2
翌日、私は白魔道士ギルドの用事で町のあちこちを飛び回っていた。魔道学問所を卒業した者はみな魔道士ギルドに所属しなければならない。ギルドの新米は先輩たちに色々な使い走りを命じられるのだ。
夕方、ようやく仕事を終えた私はトトンの酒場を訪れることにした。開店までまだ少しあるので、ミラを誘ってフューンたちの様子を見に行くつもりだった。
「準備中」と書かれた札のぶら下がる扉を開いた時、中では誰かがモップを操って床掃除をしていた。一瞬ミラかな、と思った。しかしその人物はワンピースを着ていた。ミラがスカートをはくことはめったにない。では誰だろう。そう思っているうちに、彼女はこちらを向いた。
「お、リエーラか」
フューンだった。ほこりで汚れていても美しかったその肌と髪は、風呂できれいに洗われた今、一層つやつやと輝いている。三ヶ月の長旅で伸びた髪は後ろで一本にまとめられ、木の葉を型取った髪飾りで留めてある。
「リエーラ、今日から仕事なんだってな。見ての通り、俺もここで働くことにした。用心棒とか借金取りってのは、実力よりも脅しが重要なんだ。いくら腕っぷしが強くても、女じゃ雇ってもらえねえ」
そう言って、フューンは再びモップをかけ始めた。すると彼、いや彼女の背中にくっきりとブラジャーのホックが浮かび上がった。それを見ていると、私の心がまた痛みだした。
「フューン、ブラジャーしてるのね」
「え?あ、ああ、さっきミラと買いに行ったんだ。ほれ」
フューンはワンピースの胸をはだけて、サラダボールを二つ並べたような巨大ブラジャーを見せてくれた。私は顔を赤らめた。
「べ、別に見せなくてもいいって」
フューンはやんちゃ坊主のようにいたずらっぽく微笑みながら、襟元のボタンをかけ直した。
「他にも、下着とかこのワンピースとか靴とか、山ほど買って来た。考えてみりゃ、着るものは全部買い替えなきゃならねえんだよな。ったく、金がかかってしょうがねえ」
「ねえ、ガリュスは?」
「あいつはまた借金の取り立てだ。でもあいつ、そろそろちゃんとした仕事につきたいって言ってたよ。騎士隊にでも入いりゃあ、生活も安定するんだがな。あいつにそんな根性あるかな」
フューンの口ぶりは、まるで結婚を意識しているかのようだった。私はうつ向いていた顔を上げ、意を決して彼女の背中に声をかけた。
「フューン、ごめんね。あたしのせいで、あたしが聖剣の話をしたせいで、フューンがこんな目に……」
フューンは再び私の方に振り向き、明るい笑顔を見せた。
「いいってことよ。昨日も言ったけど、俺、今の自分が結構気に入ってるんだ。そりゃ、最初はどうしていいかわからなくて戸惑ったさ。けどな、女には女なりの幸せってものがあるんだよ。そのことに気づいたらふっ切れたんだ」
「そんな簡単に割り切れるの?フューンはもう女の子に声をかけることもできないし、ちやほやされることもなくなるのよ。本当にいいの?それで満足なの?」
「わかっちゃいねえな、リエーラ。俺が色んな女を口説き回ってたのは、本当に気に入った女を見つけ出すためなんだぜ。つき合ってみなきゃわからねえだろ。男だった時は見つからなかったけど、女になったらたまたま気に入った異性が見つかったんだ。ずっと求めていたものがそこにあったんだ……」
フューンの瞳はバラ色の輝きを放ち始めた。恋する女の眼差し、とはこういうものなのだろう。
「フューンって強いんだね」
「そうでもねえよ。まあ、とにかく、そういうわけだ、リエーラ。だから、おまえは何も心配することはねえ。……それはそうと、俺、今日からフューネって名のることにしたからな。フューンの女性形」
「フューネ……?」
そこへ、トトンとミラが帰って来た。両手にたくさんの荷物をかかえている。店で使う食材を買い出しに行っていたようだ。
「たっだいまー、フューネ。あれ、リエーラも来てたんだ」
ミラはカウンターに荷物を置いた。
「よかった。リエーラを呼びに行く手間が省けた。実はね、今日、お店がひけたら、みんなでパーッとやることにしたんだ。フューンとガリュスの無事の帰還と、リエーラの就職と、フューネの新しい人生のかどでを祝して、ね」
トトンはカウンターの中に入り、店で出す料理の下こしらえを始めた。
「ガリュスは閉店までにはここへ顔を出すだろう。リエーラ、君はもう仕事が終わったんだろう?宴会が始まるまでどうする?ここで待っていてもいいが……」
「ううん、私、一度家に帰る。お父さんもお母さんも私の社会人一日目の話を聞きたいだろうし。だから、九時頃また来るわ」
「そうか。じゃあ、そうしてくれ。……おい、ミラ、ちょっと手伝ってくれ。フューネ、床掃除が終わったらグラス磨きをやってくれないか……」
三人の店員は忙しく働き始めた。どの顔もいきいきとしている。私はいささか気分を害した。フューンがあんなことになったのに、どうしてみんな、そんなにうかれることができるのだろう。
私は店を出て、旅人たちでごったがえす大通りを歩きだした。
九時少し前に、私は再び酒場を訪れた。いつもは九時過ぎまで客が残っているのだが、今日は早く帰ってしまったようだ。扉の札はもう「準備中」になっている。中に入ると、すでにフューンたちがテーブルを囲んでいた。
私が席に着くや否や、グラスに酒が注がれた。私のグラスだけはオレンジジュースだった。白魔道士の私は酒を禁じられているし、まだ未成年だ。ヘグレルの法律では、酒は十八才以上と決まっている。しかし、私と同い年のミラは酒を要求した。
「別にいいでしょ、あと半年で十八なんだから」
「仕方ない。一杯だけだぞ」
トトンは妹にそう言い聞かせた。ところが、トトンの口上の後、乾杯の音頭がとられた途端、ミラはグラスを空にしてしまった。そして兄に咎める隙を与える前に二杯目をグラスに注いだ
最初は難色を示していたトトンも、酒が回って気持ち良くなるとミラのことなど忘れてしまい、いつものように政治、経済など難しい話を始めた。一方、ミラは笑い上戸だった。誰かが何か言うたびに、げらげら笑いながら隣の人の背中をバシバシと叩く。私も背中に手形が残るほど叩かれた。ガリュスは酔うと冗舌になる。しかし何を言っているのかよくわからない。主語と述語が入り乱れ、昨日の話をするのに未来形を使ったりする。酒にはめっぽう強かったフューンは、女になったせいか、酔いが早く回ったようだ。以前はほとんど顔色が変わらなかったのに、今日はほおを少しピンク色に染めている。その姿がまた何ともなまめかしい。トトンもガリュスも、襟元から覗く胸の谷間を、遠慮なくじろじろ眺めていた。
私はなんとなく疎外感を味わっていた。こういう酒の席では、いつもならみんなに酌をしてあげたり、話を合わせたりして雰囲気に溶けこむことができるのに、今日はどういうわけか、浮いてしまって馴染めなかった。
「暗いぞ、リエーラ」
ミラは私の背中にもたれかかってきた。
「あんたも飲みな、ほら」
彼女は酒の入ったグラスを私の口に押し付けようとした。
「私はいいわよ。それより、ミラ、重いからちゃんと座って」
私はミラの体を背もたれにもたれさせた。
「もう、リエーラ、つき合い悪いんだから。ねえ、フューネ、あんたからも言ってやってよ」
ミラの体は、今度はフューネの方に倒れてしまった。フューネは力の入らない手でミラの体をかかえて、なんとか椅子に戻した。
「何言ってんだ、ミラ。リエーラは白魔道士なんだ。だから酒は飲まない。リエーラはそれでいいんだ。わかったか、ミラ。リエーラはリエーラのままでいいんだ。そうだ、それでいいんだ……」
そう言いながら、フューネは私に色っぽい視線を送ってきた。彼女は酔っているのだろうか。今の言葉は酔っぱらいのたわごとなんだろうか。それとも、何か意味があるのだろうか。
私はフューネを見返した。彼女は哀しげな微笑みを浮かべた。しばらく私を見つめていたが、すぐ目を逸らし、ミラとは反対側のガリュスの腕に寄りかかった。するとガリュスは酔いも手伝ってか、大胆にもフューネの肩を抱き、彼女の長い髪を指でまさぐった。
二人は見つめ合った。彼らの間には、何人なんぴとたりとも入りこむ余地はなかった。
心が痛い。どうしてあの二人を見ていると、心が痛むのだろう。やはり、あのフューンはちがう気がする。男に抱かれてうっとりしている彼女は本当のフューンじゃない。でも彼女は言っていた。女であることに満足していると。本人が満足しているのなら、私がどうこう言う必要はないはずだ。だけど、やぱりちがうと思う。フューンに男に戻って欲しい。男にさえ戻ってくれれば……。そしたら、どうだと言うのだろう。私はどうしてこんなことを考えるのだろう。わからない。自分で自分がよくわからない。
その時、またミラが私に寄りかかった。
「ああん、あんなにお熱いところを見せつけられたら、イヤになっちゃう。この間まで男同士だったクセに。……ねえ、リエーラ、フューンたちに向こうを張って、あたしたちも深い仲になろうか」
そう言って、ミラは私に抱きついてきた。
「バカなこと言わないで。ほら、自分の席に戻りなさいよ」
私が再び椅子に座らせてあげると、ミラは遠くを見つめながら呟いた。
「あたしも誰かに甘えたいな」
「ミラ……」
私はミラの瞳を覗きこんだ。ミラは私の耳もとで囁いた。
「あたし、実はガリュスのことが好きだったんだ」
やっぱり――私は心の中で納得した。
「でもね」ミラは続けた。「不思議と、フューンに腹を立てる気にならない。って言うか、フューン、ううん、フューネで良かったと思ってる。フューネは昔からの友達でしょ。わけのわからない女にガリュスをとられるぐらいなら、フューネのほうがいい」
ミラはうっそりと微笑んだ。
「今日はやけ酒のつもりだったけど、あの二人見てたらふっ切れた。もうガリュスのことは諦める」
それを聞いて、私はせつなくなった。やっぱりフューンを男に戻す方法を見つけてあげた方がよいのではないか。しかし、フューン自身はそれを望んでいない。無理矢理男に戻されたとしても、ガリュスとの愛を貫こうとするかもしれない……
私は慰めの言葉の一つもかけてやろうと思って、肩にもたれているミラの方に目をやった。彼女はいつの間にか、目を閉じて小さな寝息をたてていた。
それから一週間、私はギルドの仕事に忙殺され、酒場を訪れる暇を見つけることができなかった。一週間後、久々に酒場の扉の前に立った時、すでに日は落ちて、大通りの人の往来もまばらになっていた。
扉を開けた瞬間、建物の中から真夏を思わせる熱気が伝わってきた。中を見ると、カウンター沿いも、テーブル周りも、椅子という椅子にお客が腰かけていたのだった。足りない椅子の代わりに、自らのリュックサックに腰かけている者さえいる。この酒場は、旅人相手に結構繁盛しているといっても、こんなに満員になることはめったにない。今日は一体どうしたのだろう。
カウンターの中では、トトンが料理を作り、ミラが酒を注いでいた。二人とも自分の仕事に忙しく、私のことに気づきもしない。フューネは出来上がった料理や酒を盆にのせてカウンターとテーブルの間を往復していたが、そのうち私の存在に気づいてくれた。
「あ、リエーラ」
彼女は私を見て、女っぽく微笑んだ。今日の彼女は、また一段と美しい。少し化粧をしているようだ。耳には小さなイヤリング。束ねていない髪が絹のベールのように肩から背中へ流れている。
その時、カウンターの一番奥の客が立ち上がった。フューネは客のところに歩み寄って、にこやかに笑いながら言葉を交わし、銀貨を受け取った。ありがとう、また来てね、と言って客を送り出した後、私の手を引いて、今空いた席に座らせた。
「私、邪魔じゃない?この席、お客さんに使わせてあげた方が……」
私が言おうとすると、フューネは手で制した。
「いいって。もうお客さん、帰り始める頃だから」
そして、テーブルの客に呼ばれて、彼女はそちらの方へ行ってしまった。私が前を向き直ると、目の前にいつの間にか、ホットミルクの入ったカップが置かれていた。
「やあ、リエーラ」トトンの笑顔がカウンター越しに私を見下ろしていた。「すまんな。見ての通り、今、大忙しなんだ。リエーラにかまってやる暇がなくて」
私は首を振った。
「ううん。私こそ邪魔してるみたいで悪いわ」
「もう少ししたらお客さんの数も減るだろうから、それまで待っていてくれ」
「うん。わかった」
トトンはすぐさま仕事に戻った。
私はしばらく、ミルクをすすりながらトトンやミラやフューネやお客の様子を眺めていた。よく見ると、お客の視線はつねにフューネの方に注がれている。フューネが後ろを向くと、彼らは恥ずかしげもなくその尻に目をやる。フューネが前を向くと、上目使いにその胸を窺う。どうやら、この店が盛況なのは、フューネ目あての客のせいらしい。
やがて客も減り始め、ミラは手があいて私と世間話ができるようになった。しかし、九時を過ぎても「フューネファン」の客がなかなか店を出ようとしなかった。
「お兄さん、明日、朝早いんでしょ。もう宿に帰らないと寝坊するわよ」
フューネは甘ったるい声でお客に言い聞かせたが、向こうは頑として席を立たない。
「いや、荷物を運ぶ仕事なんて適当でいいんだ。少しぐらい遅れたってどうってことない。俺がクビになるだけだ。それより、今夜はフューネちゃんと一緒に過ごしたいな。なあ、フューネちゃん、いいだろ?」
「もう。そんなこと言ったら奥さん、悲しむわよ」
女言葉を使うと、フューネは全く「女」になってしまう。彼女が男だった、なんて話は夢物語にすぎないのではないか。そう思えるほどだった。
フューネはやっと客を説得して送り出し、店内に戻って来るや、てきぱきとあとかたづけを始めた。さっきまで酔っぱらいにからまれていたというのに、彼女は気分を害するでもなく、鼻歌混じりで皿などを洗っている。どういうわけか、ミラはそれ以上に上機嫌だった。絶えず沸き上がる喜びを抑えるのに苦労している、という面持ちだった。それに、フューネの影響なのか、ミラまでどことなく大人の女っぽかった。うっすらとではあるが化粧をし、髪もいままでより丁寧にとかしつけられている。その上、しぐさや言葉使いまで艶っぽかった。
一通り片付けが終わると、ミラはフューネを奥の部屋に呼んで、新しく買う皿やグラスについての相談を始めた。店の中にはトトンと私だけが残った。
「ミラ、ご機嫌ね。何かいいことあったの」
私は、ようやく鍋洗いを終えたトトンに言った。トトンは仕事を片付けた満足を表情に現しながら私の隣に腰かけた。
「実はな、ミラのやつ、最近ちょくちょく、開店前に出かけるんだ。あいつ、友達と言えばリエーラかフューネぐらいだろ。リエーラは仕事だし、フューネはミラとは会っていないと言っている」
「じゃあ……ガリュスと?」
「いや、ガリュスはこの間、警備会社に職を見つけた。日の沈む頃まで仕事している」
「一人で歩き回るような娘じゃないわよね」
「うむ。これは兄としての勘なのだが……どうも、男と会っているような気がするんだ」
「男……の人?」
「ああ、もちろん、年頃の娘だから彼氏の一人ぐらい、いてもおかしくないのだが、何となく心配でな」
私も少し心配になった。ガリュスのことを諦めてからまだ一週間しか経っていないのだ。そんなに早く次の男に乗り換えることができるのだろうか。そう思いつつも、私はトトンを慰めていた。
「ミラはしっかりした娘だから、大丈夫だと思うけど……。それに、もし本当に彼氏ができたのなら、そのうちトトンに打ち明けるわよ。ミラはトトンに隠しごとなんかしたことないでしょ」
「そうだな。うむ、リエーラの言うとおりだ」
トトンは何度もうなずいて、自分自身を納得させようとした。
「うむ。余計な心配はやめて、店の改装のことを考えるのに専念しよう」
彼はそう言いながら立ち上がった。
「え?ここを改装するの?」
私は遥か上にある糸のようなトトンの細目を見上げた。
「改装と言っても厨房を少しいじるだけだ。まだおやじも入院中で金もかかるから、大規模にはできないし、店も一日しか休みにしたくない」
「へえ。ここを閉店にするなんて何年ぶりなのかしら。……ねえ、店が休みなら、みんなでどこか遊びに行かない?一日ぐらいなら私、休み取れるし、きっとガリュスだって……」
「いや、残念だが俺は改装に立ち会わなくてはならない。だから……おーい、ミラ、フューネ」
トトンが奥に声をかけると、ミラとフューネが顔を出した。
「さっき話しただろ。五日後、改装でここを閉めるから仕事は休みだ。リエーラがその日、休みを取ってもいいと言っている。ガリュスも誘ってどこか行ってくるといい」
トトンがそう言うと、ミラは少し顔を赤らめ、うつ向いた。
「あたし……その日、もう約束しちゃったんだ」
フューネも首を振った。
「それに、ガリュスはその日、何か大きな仕事があるって言ってたぜ」
「そうなの」私は残念がった。「じゃあ仕方ない」
フューネは、しかし、嬉しそうに微笑んだ。
「そうだな。俺とリエーラだけってのも少し寂しいけど、仕方ないよな」
私は驚いて顔を上げた。
「ちょっと、フューネ、私と二人きりで出かけるつもりなの?」
「そうだよ。別にいいだろ。それとも、なにか、俺のために休みを取るのは有給休暇の無駄使いだとでも言いたいのか」
「そんなこと……ないけど」
「じゃあ、決まりだ。詳しいことは明日にでも決めようぜ。今日は疲れた。早く帰って眠りたい」
フューネはもう仕事が残っていないことをトトンに確認すると、お疲れさま、と言って店を出て行こうとした。私もさよならを言って彼女のあとを追った。
それから何度か、私はフューネと会って、出かける相談をしたが、つい世間話に花が咲いてしまい、結局何も決まらなかった。ただ「午前十時にローロ広場の前で待ち合わせ」という約束を交わしただけだった。
当日、約束の時間の十分前に、私はローロ広場の噴水のほとりに立った。友人と出かけるのは久しぶりだ。私は今日のために、母におねだりして新しい服を買ってもらった。淡い緑色のワンピース――ちょっと子供っぽいデザインかとも思ったが、私は敢えてそれを選んだ。靴は明るい茶色の革靴。それに白いレースの靴下をはく。くせっ気の多い髪をなんとかとかしつけて後ろにまとめ、髪飾りをつけた。この服装では、下手をすると小学生に見られるかもしれない。でも構わない。今日はなんとなく、子供でいたい気分なのだ。大人っぽいフューネお姉さんに甘えたいのだ。
果たして、フューネはアダルトな装いで広場に現れた。黒いパンツに黒いハイヒール。上半身はワインレッドのノースリーブ。髪はポニーテールにし、ほんのりと化粧をしている。手を振りながら近寄ってくる彼女を見ていると、私は新たな驚きを覚えた。濃い化粧をしてスカートをはいているよりも、あさっりメイクでパンツルックの方が却って女っぽいのである。
「悪い、悪い、待たせちまったな」
フューネはピンクのルージュを引いた唇の間からペロリと舌を出した。私は首を振った。
「ううん、今来たところ」
「そうか。ならよかった」
彼女は今一度、私のいでたちをしげしげ眺めた。
「おまえ、かわいい格好してるな」
「へへっ、年齢不詳でしょ」
「バカ。マジに褒めてるんだぞ」
「え?」
私はちょっとびっくりして、「お姉さん」の顔を見やった。フューネは笑顔を返した。
「考えてみれば、俺たち、二人っきりで出かけるなんて初めてだよな」
「だって、今まではフューンが男だったから」
「そうか、そうだよな。……なあ、リエーラ、これからはちょくちょく一緒に出かけようぜ。女同士なんだ。遠慮はいらねえだろ」
「わかったわ、お姉さん」
フューネはもう一度微笑んだ。
「よし、じゃあ出発だ。妹よ、とりあえずカスリン通りへでも行ってみるか」
私はフューネに導かれるまま、若者向けの店が立ち並ぶカスリン通りへと歩き始めた。
午前中、私たちはカスリン通りの店を見て回った。ブティックではいろいろな服を試着し、アクセサリーショップではイヤリングやネックレスをつけ、化粧品店では口紅や香水を手に取った。どの店でも、店員はフューネに品物を買わそうとするだけで、私の方は見向きもしない。唯一靴屋に入った時だけ、店の者が私にも商品を勧めてくれた。もっとも、それは子供用の靴だったが。
あっと言う間に正午になった。近くの事務所などから、昼食を求めて人がどっと繰り出してきた。通りを行く男たちはみな、フューネの姿(特に胸)に一瞥をくれて通り過ぎる。女でもフューネに目が釘付けになる者がいる。その一部は憧れの眼差しを、残りは敵意に満ちた視線を投げかけている。フューネは注目を浴びることを面白がっているかのように、胸を張って颯爽と歩いてゆく。私はそんな彼女と一緒にいられることが、なんとなく誇らしかった。どう、これが私のお姉さんよ、羨ましいでしょ、と言わんばかりに、意気揚々とフューネの横を歩いた。
どのレストランも一杯だった。私たちは混雑を避け、少し遅めに昼食を取ることにした。フューネが案内してくれたのは、静かな並木道に面したしゃれた店だった。午前中のショッピングの時もそうだったが、フューネは女の子の好むような店をよく知っている。きっと男だった頃、つき合っていた女の子から教わったのだろう。
窓際の席で、通りを行き過ぎる人たちを眺めながら、私とフューネは料理を口に運んでいた。
「こんなにゆったりした気分になるのって、何ヶ月ぶりかしら」
私はフューンの美しい横顔に目をやった。
「俺のおやじが死んでから、ずっとあわただしかったからな」
フューネは外を見たまま、少し表情を曇らせた。私はおずおずと尋ねた。
「フューネ、お父さんの仇はもういいの?」
「チャンスがあれば仇を討ちたいさ。でも、あんまり危ない真似はするな、ってガリュスに言われてるんだ」
まただ。、また胸が苦しくなった。フューネがガリュスのことを口にすると、私はいつも胸が締めつけられる。
「ねえ、ガリュスとは……うまくいってる?」
しかし、私は努めて明るく振る舞った。
「照れ臭えな、そんな面と向かって言われると。実はな、今度、部屋を借りて一緒に住むことにしたんだ。俺もガリュスも親の遺した家があるけど、いくらなんでもそこに二人で住むってのは恥ずかしいからな。ミラのやつ、黙っときゃいいのに、この俺があのフューンの変わり果てた姿だ、って近所のやつらに喋っちまいやがった。男と元男の同棲って言うと、白い目で見るやつもいるんだよ」
「同棲か。……じゃあ、いつか結婚するするんだ」
私はせつなさではちきれそうな胸を抑え、笑顔をこしらえた。
「まだそこまでは考えてねえけど……でも、ガリュスがその気なら……」
フューネはうっとりと宙を見つめた。
「って、何言わせるんだよ、リエーラ。くそっ。恥ずかしいぜ。……さあ、次はリエーラが打ち明ける番だ。正直に言え、彼氏がいるんだろ、どうなんだ」
フューネにいたずらっぽい笑顔で詰問されて、私は赤面しながら首を横に振った。
「本当かぁ?」
フューネは大げさに首を傾げて見せた。
「ったく、世の男どもときたら、女を見る目がねえんだから。リエーラみてえないい娘をほっとくなんて」
私の顔は今や熟れたてのトマトのようになっていた。
「ちょっと、フューネ。そういうことは男だった時に言ってくれればよかったのに」
私、何言ってるんだろう。興奮のせいでわけのわからないこと口走ってる。
「言ったじゃねえか、何度も」
「嘘」
私は口を尖らせてそっぽを向いた。フューンは、やれやれ、とばかり肩をすくめた。
しばらくの沈黙のあと、フューネはもうそろそろ出ようか、と目で合図してきた。そのれに応じて私が尻を半分ほど椅子から上げた時、「ガスコイン」という言葉が隣の席から聞こえてきた。ガスコイン?確か、フューンの父を殺した暗黒魔道士の名前だったはず。私もフューネもそのまま固まってしまった。
隣の席の男は二人とも脂ぎった中年で、店のしゃれた雰囲気には全く不似合いだった。どうやら地元の商人らしく、芳しくない売れゆきにグチをこぼしているところだった。
「……にして、あのガスコインって男は阿漕なことをやりやがる。ほとんど詐欺じゃねえか」
「あいつ、暗黒魔道士ギルドに顔が効くから、当局もおいそれと手が出せないんだよ」
「くそっ。何が悲しくてあんなやつと取り引きせにゃならん」
「どこも景気が悪いんだ。買ってくれるだけでもありがたいと思わねば」
「気にくわねえのは商売のやり方だけじゃねえ。うちのカミさんの姪がガスコインの魔道士事務所の従業員になっちまいやがった。どういう意味かわかるだろう?」
「テーレの町にあるあいつの事務所で働いているのは若くてきれいな女ばかり、しかも、噂では、何十人もの従業員全員がやつの愛人だとか」
「あんな男のどこがいいんだ。最近の若い女の考えていることはよくわからん」
「いや、ちがうんだ。どうもあいつは、禁じられている『人の心を操る魔法』を使っているようだ。気に入った女にその魔法をかけて、従業員という名目で連れて行くらしい……」
男たちはその後、運ばれてきた料理を掻き込み始めた。
私とフューネはそのまま店を出た。フューネはさっき、男たちの話に真剣に聞き耳をたてていたが、店を出た途端、何事もなかったかのようにいつもの笑顔に戻っていた。
「なあ、リエーラ、今、面白い芝居をやってるらしいぜ。『涙なくして語れぬ悲劇』ってやつ。これから見に行かねえか」
私が同意すると、フューネは私の手を引いて劇場へと向かった。
芝居は、その名の通り、悲しい恋物語だった。劇場を出る時、観客(女性が九割)は私を含め、みなボロボロ涙を流していた。フューネは涙こそ流さなかったものの、いたく感動していた。
「くーっ。なんてひでえやつなんだ、相手の男は。女心を何だと思ってやがる。これだから男ってやつは嫌なんだよ。そう思わねえか、リエーラ」
私は渦巻き眼鏡についた涙を拭った。
「そうね。私、お芝居にこんなに感情が入っちゃうのって初めてだわ」
「だろ。やっぱりこの芝居の面白さは女じゃねえとわからねえよな」
などと話しながら、私たちは風にあたるためスレダー公園にやって来た。ボートの浮かぶ池のほとりで頭を冷やしていると、さっき見た芝居の興奮も冷めてきた。
日は傾き、日光は赤みを帯び始めていた。私たちの周りを、子供たちが歓声を上げながら走り回っている。学校が終わってから日が沈むまでの短い自由時間を一分足りとも無駄にはしまいと、精一杯遊んでいる。
「なあ、リエーラ」
子供たちを見つめていたフューネがふと顔を上げ、私の方に目をやった。
「覚えているか、俺が小学四年生でリエーラが三年だった時、おまえが母親にもらった髪飾りをつけて学校に来たことがあっただろ。その時、俺は髪飾りをおまえから取り上げて逃げた。おまえは、返して、と泣き叫びながら俺を追いかけた」
「そんなこともあったわね」
「リエーラ、あの時、俺がなぜあんなことをしたのか、わかるか」
「えっ?」
私はフューネの美しい瞳を覗きこんだ。
「髪飾りをしたおまえが妙に大人びて見えたからだ。俺、恐かったんだ。おまえがどんどん大人っぽくなって、いつか別の人になってしまう気がして」
「フューン……」
フューネは子供のようにあどけない顔をしていた。
「でもリエーラは変わらなかった。リエーラは今でもリエーラのままだよ。俺はリエーラをずっとリエーラのままにしておきたかった。大切なリエーラを大人になんかしたくなかったんだ。……本当は、俺、ずっとリエーラのことが好きだったんだ」
それを聞いた瞬間、私の中で何かが弾け飛んだ。
「どうして……今になって、そんなこと……」
「俺、もう女の体に馴染んでるし、女としての生活にも慣れちまった。さっきレストランでガスコインの話を聞いた時、一瞬、テーレの町に仇を討ちに行こうかと思った。でも、ガリュスの顔が頭に浮かぶと、仇なんてどうでもよくなった。俺は惚れた男に心配をかけるようなことはしたくねえ。そう思えるぐらい、俺の心は女になっちまったってことだ。だから、完全に心が女になる前に、少しでも男の心が残っているうちに、リエーラに告白しておきたかったんだ」
その時初めて、私もフューンが好きだったことに気づいた。いや、ちがう。ずっとわかっていた。彼が好きだ、と心のどこかで気づいていた。でも認めたくなかった。認める勇気がなかった……
「あーあ、遂に言っちまった」フューネは遠くを見つめていた。「これですっきりした。心おきなくおんなになれる」
そして彼女は今一度私の顔を見て微笑んだ。
「あたし、もう男言葉使うのやめる。実は、この格好で男らしく喋るのって、結構恥ずかしかったんだ。……ねえ、リエーラ、あたしたち、これからもずっと友達でいましょうね。さっきの告白はフューン君の発言。あたしはフューネ。だから、気にしないで」
私も笑顔を彼女に返した。
「わかったわ、フューネ」
しかし、心の片隅にまだわだかまりのようなものがあった。わたしは「女友達」フューネの腕にすがりつくことで、そのわだかまりを忘れようとした。
「デート」のしめくくりに、私たちはトトンの店にやって来た。改装された店の様子を見ておきたかったし、工事に一日中立ち会ったトトンにねぎらいの言葉をかけてやりたかった。
しかし、店の前まで来ると、まだ大工たちが工具や材木を持ってうろうろしていた。工事が終わっていないようだ。その傍らに、トトンが大きな体を小さく丸めて座っているのが目に止まった。心なしか表情が冴えない。
「トトン、ご苦労さま」
フューネに声をかけられて、トトンは一層悲痛な表情になった。
「どうしたの、トトン、何かあったの」
私はそう言って、トトンの顔を覗きこんだ。すると彼は黙って一枚の紙きれを差し出した。手に取って見ると、どうやらミラの書いた手紙らしいことがわかった。私はフューネに促されるまま、その手紙を読み上げた。
「お兄ちゃん、突然家を出て行く妹を許して下さい。私はテーレの町へ行きます。テーレで魔道士事務所を経営している人がぜひ私に事務所で働いてほしいと言ってくれたのです。彼とは十日ほど前に知り合いました。とてもいい人です。彼と一緒なら、私は新しい人生にチャレンジできる気がするのです。ヘグレルの町にいると、私はずっと酒場の店員です。私、自分を変えたいのです。だから彼について行きます。お兄ちゃんにこんなことを言ってもどうせ反対するでしょうから、黙って出て行きます。入院中のお父さんを見捨てるみたいで心苦しいけど、その代わり、働いて稼いだお金を送るつもりなので、入院費の足しにして下さい。落ち着き先が決まったら手紙を書きます。心配しないで下さい。それと、フューネとリエーラとガリュスによろしく伝えて下さい。
ミラ」
私はフューネと顔を見合わせた。テーレの町の魔道士と言えば……まさかガスコイン?
「朝起きたら、この手紙がテーブルに置いてあった」トトンは地面を見つめながら言った。「その時にはもうミラの姿はなかった。夜明け前にこっそり出て行ったらしい」
私は昼間、レストランで漏れ聞いた話を思い出していた。もしミラを連れて行ったのがガスコインだとしたら、きっとミラに『心を操る魔法』をかけたにちがいない。ミラが私にガリュスのことを話してくれたのは十日余り前だ。彼女はその直後にガスコインと知り合ったことになる。いくらなんでも、そんなにすぐ他の男に気が移るとは思えない。
私はそのことをトトンに話そうとした。しかしフューネは私の肩を叩いて引き止め、首を振った。トトンにはガスコインのことは言うな、という意味なのだろう。彼女は、代わりにトトンを慰めた。
「ねえ、トトン。ショックなのはわかるけど、ミラにだって自分の人生を決める権利があるはずだわ。いつかトトンのもとを去って行く日が来るものなのよ。大丈夫、あの娘、しっかりしてるから、テーレの町でちゃんとやってゆくわよ」
トトンはうなずいていたが、全然納得していない様子だった。私とフューネは、少し心配だったが、彼を一人そこに残したまま、フューネの家の前に場所を移して話を続けることにした。
「どうするの、フューネ。ミラはガスコインに心を操られているのよ。帰っておいで、って言ったぐらいでは帰って来はしないわ」
「ガスコインを倒さない限り魔法はとけないでしょうね」
「でも彼の魔法はハンパじゃない。普通の人間では歯が立たないわ。聖剣ヴィリーノの力を受け継いだ者でないと……」
私は言葉に詰まった。フューネなら倒せるかもしれない。しかし、百パーセント確実ではないのだ。
その時、私たちの背後で低い声が響いた。
「だめだ、フューネ」
振り返るとそこにはガリュスが立っていた。
「おまえを危険な目に遭わせるわけにはいかない。……ミラのことは俺もトトンから聞いた。ガスコインの噂も警備の仕事をやっている時小耳にはさんだ。ミラを助けたい気持ちは俺も同じだ。だがそのために誰かが犠牲になっては意味がない」
私はほとんど泣き出しそうだった。
「じゃあどうするの。ミラは心を操られて、本当は好きでもない男の愛人になってしまうのよ」
ガリュスは冷たく言い放った。
「『心を操る魔法』は使用することを禁じられている。やつがその魔法を使ったことを証明できれば、当局が動くだろうし、暗黒魔道士ギルドも黙ってはいないだろう。いくらガスコインでもギルドの魔道士をすべて敵に回せば勝ち目はない」
私はムッとなって言い返した。
「そんな悠長なことやってる間に、ミラはガスコインの餌食になっちゃうわ」
「何と言われようと、フューネを行かせることはできない。俺はフューネをそばから離したくない」
ガリュスはフューネの肩を抱いた。フューネはほおを赤らめた。
「ごめん、リエーラ。あたしだってミラのことは心配よ。でも……あたし、恐いの。やっとガリュスと一緒に暮らせるようになったのよ。この幸せを手放すのが恐いの。お願い、リエーラ、わかって」
私は心底腹が立った。
「もういいわ。あなたたちには頼まない。私一人でもミラを助けに行く。『心を操る魔法』ですって?それが何だって言うの?私とミラはもの心ついた時からの友達なのよ。私が説得すればミラは絶対、心を開いてくれる。操られた心なんて、私の友情で元に戻してやるわ」
そう言って、私はフューネとガリュスに背を向け、自分の家の方へ歩きだした。角を曲がる時ちらっと目に入ったフューネとガリュスは、いちゃいちゃと抱き合っていた。私は、怒りで沸騰した血が頭に昇り、目眩がしそうになった。




