103 魔王死す
『奴隷印』の呪縛から解放された人々は、次々に正気を取り戻す。
「はッ? オレは……!?」
「きゃあッ!? なんで自分の首に刃物を……!」
「奴隷商なんかに捕まって……!? あんな連中のために命も惜しくないって、なんでそんなことを……!?」
精神を操作されていなければ奴隷商なんかに従う意味など一切ない。
皆それぞれの命を守るため危険な凶器などさっさと手から離す。
『グブォブォ!? なんだとぉ!?』
その光景を目の当たりにして誰より困惑を露わにするのは、あの穢れた印章を人々に擦り付けた張本人だった。
『バカなありえん! 何故「奴隷印」がひとりでに消え去ったというのだ!? 我が秘術が、そこまで簡単に……!?』
『魔族の虫けらごときの術が、そんなに大層かのう?』
霞のように浮かんで現れるアビニオン。
彼女に大分働かせてしまった。手間を懸けさせてしまった。
『グヒィッ? 魔神霊ッ!?』
『元凶は魔族であったか。なればここまでの釈然とせぬことすべてが釈然とする。魔族であれば千里を一瞬で知りえる察知の法を心得ているであろうし、何より、一瞬たりともこのわらわに抗う術式を組めよう。この魔神霊たるわらわをな!』
まだ気にしていたのか。
『しかし、この万能たるわらわにいつまでも抗いきれるなどと思わぬことじゃ。所詮超越者と言えども最下級の魔族……ふむ魔王であったか? 最下級の最上級など我が敵になりえぬということじゃ!』
「元々アナタの『奴隷印』は解除可能だったんですよ」
次にノエムが言う。
彼女もまた毅然としている。
「ただ、一人ずつ処置する必要があって、大勢を治すとなったらとんでもない手間です。こういう緊急事態では尚更ね。だから改良したんですよ、錬金薬を」
『奴隷印』を打破するためには肉体と霊魂、双方の支配を打ち消す作用が必要だった。
ノエムの薬が肉体の呪縛を、アビニオンが魂の呪縛を消し去ることで人々は『奴隷印』から解放される。
ノエムは最初、一人一人に服用させていた錬金薬を霧状にして散布したのだ。
ただ吸い込むだけで体内へと入っていくように。
「いくら『奴隷印』で支配するからと言っても呼吸まで禁止できないでしょう? 呼吸できなければ死んでしまうんだから」
『霧散する薬を街中にバラ撒いたのはわらわじゃがな。本当に骨の折れる仕事を任されるわい』
アビニオンさん本当にご苦労様です。
『まあ同時にわらわの体も無限に広げて、街中の囚われ共に触れることができた。それで印の解除が準備完了というわけじゃ。そして準備ができたら待つ理由など微塵もないのう』
『そんな……!? 我が「奴隷印」がそんなに簡単に破れていいのか……!?』
切り札を無効化されたのがそんなにショックなのか?
ミジュラケジュアミァは異形をワナワナと震わせる。
「それよりも、現状をしっかり認識した方がいいんじゃないか?」
俺がヤツに向かって踏み出る。
「この都市の奴隷はすべて解放された。それはつまり、俺から身を守る盾がなくなったってことだ」
ミジュラケジュアミァはもはや丸腰。
その無防備でどうやって俺から身を守る?
『ぐばッ! いい気になっておるなよ、この人間風情がァ!』
「はッ」
『奴隷共を使ったのはあくまで、それが一番楽な方法だからよ。手間さえ厭わなければ、この魔王たる私が人間を片付ける方法などいくらでもあるわあああッ!!』
お?
なんか周囲の景色が変わってきた?
『空間浸食か。さすが魔王級ともなるとやることが大がかりになってくるのう』
アビニオンが言った。
見る間に俺たちの周りは、肉で出来た壁のようなものに取り囲まれた洞窟のような空間となった。
「なんだここは? さっきまで部屋の中にいたというのに……!?」
『あの魔族が異能で作り出した亜空間じゃ。今までのスキルや異能とは段違いの威力じゃぞ。一応注意するがいい』
この肉の洞窟というべき場所に閉じ込められたのは俺とアビニオンとノエムの三人。
そんな俺たちを眺めながら魔王ミジュラケジュアミァは下卑た笑いを浮かべた。
『<胃袋空間>! この亜空間は我が腹の中と同じ! 消化作用によって溶けてドロドロになるがいい!』
「胃袋……?」
この蠢く肉の壁。
前後左右すべてを囲まれている。
この閉鎖空間はたしかに……胃袋?
しかも足元からなんか液体が染み出てきた。
地面と接する靴の裏が『シュウウウ……』と音を立てている。
まさかこの液体に……、溶かされている?
「胃液?」
『魔王の胃液を人間ごときと一緒にするなよ? 鋼鉄すら瞬時に溶かして見せるわ!』
そんなこと自慢気に言われても。
『液体に触れなければ大丈夫などと思うな! 既に胃液は気化して広がり充満する! お前らを瞬時に溶かしてくれるわああッ!!』
んー。
なんかアイツを思い出すな。
最初に戦った魔族の……名前忘れた。
アイツの能力も色々溶かす系じゃなかったっけ。
ここに来て魔族の能力が被りだした。
『貴様ァ! 失礼なことを考えておるな! 我が能力をベニーヤンごとき子爵級の異能と一緒にするでないわ!』
「考えを読まれた!?」
さすが魔王!
そんなところで凄さを感じ取ります。
『空気中に濃酸霧をまき散らすだけの<アシッド・ミスト>とは根本的に違う! 我が異能は空間操作! 一度我が空間内に囚われた者は、絶対に逃さぬ! 一度飲み込んだ食い物を吐き出すことなどないようにな!』
「このッ!」
ノエムが何かしらの液体を撒いた。
彼女だって今やS級冒険者を名乗る錬金術師だ。
こんな状況でも対処法の一つや二つ余裕で考えつく。
「強アルカリ錬金薬です! 胃液は極度の酸性で食べ物を溶かす、逆の属性で中和すれば……」
しかし胃液の猛威は怯むことなく、俺やノエムの着ている衣服から幾筋かの煙が立ち上る。
気化した胃液に触れて、溶かされる反応だ。
「きゃあッ!?」
『ブォハハハハハ! 魔王の胃液だぞ、そう簡単に中和できるものか! 魔力が通い、存在そのものから溶かす魔液よ! 物理法則が通じると思ったか!』
勝ち誇って笑うミジュラケジュラミァ。
『そしてぇ!』
「歯?」
なんと胃袋の表面からせり出してきた白いものは……歯だ。
岩石のように大きい。
『魔族は胃袋にも臼歯を備えているのさぁ! 飲み込んだものを完膚なきまでにすり潰すためになあ! 素直に「奴隷印」を受け入れて奴隷になっていればよかったものを! 無駄に抗うからおぞましく死ぬことになる!』
胃袋は収斂し、俺たちを押し潰さんと迫ってくる。
『後悔してももう遅い! 奴隷となって踏みにじられる幸せな生活を想いながら溶かされ死ねぇ!』
そして次の瞬間、俺の繰り出す拳で、胃壁に並ぶ歯がいくつも破砕された。
『ぐべべッ!?』
さらに胃壁に手刀を打ち込み、左右の手でもって引き裂き破る。
こうやって胃を内側から引き裂かれる症状って何ていうんだっけ? 胃潰瘍?
『ごばごべばあああああッッ!?』
腹を抑えて苦しむミジュラケジュラミァ。
本当にこの亜空間は、ヤツの胃袋と連動しているようだった。
『ば、バカなあああッ!? 人間ごときが我が胃袋を引き裂くだとおおおおッ!? しかも胃液に触れながら何故溶けないいいいいッ!?』
「酸性が足らなかったんじゃないか?」
煙を上げて溶けているのは衣服ばかりで、俺自体は髪の毛一本に至るまで溶けない。
しかし巻き添えで飲み込まれたノエムが心配だ。
彼女を溶かされる前に、さっさとこのグロ空間を解除してくれないか?
『ぐ、グヒィ!?』
グロテスクな胃壁が消えて、前にいた室内へと景色が戻った。
通常空間へ帰還したか。
「俺はできるだけ人死には出したくない。それはたとえ敵が魔族でも同じ気持ちだ」
実際に魔族の敵を見逃したことだってある。
今、目の前にいるヤツもできることなら命まで奪いたくない。
しかし。
「ミジュラケジュラミァ、お前は自分の能力で多くの人を奴隷にし、自由を奪い、尊厳を踏みにじり、人生をぶち壊してきた。そのことに痛む心すら持たないお前を、無事に済ますことはさすがにできない」
『ぶげげげげ……!? 慈悲を、お慈悲を……!?』
「それをかける価値がお前にあると思うのか?」
自分の身が大切だというんなら、他人を思いやる心も持ち合わせるべきだったな。
何もかもがもう遅い。
『待ってくれ! 私は仕方なく! 神々の命令に逆らうことはできなかったんだ! 私は言われたことに従っただけなんだ! だから! だからあああああッ!?』
俺に殴り砕かれた魔王は、再生することなく塵となって消滅した。