3
私はその夜、こっそり荷造りをした。テーレの町までは半月ほどの道のりだ。本来なら十分にアイテムを買いそろえておきたいところだが、急なことなので仕方ない。小さなリュックサックにわずかばかりの持ち物を詰め込んだ後、机に向かって、両親宛てに手紙を書いた。心配するな、などと書いても無駄なのはわかっている。しかし、結局、文面はその繰り返しになってしまう。
日の出前、私は手紙を食卓の上に置いて、音を立てないように裏口から家を出た。そして抜き足差し足で細い路地を歩き、表の通りに出た。
ふと顔を上げると、通りに誰か立っている。辺りは暗くて、その姿ははっきりとはわからない。こんな時間に住宅街の通りを歩く者などめったにいない。私は身の危険を感じて、白魔道士の武器である魔法の杖を握り直した。
ところが、よく見ると、、相手は女だった。その女はゆっくりと私の方に歩み寄った。すると、わずかな月明かりが彼女の顔を白く照らし出した。
「フューネ」
私はその顔を見て呟いた。フューネは、剣士の着るような革の上衣を着、半ズボンをはき、革のブーツですねを覆っていた。髪は後ろで簡単に束ねてあるだけ。化粧もしていないし、イヤリングもつけていない。そして背中には一振りの剣――聖剣ヴィリーノ。
「俺も一緒に行くよ、リエーラ。ミラを助けに行こう」
フューネはそう言って、剣士らしい凛々しい顔を私に向けた。私の心は一瞬、嬉しさではちきれそうになった。しかし、すぐに懸念が心をとらえた。
「フューネ……でも、いいの?ガリュスは許してくれたの?」
フューネは首を振った。
「あいつには黙って出て来た。許してくれるはずがねえ。でも俺はどうしてもミラを助けてやりてえ。今の俺にはわかる、女を魔法で縛りつけることがどんなに酷いことなのか。俺はガリュスが好きだ。それは俺の自由な意志だ。ミラはそんな自由な心を奪われてしまったんだ。同じ女として、ミラをこのままにしておくことはできねえ」
私の渦巻き眼鏡がいつの間にか涙で濡れていた。
「ありがとう、フューネ。私、昨日フューネたちの冷たい態度を見た時、とっても腹が立って、つい助けに行く、なんて言っちゃったけど、長旅なんて初めてだし、本当は心細くて……」
フューネは私の肩を優しく抱いてくれた。
「何も泣くことはねえだろう。俺は最初から助けに行くつもりだったさ。ガリュスの手前、ああでも言わねえと、あいつに閉じこめられて、家から出してもらえなかったかもしれねえ。さあ、行こう、リエーラ、おまえの両親やガリュスに気づかれねえうちに……」
「うん」
私は涙を拭って顔を上げ、フューネと肩を並べて歩きだそうとした。
その時、私たちの前にがっしりした体格の男が立ちはだかった。
「ガリュス……」
フューネが呟いた。ガリュスは私たちを無表情に睨みつけていた。私はどうしてよいかわからず、不安の表情をフューネの方に向けた。フューネは、しかし笑顔だった。
「よく見ろよ、リエーラ、ガリュスの格好」
そう言われて、私はガリュスの姿にもう一度目をやった。彼は革の鎧に革のブーツを履き、腕には革の小手をつけていた。背中には旅行用の荷物袋を背負い、腰には彼の得意武器、戦斧がぶら下がっていた。
「昨日言っただろう」
ガリュスは無表情のまま口を開いた。
「俺はフューネをそばから離さない、と。さあ、出発だ、フューネ、リエーラ、テーレの町を目指して」
私は嬉しさをこらえきれず、ガリュスに抱きついてしまった。
「ありがとう、ガリュス」
ガリュスは私を見つめながら、わずかにほおをゆるませた。
私たちは一路、北の町テーレへと旅立った。
ガリュスは警備会社を無断欠勤することになる。クビになるだろうが、また他の職を探すつもりだ、と彼は言った。無断欠勤は私も同じだ。白魔道士ギルドに何のことわりもなく旅に出てしまったのだ。恐らくわたしもクビだろう、そう思っていた。しかしガリュスは、実は出発前、私をギルドから雇っておいたと打ち明けた。ギルドは色々な事態に対応するため、事務所を二十四時間開けている。私の家に来る前、正規の手続きをふんで、白魔道士リーエラを雇用する契約をギルドと結んでいたのだ。
その話を聞いて、私はまたガリュスに抱きついてしまった。ガリュスの困った顔と、フューネの嫉妬に満ちた視線に咎められて、照れながら体を引き離した。
テーレの町までの半月は平穏無事だった。その間、私がちょっぴり嬉しく思ったのは、フューネが全然女らしくないことだった。しぐさも言葉遣いも、以前のフューンそのままだった。宿場町の料理屋に私たち一行が入ると、客の男たちはみんな、フューネに注目する。が、フューネが、運ばれて来た丼飯をもの凄い勢いで掻き込み始めた途端、彼らは目をそむけてしまうのだった。フューネが男っぽくなったのは、たぶん剣を背中に担いでいるせいだろう。剣を持つことで、フューン本来の剣士の魂が呼び起こされたのだ。
しかし、ガリュスと二人きりの時は、フューネはやはり女に戻った。ある晩、宿屋で私が目を覚ました時、隣のフューネのベッドはもぬけの空だった。窓から外を覗いて見ると、庭でガリュスとフューネが二人肩を寄せ合って座り、満月を眺めていた。それは愛し合った男女の仲睦まじい光景そのものだった。
テーレに到着した私たちはまず宿を取り、次に町の様子を探るためにあてもなく歩き回った。幾分おとなしい感じの町だったが、それ以外の点ではヘグレルとさほど変わりなかった。ただ、町の人の話す言葉には強いなまりがあり、店でも宿屋でも料理屋でも、たまに言っていることがよくわからなかった。
「ガスコインはんの事務所かいな」私たちは愛想の良い酒場の主人に話を聞いた。「それやったら、町の北外れの丘の上に建っているでっかい屋敷、あれがそうやで。トラーコル広場から北に向こうてまっすぐ歩いてイカハッタラエエ」
「いか貼ったらA?何だそりゃ」
フューネは首を傾げた。
「『行きなさったらいい』言うことや」
主人は苦笑いした。
すでに日は落ち、辺りは暗くなっていたが、私たちはガスコインの事務所を見ておくことにした。緑の少ない地面むき出しの丘の頂上に、月の光を受けて古びた館がぼんやりと浮かび上がっていた。どうやら元は貴族か金持ちの住まいだったようだ。装飾の多い、手のこんだ造りの建物である。そういう華美な建物ほど、古くなるとこのように不気味に見えるのはなぜだろう。
まだ夜が更けていないせいか、ほとんどの窓から明かりが漏れている。あの館のどこかにミラがいるはずだ。彼女は今、どうしているのだろう。ガスコインに心を操られて、デク人形のように、命じられるまま裸体をさらしたりしているのではないだろうか。
そう思うと、私はたまらない気持ちになった。今すぐ館に押し入ってミラを引っぱって連れて行きたい衝動にかられたが、それをぐっとこらえ、今日のところは宿に引き上げた。
その夜、私たちは宿屋でもう一度、ガスコインを倒す計画を確認した。旅の間何度も検討を重ねた結果、いくら聖剣ヴィリーノがあっても、ガスコインに正面から挑むのは無理がある、という結論に達していた。となれば聖剣ヴィリーノの最初の持ち主、女剣士キュリーネと同じように、敵の懐に入りこみ、油断させて不意打ちにするしかない。当然、ガリュスは難色を示した。フューネを仮そめにもガスコインのベッドルームに送りこむのは、彼にとってはたえられないことだった。私とフューネは、可能な限りミラを説得して連れ出すことを優先する、と言ってガリュスを納得させた。私たちは英雄物語に出てくる勇者様ではない。あの館には、ガスコインに心を操られたたくさんの女がいるだろうが、そのすべてを助け出すなどという大それたことを考える余裕はないのである。
翌朝、商店街が開くや否や、私たちはブティックに足を運んだ。ガスコインの懐に入りこむには、まず彼に気に入られて従業員として採用されなければならない。
「スカートをはくなんて久しぶりだわ」試着室から出て来たフューネが女言葉で言った。「何だかちょっと照れ臭いわね。どう?似合う?」
タイトスカートのスーツをさらりと着こなしたフューネの姿を見て、ガリュスは赤面しながらうなずいた。フューネは鏡の中の自分の姿を満足げに眺めた後、別のスーツを手に取って私に押しつけ、試着室に入るよう促した。
「次はリエーラの番ね」
私はびっくりして尋ねた。
「どういうこと、フューネ。私がどうしてスーツなんか着なきゃいけないの?」
「あれ?リエーラも一緒にガスコインの事務所にもぐりこむんじゃなかったの?」
「ガスコインは面喰いなのよ。私が採用されるわけないでしょ」
「大丈夫よ。ほら、早く着てみて」
私はフューネの選んだスーツを着てみたが、とてもオフィスで働く女性には見えない。まるで中学生の制服姿だった。
しかし、フューネはそのまま金を払ってブティックを出、私の手を引いて次に靴屋、その次はアクセサリーと買い進めていった。最後に宿に戻り、鏡の前で化粧をした。私は化粧などしたことがない。フューネが私の顔に丁寧にメイクを施してくれた。口紅をさし終わると、彼女は私の目の前に鏡をかざした。その中には私の見ず知らずの女性が映っていた。その大人っぽい女性が自分だとわかるまでにたっぷり十秒はかかった。
「きれいよ、リエーラ」
フューネは嬉しそうに微笑んだ。ガリュスも傍らで目を丸くしている。私は恥ずかしくなって、あわてて渦巻き眼鏡をかけて顔を隠した。
遂に私たちはガスコイン魔道士事務所の門を叩いた。玄関で応対に出た女性はフューネに勝るとも劣らない美人だった。彼女はガリュスを見てにこやかに微笑み、私を見て勝ち誇った笑みを浮かべ、フューネを見て敵意を現わにした。私たちは用件を述べた。
「当事務所では、ただ今従業員は募集しておりませんの」
彼女はとりあおうとはしなかった。
「お願いします。私たち、どうしてもガスコインさんの下で働きたくて、わざわざヘグレルの町からやって来たんです」
私は一生懸命頼んだ。
「だめだって言ってるでしょ」
「せめてガスコインさんに会わせて下さい」
フューネも必死だった。
「もう、しつっこいわね。だめなものはだめなの」
相手の女はいらだたしげに私たちを睨んだ。
その時、私たちの背後でかすれたような男の声がした。
「どうしたんだ、エミリー。そんな大きな声を出して」
途端に相手の女の瞳がバラ色に輝き始めた。
「ガスコインさま」
私たちは後ろを振り返った。そこには背の高い中年男が立っていた。土気色の肌、オールバックにした白銀色の髪、いかにも好色そうな目つき。喪服のような黒い衣装を上下にまとっている。
ガスコイン――ミラを連れ去った張本人――私は彼を睨みつけながら、表情に敵意を現さないよう努力した。ところが、私の隣では、フューネが半ば潤んだような目でうっとりとガスコインを見つめていた。フューネの演技力もたいしたものだ。彼女ぐらいの美人にあのような眼差しで見つめられたら、たいていの男はまいってしまうだろう。
「ほう、君たちは就職希望者か。まあ、立ち話もなんだから、こちらへ」
案の定、ガスコインは愛想よく私たちを応接室に案内してくれた。
「はるばるヘグレルの町から?それはそれは」
彼の視線はフューネに釘付けだった。私やガリュスの存在はずっと無視されていた。
「残念だが、今のところ従業員は一人しか募集していない。遠いところから来ていただいた苦労を思えば心苦しいのだが、今回はこちらのフューネ君を採用するということで、君たちにはお引き取り願えないか」
そこで彼は初めて私とガリュスに一瞥をくれた。私はフューネばりの演技を試みた。
「私、どうしてもガスコインさんのところで働きたいんです。魔法の経験も少しあります。ですから……」
「あいにくだが、君みたいな子供は私の趣味ではない……もとい、うちで働かせるわけにはいかない」
「でも……」
と、突然、フューネが私のかけている眼鏡を取り去った。
「ちょっと、フューネ、何するの」
私はフューネの方に手を伸ばしたが私の目に映る映像は今やぼやけてしまって、どこに眼鏡があるのかわからない。
「そうだ」ガスコインが急に思い出したように声を上げた。「確か、清掃係に一人欠員があったはずだ。君、リエーラ君、それでよければ……いや、ぜひ君にもわが事務所で働いてほしい」
彼の表情はぼやけて見えなかったが、その声はさっきとはうって替わってうやうやしいものになっていた。
「但し、一つ条件がある」ガスコインは立ち上がった。「明日からコンタクトレンズをして出社すること。わかったね。それと、ガリュス君、残念ながら君は不採用だ。また欠員が出たらよろしく頼むよ。フューネ君とリエーラ君はこちらへ。我が事務所は全寮制になっている。今、君たちの部屋に案内させる」
フューネはやっと眼鏡を返してくれた。私たちはガスコインに言われるまま応接室を出、前の廊下でガリュスと別れた。彼が不採用になるのは折り込み済みだ。ガスコインが若い女しか雇わないのは周知の事実である。ガリュスが同行したのは採用されるためではなく、この屋敷に潜伏するためである。聖剣ヴィリーノを彼が持ち歩いても誰も不思議には思わないが、フューネや私が剣など携えて就職面接を受けるわけにはいかない。聖剣は潜伏したガリュスがあとでフューネの部屋に届ける手筈になっている。これから彼はトイレにでも行くふりをして屋敷のどこかに身を隠すことだろう。
ガリュスが歩き去り、その姿が見えなくなるや否や、ガスコインはフューネの瞳をじっと覗きこんだ。来た。ガスコインはフューネに「心を操る魔法」をかける気だ。もちろん、フューネは聖剣の加護を受けている。多少の魔法ならはね返すことができるはず。それに白魔道士である私にはもともとガスコインの使う暗黒魔法は効かない。問題はいかに心を操られたふりをするか、である。
ガスコインはフューネに続いて私の目を見つめた。凄まじい魔力だ。さすがに天下に悪名をとどろかせるだけのことはある。私は気取られないように、精一杯白魔力を高めて彼の魔力に抗った。果たして、私は彼の魔法にかかることはなかった。しかし、あんなに強力な魔法をフューネは本当にはね返すことができたのだろうか。私は心配になってフューネの方に目をやった。
フューネの目は全く焦点が合っていなかった。口を半ば開き、呆けたようにつっ立っている。私の顔から血の気が引いてゆくのが感じられた。だが、ここでくじけてはいけない。私一人でもなんとかしてミラを助け出さなければならない。そのためには、今は魔法にかかったふりをしてガスコインを欺かなければならない。私はフューネの真似をして、ボーッとした表情を作った。
ガスコインはにやりと笑い、両腕を広げて、こちらへ来い、と目で合図した。フューネはふらふらと彼の胸にすがりついた。私は覚悟を決めて、フューネにならって彼の胸に飛び込んだ。彼は私たちの肩を抱き、髪にほおをすり寄せてきた。私は全身に走る悪寒と必死に闘いながら、演技を続けた。
そこへ従業員の女が現れ、部屋の用意ができました、と告げた。ガスコインは私とフューネを離し、彼女について行きなさい、と命じた。そしてくるりと背を向け、事務室の方へ歩き去った。従業員は、こっちよ、と言って私たちを二階へと導いた。
ガスコインから解放され、とりあえずほっとしたものの、私はすぐさまフューネのことが気にかかり、焦点の合っていない彼女の目を覗きこんだ。フューネはしかし、ちらっと私の方に目をやり、ウィンクして見せた。よかった。フューネは魔法にかかったわけではなかった。さきのはすべて演技だったのだ。私は胸を撫で下ろすと同時に、ミラを助け出してヘグレルに帰りついた暁には、フューネは劇団に入るべきなのでは、と考え始めていた。
私たちは二人で一つの部屋を割り当てられた。荷物を整理し、一息つく暇もなく、別の従業員がやって来た。私たちを屋敷内のあちこちに案内してくれるらしい。
彼女は私たちを連れ歩きながら、事務所の業務内容を説明した。本来、魔道士事務所は顧客の求めに応じて魔力を要する仕事を引き受けることで成り立っている。しかし、ガスコインはよほど大きな仕事しか引き受けない。この事務所の利益のほとんどは副業――魔法アイテムの販売――によるものだという。
彼女は最後に、仕事は明日からよ、頑張ってね、と優しい言葉をかけてくれた。彼女をはじめ、どの部署の従業員も、気持ち悪いぐらい愛想がよかった。従業員同士も信じられないほど和気あいあいとしている。さっき玄関で私たちの応対に出た女も、私たちが従業員として採用されたことを知らされると、途端に機嫌が良くなった。最初、私は理由がわからず首を傾げていた。後で気づいたのだが、どうやら彼女たちはガスコインに「従業員はお互い仲良くするように」と命じられているようだ。女同士のいがみ合いほど醜いものはない。ガスコインは過去の経験から、そのように命令しておくことを思いついたのだろう。従業員たちはみな、彼に心を操られているので、命令されれば一も二もなく忠実に守るのである。
夕方、事務所の仕事が終わると、従業員の一部はレクリエーションを求めて町へ繰り出し、残りの者は自室に戻った。私とフューネも一旦部屋に引き上げることにし、階段を登って二階のフロアに出た。フロアには何人かの女がたむろしていた。私とフューネはほぼ同時に、その中の一人がミラであることに気づいた。
「リエーラ、フューネ」
彼女も私たちの姿に目を止め、驚きの声を上げた。私たちは彼女に、人気のない廊下の隅に連れて来られた。
「あんたたち、あたしを連れ戻しに来たんでしょ」ミラは意外にも笑顔を見せた。「心配しないでって手紙に書いておいたのに。あたし、ここで元気にやってるから大丈夫。帰ってお兄ちゃんにそう伝えてよ」
私はその笑顔を見ていると、悲しくて涙が出そうになった。
「ミラ、よく聞いて。あなたはね、あなたの心はね、本当は……」
「知ってるよ。ガスコインさまに操られてるって言いたいんでしょ」ミラはあっけらかんと答えた。「リエーラもフューネも何か勘違いしてる。心を操られるって言っても、記憶を失うわけでもないし、意識がなくなるわけでもないんだよ。あたし、ちゃんと自分の意志で行動してるし、自分の頭で考えてる。あたしがガスコインさまを愛する心は、確かに魔法ででっち上げられた偽りの感情かもしれない。でもね、あたし、心の中が今、とっても暖かいんだ。これがたとえ偽りのものであっても構わない。ガスコインさまだけなんだもの、あたしをこんな気持ちにさせてくれるのは……」
ミラはうっとりと天井を見上げた。私は半ベソをかきながら訴えかけた。
「お願い、ミラ、目を覚まして」
そこへフューネが割って入った。
「わかったわ、ミラ」どういうつもりか女言葉だった。「あなたがここでの生活に満足しているなら、無理に連れ出したりはしない。けど、私たちはここに残るつもりよ。あたしもリエーラもヘグレルの町を飛び出して来ちゃったの。リエーラは白魔道士ギルドをクビになっただろうし、あたしは引き止めようとするガリュスと喧嘩して出てきた。だから他に行くところがないのよ。ここにいれば、とりあえず生活の心配をする必要はないでしょ」
フューネはそう言ってミラに微笑みかけた。うまい言い訳を考えるものだ。私は舌を巻いた。
「そう……じゃあ、仕方ないわね」ミラは一応納得した様子だった。「でも、あたしは絶対に帰らないからね。油断させてこっそり連れて行こうなんて考えないことね。そんなことされたら、あたし、舌噛んで死んでやるから」
そしてミラはくるりと背を向けて階段を下りて行った。その後ろ姿を見つめながら、フューンは拳を握り締め、言った。
「やはり、ガスコインを倒すしかない」
その後、私たちの部屋に受付係の従業員と清掃係の従業員が相次いでやって来た。新しく配属される私たちのために、それぞれの係が歓迎パーティーを催してくれるというのだ。フューネは、これまたとびきりスタイルの良い受付係の同僚と共に、部屋を出て行った。私はフューネのいない心細さを噛みしめながら、少し遅れて部屋をあとにし、屋敷内の食堂へ向かった。
食堂では六人の同僚が私を待っていた。彼女たちはみな、背もそれほど高くなく、スタイルが良いわけでもない。美人というよりかわいいタイプだった。どうやらこの清掃係はガスコインのロリコン趣味を満足させるために雇われた者の集まりらしい。
同僚たちはこれでもかというほど私をもてなしてくれた。ガスコインに心を操られているとはいえ、これほど良くしてもらうと私としても段々情が移ってくる。パーティーがお開きになるころには、私たちはずっと昔からの親友のように打ちとけていた。
同僚たちにお休みを言って自分の部屋に帰って来るまで、私はミラのこともフューネのことのすっかり忘れていた。部屋の窓際にたたずんでいるフューネの姿を見て、初めて打倒ガスコインの計画を思い出す始末だった。それぐらいパーティーが楽しかったのだ。
フューネは私に一瞥をくれて嬉しそうに微笑んだ。
「受付係の先輩、みんないい人ばかりなんだもの。驚いちゃった。ここって居心地いいわね。ミラが帰りたがらないのもわかる気がする」
私は首を振った。
「でもみんな心を操られているのよ。心の底には本当は同僚や仕事に対する不満がたまっているはず。ガスコインに命じられてそんな感情を捨て去るよう強制されているだけ。それってやっぱり悲しいことだと思う。誰だって怒りとか哀しみとかいう負の感情から逃げ出したいと思うことはある。だけど、そういう感情に正面からぶつかって克服してこそ、喜びも楽しみも大きくなるんだわ。やっぱり人は『心を操る魔法』に頼って生きるべきではない」
フューネはうなずいた。
「そうね……。よし、俺はガスコインを倒すぞ、リエーラ。さっき受付係の先輩からガスコインの私室の場所を聞き出しておいた。俺は今からやつに夜這いをかける」
「わかったわ。私はあとでガリュスと一緒にこっそり聖剣を届けに行くから、それまでにガスコインと間違いを起こさないようにね」
私がいたずらっぽく微笑むと、フューネは顔をしかめた。
「バカなこと言うな。誰があんなオヤジを相手にするか。俺はガリュス一筋だ」
そう言って、フューネは持参して来た扇情的な服――肩と背中が完全に露出し、辛うじて胸だけが隠れるドレス――に着替え、念入りに化粧し直した。そして「行くぞ」と言って私に力強い眼差しを送った後、部屋を出て行った。
すぐに、部屋の窓の外に、聖剣を担いだガリュスが現れた。問題は聖剣をいつ届けに行くか、である。早すぎると、ガスコインはまだフューネに心を許していないだろうし、遅すぎると、フューネがベッドに連れ込まれてしまう。それ以前に、フューネがガスコインに受け入れられるかどうかわからない。フューネが訪ねる前に、すでに他の女が彼の私室に招かれているかもしれない。
私とガリュスは一時間経ってから部屋をあとにした。ガスコインの私室の位置はガリュスが内偵済みだ。もう真夜中近い。屋敷内はしーんと静まり返っている。私たちは誰にも見咎められずにガスコインの部屋の前まで来ることができた。
ガリュスが扉に耳をあてる。フューネの話し声がする、とのこと。扉に鍵などかかってはいないようだが、いきなり扉を開くわけにはいかない。ガスコインにこの扉が見えているのかどうかわからない。私たちはフューネが合図を送ってくれるのを、手に汗握りながら辛抱強く待った。
しばらくすると、扉の近くでフューネの声がした。
「この部屋、ランプを消すと本当に真っ暗ね。何も見えない。ちょうどいいわ。あたし、裸を見られたくないの」
扉に耳をあてると、かすかにガスコインの声がした。
「ベッドはそっちじゃない。こっちだ、フューネ。ほら、私の声のする方へ来てごらん」
ガリュスは音をたてないようゆっくり扉を開いた。部屋の中は全くの暗闇だった。部屋の窓はぶ厚いカーテンで覆われているのだろう。月明かりさえ入ってこない。
ガリュスが聖剣を部屋の中へ差し入れる。聖剣は暗闇の中にするすると吸い込まれていった。フューネが受け取ったようだ。
「ガスコイン、今行くわ。ちょっと待ってね」
フューネの甘ったるい声は少しずつ遠ざかっていった。まずガリュスが、次に私が部屋の中へ足を踏み入れた。今や私の胸は激しく鼓動していた。心臓の音がガスコインの耳に届いてしまうのではないか。そう思えるほどだった。
少し離れたところで、三たびフューネの声がした。
「ねえ、ガスコイン。今からあたしの言うことを、耳をすまして一字一句逃さないように聞いてね」
暗闇の奥からガスコインのいやらしい声が響いた。
「何だ、フューネ。まだ『愛してる』を言い足りないのか」
「いいえ。あたしがあなたに言いたいのは」
その時、剣を鞘から抜く音が聞こえた。
「聖剣よ、キュリーネの魂を受け継ぎしこのフューネに力を与え給え。我が肉体に宿りたる太陰の力と、剣に込められたる聖なる力をもって邪悪なる魔力をば封じん」
その時、部屋の中はまばゆいばかりの白い光に照らし出された。光の源は、部屋の中央でフューネが高々と掲げている聖剣ヴィリーノだった。トランクス一ちょうでベッドに横たわっていたガスコインは聖なる光をまともに浴びて苦しみ、もがき始めた。
「ぐおーっ、力が、魔力が抜けてゆくっ。く、くそっ、こんなことでやられはせんっ」
ガスコインはそばに置いてあった魔法の杖を手に取って目の前にかざした。すると聖なる光は彼の前ではね返されて届かなくなった。フューネは今一度聖剣を握り直した。
「頼む、ヴィリーノ、もっと聖なる力を、もっと邪を封じる力を、この俺にもっと力をくれ。我が肉体に宿る太陰の力をすべておまえに与える。だから、たのむ、ヴィリーノよ、もっと力を、もっと聖なる光を!」
その瞬間、聖剣からすさまじい力がほとばしった。強烈な白い光が稲妻のように閃いたかと思うと、轟音とともに部屋全体を吹き飛ばした。
気がついた時、私はガレキの下敷きになっていた。あちこち痛んだが、どうやら大したケガはしていないようだ。何とかガレキから這い出して辺りを見回すと、屋根も壁もなくなった部屋の床に、月の光が降り注いでガレキの山を照らし出していた。そのうち、私のすぐそばのガレキの山が崩れ、ガリュスが姿を現した。彼は痛そうな素振りを全く見せず、戦斧を手に、さっきガスコインがいたところに歩み寄った。私はフューネの立っていた辺りのガレキを押しのけてみた。フューネはすぐに見つかった。
「フューネ、大丈夫?」
どうやら気絶しているらしい。私は回復魔法の呪文を唱え、彼女の額に手をかざした。一方、ガリュスはガレキの中からガスコインを掘り出した。ガリュスは私に首を振って見せた。すでにこときれているらしい。
部屋の廊下には、何ごとか、とばかり従業員が集まっていた。その中の一人が私たちの方へ近づいて来る。ミラだった。ミラはガスコインの死体を一目見て呟いた。
「かわいそうなガスコイン」
私は驚いてミラの方に目をやった。まさかガスコインを倒しても「心を操る魔法」はとけないのか?しかし、ミラは微笑みながらうなずいた。
「さっきも言ったでしょ。あたし、心を操られてはいたけど、意識をなくしていたわけじゃない。もちろん、今はガスコインを愛する気持ちは消えてしまっている。でもさっきまでは確かに愛していた。偽りでもよかった。彼が愛する心をくれたことが本当に嬉しかったの」
ミラはそう言って笑顔のまま涙を流した。
その時、私の膝の上でフューネが目を覚ました。暗がりの中で、彼女はゆっくり目を開き、私に微笑みかけてから、上半身を起こした。しかし、よく見ると、その上半身はさっきより肩幅が広くなっていた。
「フューネ……?」
私は彼女の胸を見た。あのふくよかだったふくらみはどこにもない。わずかな月の光に照らされた顔に目をやると、化粧は残っているものの、皮下脂肪の少ない精悍な顔立ちだった。うっすらとひげが生えている。
フューネ自身、異常に気づいたらしく、まず胸に、次にもっと下の部分に手をあてて確かめた。
「戻ってる。……俺、男に戻ってる」
その声はまぎれもなく元のフューネの、いや、フューンの声だった。私は嬉しさの余り彼に抱きついてしまった。
フューンは遠慮がちに私の肩を抱いた。
「さっきの戦いで、俺はヴィリーノに太陰の力、つまり女の力をすべて捧げてしまった。だから男に戻れたんだ」
そして体を引き離し、私の瞳をじっと覗きこんだ。
「リエーラ、いい臭いがする。女の臭いだ。女だった時は感じなかった。男に戻ったので、また感じるようになったんだ。リエーラ、俺は間違っていた。おまえを大人にしたくないなんて俺のわがままだ。おまえは十分、女としての魅力に溢れている。リエーラ、今度こそ言うよ。おまえが好きだ……」
「フューン……」
私たちは見つめ合った。たくさんの人に見られていることなど気にならなかった。私たちの目にはお互いの姿しか見えなかった。
そうしている間に、ガリュスはガレキの下から聖剣ヴィリーノを掘り出した。彼はヴィリーノを手にし、私たちの方に目をやった。その目は何とも言いようのない悲しみに満ちていた。愛しのフューネはもういないのだ。彼女は今や男になって、女と見つめ合っている。ガリュスは悲しみを振り払うかのように聖剣をひと振りした。
すると突然、また聖剣が光りだした。白い光が剣から飛び出して、ガリュスの体を包みこんでゆく。その瞬間、私の頭にヴィリーノにまつわる神話のおわりの一説が浮かんだ――人間界に戻った女剣士キュリーネは他の女に心が移ったフィアンセに怒り、彼を牢に閉じこめた――
私は嫌な予感がした。ガリュスの体は光のベールの中で少しずつ縮んでゆき、光が消えた時には肩幅が狭く、尻幅が広くなっていた。彼はまず胸に、次にもっと下の部分に手をあてて確認した後、顔を上げて、女っぽい微笑みを浮かべ、フューンに抱きついた。
「俺、いや、あたしはフューンを離さない。フューンはあたしのものよ」
今やその声は誰がどう聞いても女の声だった。私の予感が的中したのだ。聖剣ヴィリーノは、今度はフィアンセを他の女にとられた恨みをその持ち主に晴らさせようとしているのだ。
しかも、こともあろうか、フューンはガリュスに抱きつかれることをそれほど嫌がっていない。ガリュスは、男だった時、がっしりした体格だっただけあって、女になった今、腰がくびれ、尻が丸みを帯びて引きしまったナイスバディーになっていたのだ。幼児体型の私と比べると雲泥の差だった。フューンはそんな彼、いや彼女の体からどうしても目を離すことができないのだ。
廊下では従業員たちが徐々に我に帰り、今までたまっていた不平不満をぶちまけ始めていた。
「あたし、実はあの娘のことが嫌いだったの」
「まあ、それは奇遇ね。私もあんな娘なんか大っ嫌いだったのよ」
「あの娘、頭おかしいんじゃない?あんな服着てよく人前を歩けるわね」
「それにあのせ先輩、ろくに仕事もできないくせに口のきき方だけは立派なんだから」
私はフューンを挟んでガリュスと睨み合い、火花をちらしていた。
「ガリュス、あなたね、さっきまで男だったくせに、私のフューンを横取りしないで」
ガリュスも負けじと言い返してきた。
「何言ってるの。あたしは男だった時、フューネと婚約した仲なのよ。性別が入れ替わっても婚約は有効だわ」
「きーっ。ちょっとフューン、あなたからもなんとか言ってよ。ねえ、ミラ、あなただってガリュスのことが好きだったんでしょ。どうにかしなさいよ」
フューンとミラは、顔を見合わせ、やれやれ、とばかり肩をすくめるだけだった。
東の空が白み始めても、半壊した屋敷から女たちのけたたましい声が消えることはなかった。
彼と彼女と聖剣と私 完
あとがき
この小説は、某新人小説賞に応募するために書き下ろしたものです。実質執筆期間は約20日でした。
この小説をどういう経緯で書こうと思ったのか、あまり覚えていません。ただ、今まで小説を書く時、少し考えすぎるきらいがあったので、これを書くにあたっては、頭の中にあるものをできるだけ素直に書き止めることにしよう、という方針のもとで書いたことだけは記憶にあります。そのせいか、同時期に書いた他の四作品に比べるとかなりシュミに走った内容となってしまいました。
最後に一つだけネタばらし。全然そんな感じはしないでしょうが、実はこれを書くにあたって、当時テレビで放送されていた、フォーチュンクエストLというアニメの影響を多少受けています(雰囲気だけですが)。
1999年10月12日
aziy記




