の西の棟にある書庫の物陰に身を潜めていた。
隣にはエリサとエライザが居て、ともすれば倒れそうになる私に優しく寄り添ってくれている。
やがて、廊下の向こうから浮かれたような声が徐々に近づいて来た。
もう二度と聴きたくないと思っていた私を罵ったあの声が。
否応なしにあの時の事を思い出して、心臓が早鐘を打ち始める。
「ゆっくり…深く息を吸ってください。大丈夫ですから」
「そうですよ!私たちがついてますからね!」
エリサとエライザの言葉に、私はコクリと頷く。
ーーそうして、書庫の扉が騒々しく開かれた。
読んでくださった方、ありがとうございます!
今日の夜か明日に最終話まで全部投稿する予定です。