目覚めの朝
ハビテは迷っていた。
祈りを止めてフィリップがしようとしていることを止めるべきか、このまま祈り続けるべきかと。
ハビテはフィリップが持っている赤い瓶が、エルドラ様の聖水であり、しかも、毒となるものであると知っていた。
ハビテが迷っている間にフィリップは瓶の蓋を開け、自分の口に含んだ。
「な、何をする秘書官補佐!止めろ!お前が死んでどうする」
秘書官補佐はやはり死ぬ気だったのだと後悔しながら、ハビテは祈りを止め叫んだ。
イツキが助かるよう懸命に祈っていた全員が、何が起こったのかと顔を上げる。
全員下を向いて祈っていたので、ファリスを含め誰もフィリップの行動を見ていなかった。サイリス様の叫び声を聞いて視線をベッドの方に向けると、フィリップがイツキの大きなベッドに上がり、イツキを抱き起こしているところだった。
『えっ?お前が死んでどうするって・・・どういうことだ?』と思いながら、フィリップが何をしようとしているのか皆が注目する。
「「「ああぁっ!!」」」
ハビテを含む全員が叫んで絶句する。
フィリップは口に含んだ毒の聖水を、口移しでイツキに飲ませたのだ。
それが分かったのはハビテだけで、他の者には、ただフィリップがイツキに口付けをしたように見えた。
『何をしているフィリップ!いくらイツキ君が大事でも……』(キシ公爵)
『フィリップ様……その気持ち分かります』(ハモンドとレクス)
『・・・フィリップお前・・・』(エントン秘書官)
『もう、もうイツキ様は……ダメなの?助けられないの?』(ティーラ)
『どういうことだ!自分が死ぬために赤い瓶を使ったのではないのか?・・・もしかして、それでイツキを助けようとしたのか?でもお前はどうするんだ?それは毒だぞ!』
ハビテはフィリップがしたことを瞬時に理解した。それでも何故?と心の中で叫びながら、祈りを忘れ茫然とフィリップとフィリップに抱き締められているイツキを見る。
「サイリス様、祈りを・・・祈りを続けてください」
フィリップは最後の力を振り絞るように、ハビテに懇願する。
そしてイツキの顔を見ながらポタポタと涙を零しながら、愛しい大切なイツキをふんわりと抱いた。
「イツキ様、生きてください。生きて使命を・・・」
フィリップはそこまで言うと、イツキを抱いたままパタリと倒れた。
何がどうなったのか分からず茫然とする皆に向かって、ハビテは涙を堪えて言う。
「祈りを続ける。イツキ様と秘書官補佐を助けるのだ!」と。
日付が変わった頃、イツキの熱は下がり始めた。
イツキが快方に向かい始めたと確信したハビテは、皆をリビングに集めフィリップのしたことを説明した。
「それでは、フィリップはイツキ君に毒を飲ませたのですかサイリス様?」
「そうだよキシ公爵。きっとイツキを助ける唯一の方法だったのだろう」
「そ、それでフィリップはどうなるのですか?」
「ギニ司令官、それは私でも分かりません。おそらく聖水をお創りになったリース様でも分からないでしょう。でも、彼がイツキを助けてくれたことは間違いない」
イツキの容態が落ち着いてきたので、教え子3人を残して他の者は帰っていった。
「レクス、ハモンド、ベルガ、お前たち3人は、これよりロームズ辺境伯専任で働くものとする。レクスは事務仕事を手伝え、ハモンドは辺境伯の警護を、ベルガはレガート医学大学開校の手伝いをせよ。レクスはヨム指揮官直属とし、ハモンドはソウタ指揮官直属、ベルガはギニ司令官直属とする。3人とも連絡を怠るな。必要なことは直接上官に願い出るように」
帰り際、バルファー王は3人に新たな命を下した。そして、如何なる時もロームズ辺境伯を守り抜けと付け加えた。
朝日がイツキの寝室に射し込み始めた頃、イツキは目を覚ました。
「イツキ様、ああ良かった。もう、もう大丈夫ですね。皆さんを呼んできます」
イツキを看病していたティーラは、イツキが目覚めたことを泣きながら屋敷に居る全員に知らせた。
リビングで仮眠していたパルと教え子3人は、飛び起きてイツキの寝室に向かって走る。
ドッター夫妻は泣きながら神に感謝し、急いでイツキの元に向かう。
屋敷を警護していた教会警備隊の5人も、抱き合って喜んだ。
目覚めたイツキは、自分のベッドで眠っているフィリップに気付くと「フィリップ?」と声を掛けた。しかしフィリップは目覚めることなく眠り続けている。
イツキはフィリップの顔に左手を伸ばし、そっと頬に手を触れ目を閉じる。
すると、昨夜の出来事が映像としてイツキの頭の中に映し出された。
「フィリップ・・・おまえ・・・」
映像と共にフィリップの想いが伝わってきた。「生きてくださいイツキ様」と、何度も何度も繰り返しイツキの胸に響いてきた。
「イツキ様、目覚められたのですね。ああ良かった。神様ありがとうございます」
パルは号泣しながらベッドの横にへたりこんだ。安心して緊張が解けたのだ。
「イツキ先生……どこか痛みますか?大丈夫ですか?」
涙を流しているイツキを見て、ベルガは慌ててイツキを診察しようとする。
「大丈夫だベルガ……体はあちこち痛いが、熱と毒の後遺症だろう。直ぐに治る。フィリップの容態は?フィリップの意識は?」
「イツキ先生……秘書官補佐の意識は1度も戻っていません。イツキ先生は秘書官補佐が意識をなくしたことをご存知なのですか?」
誰も昨夜の出来事を教えていないはずなのに、どうして秘書官補佐が意識を失ったとか、自分が毒にやられたと分かったのだろうかとベルガは首を捻った。
ベルガはイツキの教会での立場を知らなかった。だから危篤と知らせを受けた王様やサイリス様が来られたのは、領主だからだと思っていた。
「ベルガ、イツキ先生は特別な神父様だ。その件はハモンドが説明する。とにかくイツキ先生とフィリップ様の診察をしてくれ。僕は秘書官様に報告に行かねばならない」
レクスはそう言いながら心配そうにイツキの顔を見る。自分を守るためにフィリップ様が毒を飲んだのだと知ってしまったのだ……だからイツキ先生は涙を流しているのだとレクスは思った。
午前8時、イツキはベッドで体を起こしスープを飲めるまでに回復していた。
「事務長、すみませんがパルと一緒に馬車に乗って、上級学校に行ってください。校長会議の午後の予定をこの屋敷で行いたいと校長に伝えてください」
「はい?とんでもありません!イツキ様はまだ安静が必要です。会議など無理です」
ティーラは信じられない無茶を言うイツキに、絶対許可できないと反対する。当然教え子3人もパルも反対する。
「ベルガ、お前はなんの為に此処に居るんだ?お前は医者だよな。医者立ち合いの会議を行うんだ。それに、今日という日を逃したら、5月からの努力が全て無駄になる。約束する。会議が終わったら2日は大人しく養生すると」
イツキはいつものように微笑みながら、強引に突き進めようとする。
事務長も教え子もパルも、ん~っと渋い顔で唸りながら、許可したくないけど許可せざるを得ないと苦悩する。言い出したことは何がなんでも遣るのがイツキであると知っていたのだ。
「2時間だけです。それ以上は許可できません!」
「ふ~ん2時間ね・・・それなら全員死に物狂いで準備を手伝うことになるな。3時間くれたら、昼食くらいは食べることが出来るがどうする?」
医者のベルガに2時間と言われ、イツキは一人一人を見てニヤリと黒く微笑んだ。
その微笑みの怖さをよく知っている教え子3人は、背中がゾクッとする。でも、ここは恐れている場合ではないと心を決め「1食抜いても構いません」と答えた。
パルと事務長は早速馬車に乗り上級学校に向かった。
教え子3人は、会議に必要な資料を作り始める。イツキの容赦ない人使いに、ちょっぴり後悔したくなるが痩せ我慢……いや根性で指示に従う。
昼食はリンダ(ドッター婦人)がパンにソーセージを挟んで、仕事しながらでも食べれるよう工夫してくれたので、全員がきちんと昼食をとれた。
◇◇◇
ラミル上級学校では、知らせを受けた校長と教頭が頭を抱えていた。
ロームズ辺境伯杯の説明はイツキから受けていたが、具体的な説明は本人が直接することになっていた。それに伴い秋大会も大きく変更する必要があると言っていた。
「皆さん、突然ではありますが、午後から予定していたロームズ辺境伯杯についての説明を、ロームズ辺境伯邸で行うことになりました」
会議室で昼食を摂りながら、ボルダン校長は午後の予定変更を告げた。
「ボルダン校長、ロームズ辺境伯が来られると聞いていましたが?」
「カワノ上級学校長、ロームズ辺境伯は先日のマサキ公爵子息襲撃事件で、公爵の子息を助けて斬られました。しかも斬り口から入った毒のせいで、今朝方まで生死をさ迷っておられました。本来絶対安静ですが本人の強いご意志……いやご希望で……医師付き添いで2時間ならと許可が出たようで、ここまで来ることが出来ないのです」
ボルダン校長が事情を話すと、マサキ公爵子息襲撃事件を知らなかった校長達から驚きの声が上がった。
そこでマサキ上級学校の校長から襲撃事件のことが語られ、校長たちは気を引き締めてロームズ辺境伯邸に向かうことになった。
ラミル上級学校の校長、教頭以外は、誰もロームズ辺境伯の正体を知らなかった。
他領の領主に会う機会は、上級学校対抗武術大会の時くらいであり、つい先日誕生したばかりの領主であり、上級学校を持たないロームズ辺境伯にお会いすること自体、特別なことだった。
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