真面目
【真面目】
おぉ、フォルカヌスよ、貴方を讃える
貴方は私達を戯れの旅に導いた
ここは車輪の上、貴方の赴くままに
車輪は巡り、真っ逆さまになるけれど
今は車輪の底の終わり、ここからは昇るばかりよ
この旅に、貴方の祝福があるだろうか
あるともさ!私達は貴方の車輪の上にある
(旅の始まりの歌と考えられる。冒頭に記されていることから、この歌が成立したのが最も古い事だけは疑いない。しかし、その他の歌に関しては、旅の順序とは異なっているだろう。恐らく、再編纂をこなすにあたって、歌の内容によって分類したものと考えられる。原本が未発見なため、時系列を完全に把握することは困難だが、今後の研究に注目したい。)
風の唸り、空は高く
風車は軋み、回る
青々とした草道の端には、ヤトが二羽、仲睦まじく
通り過ぎる淡い香り、あぁ、恵みあれカペラの冠
(道中の歌と思われるが、散文的かつ描写の面で他の作品と比べて感情が薄い。)
おぉ、繊細なる銀細工師よ
その細い指でなぞるのは、聖典ではなく、人肌でもなく
なぜその銀ピカの奴なのか
煤塗れの煙突工さえ、有り余るほど、美しく思う
その手は汚れた、ピカピカと
その銀ピカの奴一つ、わしが救ってもよかろうか?
そう言ったやつが、一番汚い
抱いたその手で、聖餐を嗅ぐ、銀ピカの歯で
ニヤリと笑う
(金銀本位制の当時も、現代に違わず銀細工は高級品だった。よって、銀は贅沢の象徴であり、毒物を変色によって見分けられる銀食器などは実用性も含めて上位階級に愛用された。
また、「聖餐を嗅ぐ」と言う表現から、銀ピカの歯の持ち主は聖職者であるとわかる。銀細工師の手は銀がついて汚れているが、聖職者はその銀を体内である歯と完全に一体化させているという事を歌った皮肉だろう。「抱いたその手で」というのは、聖職者の奔放な性活動を暗示している事がわかる。)
ごろごろとなる車輪の上は、何と残酷な事だろう!
積み上げた墓数多のせいで、俺達はくさっぱらにいる!
凍える手で取る毛布さえ、ガチガチ震えて、なお冷えて
古めかしい聖旗はためかせても、瘴気は去らん、寒気だけ
掲げるならば俺にくれ、その旗でこの身温めるから
(「積み上げた墓」「瘴気」などの用語から、道中にパンデミックに見舞われたのかもしれない。また、その結果、検疫の為門前払いを食らったらしいことが分かる。既に宗教の権威が世俗的な力に飲み込まれていた当時の学生らしい、皮肉めいた歌である。)
カナル・グランデはそよそよ流れる
海へと続く、血管の道
大動脈は壁を割る、枝分かれに橋架かり
古風なトーガが横切った 両替商の座る間を
ここには傘貸しなどいない、算盤掲げた人の波
二つの海に挟まれて
枝を貼れ、あぁ、大運河
(グランド・ツアーの中継地、ウネッザの光景を歌った歌である。傘貸しは都市にかかる橋の間だけ少額で傘を貸す仕事であり、カペルの遍歴学生にはなじみの光景であっただろう。両替商はどこも人の往来する場所に集まる事が多く、大運河にかかる橋ならばその最たるものと言える。橋の上を流れる人の波を海に準え、川が二つを支える姿を表現している)
憐れ、人は縛られているよ
大地は正位置を留めるピン、撥ねつけようとも押し戻される
主よ、大地に釘を打ち、何故私達を縫い留めた?
かくも憐れなマリネッタ、秘跡の跡も辿らずに
歌は魂を縫い込む針だ
されば肉体は糸だろう
ピンに留まった私達、自ら針で魂を留め、千切れんばかりの糸を押す
(学問分野の中には、神学上批判されてきたような分野もいくつか存在する。この学生は、それをマリネッタや、縫い付けるという例えを用いて嘆いている。仮にこれが生前に発見されていたならば、彼の命はなかったかもしれない。)
聖女の面影の紋章と、篝火に萌えるアヤメの花
燃え盛る薪、聖職者と敵を煙に隠し
磔刑の棒に身を委ね、赤々とした鎖に腹を焼く
恥辱の怒り、未だあり 聖女の祈りは灰燼に帰す
高くはためく横顔の旗 わが胸にいまこそ掲げる
(一行の道程を考えると、これはラ・サーマの都市旗を歌った歌と思われる。男装の罪に焼かれた戦いの聖女、ジェイン・グクランの悲劇を歌い、彼女の解放した地に掲げられた旗を見上げて誇りを新たにしたのであろう。力強い最後の言葉に、若い逞しさが垣間見える。)
嘆け、この丘の向こう側 先には主の墓がある
讃えよ、血の跡を辿る道 誰もが愛を受けた光
祈れ、全ての賛美を込めて 主は数多の異教の中でも輝く
それこそ主の歌、祈りの世界
我らを守り給え 三つの光
(聖光主教会への道を歌った賛美の歌だ。光の主神ヨシュアは形を持たない存在として輪郭だけで描かれていたため、形を持つ総本山としての聖光主教会は彼らにとって想像以上の神秘性を持っていた、言葉数こそ少ないものの、この歌には様々な神秘性が込められている。)
プロアニアは素晴らしい!
技術の都、妄信の撤廃、信仰ならざる者への信仰!
それに比べて、辺鄙なカペルの浅ましさよ!
花冠に口づけし、標準化未だなせぬまま
人も動物も、暢気に欠伸を漏らす始末だ
そんな奴らは牢に放り込み 水魔法で矯正しよう
白質切って再教育、そうすれば少しは目も覚めるだろう!
プロアニアのように元素を学び、向学逞しき人々には
もっと学びの場も出来る 教育とはそう言うものだろう
(実のところ、この歌をかいた人物については、概ね解明されている。当時魔法学博士号を取り、神学修士課程と法学博士課程をとっていた博学才穎の人物、ルクス・フランソウスである。先述の拷問に関する歌などからもわかるとおり、この学生たちは主に法学部の学生を中心としているようである。
フランソウス博士は魔法学にも精通しているが、この歌から、恐ろしい事実が浮かび上がってくる。当時からすでに、プロアニアは異常と言ってもいい科学技術の発展を遂げており、学生たちの中には産業スパイのようにここに忍び込み、学ぶものがあった。彼もその例に漏れず、プロアニアに忍び込んだ記録が残されている。
そして、プロアニアではこの当時、一部の先進地域において、犯罪者に対する人体実験が行われていた。これが現代で言う前頭葉白質切断術、所謂ロボトミーである。教育刑的な思想を持っていたフランソウス博士はこれが心底気に入ったらしく、帰国後すぐに論文を発表する。
現代の倫理観からすれば圧倒的に愚かな行為ではあったが、階級間に大きく隔たりがあった当時のカペルでは、特に貴族達が統治機構の見直しとしてこのような手術を取り入れたようである。
この歌に対する反論も、しっかり存在している。)
神の教えに反するわ 人の心を踏み躙るわと
散々お前はそうやって 人をヒトたらしめる
白質を切られた人間は しおらしくなり 不幸を失くし
誰にも見られぬ程純粋になり 人と成らずに生涯を終える
空虚な暮らしの中に消える 命をこそ憐れむべきで
お前はいつもそうやって 人をヒトたらしめる
(ロボトミーを受けると、その人間は不幸の幾つかから解放され、心の負担が少なくなる。しばしば犯罪者の教育に使われた過去があったのは事実である。しかし、その反面「子供のようになる」と言われており、この歌にあるように、「人をヒトたらしめる」。つまり、成長と共に育まれていく感性や、理性と言ったものが失われる。それがどれ程恐ろしい事か、我々には想像に難くないが、当時の貴族からすれば、貧者は概ねその程度の存在に過ぎなかった。恐らく二人は教育刑論と応報刑論の間で対立しているのだろうが、より後者の歌の方が、現代の倫理観に近い。こうした時代の徒花に触れられるのも、歌集の魅力と言えるだろう。)