言葉は脆く、されど踊る。
「宮地くん。この失敗、どう責任取るのかね」
私は震える手を必死に爪を立てて食い込ませながら、止まれと念じる。
四方を無機質な壁に覆われた会議室に逃げ場などない。
加藤部長は子狐の心臓を狙う鷹のような眼光で、私を睨んだ。
私は、長年お取引をさせて頂いていた大口の顧客の信用を失い、その取引を失った。
それは私が受け持つ売上の約60%を占めていた為に、私にとってもそうだが、営業2部の売上にも大きな影響を及ぼす数字であった。
私は精一杯、顧客に対して、身を粉にして誠心誠意対応を行っていた。
なのに、一体なぜ自社の悪評がこんなにも顧客の間で囁かれるようになったのか。
それもこれも、この元凶は向かい合った席の左側に余裕ぶって座っている水木係長のせいではないか。
どうもこうもこれは私の失敗ではない。
私はあの野郎と心の中で憤慨をしたが、今更それをこの場でぶちまけたところで、何も変わらないことは知っている。
社会人のマナーとしていやというほど洗脳された「自責」という言葉が、私の口をひん曲げ、思ってもいないことを紡ぎ出していく。
「だいたいね、宮地くん。君はここで何年仕事してるわけ?新人じゃあるまいし」
「大変……申し訳ございませんでした」
私は失うもののない頭を垂れた。
「謝罪じゃ売上は上がらないんだよ宮地くん。わかるかね?」
私は無言のまま、床に視線を合わせ俯く。
「土下座のほうが誠意が伝わるんじゃないの?」
床を見つめる私に、罵倒の言葉を浴びせる者がいた。
水木係長だ。
私は「狂った野郎だ」と心の中で罵った。
「まぁまぁ。今の時代、土下座を強要すると、労基がすっ飛んできますよ」
河野課長が口角を嫌に上げ、へへへと笑いながら私を睨みつける。
「そんなことはどうでもいい。それよりもどうするのかね?」
加藤部長の言葉が重い。
胃にその言葉がずっしりとのしかかり、今にもその反動で嘔吐しそうなほどだ。
「新規営業を……県内すべてのお客様をとにかく回ります。売上を作ります」
私にはその言葉を言うことしか出来なかった。
なんて不甲斐ないのだろうか。
私はもう一度深く頭を垂れる。
河野課長と水木係長は、なにやらぼそぼそと加藤部長に耳打ちをし、それをうんうんと頷く声が私の耳にも聞こえた。
そして、それらの話が終わると、加藤部長は私に「頭を上げなさい」と言った。
「宮地くん。君の誠意とその意志に免じて、その頑張りに期待しよう。期間は3か月だ。それを過ぎたら……分かっているな?」
私は頭の裏を鈍器で強く殴られるほどの鈍痛を体で感じる。
「はい。頑張ります」
私からはこれ以上の言葉を出すことは出来なかった。
1時間弱の監禁と拷問が終わると、私はトイレへと駆け込んだ。
便意や尿意を我慢していたわけではない。
個室のドアを開け、便器の蓋を開けると、私が今朝食べたものが食道を通ってすべて逆流し、盛大に便器の中へとぶちまけた。
ぜーぜーと言いながらも、とりあえずは吐けるものはすべて吐いたと、トイレットペーパーで口元を拭った。
ある程度息が整ってきたところで、トイレの洗面器へと向かう。
ひねり出した水で、バシャバシャと顔を洗い、ハンカチでごしごしと水気を取った。
そうして鏡で自分の顔を見ると、目の下にクマのあるやつれた顔が映り、ああなんて様なんだと心の中で呟いた。
社員証には、まだ自分が入社したての時に撮影した顔写真がプリントされている。
その顔は肌ツヤもよく、目は希望に満ち溢れ、何よりも生き生きとしたオーラまで伝わってくるような映りであった。
そんな顔写真を見るたびに、「ふざけるな、くそ野郎」と社員証を叩きつけたくなる思いが込み上げてくる。
そんな時、ピコンとスマホの通知音が鳴った。
それはSNSのフォローしている人の更新通知であった。
私はその通知をスライドして、SNSの更新記事を開く。
「ようやく結婚式を挙げられました!」
そんなタイトルとともに、青空の下で白いドレスを着た女性が映っていた。
「美佳……」
私はそう呟き、そっとスマホの画面を閉じた。
◆
「ふぅ、疲れた……」
私はすぐ近くのコンビニで買った弁当と安い発泡酒をぶら下げ、くたくたによれたスーツ姿で帰宅した。
パチリと電気をつけた1ルームの室内は、洗濯物やらゲーム機やら空き缶やらが散乱し、とても清潔と呼べる環境ではない。
金曜日の終わりというのは、開放的な気分になるが、それと同時に5日間全ての疲労が背中へと漬物石のように圧し掛かる。
コンビニ袋をどさりとテーブルの上に置き、私は疲労に耐え兼ね、スーツのままベッドへと倒れこんだ。
「あー」という情けない声をあげ、スマホを手に持ち、アプリを立ちあげる。
「だるい、疲れた。マジで上司無能だわ。ぜってぇあの会社やめてやる」
嫌味ったらしく愚痴を書き込む。
もちろん、そんな反応に心配をする人など誰もいないのだが、こんな愚痴を友達に吐けるわけもなく、ただただネットの海の中へとそれを嘔吐する他なかった。
それから15分ほど、適当に散らばるネットニュースを無心で眺めていた。
そろそろ窮屈なこのスーツを脱がなきゃなと、鉛のように重い腰を持ち上げ立ち上がる。
ジャケットをハンガーにかけると、どこか汗臭さを感じ、急いで消臭スプレーを持ってくると、それに向かって何回も吹きかける。
今やサイズの合わないこのスーツには、自分の汗や、煙草やお酒、安い香水の匂いやらが染みついて、異臭を放っていた。
それでも、どうも私はこの匂いがどこか心地よく思えた。
その心地よさのもとを辿れば、行き着く先はすべて鮮烈とした過去の記憶であり、染みついた匂いが栄光の遺留品のようにも感じ、未だ私はこのスーツを捨てられずにいた。
部屋着に着替え終わると、弁当を温めにためにそれを電子レンジの中へと放り込み、適当にダイヤルをぐるりと回す。
ジーという音を立てながら、電子レンジ内にオレンジ色の光が灯ったのを確認すると、リビングへとそそくさと戻り、先ほど買った発泡酒の蓋を開けた。
そして、弁当を待たずして、それを一気に体の奥へと流し込む。
散々な一日だった。
いや、ただただ蓄積した恨みみたいなものが、今日臨界点を迎えたという方が正しいのだろうか。
人生は山と谷があるというが、その大きさが平等であると言っている者はいない。
僕の名前の「誠」という字が、この人生に呪いをかけているみたいで、誠実に生きれば生きるほど、喉元に他人の手が締め上げるようにぐっと掴まれるようにも思える。
誠実というのは善良な貧民のためにある言葉なのだろうか。
そんな戯言に耽っていると、電子レンジからチンという音が聞こえ、弁当が温まり終わった知らせを鳴らした。
リビングの小汚いテーブルを空け、そこに弁当を置き蓋を開けると、そこからは白い湯気が立ち上った。
私は頂きますも言わずに、ふにゃりした衣をまとった唐揚げを頬張る。
やはり唐揚げは出来立てを食べたいものだ。
こんな賞味期限の近い、元気のないものを食べると、余計に虚しくなってくる。
私はそんな虚しさを取り払うために、残りの発泡酒を体の中へと入れ込む。
体は変な浮遊感に包まれていくものの、体はまだ酔いを欲しているようで、ふらふらとした足取りで立ち上がり、冷蔵庫へと向かう。
大して食材なんか入っていない癖に、発泡酒だけはずらりと6本ほど入っていて、そのうちの2本を掴み取り、またリビングへと戻る。
そして発泡酒の蓋を開けると、ジュースを飲むかのように、中身を半分以上空けた。
ふと、暗い画面のスマホを見つめる。
スマホというのは中身を探れば探るほど、あまり思い出したくない過去や、見たくもない写真が散乱しているというのに、中毒症状のようにそれを開けてしまう。
私は心の中の「止めておけ」という声を無視して、今夜もまたスマホの画面を開いた。
あの時トイレで見た美佳の結婚報告の記事をもう一度開く。
美しい彼女の隣には、誠実そうで男らしいシルエットをした見知らぬ男がにこやかに立っている。
披露宴の写真が追加されていて、200人ほどの友人たちが華やかに新郎新婦を祝い、笑顔が絶えまなく溢れていた。
美佳の運命は私を選ぶことはなかったのだ。
それは偶然でも運命の悪戯でもなんでもない、ただの必然に過ぎなかったのだと、今更ながらに思う。
私はこんなにも美しく美佳の笑う顔を見たことがなかった。
淀んだ空気を入れ替えるように、私はベランダに出て、マルボロの箱から一本煙草を取り出した。
それを口に咥え、ライターの小さな火をポッとつけた。
「美佳……おめでとう」
星の見えない夜空に煙を一筋吹かす。
やめたはずの煙草は、とても芳醇な香りを醸し出した。
もう、彼女は僕の元に帰ってくることは二度とない。
「本当にこの世界はくそ野郎だな」
私はそう言いながら、美佳の連絡先を削除した。
外で3本ほどの煙草を吸い、室内へと戻る。
そして、風呂にも入らずベッドに横たわるとグダグダとスマホの中の動画サイトを開いた。
自分の好きだったバンドが2年ぶりに新曲を出しているとしり、イヤホンを繋げると、それを大音量で流す。
いいメロディーだと思いながら聞いていると、途中「ザザ、ザー、ザザ」というノイズのような音が混じった。
イヤホンの不調だろうか。
もう一度ノイズの走った部分を聞いたが、先ほどのような音は鳴らず、聞き間違いかとそのままそれを流した。
ミックスリストにその新曲が追加され、それからというもの特に聞く気のないヒットチャートがイヤホンから流れ始め、私はその音楽を聴きながらいつの間にか眠りに落ちていた。
その夜、私は夢を見た。
浜辺にぽつんと一人、体育座りをしながら、地平線の朝日を眺めている。
日の出の朝日は、夜の鬱屈とした暗さを取り払い、その白く輝く太陽は私に歓喜の感動を与えてくれた。
この浜辺を私は知っている。
いつの日か、美佳と訪れた由比ガ浜の浜辺だ。
ふと、頬に冷たい感触が走る。
「缶コーヒー飲む?」
そういって青い缶コーヒーが目の前に差し出された。
私は顔を見上げた。
そこには満面な笑顔を浮かべた美佳がいた。
「あぁ……ありがと」
美佳が私の横に腰掛ける。
「疲れてるね。どうしたの?」
「いや、どうもないよ。心配かけさせてごめんな」
「また嘘ついてー。誠、嘘つくとき必ず唇が震えるんだもん。知ってる?」
「知らないよ。というかそれ本当なの?」
「本当よ。バレてないって思ってた?」
「うん」
「相変わらず素直なんだね。そういうとこ嫌いじゃないよ」
「ありがとう」
そして、2人は缶コーヒーの蓋を開ける。
美佳との沈黙を繋ぐかのように、私は缶コーヒーをちびちび飲んだ。
「ねぇ」
「ん?」
「私、結婚したの」
「知ってる」
「悲しくないの?」
「悲しくないさ」
「うそ」
「うそじゃないさ。それが必然だったって思ってる」
「そんな寂しいこと言わないでよ」
そしてまた2人に沈黙が訪れた。
缶コーヒーの中身はもうほとんど残っておらず、最後の一滴だけがまだ意固地に缶の底に溜まっている。
きっと、これを飲み干してしまえば夢は消えてなくなる。
私はそう直感した。
「あなたとの時間、幸せだったわ。少しだけ、短かった気もするけどね」
「あぁ。自分もそう思うよ。すごく幸せだった」
「それならさ、もうこれは思い出なのよ。本当に最後の最後の」
「そうだな。これで最後なんだな」
そういって私は缶コーヒーの中身を飲み干した。
「もう私のことは忘れていいんだよ。誠は誠の人生を歩まなきゃ」
自分の人生という言葉に私は喉が詰まった。
どうしようもなく、何かに縋りたくて、何かに助けられたくて、何かに慰められたくて、でもそれを弱さだと思って必死に隠し通して、誰かのために生きなきゃと本気で頑張ってきた自分がついに膝をついて、倒れこむ姿が目に浮かんだ。
私は弱かった。
あまりにも脆く、儚いほどに。
「美佳……俺はまだお前のこと」
そう言いかけた言葉は、虚空へと消える。
まるで煙のように、美佳の姿は私の隣からいなくなっていた。
ふと、海面に照らされた朝日が斜光となって眩く光る。
それは私の目を眩ましたかと思うと、光が世界を包み込み、私を夢から引っ張り上げた。
その瞬間、私はベッドで目を覚ました。
窓の外ではチュンチュンと小鳥が囀り、スマホはすでに充電が切れていた。
仕方なく、ベッドの上に置いてある時計を確認すると、時刻は7時13分を表示していた。
あの夢は最後の私への見切りだったのだろうか。
それとも私自身の願望が生み出した妄想だったのだろうか。
そんなことが頭の中をぐるぐると旋回し、私の脳みそを掻きまわす。
その煩わしさを取っ払うために、脱衣所へ向かい、服をすべて脱ぐと、風呂場のシャワーの蛇口を全開に捻り、多めの水量で体を洗い流した。
美佳のことで頭がいっぱいになりながらも、シャワーを浴び終わると、もう一度ベッドに横になった。
今頃になって美佳の夢を見るだなんて思いもみなかった。
美佳は私の元恋人だ。
それももう3年も前の話になる。
彼女は会社内でも美人で、社内のみならず、社外でも噂になるほどの女性であった。
私は彼女よりも4年ほど前に営業職としてこの会社に入社し、事務職として彼女は私の元についた。
あの頃の私は社内で1番の営業成績を取り、同期の中でも最も早い出世を遂げていた。
同じ仕事をするという環境の中で、私と美佳はコミュニケーションを取るようになり、いつしか恋仲にまで発展した。
あの頃が私の幸せのピークだったのかもしれない。
私と美佳が付き合い始めてほどなく、会社内で異変が起こり始めた。
私のデスクのものが紛失するとか小さなことであったが、次第にその規模は大きくなり、いつしかネット上に悪評まで載っけられるようにまでなっていた。
だが、深刻な問題となったのは、私と美佳の関係であった。
美佳は社内で流れた事実無根の私の悪評を、人伝に毎日のように聞かされ、ついには病んでしまい、休職願を出してしまった。
私が何度もそんな噂は事実無根だといっても、それを簡単に信じることなど出来ず、ついには拒絶されてしまった。
そしていつしか連絡もとれなくなり、あっけなく私と美佳の関係は終わった。
その後、美佳は職場に復帰することもなく、会社を辞めた。
それからのことはいまいちわかっていない。
美佳がどういう仕事に就いて、どういうことをしているのかはもはやSNSの更新記事でしか知ることができなかった。
美佳が職場を辞めると、忽然と私への悪評が消えた。
だが、それまでに傷ついた私の心は立ち直ることが出来ず、それも影響してか、みるみるうちに営業成績も落ちていった。
「残念だったね。美佳さんがいなくなって」
そんな言葉を投げかけた男がいた。
それは水木係長であった。
不敵な笑みを浮かべたその顔は、人を心配する顔なんかではなく、人を見下す目つきをしていた。
犯人は間違いなくこいつだ。
私は証拠を持っていないかったが、直感でそれを感じた。
噂の出所を調査していくと、やはり行き着いた先はすべて水木係長へと繋がっていた。
美佳は美人で、社内外で人気があったためか、付き合った私への嫉妬心がどこからともなく生まれ、美佳と私の恋愛を良く思わない人たちが仕組んだ事であったのを突き止め、その主犯格が水木係長であった。
私は感情のままに、水木係長を問い詰めたが、ふらりふらりと躱され、むしろ私が水木係長へ暴力を働いたとして、総務課から厳重注意を受けた。
ふざけるなという思いが込み上げてきて、その場で暴れまわろうかとも思ったが、理性がそれを止め、
「申し訳ございませんでした」と私は下げたくもない頭を下げた。
その事件が発端となり、私は嫌がらせを受けるようになる。
通さなければいけない書類が通らず、取引担当である顧客は裏から悪評を流され、挙句の果てには提案すべきプレゼン資料が勝手に修正され、皆の前で恥をかかせられるなどのようなこともされた。
それでもこの会社を辞めなかったのは、美香が職場から去ってしまった本当の理由を知るためと、あとは微かに残ったこの会社へのしょうもない恩義を感じていたからだ。
ベッドでそんな過去の走馬灯に耽っていると、いつのまにか私は入眠していた。
2度目の起床はすでに13時を回っており、憂鬱でありながら晴れ晴れしい土曜日は半分以上の時間が経過していた。
寝ていても腹は減るようで、冷蔵庫を開けてはみたものの、何度見てもその中身は空のままだ。
仕方がないと、膝の白くなったジーパンとと着慣れた黒いTシャツに着替え、ふらりと外へと出かけた。
2階のアパートから階段を下り、まっすぐと住宅街を突き抜けるように伸びた道に出る。
案外にも、外は涼しい風が吹いていた。
ついこの間まで、粘りつくような暑さだった日中だったはずが、いつのまにかこんなにも涼しげな風が吹いていることに初めて気づいた。
秋風の到来に、あぁまた一つ季節を越してしまったんだなという哀愁が心の中でさざめき、自分はこんなにも季節に鈍感になってしまったという落胆すら覚える。
自然を感じるのが、ただ住宅街を吹き抜ける風だけだなんて、なんて物悲しい街なのだろうか。
ほどなく道を歩き、近くの大通りまで出ると、先ほどまでの雑多な住宅街の裏道とは違い、喧噪にあふれた国道沿いへと出た。
田舎から出てきた間もないころは、こんな埃っぽいところどうして人が住めるのかとマスクを手放すことはできなかったが、今ではその気すらすでに感じず、この街並みを通る秋風すらも心地よいと思う自分がいる。
人は環境の子であるとはよく言ったもので、いつの間にかこの薄汚れた埃と煙を吸い続けたゆえに、いつしかの清純な臓器が、黒い斑点が浮き出るような臓器に改造されてしまったとさえ錯覚するほどに、今はもうこの淀んだ空気に違和感さえ抱かない。
5分ほど歩いただろうか。
がやがやとした出入り口と、道を塞ぐように並んだ自転車が目印の安売りスーパーへとたどり着いた。
私はお昼ご飯を探しに来たわけだが、特に何が食べたいとかという目的があったわけではない。
ここに住んでからというもの、腹が減ったという度に足を運ぶこのスーパーのお弁当はほぼ全てを食べてしまった。
価格が安いことが売りなのだが、それゆえに味が平坦であるため、それほど美味しさを感じたことはない。
ただただ、コスパがいいという理由だけでこの安い弁当を食べ続ける私はどうも頭が変なのだろうか。
たまにはどこか遠出でもして、外食でもしようかと思い立つ日もあるが、習慣というものは恐ろしいほどに新たな感覚というものを拒み、否定していく。
私はスーパーへと入店すると、お弁当コーナーへと曲がりなく向かう。
そこには作り立てのお弁当たちが段となって重なり、早く買ってくれと言わんばかりにお客に主張していた。
見渡す限り、一面の茶色。
唯一、油でしなびた気持ち程度のレタスが、少しばかりの緑を生やしている。
どこかで同じような光景を見たことがあると思い返してみれば、それはいつかのドキュメンタリー番組で見た鳥取砂丘の砂面と似ているのではないかと妄想をしてしまった。
そんな妄想が脳みそを過ったものだから、とうに食欲など失せてしまい、私はお弁当コーナーをUターンしてそのままスーパーの外へと歩き出てしまった。
私は、スーパーよりその先の道を知らない。行ったことがないのだ。
そう思うと、自然と足がその道の先へと向いた。
いつもながらの習慣と外れた行動は私に少しの罪悪感と好奇心を与えた。
スーパーより先の国道沿いの道は初めて散歩する道になる。
もうここに住んでもう3年は経っているというのに、この地域で歩いている道といえば、正反対に位置する最寄りの駅までの道と、徒歩5分のスーパーまでの道しかなく、私の移動距離というのは極端に少ない。
私にとって小さな冒険が始まった。
横一列にずらりと並んだ凹凸を奏でる建物は、まるでピアノの白と黒の鍵盤のようであった。
国道沿いということもあり、おしゃれな雑貨屋や、私には縁遠いキラキラとした装飾のなされた美容院、いい香りを漂わすピザ専門店など雑誌特集に取り上げられそうなお店が等間隔に並び、その間には挟まれるように時が止まっているかのような古びて色剥げた民家が居座っている。
国道沿いの左右どちらともがシンメトリーのような光景に、私は少しばかりの感動を覚えたが、それも束の間であったようで、それはぷつりと途切れるように終わった。
この光景が終わったのには理由があって、国道がY字に分岐していることにあった。
左に伸びる道は、そのまま国道が続いていき、もう一方の真っ直ぐ伸びた道は、何度も工事された後の残る根久山通りという道が続いていた。
国道のほうに目を向けると、相変わらず飲食店だのビルだのが乱立していて、見ているだけで胃もたれしそうな景色である。
根久山通りは、そんな国道の喧噪とは打って変わって、閑散とした静けさが漂っている。
「空気が違う」とはこのことを言うのだろうか。
まるで見えない仕切りが、そこだけを隔てているというかのようにさえ思えた。
私はそんな静寂に手を引かれるように、そちらの方へと歩き出す。
根久山通りはとても古くからある通りになる。
そのためか、その通りに立つ住居やビル、飲食店や小売店にいたるまで、築50年は経過していそうな建物ばかりがひしめき合っていた。
途中、新しい新築のデザイン物件がポツリと際立って現れたりもするが、多分あれはとんだ物好きが建てた家なのだろう。
向かい側にあるその物好き家の車庫が開いたかと思うと、真新しい白いポルシェが車道へと乗り出し、風を切るように颯爽と吹き抜けていく。
こんなにも古めかしい土地に、あんな高級インテリアのような家と車を持ち寄るだなんてセンスの欠片もないなと遠目で悪態をついた。
そんな様相を呈するこの街並みは、時の進みさえも遅く感じてしまう。
建物一つ一つに、人間の皴のような深い歴史を感じていまうのは私がこの光景に感傷的になってしまっているからだろうか。
たまに現れる両隣の建物の影が差した、雑草の生える小さな四角い更地を見てはまだそこに何かが建っているとさえ見間違うほどの幻想さえ脳裏に浮かんでしまう。
私の中のセンチメンタルが体の末端まで行きわたり、徐々に背中のあたりに見えない重さを感じ始めた時、ちょうど一軒の喫茶店が目に入った。
少し古びたこげ茶の木製ドアに、真鍮が囲うモダンな窓枠。
純喫茶と呼ばれるお店で間違いない。
スマホを確認すると、時刻は14時をすでに回っていた。
ランチのことなどとうに忘れていたが、このお店の前で止まった途端、急に空腹の虫が胃の中を蠢き始めた。
店内の明かりがついていることを確認すると、私はもう我慢ができないと、そのドアをガチャリと開けた。
足を踏み入れると、そこはまるでレトロな箱庭であった。
薄暗がりな照明に、クラシックジャズの音色、きらきらと極彩色を反射するステンドグラスのはめ込まれたアンティーク。
そのどれもが、私を魅了した。
私は店内を見渡し、座る席を探す。
まず目に入ったのは、焦げ茶色の古い木製のカウンターであった。
余白が残るほどにスペースを取ったカウンターの机は、まるで円卓のように角ばった角がどこにもない。
このお店は、カウンターの他にテーブル席が設置されていた。
テーブル席にはワインレッドのソファー席が置かれ、小さなボックスのような形を取っている。
私はどこに座ればよいかと迷っていると、カウンターでグラスを拭く背筋の伸びたおじいさんが適当に座りなさいと声をかけてくれた。
私は、それではと4人席用のソファー席に、余裕な面持ちで腰掛ける。
テーブルの隅に立てかけられたメニュー表を手に取ると、お食事のメニュー欄に目を通した。
上から、オムライス、ナポリタン、ハンバーグ、ビーフシチューと並んでいき、最後には冷やし中華なんてものが記載されている。
夏季限定などという文字はどこにもなく、それが常時メニューとして記載されていることに思わず私は驚きを堪えた。
だが、冷やし中華が1250円というのはだいぶ挑戦的な価格にも思えた。
きっと、メニューには記載されているが、あくまでもそれはアピールであって、店主はそれを注文させてくないのではなかろうかという裏腹さえ見えてくる。
私はそれに臆せずに注文しよう思ったが、財布の中身を見れば2500円しか入っておらず、結局のところ650円のナポリタンを頼むことにした。
私は店主と思われるカウンター越しのおじいさんにナポリタンとアイスコーヒーを注文した。
ちょっと待ってておくれと一言いうと、おじいさんはアイスコーヒーの準備をし始める。
カランカランという氷が転がる音がして、トクトクトクという心地よいコーヒーが注がれる音が聞こえた。
私は童心のようなわくわくと、少し体がむず痒いそわそわとした緊張をしながらそれを待っていると、お待たせしましたと目の前にアイスコーヒーが置かれた。
そのアイスコーヒーのグラスはとても洒落ていて、私はついそれに見惚れてしまった。
それは取っ手の低くついたワイングラスのような形をしていて、コーヒーが注がれているコップの部分はガラスに余計な曇りもなく、まるでコーヒーと氷がそこにコップの形を浮き出ているようにも錯覚させるほど、透き通っている。
なめらかな曲線を描いたコップの、ピアノ線のような細い淵に口をつけ、それをゴクリと一口飲む。
ただの変哲もないアイスコーヒーが、何か得体のしれない黄金の液体にさえ思える。
私の体中にアイスコーヒーが巡り、それは緊張した精神を弛緩させていく。
ソファーに体をもたれながらくつろいでいると、ジュージューという鉄板の上で何かが焼ける音が聞こえ、それが耳元まで近づいたかと思うと、ゴトンという鈍音とともに小さな鉄製のスキレットにこんもりと乗ったナポリタンが置かれていた。
ケチャップの油が弾け飛んだり、味のついた水分が湯気となって顔に覆いかぶさったりと、もはやそれは遊園地のジオラマのようなカーニバルを起こしていた。
私はその活気が覚めぬうちに、フォークを手に取り、一口分のパスタをくるりと巻き取ると、湯気とともにそれを口へと放り込む。
相変わらず口の中でも、それはやんちゃに暴れまわるが、次第にその熱にも慣れ、私はナポリタンを食した。
果たして、このナポリタンが美味しいのか、それともこのお店の雰囲気の中で、この器に乗ったナポリタンがそれを美味しくさせているのかは分からない。
分からないが、とにかくこれは美味しいと、二口三口と食べ進め、気づけば空のスキレットだけがテーブルにポツリと取り残されていた。
おかわりと言いたいところだが、財布の残金が頭をよぎり、上げかけた手がプルプルと小刻みに震えながらテーブルの下へと戻っていった。
私はソファーにまたお尻を深く座らせ、体を預ける。
すると、お店の入り口からカランカランという音が鳴り、お客が入店してきた。
興味本位でテーブルから体をのぞかせると、それはどうも華奢な体つきとその背丈から女性であることがわかった。
だが、パーカーを着てフードを被っていたせいか、肝心な顔に影が出来ていて見ることはかなわなかった。
ちょうど、その女性は私のソファー席に位置する通路を挟んだカウンターの席に座り、アイスコーヒーを一つ注文していた。
女性はパーカーのフードを外し、頭を軽く振った。
フードから現れた女性の髪の毛は全面真っ青な色に染められていた。
例えるのならハワイアンブルーのような色と言えばいいのだろうか。
チラリと見えた右耳には、銀色のピアスがきらりと光っている。
とてもじゃないが純喫茶にあんな気軽に入ってくるような人じゃないだろと、私は心の中で思わず呟いてしまった。
「ねぇ、いま私のこと"こんなところに入ってくる人間じゃないだろう"って思ったでしょう」
その女性は座っていたカウンターの丸椅子をくるりと回し、こちらへと向いた。
私はその女性の顔に呆気にとられた。
白い肌に、くっきりとした目鼻立ち。
腫れぼったく塗られた赤いルージュのようなアイシャドーに、くっきり目元に引かれたアイラインが特に私の目を惹いていた。
今風でいうと、"地雷メイク"とでもいうのだろうか。
さらに、女性だと思っていたその容貌は女性というよりも、少女というのが正しい。
まるでフランス人形のような少女は、カウンターに置かれたアイスコーヒーを手に持ち、私のテーブルまで歩くと、向かい側に座った。
少女の目は私の目の奥を探るようにじっと見つめる。
「私ね、ここが好きなの。好きなものに外見なんて関係ないわ」
「あ、あぁ……すまん」
思わず私は謝った。
多分謝る必要なんてなかったのかもしれないが、それはまるで呼吸をするかのような長年の癖のようなもので、そう言わなくては自分が満たされないと思ったのだ。
「嘘。いま何も考えてなかったでしょ」
図星であった。
その言葉は鋭く、私の心に突き刺さる。
突き刺さったまま抜けないものだから、だんだん呼吸も苦しくなって、声さえ出ない。
「本当素直な人ね。素直すぎて生きるのが辛そうね」
「そんなことは……!」
「そんなことは?」
「ない……はず」
勢いよく立ち上がったものの、自分が否定した言葉にいまいち説得力を持つことが出来ず、私はまたへなへなとソファーへ座った。
「ねぇ、私と取引しない?」
「と、取引?」
私は急な展開に驚く。
「もし、人の心が読めるようになったらどうする?」
「どうするって……そりゃ」
私は会社の人たちを思い浮かべた。
復讐してやりたいやつらはいっぱいいる。
そんな能力があれば、私に嘘をつく者はいなくなるし、悪事だってすぐに見抜ける。
便利な能力じゃないか。
「復讐ね……まぁいいや、大体の人って"人の嘘を見抜きたい"とか"人の好意が知りたい"とかそんなことしか望まないんだよね。いかに自分が愚か者かわかるようになるよ」
「君は人の心が読めるのか?」
「えぇ」
「それってどうなんだ?」
「それは自分が体験してみてからもう一度聞いてちょうだい。じゃ、手だして」
私は言われるがままに両手を差し出した。
その両手を白くか細い彼女の指が包み込む。
その指は冷たかった。
「そのまま目を閉じて」
言われるがままに目を閉じる。
すると、指先からなにか冷たい液体のようなものが血管を伝って徐々に体をめぐる感覚に襲われた。
不思議な感覚であった。
されど、どこかで見知ったような感覚でもある。
あぁ、そうか。これはさっきのアイスコーヒーを体に流し込んだ感覚と一緒だ。
体を巡る大きな海流に身を任せていると、その感覚はぷつりと電源を切るように途絶えた。
「終わりよ。目を開けてちょうだい」
私はゆっくりと目を開けた。
そこには先ほどと変わらないフランス人形のような少女の顔があった。
「じゃ、一か月後またここにきて。その時、また話しましょ」
そういうと、少女はアイスコーヒーを飲み切り、さっさと喫茶店を出て行ってしまった。
喫茶店の店内は、またクラシックジャズの流れるゆっくりとした時間へと戻った。
「そういえば……名前聞いてなかったな」
私はぼそりと呟いた。
アイスコーヒーの氷がカランという音を立てて溶けていく。
天井を向くと、そこにはぼんやり明かりの灯る照明だけがぶら下がっていた。
◆
「おぉ、売上が伸びたじゃないか」
加藤部長は自分のデスクに私を呼び出し、売上数字についての報告を聞いていた。
あの少女と出会ってから、すでに2週間が経っていた。
少女が言っていた「人の心を読む」というのは、たいそう便利な力で、飛び込み営業においてはほぼ無敵と言っていいほどの力を発揮していた。
顧客が何を考え、何を欲しているのかが、手に取るように分かってしまう。
押しどころと引きどころさえ分かれば、人の心というのは簡単に掌握できてしまうという事実に私はひどく喜んだ。
なんて便利な能力であろうか。
ただ一点、私はこの能力を強く呪った。
「君ならできると思っていたよ!いやぁ期待してよかった!」
(阿保だと思っていたが、まぁよくやってくれているな)
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
よくもまぁ、ぺらぺらと嘘がつけるものだ。
「これからも頑張ってくれたまえ。売上の報告を楽しみにしているぞ」
(こいつは若いし、人件費も安い。とりあえず目の前に小銭でも転がせておけば動くだろう)
「期待に沿えるよう、頑張ります」
私はもう一度頭を下げると、部長のデスクを後にし、自分のデスクへと戻った。
「よう、宮地!最近調子いいみてぇじゃねぇか!」
後ろから聞きなじみの声とともに、肩を軽く叩かれた。
「楠木か。久しぶりだな、宮城にいたんじゃないのか?」
「向こうのお客さんが東京に支店を出したっていうからさ。その挨拶に来たんだよ」
同期の楠木が声をかけられた。
久しぶりに見た顔に、私の中に喜びが湧きあがった。
「それはご苦労さんだな」
「よかったら昼飯食いいかねぇか?」
「いいよ。仕事片づけたいから20分ぐらい待っててもらっていいか?」
「おっけー。腹減ってるんだから早くしろよ!」
そういうと楠木は笑いながら営業ルームの外へと出ていった。
相変わらず元気な奴だなと、私は彼を常々尊敬する。
嵐のような男が過ぎ去った後、いつも通りの営業電話の喧騒が戻る。
私は「よし」と自分にエールを送ると、目の前の仕事に取り掛かった。
約束の20分が過ぎ、私は急いで楠木と合流する。
「待たせたか。ごめんな」
「いいや、待ってないさ。ちょうど、受付の可愛い娘と話できたしな」
楠木はそういうと、受付嬢に手を振った。
受付嬢は恥ずかし気に顔を俯かせながら、恥じらった姿で小さく楠木に手を振り返した。
「お前ってやつは……彼女いなかったっけ?」
「あぁ、いるよ。でもやっぱりきれいな子に声はかけないと失礼だろう?」
相変わらず変わってないなと、私はクスリと笑った。
ビルを出てすぐの、5分ほど歩いた場所に老舗の蕎麦屋がある。
以前に一度だけ、楠木と新人研修の時に行ったことがあるお店であったが、東京に来てから初めて美味しいと思えたお店でもあった。
少し値段は高いものの、こういう特別な日にこの蕎麦屋に行くことを習慣としていた。
お昼のピークを過ぎた13時過ぎの店内は、ポツポツと座席が空いていた。
店員に一段上がったところの畳の敷かれた座敷のスペースに通される。
「天ざる定食2つで」
座ると同時に食事を注文した。
「久しぶりだな、お前と昼飯なんて」
「楠木こそ、ちゃんと飯食えてるのか?」
「当たり前だろ。あっちは物価が安いんだ。助かるよ」
「こっちは物価が高くて困るよ。どこにも遊びにいけやしないよ」
出された温かいおしぼりで手を満遍なく拭う。
冷えた湯飲みのお茶を飲み、2人は一息ついた。
「そういやさ。美佳ちゃん、結婚したな」
楠木は突然話題を変えた。
「あぁ……知ってる」
「なんだ、悲しくないのか?」
「不思議とな。多分実感がないんだと思う」
「そういうもんなのか」
お互い探り合いながら話をしていると、天ざる定食が目の前に運ばれた。
いつ見ても、この天ぷらの盛り合わせというのは心を躍らせてくれる。
「食べようか」
楠木は早速手を合わせ、箸を持つ。
私もそれに合わせて箸を持ち、天ぷらを一つ持ち上げた。
野菜が盛り合されているのだが、私はその中で、真っ先に茄子を摘まんだ。
私はその薄衣を纏った茄子を一口齧る。
中からは茄子の溢れ出る水分と、さっくりとした薄い衣が相まって、私の口の中に幸せを広げる。
それから間にそばを挟みながら、烏賊、椎茸、大葉、海老をつまんでいった。
そして最後に、定食としてついてくる茶わん蒸しに手を伸ばす。
その蕩ける卵の甘さに、私の食欲は限界にまで満たされていった。
私と楠木が黙々と定食を平らげ、「ふぅ」と一息ついた。
「そういえば楠木、美佳ちゃんと接点あったっけ?」
「あ、あぁ……たまに東京に来るときに飯食ってたぐらいかな。よく相談とか聞いてたよ」
「相談……?」
「お前のことだよ。私のせいでってずっと思い詰めてたよ」
「そっか……」
私は俯いた。
すぐさま、立ち上がりお勘定を済ます。
お店の外に出ると、楠木の携帯に着信が鳴り、急ぎの用が出来たとすぐにタクシーでどこかへ向かった。
私は今後、楠木と関わることはないだろう。
この時ほど、人の心など読んでも碌なことがないと悟った。
(美佳ちゃん……いい声で鳴いてたな)
◆
「ふぅ、疲れた……」
ガチャリと玄関のノブを引き、真っ暗な部屋の電気をつける。
片手にぶら下げたコンビニ弁当と発泡酒をテーブルの上に置き、スーツを着替えないまま、ベッドへと寝ころんだ。
明日で、あの少女と出会って一ヶ月が経つ。
人の心を読むだなんてすごい能力じゃないかと浮かれていた自分が阿呆のようだ。
本当に碌でもない。
私は少しばかり感じていた会社という組織への恩義も、新卒で入社した同期の友人への信頼も、過去の恋人への清廉な思い出も、その全てを失った。
人の心は知れば知るほど醜い。
本来の姿がそうなのだとわかってはいるが、脳みそが理解をしてくれない。
私は性善説を無意識に信じていたようで、人の外面だけを見て信頼してしまっていた。
本当に碌でもない。
ふと、涙が出た。
理由もなく、一筋の涙が頬を伝う。
自分が信じたものがよくわからない。
言葉だけを信じていれば、どれだけ幸せだったのだろうか。
人は強欲なのだと、私は知った。
強欲は身を滅ぼし、魂を犯す。
私はそっと目を瞑った。
部屋の明かりが目の裏に映り、赤く光っている。
「あぁ、情けねぇな……本当」
そう呟いた声は震えていた。
その瞬間、とめどなく涙が流れ出た。
感情が溢れ出し、思い出とともに枕を濡らした。
自分が信じていたものが、すべて紛い物だったのだとしたら、私はなんて滑稽だったのだろう。
あの思い出も、この思い出も、あの笑顔も、この笑顔も、全部が全部嘘だったんじゃないか!
自分が費やしてきた時間の全てを呪った。
「クソ……」
ただ一言、今の私にはそんな言葉しか口にすることしか出来なかった。
それでも、やはり最後には美佳の笑顔が浮かんだ。
自分はそれをやはり最後まで信じていた。
あぁ、枕がぐしょぐしょで気持ち悪い。
取り替えたいけど、少しだけ眠いな。
そうして、私はいつの間にか力尽き、そのまま夢の世界へと落ちていった。
目が覚めると、すでに日は昇っており、カーテンからは太陽の光が差し込んでいた。
私はいつの間に寝てしまったんだと、スマホの画面を見ると、時刻は9時を回っていた。
スーツが皺だらけになっていて、みっともない姿になっている。
すぐさまスーツを脱ぎ、ハンガーへかけると、スチームアイロンをセットした。
着ていたワイシャツも脱ぎ捨て、身軽な部屋着へとすぐさま着替える。
ピピピという音がし、アイロンの温度設定が完了した知らせが鳴った。
私はシューという蒸気をアイロンに当て、丁寧に皺の伸ばしていく。
何も考えず、ただただ皺を伸ばす。
もしかしたら、この時間が私にとって最高に幸せな時間なのかもしれない。
そんな時間も集中をしてしまえば、すぐに無くなってしまう。
アイロンをかけ終わると、それをしまい込み、すぐさま風呂場へと向かった。
汗でべたついた体を流していく。
昨日の気怠さは残るが、それでもこのシャワーによって、張り付いた疲れが洗い流されたかのようにも錯覚する。
蛇口を捻ると、きゅっという音がし、シャワーが止まった。
水が壁を伝い、滴り落ちていく。
思い込むようにして、私は風呂場に就いた鏡に顔を合わせた。
細身ではあるものの、やはり社会人になると筋肉は落ちていくもので、サッカーをしていたころのあのしなやかな筋肉の筋は面影さへ残していない。
少し変わらなきゃまずいかなと、腹の肉を摘まむ。
そんなことをしていたら、急に背中に冷たさを感じ、私はさっさと脱衣所へと出た。
濡れた体を拭い、髪の毛を乾かしながら、今日の服はどうしようかと思い悩んだ。
そういえば、今日は何時にあの喫茶店に行けばよいのだろうか。
時間を全く決めていなかったことに、今更ながら戸惑う。
前回と同じ時間で間違いないよなとスマホの画面を見ると、未だ時刻は10時であった。
時間にまだまだ余裕はある。
何故だか、今日は不思議と気分が昂ぶっていた。
それはあのフランス人形のような少女に会えるからなのか、散々に泣き腫らしたためなのか、それともその両方なのか。
鼻歌を歌いながら洋服ダンスを開けるが、これといって勝負服などまるでなく、灰や黒や紺などの無難な無地のTシャツが並ぶ。
ジャケットだけはと、一枚だけ一張羅となるものを持っていた。
それも紺色のジャケットなものだから、必然的に選ぶ色は灰色となる。
果たしこれは、シンプルなお洒落となるのか、はたまた、味気ないお洒落となっているのかは私が決めるものではない。
そうして自信ありげに洗面所の鏡の前に立った私は、いつもならしないであろう、髪の毛のセッティングまでする始末だ。
ある程度準備が整ったものの、特にこれといってすることもない。
私は、ふと思い立ったように仕事用の鞄から一枚の用紙を取り出した。
この用紙ぐらいは手書きで書こうと、わざわざ記入欄を空白にして印刷をした会社への「退職届」であった。
この申請書に何度向き合っただろうか。
それもこれも全て自分の不甲斐なさによるものだが、幸か不幸か、私は人の心を読むという力を得た経験が、こんなにも背中を押してくれるものだとは思わなかった。
安いボールペンを握り、定型的な文章をすらすらと書いていく。
案外、例に倣って書き終わってしまえば、所詮契約ごとだったのだなと呆気にとられる。
私はベランダへと出ると、マルボロを一本咥える。
赤い火の灯ったマルボロは先端から白い煙を揺らめかせ、立ち昇っていく。
どこからか茜色の枯葉が一枚、風に舞ってはひらひらと飛んでいる。
空は変わらず青く、立冬の涼し気な風が私の髪を撫で、マルボロの煙と踊るように通り過ぎていった。
◆
「で、どうだった?人の心を読んだ感想は」
「もう本当に、最悪だね。本当に碌でもない力だよ」
「その割にはずいぶんすっきりした顔してるわね」
「元々だよ」
「嘘。全部見えてるよ」
「おー、怖い怖い」
純喫茶のテーブルで他愛もない会話が続く。
アイスコーヒーは氷が溶ける間もなく消化され、すぐさま2杯目をおかわりした。
時刻がちょうど14時を指し、壁掛け時計がボーンボーンと古めかしい音を鳴らしている。
「この力、返すよ」
私は両手を彼女の前に差し出した。
彼女はその人形のような透き通るつぶらな目をキョトンとさせている。
「いいの?結構便利だよ、この力」
「いいんだ。世界には知らない方が幸せなこともあるんだよ」
「ふーん。大人の世界って大変なんだね」
「大変だよ。本当あっほみたいなことばっかりだ」
私は溜息をついた。
「じゃ、望み通り返してもらうね」
「あぁ」
そういうと、彼女はそっと私の手に振れた。
「目、閉じて」
言われるがままに目を閉じる。
彼女の触れた指先から、体のなにかがスッと抜き取られていく感覚がする。
肩が少しづつ軽くなっていくような気がした。
これでいいんだ。
人の心なんて、知らない方がいい。
矛盾があるからこそ、人は人なんじゃないか。
「終わったよ」
「ありがとう。君には感謝してる」
「大したことしてないわよ」
「そんなことないさ。俺がこうやって踏み出せたのも君のおかげだよ」
「ははん。そうやって私を口説き落とす気だね?」
「そんなわけないだろ」
私は嘘をついた。
これでこそ人間なのかもしれない。
「じゃ、またどこかで会えたら会いましょう。その時はきっと運命を感じるわ」
「俺は運命って言葉、意外と信じてるよ」
「ふふ。女の子みたいね」
「そんな可愛げなんてどこにもないさ」
私は薄まったアイスコーヒーを飲み切った。
彼女はテーブルを立ち、扉へと向かう。
扉の取っ手を持ったところで、私は彼女を呼びとめた。
「ねぇ、最後に聞きたいことあるんだけど」
「なに?」
「君の名前を教えて」
数秒の沈黙が続いた。
そして彼女はゆっくりと口を開けた。
「藍泉 透よ。覚えといて損はないわよ」
そうして彼女はにっこりと笑った。
眩しいほどに、私は彼女に惹かれた。
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