58 海へ還れ
『赤ちゃん!』
水の女性が向きを変え、ノエムの下へと駆け寄っていく。
ちょっと心配したが杞憂だった。
魔神霊オケアネスは、礼儀正しくノエムの眼前で止まると、差し出された我が子を瓶ごと受け取り抱きしめる。
『ああ、赤ちゃん! 私の赤ちゃん……!』
……。
お?
周囲に漂っていた不穏な雰囲気が、潮の引くように消えていく。
恐らくあの剣呑さは街中を覆っていたのだろう。魔神霊オケアネスの怒気と哀気が作りだした重苦しさは、もう残らず消え去った。
『どこも怪我はない? 怖かったわね、寂しかったわね? ママが来るのが遅れてごめんね……!』
と語り掛ける水の女神は、さっきまでの鬼のごとき恐ろしさはどこへやら、母親の慈愛に満ち溢れていた。
『アナタがこの子を助けてくれたのね、ありがとう』
しかも物分かりがいい。
ノエムに向かってこの上ない感謝の意を表す。
『この子の精神の波長でわかるわ。アナタへの感謝と親愛で溢れているわ。命が危ないところを救ってくれたのね。本当に、本当にありがとう』
『相変わらず眷属のことになると見境がなくなるのう、おぬしは』
『あら、アナタはアビニオン?』
ドロンと現れた幽霊女を前に、水の女神は反応する。
『どうしたのお久しぶりねえ? こんなところで会えるなんて。何百年ぶりかしら? 私が陸地に上がることなんてそうそうないことだから、どうしても疎遠になっちゃうのよねえ』
『おぬしが上陸する時は、陸地の何割かが水没する時じゃからのう。生き物どもにとってはできるだけない方がよいわい』
なんか怖いことを言っている?
しかしノエム、キッチリとやり遂げたんだな。
あのクラゲ……ネレイスの幼生がちゃんと生きていけるよう、本来の棲み処に極めて近い水質を再現した。
俺がオケアネスを食い止めていた短時間でよくやった!……って、実際どれくらいの時間だったのだろうか?
……あれ?
東の空が明るい?
「リューヤさんが食い止めてくれたおかげで、錬金合成の時間を充分にとることができました! ありがとうございます!」
ノエムが駆け寄ってくるけれど……あれ?
俺どれくらいの時間戦い続けていたの?
夜通し戦ってたの!?
「リューヤさんだけじゃなく、この街のクラフトギルドの皆さんも手伝ってくれました! 冒険者の人たちも避難誘導を迅速にやってくれてたし、皆の勝利です!」
「そうか」
興奮気味のノエムの頭を撫でる。
街を守り抜くことができたのはけっして誰か一人だけの手柄ではなく、この街に関わる一人一人が全力で、何かしようと懸命になった結果だった。
それが誇らしい。
『本当に感謝いたしますわ。今回は私の不徳の致すところで、六千三百二十七いる可愛い我が子のうちの一人を、ちょっと目を離した隙に連れ去られてしまいましたの。本当に心配で心配で、生きた心地がしませんでしたわ』
『この場合本当に生きた心地がせんのは、おぬしの周囲にいる連中じゃがのう。八つ当たりで沈められたら堪ったもんじゃないぞえ』
こちらへ語り掛けてくるオケアネスのテンションが、緩急付きすぎてて戸惑う。
我が子が帰ってくるまでの、あの鬼女めいた恐ろしさはどこへ?
『おぬしにしては不覚を取ったのうオケアネス。大事な我が子を連れ去られるとは、一体何者の仕業じゃ?』
『それがわからないから困ってたんですのよ。わかっていたら即刻ソイツの下に乗り込んで、沈めて掻き混ぜて揉みくちゃにしたあと洗いざらいすべてを吐かせてあげましたのに……』
あ、やっぱ怖い。
『こうして我が子が無事戻ってきたのは何よりですけれども、二度とこんなことがないように犯人にはしっかりと思い知らせてあげたいの? ねえアナタ方、何かご存じない?』
その問いかけのゾッとするような冷たさと言ったら!
俺もノエムも背筋を伸ばして緊張する。
「いいえ知りません! お役に立てずに申し訳ありません!」
『どんな些細なことでもかまいませんのよ? もしかして庇い立てとかなさってる?』
「滅相もない! ネレイスを持ち出してきたのはA級冒険者のヤツでしたが、それ以外は特にわかりません!」
『ふぅん、冒険者……』
あッ。
いかん俺、恐怖に負けていらんこと口走ってしまったかな。
『おいオケアネスよ。すぐ先走るのはおぬしの悪い癖じゃぞ』
そこに割って入ってくれるアビニオン。
やったー頼りになる。
『おぬしの子を捕まえておったのが冒険者だと聞けばきっとおぬしは地上の冒険者すべてを皆殺しにすることじゃろうが、今おぬしの目の前におる恩人二人も冒険者じゃ。大雑把なことをしておると恩を仇で返すことになるぞえ?』
『それは困りましたわねえ』
本当にそうするつもりだったの!?
『もっとスマートにやればよいのじゃ。捜査を進めていけば、冒険者の組織において誰が凶行に及んだかより克明に出てこよう。そして罪ある者に、罪に適した罰を与えればよい。もっとも人間の分際で魔神霊に歯向かう報いは極刑以外にあり得ぬがの』
『ですわよねー』
意気投合するのそこで?
彼女らやっぱり、人間の常識を超えた超越者であることを痛感する。
『でも誤解なさらないでね。私アナタたちには心から感謝していますのよ。この子もアナタたちのことを大層気に入ったようですし、そうね……何かお礼の品を上げないと』
そう言うとオケアネスの水の体がモゴモゴ波打つ。
そして体内からペッと何か物体が吐き出された。それは白い白い、象牙のような上品な白さを持つ細い壺だった。
「これは……?」
『私の力で作りだされた神器ですわ。そこから無限に水が湧き出すようになっていますの』
ノエムが手に取ると、たしかに口からドボドボと水が溢れ出す壺。
ガンガン溢れ出して、もう内容量分吐き出したろって思ってもまだ溢れる。
「うわわわわッ!? これどうすれば止まるんですか!? 家の中だったら大惨事!?」
『止まるように念じれば止まりますわ。逆に水を出したい時も念じればいいわ』
「おおー、……わッ、本当だ!」
『その壺から出る水は不純物の一切ない水です。アナタは錬金術師だから綺麗な水がたくさん必要でしょう?』
「その通りです! 凄く助かります!」
ノエムはいいものを手に入れた。
いいもの過ぎて、ヒトから狙われない?
『アナタたちの魂の波動を覚えさせましたから、アナタたちの手から離れたらそれはもうただの壺ですわ。魔神霊として心汚れた方の手助けなんてしたくありませんから』
『徹底しておるのう……』
『お礼もちゃんとできたことだから、そろそろ戻りますわ。この子をおうちに戻してあげないと……』
やっと帰ってくれるのか。
この超越者がお越しになると緊急事態にしかならないので、お帰り頂くのは正直言って心休まる。
『リューヤさん、ノエムさん、アナタたちの働きこの魔神霊オケアネスは永遠に忘れません。困ったことがあったらいつでも私を頼ってくださいね』
いつの間にか名前覚えられとる。
怖い!
『それからアビニオンさんにもこの借りはいつか……』
『よいよい、わらわはただ面白そうな人間にくっついて楽しんでおるだけよ。此度もげに楽しませてもらったわ』
『そうなのですか。魔神霊の中でも特に享楽的で、後先のことなど考えないアナタが何をしているのかと思ったら……、結局はその場の楽しみだけを優先させていますのね』
アビニオンはそんな動機で俺たちに付きまとっていたのか。
まあ薄々わかっていたがよ。
『リューヤさん、我ら魔神霊が何者かといえば、自然運行の化身です。水の巡り、風の巡り、地の巡り、日月の巡りに人格を伴わせ、神のごとき存在となったのが魔神霊。この世界の外にて君臨する大超越者……八龍、四元、二極らに準ずる全能性を持った者たちなのです』
は、はい……!?
『そのうちの一人であるアビニオンさんに見初められたのです。アナタはきっと特別な何かを持った人間なのでしょうね』
『「何か」どころか主様は、龍に選ばれた人間じゃぞ。戦闘力においてはわらわたちを遥かに凌駕しておる』
『まあ、それは凄いわね』
なんか軽いな……?
『それでは今度こそ失礼いたしますわね。またお会いしましょうよき人間のお二方。私、受けた恩も怨も決して忘れませんので……』
こうして魔神霊オケアネスは、元来た海へと戻っていった。
あわや国ごと滅ぶと思われた、A級冒険者ソーエイデスの破れかぶれの策は、奇跡的に何の犠牲も払わぬままに解決されたのだった。
……あれ。
そう言えばソーエイデスの野郎ってどうなったっけ?