57 海の荒神
「冗談じゃない規模のヤツが来た……!?」
あれが津波……!?
あんなのが直撃したら街が一たまりもない!?
視界すべてを覆い尽くすかのような大津波。
あれが海の魔神霊オケアネスによるものなのか。アビニオンが柄にもなく慌てるわけだ。
この障害は、間違いなく俺のこれまで出会ってきたものとは格が違う。
各地で出会ってきたモンスターも。
人間の犯罪者や敵対する冒険者も。
勇者リベル。
魔族。
それらどれ一つとして今、目の前にあるアレの足元にも及ぶまい。
「アビニオンは戦う前から降参してきたしなあ……」
気合を入れ直してかからねば、ちょっとした油断で討ち漏らしましたというのもあってはならない。
俺の背後には数千人が住む街があるのだから。
まったく知らない人もいれば、絶対に失えない大事な人もいる。そのすべてを守るためにも津波はここで完全にシャットアウトする!
「こおおおお……!」
呼吸を整え、拳に力を込める。
レベル八百万の俺の力がどこまであの大津波に通じるかはわからない。
しかし青龍オオモノヌシの下で修行した時、全開に出しまくっていた我が力を、かつてない割合まで開放して放つ!
「はあッ!!」
ただのパンチだった。
それでも超高速で振り抜いた拳が空気を叩き、その勢いで飛ぶ空気の塊が津波に大穴を放つ。
穴は大きく広がって最終的には大津波のすべてを木っ端みじんに打ち砕いた。
「よっし!」
行ける。
俺の極上げしたレベルは自然災害にも通用するぞ。
と思った次の瞬間だった。
砕いた津波の後ろにもう津波が!?
「連続攻撃!?」
としか思えない畳みかけ。
ここまで間をおかない連続は、自然ならばありえない。
波ってのには寄せては返しの一定のリズムがあるはずで、それを無視して返すことなく寄せてくることなんてありえない。
しかし実際にありえないことが起こっている。
その裏に、自然を越えた神霊的なるモノの存在を感じないわけにはいかない。
「それくらいでへこたれるか!」
俺は今度は、まっすぐに伸ばした五指で手刀を作り出し、それを真横一文字に振り抜く。
空間を斬り裂かれたことで空気の断層ができ、真空の刃は突出していって二段目の大津波を斬り裂いた。
切断された波は真空刃が生み出す乱流に巻き込まれ無数の水滴となって散る。
その後ろに三段目の大津波。
「しつこいな!」
これも拳の衝撃波で打ち砕く。
四段目。
五段目。
六段目。
七段目。
いずれもたった一つだって海岸線を越えれば街に修復不能の損害を与える。
人命的にも。
だから一歩も引くわけにはいかない、引けない!
連打だ、うりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃ……!
◆
「……えーと、これで幾つ目だっけ?」
少なくとも百回は大津波を粉々にしたと思う。
たった一つでも街崩壊レベルの規模なのにオーバーキル過ぎる。
どれだけ大雑把なのだろう、そのオケアネスとかいう魔神霊は。
いや、そういうことではなく、やはりこれは怒りなのか?
娘と思うほどに大切な眷属を連れ去られた怒り?
しかし今、ノエムが頑張ってネレイスに合う深海水を錬金合成しているところだから、それさえ終われば無事返してあげられるのだからもう少し待っていてほしい。
幸い、ヤツが起こすのだろう大津波の連発ペースは、俺の大衝撃はパンチや真空断裂チョップの連射を越えるものではない。
まだまだ体力にも余裕があるから、このペースで行けば四、五ヶ月はこの拮抗を維持していくことが可能だ。
その間にノエムお願い! 一刻も早くお子さんをお返しする状況を整えて!
「……!?」
そこで俺はふと気づいた。
「体が濡れている?」
いつの間に?
波打ち際だからあり得ることでもあろうが、俺の体は頭のてっぺんからしっとり濡れて髪から水滴が落ちる。
俺はこれまで無数の大津波を力業で打ち砕いた。
その時粉々にした海水が見えないほど微細な水滴となり、霧状になってここまで来た。
俺は気づかぬうちに、それを全身に浴びていた?
『どうして……?』
何だこの声は?
俺の体は表面すべてが隙間なく濡れていた。
乾いている部分など小指の爪の先ほどもない。
それが今、何故か絶望的な窮地に思えてくる。
『どうして邪魔をするの……、私は……、私は可愛いあの子を迎えに来ただけなのに……!』
体の表面を覆う水が蠢いている?
特に理由もなく体積を増やしていき、急速な速さで俺を飲み込むほどに!?
『どうして邪魔をするのおおおおおッ!? まさかお前か!? 私の可愛い赤ちゃんを連れて行ったのはお前かああああああッ!!』
ヤバいと思った時にはもう、俺は女の体内にいた。
水でできた女の内側に。
飲み込まれた。
水の女。
アビニオンが全身霊体で形作られた美女の姿をしているように。
同類のコイツも実体がない、流形のもので姿現す存在。
海の魔神霊オケアネス!?
『殺してやるうううううッ! 私の子を奪った者は殺してやるううううッ!!』
さすがに効かない攻撃を延々と繰り返すほどバカではなかったか。
こんな搦め手で攻めてくるとは。
俺は水で形作られた女の内側にいて、ちょうどお腹の部分に飲み込まれている。
水を掻いても前にも後にも進めない。
水中に閉じ込められた人間はどうなるでしょうか?
窒息して死ぬ。
御免蒙る。
「かッ!」
気合一閃。
それだけで俺を覆う水は四散し、形作られた女体は粉々になる。
何事もなく地面に立つ俺。
「俺を溺れ死にさせたいなら悪手だぞ。俺は無呼吸でも最低十年は生きられる」
とはいえ、俺を飲み込みながら街へ向かう素振りを見せたからやむなく吹き飛ばしたが。
案の定ダメージらしいダメージは負っていないらしい。
無数の水滴が地を這いながら集まって一つとなり、再び美しい女性の姿を形作る。
『赤ちゃん……私の赤ちゃん……!』
話の通じる感じがまったくない。
子を奪われた母親が鬼と化す話があるがまったくそんな感じ。
できれば状況を説明して、落ち着いてもらいたいところだが残念、俺には説得できる自信がまったくない。
かといって全力で戦うのもなあ。
彼女はただ連れ去られた我が子を取り戻すためにきたにすぎない。動機そのものはこの上なく真っ当で、返り討ちにするのはあまりに可哀想だ。
俺が全力でやると魔神霊ですらも消滅させてしまいそうだしなあ。
しかしこのレベルの相手を殺さないように傷つけないようにいなすのは相当な負担だ。
『私の赤ちゃんを返せえええええッッ!!』
凄まじき怒りの念が濁流と変わり、俺へと押し寄せる。
そこへ……。
「待ってください!」
声が響いた。
来たか!? 振り向く視線の先には、見慣れたノエムの姿が。
「アナタの子どもはここにいます! 無事ここにいますよ!」
と掲げられたガラス瓶の中には……。
あの小さなクラゲが元気を取り戻して泳ぎ回っていた。