96 我慢の限界
鼻をつく糞尿の臭いが漂う。
視界の端を何か黒い点が高速で行きかうと思ったら、蠅だった。
奴隷たちにたかっている蠅だ。
今は商品として行儀よく陳列されているものの、それ以前にどれだけ劣悪な環境に置かれていたかがわかる。
「いやいや、お坊ちゃまもお兄さんもよい趣味をお持ちで! 奴隷のコレクションなど相当な財力がなければできませんからなあ!」
奴隷商人が手揉みですり寄ってくる。
俺のことも貴族男のことも上客と判断したか。
「特にお坊ちゃまには毎度お世話になっております! 今回も見目好い奴隷をお坊ちゃまのために用意してきましたので、どうか品定めくださいませ!」
「はっはははは! 商人風情がよくわかってるじゃないか! 宝石や絵画や名馬! 高貴なコレクションは数あれど、奴隷以上に素晴らしいものはない! 何しろ人だからな!」
そこまでわかっていて何故、人を物扱いする異常さに気づけないのか?
ここは俺の理解の通じぬ恐ろしい場所だった。
「キミもそうだろう? そのように着飾った奴隷を伴わせて。どこの誰かは知らぬがまことに高尚な趣味だ」
そしてコイツは相変わらずノエムのことを、俺の奴隷だと思っているらしい。
こんなところに迷い込んだのだから客と間違えられるのは仕方ないとしても、奴隷を連れて歩いているなんて……。
「ふむ……、見てくれもいいし、何より奴隷らしからぬ生気のこもった目つきは素晴らしい。……キミ、どうだろうか?」
「ハイ?」
「この奴隷を私に譲ってくれないか?」
とんでもないことを言い出しやがった。
「いや、キミがその奴隷を磨き上げるのにどれだけ苦労したかはわかっているつもりだ。だからこそ値段に糸目は付けない。キミが買い取った額の三倍……いや五倍出そう」
「いや、あの……!」
何とか断りの文句を捻りだそうとするが、何も浮かばなかった。
ウソでも何でもいいから並び立てればいいのだろうが、たとえその場しのぎの演技でもノエムを奴隷扱いすることを本能的に拒否されたのだ?
「私が主人になれば、公の場でこの奴隷を披露目することができる。高い評価を受ければキミだって鼻が高いだろう?」
「そうですぜお兄さん! その奴隷を売り払ったお金で、またウチの奴隷をたくさん買ってくださいよ! 上手くすりゃあ奴隷調教師として生計が建てられるんじゃないすかあ!」
奴隷買いと奴隷商人がこぞって俺にすり寄ってくる。
どうしていいかわからず、あたふたするばかりのノエム。
その状態が、俺にとっては何千秒間であるかのように思えたが、結局は一瞬だったのだろう。
すぐさま頭の裏辺りから『ブチリ』という音が聞こえてきた。
◆
それから数分後……。
奴隷市場は、さっきまでの賑わいなどウソであったかのように静まり返っている。
煩いのを俺が全部殴り倒したからだ。
周囲には多くの男たちが頭部の形を変形させて倒れ込んでいる。
奴隷商やら、その用心棒やらといった連中であるが片っ端から殴り倒して気絶させていった。
それ以外の客どもは恐ろしさに腰が抜けたか、そうでなければ一目散に逃げ去っていった。
ちなみにノエムのことをコレクション奴隷と勘違いしてしつこく譲れと迫っていた貴族男も、そこで腰を抜かしていた。
連れていた女奴隷たちが寄り添うように集まっている。
あんなバカタレな主人にでも忠誠心はあるってことか。
「あー、……ゴメン」
ひとまずノエムに対して謝罪を述べる。
「キミが引き留めてくれたにもかかわらず結局暴走してしまった……! 上手く取り入って首都の場所を聞き出そうとする作戦が……!」
「気にしないでください」
ノエムが俺の手を握る。
「あのまま奴隷を買う人を演じていたんなら、私のことをあのブ男に売り渡さないといけなかったんですし、仕方ないと思います。リューヤさんはわたしをまた守ってくれたんです。そのことは嬉しいです」
俺の行動をフォローしてくれるノエム優しい……。
「それに、必要な情報があるなら仲間のふりして聞き出さなくても、締め上げて吐かせればよかったんです! そんなことにも気づけないなんて私もうっかりですねえ……!」
「そうだね……!?」
そして逞しい。
結局奴隷市場は力づくで壊滅させてしまったから後始末は必要なんだが。首都の位置情報を拷問なり尋問なりで得るにしても、その前にやるべきことがある。
「えーと……、奴隷の扱いをされていた皆さん……!」
この場にはまだ、うつろな目をして立ち尽くす奴隷たちが何十人と並んでいた。
いや、この世に奴隷と呼んでいい人間などいない。
不当に奴隷という扱いを受けていた被害者たちだ。
「ゆえあってここにいる奴隷商は制圧しました。アナタたちをどうこうする権利も剥奪しましたので今からアナタたちは自由です」
きっと彼らは世界の各地から攫われてきたのであろう。
希望するなら故郷に帰してやってもいいし、新たな働き口を紹介してもいい。
……そう言ったことはセンタキリアン王国に丸投げすることになるであろうが……。
だからすべてを整えるにしても、まずはブルーバールム奴隷国家を叩き潰してからになるが……。
「それまではどこかに身を隠してもらうのがいいだろう。食料は奴隷商どもの分を取り上げればいいとして……」
俺が様々考えを巡らせていた最中、奴隷の扱いを受けていた人々が自分から行動を取り出した。
「え?」
彼らを繋いでいた鎖と首輪は、既に俺が力任せに引きちぎって戒めを解かれている。
いまや束縛するものは何もない彼らは、一団で歩き出す。どこかへと向かって。
「え? え? なんです? どこに行こうとしてるんです?」
ノエムも困惑気味に人々の大移動を目の当たりにする。
市場に引き連れられてきた奴隷は、ざっと百人以上。
それが一斉に一方向へ移動するのだからまさに大移動だった。
しかし彼らはどこへ向かおうとしている?
「ゲッ、ググググ……! ヤツらは帰ろうとしているのさ……!」
「何?」
そう言いだしたのは、俺に殴り飛ばされた奴隷商の一人だった。
フッ飛ばされて全身叩きつけられ、その衝撃で体の自由が利かなくなってはいるが、それでも憎々しげに口だけ動かす。
「……バカ野郎め。どこの正義の味方気取りか知らねえが、アテが外れたな。アイツらは心の底から奴隷なんだよ。主人がいなくなったんで自分のいるべき場所……奴隷蔵へ戻ろうとしているのさ」
「そんな……、バカな!?」
この大移動している奴隷たちは、みずから囚われ直しに戻っているというのか!?
「アイツらは受け入れてるんだよ! 自分が奴隷だってことをなあ! それをわからずオレたちをのしてヒーロー気分で気持ちよかったかあ!? でもそれはテメエの自己満足に過ぎなかったってことよ! 恥ずかしいねえ!!」
勝ち誇ったように喚き散らす奴隷商。
さらに……。
「お願いします! ご主人様をお助けください!」
と涙ながらに訴えてくるのは、さっきの貴族男に連れられた女奴隷たちだった。
俺の凶行にビビッて腰が抜けてる主人を、身を挺して庇う。
「この方は私たちのご主人様なのです! 奴隷は主人なしには生きられません!」
「奴隷である私たちにご飯を食べさせて、人並みの生活を与えてくれた優しいご主人様なのです! 殺すなんて可哀想です!!」
自分の身を投げ打ってでも……という勢いで庇い立てする少女たち。
彼女らは、本当にこの男を主人として慕っているというのか?
自分たちをペット扱いするこの男を。
「人ってのはそういうものよ! 自分が奴隷で、逆らったらいけないってことを教え込めばその通りになるのさ!」
再び声を張り上げる奴隷商。
俺たちのやったことが無駄だと突きつけることで精神的勝利を得ようというのか。
「いい気になるんじゃねえぞ偽善者が! 奴隷はな、この世界に必要なシステムなんだよ! オレたちだけがその現実に真っ向から向き合ってるんだ! お花畑な脳みそでオレらの真面目な商売を邪魔してんじゃねえよ!!」
本当に奴隷とされた人たちが、その立場を受け入れているというのなら、俺たちの挑んだ戦いはそれこそ無駄ということになる。
そのことに気づいてノエムなども顔を青くしていたが……。
『騙されるでないぞ主様』
そこへ、アビニオンが現れて言う。
退屈だったのかずっと姿を消していた彼女だが……。
『人の心など、どうにでも操れるものじゃ。それなりのテクニックがあればな。しかもより強い作用があればテクすらも必要ない。このように……』
「な、なんです? お、オバケ? やめて離して……!?」
アビニオンは、一番手近にいた奴隷少女に近づくと手を伸ばし、衣服を裂いた。
「きゃあああああッ!?」
「おい、乱暴は……!?」
あまりにもなアビニオンの狼藉を止めようとしたが、俺は身動きを止めた。
あるものが視界に入って。
アビニオンによって割かれた衣服の、その内側から出た素肌。
鎖骨の下あたりだろうか?
その部分に刻まれた、禍々しい気配を発する紋章。
……これは何だ?