ニート、戦う
装備の購入資金について、少し説明を入れました。
アンナの言葉通り、そこには山の斜面をくり抜いたような五メートル四方の薄暗い洞穴が存在していた。
『隠行のスキルを獲得しました』
洞穴に恐る恐る一歩踏み入れると、謎の抑揚を感じさせない機械的な女性の声がボクの頭のなかに響く。
「ファーストトライボーナスによるスキルの獲得。ここは間違いなく本物のダンジョンだ」
ダンジョンは出現から最初に入った者にのみ、スキルを一つランダムで与える。
これでここが自然現象の産物なんかじゃなくて、ダンジョンであると証明された。なら、ある意味でボクの仕事は終了している。後は役所の仕事だ。
毎年、多くの人間がダンジョンに挑んで死亡している。ダンジョンという魔境で栄光をつかむ者がいる一方で、無残に命を落として弔われることもなく、容赦なく遺体をダンジョンに食われる者もいる。
メタボで中背の中年が無理をする必然はないのかもしれない。スポーツが得意だったわけでも、体力があるわけでもない。このまま奥に進むなんて愚行でしかないのかもしれない。
でも、ボクはここを探索したい。
このときここにダンジョンが出現したのは運命なんかじゃない。ただの偶然の産物にすぎない。
でも、ボクはここで進むことをチャンスにしたい。
たとえ、ダンジョンに挑んだとしても、周囲は変わらず凍てついたままで、誰も評価しないかもしれない。心のなかを見渡しても、結果なんて実らなくて、ただ無残にこの命を散らすだけかもしれない。
でも、少なくともここで進まないと、ボクは仄暗い自重で腐り果てていくことになる。
淀みのような自身を押し出すように深く息を吐いて、異世界と変革を取り込むように息を吸って肺を満たす。
念のために、装備を確認する。
五年前に、探索者の資格を得たときに、最後の援助として両親から手切れ金、あるいは遺産の前払いとして渡された二〇〇万円で買いそろえた装備。
超高分子量ポリエチレン製のヘルメット、四眼の暗視装置、首までおおう黒いライダースーツみたいな炭素繊維製のツナギ、安全靴、タクティカルグローブ、マットブラックにカラーリングされたポリカーボネイトと特殊ゲル製の胸当て、籠手、肘当て、膝当て、脛当て、防具に問題なし。
右手に炭素繊維製の柄に超硬合金製の刃を備えた短槍、左手にツインドラムマガジン付きサブマシンガン……じゃなくて、サブマシンガン型の電動エアガン、銃身下部にライト、腰に解体用の剣鉈、武器に問題なし。
背中には水と非常食と応急セットと手に入れた物を収納するための登山家が背負うような容量の多い、大きなリュックサック。
ライトは点灯させずに、暗視装置で視野を確保する。
ダンジョンで発生したモンスターの一部には、強い光で凶暴化する奴もいるらしいので、暗いからって無闇に光源を使用するのは悪手だ。
土じゃなくて、コンクリートのようなもので舗装された地面が続く五メートル四方の洞窟。まだ、残暑が厳しい九月だというのに、内部は冷房を効かせすぎたかのように、不気味な冷気が骨身にしみ込んでくる。
透明な足音だけが孤独に反響して、ボクのなかの寂しさを無遠慮に加速させる。
「なにも出てこない。つまりまだセーフエリアなのか」
早足になりながら、内から溢れそうになる不純物を誤魔化すように、独り言が口から出る。
各ダンジョンによって違いはあるけど、入口から約一〇から一〇〇メートルぐらいは、例外なくモンスターが出現しないで、スタンピード以外では襲ってこないセーフエリアになっている。
でも、セーフエリアは通常のダンジョンのエリアと違い、死者や遺物を取り込むということをしないので、命からがらセーフエリアに逃げ込みながらも死んでしまい、遺体と遺品が残り続けるということが起きている。
平らな道は三〇メートルほどで終りを告げ、濃密な植物の香りと、そこから圧倒的な世界が広がっていた。
見上げれば、空があった。星も月も見えない薄暗い果てが続いているだけだとしても、そこには天井じゃなくて空が君臨していた。
目の前にはなだらかな草原が広がり、その奥には鬱蒼とした森が存在を主張していた。
ここは迷宮型じゃなくて、フィールド型のダンジョン。
「まさしく、ダンジョン! まさしく、異世界!」
いまさらのことで。
当たり前のことで。
自明のことなのに。
どうしようもないくらい興奮していた。
魂の底から指先まで沸き立つように感動した。
叫びそうになる喉を黙らせて、駆け出しそうになる両足を押さえつける。
逸る気持ちを誤魔化すように深呼吸をして、隠行のスキルを起動させる。
多分、起動したと思うけど、ゲームと違ってエフェクトがないからわからない。
ボクのうちなる感覚は、隠行のスキルが起動していると告げているけど、気休め程度に思っていたほうがいい。
事前にネットで調べた感じだと、隠行のスキルは気配を消して存在感を薄くするらしいけど、まだ、熟練度一のスキルだから、過信は禁物。
ゆっくりと、慎重に足を進めると、すぐに三つの人影が視界に入った。
人影、つまり獣型のモンスターじゃなくて、亜人型のモンスター。
第一層に出現する亜人型のモンスターといえば、ゴブリンかコボルト。このダンジョンだけに出現するユニークモンスターの可能性もあるけど、ほぼ無視していいレベルの可能性。
ゴブリンは角を生やして緑色の肌をした体長一二〇センチぐらいの亜人型のモンスター。身体能力も決して低くはないから、防具をしっかりと用意しなかった探索者が、毎年のように殺されている。
コボルトは体長一一〇センチぐらいの直立二足歩行する犬のような亜人型のモンスター。身体能力はややゴブリンに劣るものの、見かけ通りの嗅覚と敏捷性と集団での連携に優れていて、小柄な雑魚だと侮った初心者を幾人も屠っている。
相手の進行方向を避けつつ、後方から距離を詰める。
鼓動が暴れて、呼吸が乱れる。気を抜くと過呼吸におちいってしまいそうだ。
口のなかが干上がり、奥歯を砕くようにかみ締める顎が制御を受け付けない。
猛烈に漂う死線の芳香が、恐怖と興奮を喚起する。
暗視装置で見ると緑色の肌は確認できないけど、そのシルエットはまぎれもなくゴブリン。
粗末な貫頭衣に身をつつんだ、槍持ちが一体、剣持ちが二体。
無警戒に、並んで歩いている。
一番の脅威は左側にいる槍持ち。速やかに処理できなかったら、三対一でリスクが跳ね上がる。
右手の槍を構えなおして、左手のエアガンの引き金に指をかける。
距離、一〇メートル。
素早く周辺を警戒。
距離、五メートル。
呼吸を消して、お守り代わりに隠行のスキルをさらに強く意識する。
四、
三、
二、
距離、一メートル。
槍持ちゴブリンの背中から胴体の中央に、槍を突き刺す。
「グギャアアアァァァ」
槍持ちゴブリンは絶叫を上げながら振り返ろうとするけど、大きく痙攣しながら脱力して崩れる。
躊躇いなく、遅滞なく、うつ伏せに倒れたゴブリンを踏みつけて、深く刺さった槍を血を撒き散らしながら引き抜く。
「グギャ、ギャギャア」
「ギャアグ、ギギャグ」
二体の剣持ちゴブリンは、状況の変化を理解できないのか、戸惑ったように棒立ちのまま。
左手を即座に動かして、エアガンを突き出す。
横から見えるゴブリンの顔面に照準。
発砲。
無数のBB弾がゴブリンの顔面を襲う。
「ギャグウゥ」
ゴブリンは痛みから逃れるように両腕で顔をかばう。
無防備にさらされたゴブリンの胴体中央に槍を突き刺す。
「ギャアアアァァァ」
明確な急所を知らなくても、胴体中央なら間違いなく致死性の一撃。素人の腕だと細い首に当てるのは難しい。胴体なら多少ずれても、当たれば重傷、死ななくても戦闘能力は大幅に低下する。
脱力して崩れそうになるゴブリンを前蹴りで、残ったゴブリンのほうに突き飛ばす。素人メタボの蹴りだと威力不足だったのか、すぐにゴブリンの死体は倒れて、もう一体のゴブリンに当たらない。しかし、残りの一体は驚いたのか、こちらを向きながら一瞬動きを止める。
照準。
発砲。
「グギャアァ」
再現するように、ゴブリンは動きを止めて顔をかばって、胴体を無防備にさらす。
刺突。
「ギャググガアアァァ」
絶叫を上げて、ゴブリンは糸が切れた人形のように、その場に崩れる。
「……フゥーーー」
灼熱の蒸気のような緊張を排出するように息を吐く。
「よし!」
歓喜の衝撃が鼓動を超えて全身を駆け巡る。
命を奪った恐怖?
殺しの罪悪感?
そんなもの知るか!
血に酔ってファナティックなサイコパスとしての本性があらわれた?
どうでもいい!
ボクは死線を越えて命をつないだ。
自分自身の命の価値を獲得したんだ。
他の命を否定して至った、レーゾンデートル……存在価値なんて醜悪で矮小なものでしかないと、人は言うかもしれない。でも、これまで己の内にささやかな価値すら見出せなかったボクにとっては、そんな相対的で否定的なレーゾンデートルでも値千金に等しい。
あれは死線なんかじゃなくて、ぬるま湯のような屠殺だと言われて、抱いたものは幻想のような空虚なレーゾンデートルだったとしてもかまわない。
ボクはそれすら持ち得なかったから。