表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

空蝉

作者: 橋本

電灯がない道を歩く私を、月明かりが照らす。辺りは一面田んぼで、虫の鳴き声だけが頼りなく響き渡っている。

夜風が私を追い抜いていく。黒色に身を包んだ私は、夜の闇に溶け込んでいた。

首元が汗ばんでいるのが分かる。母が昔使っていたものらしいが、少しサイズが小さい。靴も使い古されていて、普段は履かないパンプスということもあり、少し歩きづらい。

辺りを見回すと、田んぼと山の影しか見当たらない。十八年間この町で育ってきたが、改めて何もないところだと思う。良くいえば自然豊かだが、それ以外には特筆すべきところがない。

ただ、昔からずっと変わらないのは良いところだと思う。少なくとも私にとっては。

地元に帰って来たのは正月以来だった。八月末から教育実習が始まるため、大学の前期は忙しい日々が続いた。教育実習の前に地元に帰ってくる気はなかったが、八月を迎えてすぐに帰ってくることになった。

月光が作り出した私の影を見つめ、ため息をつく。最近、一人になるとため息をつくことが増えた。

大学三年生になり、「将来」という言葉が現実味を帯びてきた今、私は自分私が生きる意味を見い出せずにいた。私が生きる意味とは一体何なのだろう。最近はそんな問ばかりをしている。響きは陳腐だが、私は真剣に考えていた。

将来を考え始めたとき、私は今まで「何となく」生きてきたことに気がついた。高校も大学も入れそうな所を選び、特に苦労もせずに生きてきた。教育学部に入ったのも、中学生のときに「何となく」教師になりたいと思ったのが始まりだった。

私には中身がないのだ。全てにおいて私は空っぽだった。

そんな自分が生きる意味は果たしてあるのか。そんな悩みさえも中身のないもののように思えてきた。

昔はこんなことを考えたこともなかった。ただ毎日学校へ行き、勉強をして、部活をやり、家に帰る。それだけでも、それなりに楽しかった。

今となっては、そんな日常に、意味がなくてはならない気がして仕方がない。ただ過ごす毎日に、私は恐れを抱いていた。

だから、地元に帰ってくると、中学生や高校生のときのことを思い出して安心する。特に中学生のときは、本当に何も考えないで生きていた。今が楽しければそれで良かった。

「つまんないよねぇ」

誰もいない空間で一人そう呟く。当たり前だが相槌はない。だが、この言葉は彼女に向けて言ったものだ。彼女だったら、今の私の言葉に何と返すのだろう。

「まーひ、どうしよっか。」

幼い子どものように言ってみる。中学生のころの話し方などもう覚えていない。

首元のホックを外す。慣れない礼服の着心地はは最悪だった。



加藤真尋。私たちは彼女を「まひ」と呼んでいた。まひは、背が小さく、引っ込み思案で、あまり前に出るタイプではなかったが、優しくて頭がよかった。そのことを、当時私は一番よく知っていた。私とまひともう一人、よっちん─三浦芳子の三人はいつも行動をともにしていた。

なぜ三人が仲良くなったかはもう思い出せない。よっちんは男勝りで思ったことをすぐに口に出す。言ってしまえばガサツで、まひとも私とも違うタイプだった。それなのに三人でいつもいたのは、ちょうどパズルの凸凹が上手く噛みうように、お互いにないものを補い合っていたからなのかもしれない。

結局、昨日の夜は蒸し暑さにうなされ、目が覚めたのは昼過ぎだった。それから何をするわけでもなく、夕方になり暑さが和らいだのを見計らって、こうしてあてもなく歩いている。

ヒグラシの鳴き声が遠くに聞こえる。私は昔から、この音を聞きながら夕暮れの道を歩くのが好きだった。

こうしていると、昔のことを思い出す。三人でよく一緒に帰って、意味もなく走り回っていた。周りに何もない分、できることも限られてくる。

今住んでいる所には大抵のものがある。スーパーも、コンビニも、カラオケも、ここにはないものばかりだ。だからといって、今が充実しているかといえば、またそれは別の話だ。

きっと周りにたくさんものがあっても、自分自身が満たされていなければ意味がないのだ。

そう考えると、あのころは、周りに何もなくても、私自身は満たされていたのだと思う。きっと、よっちんとまひがいたからだ。

大学生になってから物思いにふけることが増えた。考えることは大抵これからのことと昔のことだった。

夕日が少しずつ傾いているのが分かる。暗くなる前に家に帰ろうと思ったとき、自転車を漕ぐ音が後ろから聞こえた。特に振り返る訳でもなく、そのまま歩いていると声をかけられた。

「ねえ、みちでしょ、みち」

突然名前を呼ばれて驚き、振り返った。

「やっぱり、あんま変わってない」

一目見てわかった。よっちんも全く変わっていなかった。



「みち、見た目は同じなのになんか変わったね。暗くなった?」

「よっちんが変わらなすぎ」

「よくいわれる」

よっちんは少し誇らしげにそう言った。そんな単純な性格も、やはり変わっていない。私の名前だけ二文字だったので、そのまま呼ばれていた。

よっちんは乗っていた自転車を押しながら私の横を歩く。

「さっきも、よしこちゃんなんて言っちゃってさ、びっくりしちゃった」

「だって久しぶりだったし…」

よっちんに会うのは高校二年生のとき以来だった。三人とも違う高校へ進み、少しずつ会う頻度は減っていった。

私に言わせれば、四年ぶりなのに昨日の続きみたいに話せるよっちんがおかしい。それがよっちんの良い所でもあるが。

「昨日も話しかける前にすぐ帰っちゃうし」

「うん…」

会話が途切れ、ヒグラシの鳴き声だけが響き渡る。沈黙を、茜色に染った空を見上げて誤魔化した。

「まひらしいといえば、まひらしいかもしれないね」

先程より少しか細い声で、よっちんは言った。

交通事故だった。歩道に突っ込んできた車から一緒にいた友達を庇って轢かれた。運転手は脇見をしていた。友達は助かり、まひは帰らぬ人となった。「まひらしい…」そう呟くと、よっちんは「だからといって全くいいことではないけどね」と悲しそうに笑った。よっちんはガサツだけど、繊細であることも思い出した。

まひは東京の大学に通っていた。私が通う大学なんかよりも、ずっと頭が良い、誰もが知っている大学だ。

まひならば、きっと将来のことも考えていたのだろう。それなのに、その全てが意味をなくしてしまった。

もし友達を助けなければ、まひは生きていたのかも知れない。でも、まひは友達を助けた。それが反射的にやったことなのか、自分が危険に晒されることを分かってやったことなのかわからないが、まひは友達の命を優先した。 まひの人生とは一体何だったのだろう。

まひは友達を救えて良かったと思うのだろうか。まひはきっと、これからも立派に生きたはずだ。就職して、結婚して、もっと幸せになれたはずだ。だが、もうその幸せが叶うことはない。人を助けたことは立派かもしれない。でも、まひがそれで死んでしまったら意味がない。まひはそれで良かったのだろうか。

まひみたいな人間が幸せを奪われ、私みたいな人間が生きている意味とは、一体何なのだろう。まひがいなくなった今、どうしても考えてしまう。死にたい訳ではない。単純に分からなかった。

「みち、この後暇?」

よっちんが長い沈黙を破った。特に予定もない私は「うん」とだけ答えた。

「じゃあ、学校行こ」

辺りは暗くなり始めていた。頬を撫ぜる風は少しだけ冷たかった。



一度家に帰った後、八時に正門の前に集合した。なぜそんなに遅い時間なのか不思議に思ったが、五分遅れてきたよっちんを見て大体理由が分かった。

「なんで花火?」

「プールでやったでしょ昔」

大きなトートバッグと花火を持ったよっちんは、いたずらを考える子どものように笑った。

夏休みに、よっちんとまひと私で、学校のプールで花火をやったことがある。よっちんが何か夏休みっぽいことをやりたいと言い出したのが始まりで、大人に反抗したがる年頃だった私たちは、夜の学校でやることにした。

「まひは最後まで反対してたなあ」

よっちんは懐かしさを噛み締めるように言った。

真面目なまひを、よっちんと私で何とか言いくるめて連れてきたのだ。「先生に怒られる」といったまひを二人で説得した。私もあのころは少しだけ悪いことに憧れていた。

正門をよじ登って越えると、あのころと変わらない風景が広がっていた。少しずつだが、記憶が蘇ってきた。

携帯の灯りを頼りに、プールの方へと歩いていく。

「まひは夜に外出するのも禁止されてたからなあ。来たときにはもう泣きそうだったっけ」

よっちんは楽しそうに言う。よっちんはそういう記憶力がすごい。私は言われてようやく思い出した。

プールは体育館の隣だった。金網が張られた扉は鍵がかかっておらず、音を立てないように開ける。

「うわあ、懐かしい」

少し声を潜めたよっちんが隣でそういうと、私も思わず声が出た。

当たり前かもしれないが、本当にそのままだった。寂れていたベンチはさらに寂れ、コンクリートのプールサイドのあちらこちらに雑草が見えた。

「ちゃんと水も張ってある」

よっちんは振り返って言った。あのときのことをまたひとつ思い出した。

「そういえば、あのときプールに入ったよね」

「そうそう、まひがジャージだったからプールに突き落としたら泣いちゃって、そのあと私たちもそのまま入ったんだっけ」

「あれはよっちんが悪い」

「ちょっと魔が差したの」

そのあと三人で笑いながらプールで遊んだことも思い出した。どうしようもなくくだらないことが、どうしようもなく楽しかった。

よっちんが携帯の灯りを消すと、たちまち辺りは闇に包まれた。

よっちんがコンクリートに寝転がったので、私もその隣に寝転がった。

「きれい…」

夜空には星が敷き詰められていた。周りに人工的な灯りがない分、よりはっきりと星が見えた。大学の近くでは到底見られない星空だ。最初に星を見て自分をちっぽけな存在だと言った人は誰なのだろうか。今となっては人並みな表現だが、心から共感できる。

「あのときは曇りだったね」

「よっちんほんとによく覚えてるね」

もはや私の記憶というよりも、よっちんがそう言ったらそうだったように思えてきた。

しばらく二人で星を眺めた。その間、よっちんは一回だけ「まひ…」と呟いた。

私はじっと星空を見ていた。ずっと頭ではまひのことを考えた。最後にまひの顔を見たとき、なぜか涙は出てこなかった。よっちんもそう言っていた。

「まひはさ」

よっちんが口を開く。

「まひは友達を助けたけどさ、それで良かったのかな」

何か言ってはいけないことを言うように、歯切れ悪く言葉を続ける。

「確かに優しいまひらしいけどさ、それで死んじゃったら意味ないじゃん。まだ二一だよ?まひは頭いいし優しいからきっとこれからもっといい人生を送れたはずなのに、それなのに…」

よっちんの声は少しずつ小さくなっていった。

「なんでまひみたいな子が、生きてればもっと…」

よっちんも私と似たようなことを考えていた。

まひはきっと、意味のある人生を送ることができたはずだ。生きることに意味を見出していたはずだ。それなのに、人のためにその人生を終わらせてしまった。まひが生きていれば、空っぽな私なんかよりずっと…。

「でも、まひがそうしたんだもんね。まひがそうしたかったんだよね。まひは間違ってないよね。それなら、意味があったんだよね…」

よっちんは声を震わせながら言った。

私が口を開きかけた瞬間、よっちんは急に起き上がり、プールに飛び込んだ。水面を叩く音ともに水しぶきが飛び散る。水面から顔を出したよっちんは子どものように声を上げて泣いた。顔は涙と水でぐしゃぐしゃだったが、それでも泣き続けた。

そんなよっちんを見た私の体は勝手に動き、よっちんと同じようにプールに飛び込んだ。予想以上に冷たい水が、私の全身を包んだ。水中は真っ暗で何も見えない。すぐに水面から顔を出し夜空を見上げると、先程と変わらない星空が広がっていた。目頭だけがどんどん熱くなる。まひの顔を見たときに流せなかった涙が今になって溢れてくる。水と涙で顔はぐしゃぐしゃになったが、拭おうとはしなかった。

「まひぃ…」

泣きながら呼んだ名前は、闇の中にとけていった。



濡れた服の上からバスタオルを羽織って、飛び込み台に座りながら花火に火をつけた。

「バスタオルまで持ってくるって、入る気満々だったでしょ」

「もちろん。あのときはなかったならなあ。ほんと寒かった」

よっちんのトートバッグの中には三つのバスタオルが入っていた。

あの後どうやって帰ったのかは思い出せなかった。よっちんはきっと覚えているのだろうが。

「少しだけすっきりした…」

よっちんは腫れた目を擦りながら言った。

「よっちんさ、あの後って…」

どうやって三人で帰ったのか聞こうとした瞬間、急に一筋の光が辺りを照らした。

「何やってんだ!」

柵の外には懐中電灯を持った人が見えた。恐らく警備員か教師だろう。

よっちんは「やべ」と短く言って荷物をまとめて走り出した。私もその後に続いた。

久しぶりに何か悪いことをしているような気がして、少しだけわくわくした。

柵をよじ登ろうとした瞬間、またひとつ、あのときの記憶が蘇った。たしかあのときも、見回りにきた教師に見つかったのだ。よっちんと私はすぐに逃げたが、運動が苦手なまひは途中で転んで捕まった。まひは真面目だったから、私たちが疑われ、次の日によっちんと二人で怒られた。

まひは私を置いていったと怒り、よっちんと私は私たちを売ったと怒った。でも、その日からちょっとしたいたずらにまひも付き合うようになった。

まひが転ぶ前のことも思い出した。

柵を越えてグラウンドを走っているとき、まひは声を絞り出すように言った。

「みち、速いよ、速い」

私が振り返ると、なぜかまひは笑っていた。

「怒られたくないなら走れ!」

そう言って私が前を向いた瞬間、まひは音を立てて転んだ。私は「えっ」とだけ声を出したあと、前を走るよっちんに言った。

「よっちん、まひが捕まった!!」

「しょうがない、肉を切らせて骨を断つ!」

今思うとよっちんの返答は意味不明だった。思わず噴き出してしまった。あのときと同じようによっちんが前を走っている。後ろには…。

誰も居ないはずの後ろを見る。遠くに懐中電灯の灯りが見える。

まひそこにいた。確かにそこにいたのだ。

再び前を向いたとき、自然と笑みがこぼれた。よっちんもちょうど後ろを振り返っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ