10 悪霊区のレギオン
「ほんの一、二年前までは、こんな領域なかったんだ」
ロンドァイトさんが忌々しげに言う。
俺たちをその場所へ案内しながら。
「それまで、この平原はその名の通り広大でね。あちこちで薬草が採り放題だった。しかしいつからか一区画に悪霊が徘徊するようになってね……」
最初はほんの一件の目撃例だったという。
悪霊なのだからチラリと視界の端を通り過ぎたり、夜中に影のように浮かび上がったりでハッキリとした姿を見せず、油断して何の対処も講じなかった。
たしかに問題だと気づいた時には悪霊が溢れ返っていたという。
「そのせいで平原の半分以上が悪霊に占拠されちまってるって状態なんだ……! 悪霊どもがウヨウヨして入ることはできない。入ったら最後、取り殺されてヤツらの仲間入りさ!」
そんな怪談めいた話をするものだからノエムが怖がって俺にめっちゃしがみつく!
「元々コラント平原はこの辺でもっとも豊かな薬草の採取地だったのに、お陰で採取量もガクンと減ってね。ポーションは値上がりするわ、冒険者の稼ぎも減るわで街全体が大弱りさ」
「教会に頼まないんですか? 悪霊退治は聖職者の仕事でしょう?」
「もちろん頼ったさ。でもアイツらでもどうにもならなかった。精々結界を張って、悪霊どもをそれよりこっち側に入らせないようにしただけさ」
「それが、悪霊の住むテリトリーとの境界線?」
「そういうこと」
ロンドァイトさん、悔しさを思い出したのか表情を濁らせて……。
「……これから新人のアンタらは、悪霊どものテリトリー境界線を実地で見て、しっかり頭に叩き込んでもらう。間違っても迷い込まないようにね」
「は、はい……!?」
「ついでに悪霊どもも見学しておくか。実物を見ておけば、怖くて近づこうなんて気は絶対起きなくなるだろうからね」
「そんなことしなくていいです! 見なくても怖くて絶対近づこうとは思いません!」
既に怖くて涙目のノエム。
そんな彼女にしがみつかれながら、一緒に平原を進むこと小一時間。
ある地点を境に、段々と気配が変わってきた。
見た目は何ともないのに、肌を撫でていく空気が妙に生暖かく、ねっとりとした感触になった。
何か悍ましいものに撫で回されているような……。
「ロンドァイトさん、もう悪霊の領域とやらに入りました?」
「いや? 境界はまだまだ先のはずだけど……!?」
しかしロンドァイトさんの口調も自信なさげ。
彼女もまた気配が変わっていることに気づいているんだろう。
「ちょっと待ってな」
ロンドァイトさんは耳をそばだてる。
「? それは?」
「静かに。いい機会だから教えてやるよ。アタシのスキルもね」
スキル<聴覚強化>。
耳の聞き取る機能を格段に上げるスキルで、ロンドァイトさんはこの力で遥か遠くのヒソヒソ話まで正確に読み取れるらしい。
「……なんか意外」
ロンドァイトさんて体格いいし、性格も姉御肌だからてっきり直接戦闘系のスキルでも持ってると思ったのに。
「よく言われるよ。でもね、この耳で命が助かったことは、それこそ十や二十じゃ利かない。冒険者が生きるか死ぬかの瀬戸際は結局、危険をどう乗り切るかじゃなくて危険をどう避けるかが重要なのさ」
それにかけてはロンドァイトさんの<聴覚強化>ほど打ってつけのスキルはないだろう。
自分を害する魔物の足音もずっと遠くから聞き取れるし、自分を襲おうとする悪人の内緒話だって筒抜けだ。
草食動物のごとき察知力と警戒の高さで、彼女は今日まで生き残ってこれたのだろう。
「……近づいてくる。ズルズルと薄気味悪い音……。まずいね、思ったより接近してるよ」
はい、わかります。
ロンドァイトさんのスキルに頼るまでもなく、目視で確認できたから。
たしかにいる、おぞましいモノが。
半透明で、濁っている。
水の中の藻のように茫洋として儚げ、本当にそこにあるのかどうかもわからない。
しかしそんな茫洋とした幻影の中に、たしかに形を認めることができる人の顔。
しかも苦悶の表情。
それがいくつも。
苦悶の人の顔が数えきれないほど集合した、浮かぶ藻のような幻影。
あれが悪霊か!?
「ひええええええええッッ!?」
あまりの恐ろしさにノエムが悲鳴を上げた。
「畜生! あれはレギオンだ!」
努めて冷静を装っているように見えるロンドァイトさんも、流れる汗を隠せない。
「悪霊にも数多くの種類がいるが、その中でも最凶最悪なのがレギオンだ! 複数の悪霊の集合体で、強さも大きさも単体のヤツとはけた違い! 逃げるよ皆! 逃げるよ!」
そう言って脱兎のごとく駆け出す。
「クソなんでレギオンと鉢合わせるんだよ!? ここまだ境界よりこっち側のはずなのに! ヤツらは結界を越えられないんじゃなかったのかよ!?」
ロンドァイトさんは誰に向けてかもわからずがなり立てるが、実際に遭遇してしまった以上はどうしようもない。
抗議も文句も、すべて生きて逃げ切ってからの話だ。
悪霊たちは、もはやこっちの存在に完璧に気付いていて、一直線に俺たちへ向かってきていた。
救ってほしいと縋りつくように。引きずり込んで自分たちの仲間にしようとするかのように。
ノエムが涙声で騒ぎ立てる。
「ロンドァイトさぁん!! 追ってきます! 悪霊たちが追ってきますぅ!!」
「そんなの見りゃわかるよ! とにかく全力で走って逃げろ!」
「どこまで逃げればいいんですかああああッ!?」
「…………」
「!? あの……!?」
どうしてそこで黙るんですロンドァイトさん?
「普段はね、結界を越えて悪霊どもの領域を出れば助かるんだよ。聖職者どもによって清められた聖域には、人は入れても悪霊どもは入れない……!」
「じゃあ、聖域の中に入れば……!」
「でも、さっきも言ったろう。本当はここはまだ聖域の中のはずなんだ。境界はまだ先の方にあるはずなのに、もう悪霊どもがウヨウヨしている……」
「それって……!」
「本当に、アタシらどこまで逃げればいいんだろうね……!?」
安全地帯があるかどうかもわからないってこと?
人には体力の限界があって、全力で走り続けるのも長くはできない。
ほとんど素人のノエムなどとっくに息が上がって、もう走れないから俺が担いで代わりに走っているほどだった。
俺自身はまだまだ体力はもつし、その気になれば今の数百倍の速さで走れるが、そもそも速度を合わせているロンドァイトさんとていつまで全力疾走を維持できるか。
「……ゴメンよ、完全に油断してた……!」
走りながらロンドァイトさんが言う。
「聖職者どもの話を真に受けて、警戒を怠っていた。元々悪霊は察知の難しい相手ではあるけれど……、これじゃあ折角のスキルも意味がない!」
ロンドァイトさんの<聴覚強化>スキルなら気配を殺した獣の足音でも察知できるが……。
そもそも実体のない悪霊は音を出さない。
精々異質な気配が空気に織り交ざる異音を、意識を集中して聞き分けるしか事前に察知できる方法はない。
「大丈夫ですよ。要はアイツらがいなくなれば、危険もなくなるってことでしょう?」
「ああ……、え?」
「俺に任せてください。代わりにノエムを担いでくださいね」
「はあッ!?」
担いだノエムを渡し、俺自身は回れ右してUターン。
襲い来る悪霊どもへ今度は逆に向かっていく。
「バカ! まさか悪霊と戦うつもりかい!? アイツらには物理攻撃が効かないんだよ!!」
ロンドァイトさんの慌てた声が背中にぶつかる。
「悪霊を倒すには特別な処理で聖属性を付加された武器かアイテム! 神官どもの聖属性魔法! もしくは悪霊に効く何かのスキルでもなきゃ無理なんだ! <スキルなし>のアンタが丸腰で何ができるもんか!!」
そうこうしている間にも悪霊レギオンは、津波のようになって俺に覆いかぶさる。
周囲を渦巻き、接触面から俺の生命力を奪い去ろうとする。
そんなに欲しければ……。
……くれてやろう。
「はああああああッッ!!」
放った気合と共に、おぞましい存在は粉々になって砕け散った。
そして塵も焼き尽くされるように消滅し、あとには何も残らない。
「「ええええええーーーーーーッッ!?」」
それを見て驚く女性二人。
「どういうこと今!? 悪霊を、悪霊を消し飛ばした!?」
「悪霊に物理攻撃効かないって言ったばかりなのに! やっぱりアンタ何かスキル持ってるんじゃないの!?」
いやいや、そんなまさか。
今の攻撃は何のスキルにも頼ってないですよ。
ピンと来た。悪霊は人間から生命力を吸い取る。ならその生命力なら悪霊に、何らかの影響を及ぼせるんじゃないかってね。
既に俺には<8,347,917>もあるレベルによって生命力もまた途方もない数量に高まっている。
それを一気に放出すれば……例えばコップ一杯分なら喉を潤す水が、怒涛の濁流となって押し寄せたら人を沈めて溺れさせるように……怒涛の生命力によって悪霊を掻き消せるんじゃないかと。
目論見は上手くいったようだ。
そうこれは誰もが持っていて俺も持っている力を上手く利用しただけの……。
いわばスキルではなくテクニックだ。