侯爵は呆れている
「エリー、明日は馬で北の高原へ遠乗りに行こう!オマエの好きだった白樺の妖精に会いに行こう!」
離宮の貴賓室でくつろぎながら、皇太子ジュリアスが妻エレーナに語りかける。
エレーナは「まあ素敵」と相槌を打ちながらニコニコ微笑んでいるが……
ーー内心、冷や汗をかいているのだろうな……と、僕はその心中を察した。
だがしかし、同情などしない。
手助けもしない。
すべては自業自得である。
ああ…そろそろ日が暮れる。
”彼女”がピアノを弾く時間だ。
こんな任務はさっさと終わらせて、屋敷で彼女の音に耳を沈めたい。
人間不信となった彼女の気持ちは少しずつほぐれてきて、あと一押しで僕に心を開いてくれそうなのに。
こんな茶番夫婦の接待をしている暇など無いのに。
しかし僕は、リイシャ領の領主として、リイシャ侯爵として、この夫婦の相手をしなければならない。
真相を知った国王陛下から「どうにかして穏便に収めてくれ……」と泣きつかれている手前、放り出すわけにはいかない。
ーー穏便に…ねえ……
僕の冷めた視線に気づいたのだろうか。
エレーナが慌てて取り繕うように僕に言葉をかけてくる。
「貴方とも久しぶりに会えて嬉しいわ。昔はよく離宮で一緒に遊んだわね」
「……そうでしたでしょうか」
「そうよそうよ!懐かしいわ!」
この王女サマは国王陛下のお供で離宮に来たとて「こんな田舎でどう遊べって言うの?」と部屋こもっていたはずだが。
僕と一緒に遊んだのは、この王女ではない……
僕と一緒に遊んだのは……
「侯爵…やはり、エレーナはよくこの離宮で遊んでいたのか?」
皇太子が何かを確かめるように身を乗り出して聞いてくるので、僕は曖昧に微笑みながら昔を思い出した。
「………幼い頃、”王女様”とは、一緒に海岸で小貝拾いをしました。日傘を持って追いかけてくる女官たちもなんのその、日が暮れるまで薄桃色の貝殻をみつけては喜んでいらっしゃいましたよ」
「そうね!そんなこともあったわね!」
ろくに顔を合わせた覚えがない方の王女サマが、神経をすり減らせた愛想笑いで相槌を打ってくる。
僕はそれを無視して思い出話を続けた。
「それから、夜の浜辺に寝そべって星を見ることもお好きでしたね。ドレスに砂がついたことを乳母に叱られていたのを覚えています」
「ああ…本当に懐かしいわ……」
「潮騒を聞きながらよく2人で勉強もしました。僕が勉強を教えるかわりに、”王女様”はピアノを教えてくださいました」
「そうそう……覚えているわ」
「漁船に乗ってみたいと言いだして漁師たちを驚かせたこともありました」
「ほお…やはり好奇心旺盛だったのだな……」
皇太子の言葉に、エレーナは「恥ずかしいですわ」と頬を赤らめる。
「………すべて、僕の大切な思い出です」
僕は屋敷の奥でピアノを弾いているであろう”彼女”に思いをはせた。
すべてすべて、僕と彼女の大切な思い出だ。
ーーふと、そんな彼女を追い詰めたこの茶番夫婦への怒りが蘇ってくる。
国王陛下の嘆きを前に仕方なく鎮めたはずの怒りが、たちまち首をもたげて牙を剥く。
僕は…僕は、国王陛下の臣下として、侯爵として、ことを穏便に収めなければいけない。
しかし、少しくらい意地悪をしてもいいだろう。
大したことはしない。
ほんの少し…ほんの少しの意地悪をするだけだ。
だから問題はない。
きっとこのまま穏便に済むはずだ。
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「侯爵…この離宮と侯爵邸に『エリー』と呼ばれる女はいないだろうか?」
夜になり晩餐を終えた皇太子は、僕を部屋に呼びつけそう尋ねて来た。
エレーナは湯浴み中のため皇太子の傍にはいない。
「年の頃は二十歳前後。9年前にリイシャ離宮に出入りをしていた者だ」
ーーやはり、それを確かめにリイシャに来たのか。
例の流行歌を耳にしたのだろうか?
エレーナが怪しまれるような言動をしたのだろうか?
どうでもいいけれど。
「……それは使用人も含めてでしょうか?」
「そうだ」
「当屋敷の使用人まで含めますと2人のエリーが存在しております。よくある呼び名ですからね」
「ーーその中に亜麻色の髪の者はいるか?」
「……いいえ。執事の娘である侍女のエリサ・オリンは赤髪。料理長の娘であるエライザ・シモンは黒髪。2人とも親しい者にはエリーと呼ばれていますが、現在も過去も亜麻色の髪ではありません」
僕の回答に皇太子はガッカリしたようなホッとしたような複雑な表情をした。
「やはり、俺のエリーはエレーナだったのだな……」
独り言のように皇太子が呟くが、僕は聞こえないふりをした。
「ーーああ、そうそう。滞在中、よろしければ西の棟にある書庫を覗かれては如何でしょう?非公式の存在である”少年カルロ”の記録は残っておりませんが、当時この離宮に絵の上手い庭師がいましてね。彼が9年前に描いたスケッチなどが保管されております」
「おお!それは興味深い!」
目を輝かせ身を乗り出す皇太子に、僕はニッコリと愛想笑いをした。
その微笑みを受けて、皇太子は一瞬だけ頬を赤らめる。
ーーやめて欲しい。
僕はオマエのことなんて大嫌いだ。
そう思いつつ、僕は微笑みを崩さぬまま背後に現れた人物を振り返った。
「……当時の思い出を語らうのにはもってこいかと……エレーナ妃殿下」
強く鼻をつく薔薇の香りを漂わせているエレーナは、風呂上がりだというのに青ざめた顔で部屋の入り口に立ち尽くしていた。
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