第四話 彼女の想いを胸に
戦闘は熾烈を極めた。クロウザーは敵の猛攻を掻い潜りながら、敵機を四機撃墜していた。それでも、戦いは終わらない。敵の圧倒的優位は変わらず、対するクロウザーはたった一機で戦っていた。孤立無援、通信アンテナが壊されたため増援も呼べない。
長い……いったいどれだけの時間飛び続けているのか、クロウザーにはわからなかった。一〇分かも知れないし二〇分かもしれない、もしかしたら一時間かもしれないが、クロウザーにはもうわからなかった。永遠のようにさえ思える。
もう精神的にも肉体的にも限界だった。首がこわばって痛い。腕が疲れきっている。喉が渇く。目が痛い。
セシルはよく頑張っていた。一介の整備員はこのような長時間実戦を経験することはまずない。訓練をつんでいなければ身も体もとっくに限界を迎えているはずだ。それでも、まだレーダー画面を見続けている。ただし、彼女とて疲れていないわけではないことは声でわかった。気丈に振舞っているが、息が上がっている。時々かすれる声は尽きかける意識を必死に繋ぎとめている証拠だ。すまない、セシル……だが、もう少しなんだ、もう少しだけ……。
通信機がザッというノイズと共に声を拾う。突然のことに、クロウザーはビクンと体を震わした。
機体を飛ばしながらも、耳だけはヘッドフォンの音に注意する。一拍置いて、聞きなれた声が聞こえてきた。
『……クロウザー、まだ生きてるか?』
ファゴットの声だ。疲れ果てながらも、やけに落ち着き払ったその声に、嫌な予感を覚える。
「ああ、まだ元気だよ。もうすぐこっちも片付ける……ちゃんと帰るから心配するな」
『ああ、その事なんだが……』
無線に混じるため息、諦めきった気配はファゴットに似つかわしくない。直感的に、悪い予感が的中したことを知る。
『……クロウザー、ここはもういい。お前ら二人、逃げろ……』
「なんだと!?」
機内の通信機越しにセシルが息を飲むのがわかる。バックミラー越しに後部座席を見ると、セシルも信じられないといった様子で呆然としていた。そんな二人に、無線機の向こうからファゴットが言う。
『ここはもう終わりだ……滑走路はとても降りられる状態じゃないし、施設も全部ぶっ壊された……もうこの飛行場は終わりなんだ……お前らなら、この地獄の魔女の鍋から抜け出せる……だから行くんだ』
「冗談じゃない! みんなを置いて行けるか!」
クロウザーの言葉に、弱々しい笑みが電波に乗って届く。
『みんな……死んじまったよ……パロマも、他の奴らもな……落ちてきた鉄骨の下敷きになった奴もいりゃ爆弾で吹き飛んだ奴もいるが……』
「だったら、お前だけでも!」
『ハハ……そいつぁ無理だ……』
ファゴットの声から、状況が絶望的であることがわかる。
「ファゴット……?」
『俺も破片を受けちまって……血がとまらねぇ……それに、崩れた鉄骨やらで出口が塞がれた上に、周りは火の海だ……もう、助からねぇんだよ……へっ、こんな終わり方なんてざまぁねえや。やっと……やっと娘を抱けると思ったのになぁ……』
「ファゴット! 諦めるな!」
『へっ、お前はやっぱいい奴だなぁ……だけど、今度ばかりは戻ってきちゃいけねぇんだ……行け、そして生き延びろ……セシルの嬢ちゃんを守ってやれ……じゃねぇと、お前は俺の大嫌いな糞ったれ……』
ザッというノイズと共に唐突に無線機が押し黙る。ハッと我に返って黒煙の上がる飛行場を仰ぐ。遠く視界の向こうに、格納庫の一つが爆炎を上げて吹き飛ぶ姿が見えた。
「ファゴット軍曹……」
セシルが、ポツンと呟く。そのまま、ヘッドフォンからは彼女の嗚咽が漏れた。クロウザーが酸素マスクの下で悔しげに歯を食いしばる。その隙間から、うなり声にも似た呟きが漏れた。
「クソ……ふざけやがって! ふざけやがって! 何だよ、何なんだよ、これは!? 何でこんなことになるんだよ!」
唸りが、徐々に叫び声に変わる。彼はスロットルレバーを全開に叩き込んだ。彼は愛機を空に駆り立てながら、それを怒りの刃に変えようとした。すでに、穏やかだった空は、優しかった大地は多くの血を浴びていた。ファルシオン、片刃の剣の名を宿した名機は、まさに剣にならんと翼を輝かせる。
「セシル! 敵機の位置は!?」
クロウザーの声に、返事は無い。彼は苛立ちを感じながら、後部座席に向け怒鳴った。
「セシル! 返事をしろ!」
「は、はい!」
ヘッドフォンからセシルの怯えを含んだ返事と、鼻をすすり上げる音が聞こえてくる。親しい者達の死が彼女の心を捉えているのだろう。セシルは、涙で霞む視界の中、必死にレーダー画面を読み取ろうとした。そのたびに、涙が溢れ、手の甲で拭う。
「三時方向に……敵編隊……」
「上か、下か?」
「下……です!」
彼女の返事を合図に、クロウザーが乱暴に操縦桿を倒す。斜め降下で急旋回を切りつつ九〇度進路を変える。
ぽつぽつと浮かぶ雲の向こうに、三機の爆撃機の群が見えた。
クロウザーは全速力で接近しながら吼えた。
「出てけよ! ここは俺たちの場所だ!」
トリガーを引く。機銃が発射される。爆撃機が火を噴く。一瞬の出来事……。
通り過ぎるとすぐさま操縦桿を引き機首を上げ、スロットルをアイドリングに、操縦桿を左に倒した後引き寄せる急旋回を切る。照準が次の獲物を捕らえる。二機目撃墜。
残る一機を仕留めようと再び旋回を切ろうとするが、さすがに相手の護衛機も馬鹿じゃない。クロウザーの進路に割り込んで邪魔をしてくる。
追う者から追われる者へ、クロウザーはすぐさま回避行動に入った。
「大尉、後ろに三機! 上空に二機!」
セシルの悲鳴にも似た金切り声を聞きながら、クロウザーはわずかに首を上げた。遥か上空を飛ぶ二機の戦闘機の姿が青空にポツンポツンと浮かんでいる。こちらの頭を押さえる腹積もりらしい。
機体のすぐ傍を機銃弾が掠める。クロウザーは緩横転でそれを交わすと、螺旋上昇で逃げに出た。急激な旋回をしながら鉄塔の階段を登るように機体を上昇させる。旋回のGで視界が霞む。機体が震える。悪魔が重圧から逃れる術を耳に囁く、さぁ操縦桿を戻して楽になろう、それを、意志の力で抗った。
上空の二機が降下に入る。クロウザーが機銃を撃つと、二機はパッと機体をずらした。その隙間に愛機を滑り込ませる。敵機とすれ違った瞬間に操縦桿を引きループを打つ。相手の二機も背後を取られまいと旋回する。更に追って来た敵戦闘機三機の姿が視界に入った。
六機入り乱れてのドッグ・ファイト、幾度と無く反転する天地、めまぐるしく変動するメーターの数値、次第に荒く耳を打つ呼吸音と洗練されていく精神。
「六時の方向敵機! ブレイク!」
セシルの声に疑いを挟むことなく反射的に操縦桿を捻る。虚空にミシン目を穿とうとする銃弾を紙一重でかわし、機体を捻りこんで敵の背後を取ろうと苦心する。
四方八方から接近してくる敵の動きをセシルの指示と長年のうちに身につけた本能だけで回避する。すでに操縦桿は彼の手の延長であり、ラダーペダルは彼の足の続きだった。機体は彼の体の一部であり、彼は機体の一部品であった。
延々と続く不毛な空中戦、互いに必殺の景気を逃し続ける戦い、そこに変化が訪れる。
突如上がった閃光と、機体を通してすら感じる衝撃。敵機を追いかけることに無心していたクロウザーは視線を動かすことが出来ず、後部座席のセシルに向け叫んだ。
「どうした!? 何が起こったんだ!?」
「……燃料庫が……」
その一言だけを残し、彼女は言葉を失った。だが、クロウザーには彼女が何を言いたいのかわかった。飛行機用のジェット燃料を備蓄しておく地下燃料庫、そこに火が回ったのだ。ただでさえ爆発的に燃え易いジェット燃料だ、その貯蔵庫が吹き飛んだとなると、飛行場の半分が消えてもおかしくないだろう。
「……大尉……飛行場が……みんなが……」
セシルの泣き声が聞こえる。彼女の哀しみも、彼の哀しみも同じだった。しかし、戦闘機乗りとして訓練を受けたクロウザーの脳はこのような状況であっても冷静な部分を残していた。視線が計器を走る。これ以上戦闘を続けることも難しかった。
「セシル、離脱するぞ……後方警戒頼む……」
「そんな!? 逃げるっていうんですか!?」
「これ以上何が出来るっていうんだ!」
クロウザーの言葉に異議を唱えたセシルだったが、彼の言葉の前に言うべき台詞を一瞬見失った。彼女の返事を待たずに、クロウザーが機体を駆り立てる。それは、飛行場を背にしているようだった。
「大尉、戻って! みんなを見捨てないで!」
後部座席でセシルが声を張り上げる。彼女は泣いていた。彼女の声は懇願するようだった。
「大尉ならみんなを助けられるじゃないですか! 私の大尉なら! お願いです……お願いだから……!」
泣き崩れるセシルに、クロウザーの心が悲鳴を上げる。しかし、彼には彼女の思いをかなえてやることは出来なかった。空中戦はまだ続いている。自分達の身を守ることだけで、今のクロウザーには限界だった。
「セシル……ファゴットの気持ちを無駄には出来ない……」
クロウザーの口から漏れた言葉に、セシルがハッと顔を上げる。優しく、豪快で思いやりのあった年配軍曹の最期の言葉が蘇る。彼は確かに、生きろと言っていた。グッと涙を拭って、セシルがレーダーを睨みつける。
「……大尉、五時の方向と八時の方向に敵機……」
「セシル……?」
視線だけを上げ、バックミラー越しに背後を窺う。セシルは青褪めた表情のまま、ぎこちなく微笑んで見せた。
「私も、大尉には生きて欲しいですから……」
「……わかった」
多くの哀しみがある。だがその中でセシルの理解を得られたことがクロウザーにとっての救いだった。
混迷の空を、命を繋ぎとめる一瞬の隙を探して、二人を乗せた美しい機体は死の舞を踊り続ける。
戦いは終局だった。
クロウザーは逃げ続けた。右に左に、巧みに相手の攻撃を交わしながら活路を探していた。
敵が更に群がってくる。四方から飛び交う銃弾の雨を、ファルシオンは掻い潜り続けた。
敵の銃弾がキャノピー脇を掠め、セシルが小さく悲鳴を上げる。だが、彼女はすぐに気を取り直してキャノピーにヘルメットを押し付けるようにして背後を窺う。
「大丈夫、当たっていません! 敵機五時の方向に二機!」
「了解! バレル・ロール、いくぞ」
「どうぞ!」
セシルが返事を返すや否や、クロウザーは操縦桿を倒した。視界がグルンと円を描くように周り、機体がロールしながら半円状の軌道を描く。彼はロールの終点間際、機体が七〇度くらいバンクしているところで更にラダーペダルを踏み込むと操縦桿を引いた。バレルロールから流れるように左旋回へ、緩やかなターンから切れ込むような右捻り。敵の攻撃を避けつつ、なおかつ相手のバックを取るための軌道だ。
目の前に飛び出してきた敵機に狙いを定め、その後を追う。
逃げる敵機がフラリフラリと照準を交わす。じれったい。操縦桿を握る手が汗ばむのが妙に気になった。
照準が一瞬敵機を捕らえる。ここぞとばかりに、クロウザーはトリガーを引き絞った。ブーンという回転音と共に機銃が発射される。伸びる曳光弾の帯、だが、一瞬の後機銃が沈黙した。
撃ち止んだ機銃に命を救われた敵機がそのまま急旋回で逃げ延びていく。
クロウザーは素早く視線を計器に走らせた。残弾0……それはもはや彼らに戦う術が残されていないことを意味していた。
「くそ……弾が尽きた……」
クロウザーの呟きも、エンジン音に掻き消される。セシルは背後を振り返りながら次第に距離を詰める敵機の姿を監視していた。
「大尉、後方に四機張り付いてる! 回避!」
万事休す、あとは逃げるしか残されていない。それでも、クロウザーは機体を安全な方へ飛ばした。生への執着がそうさせるのか? 生きろという約束を忠実に守るためだけに、今の彼は飛んでいた。
敵機がクロウザーの尻について離れない。幾本もの射線がファルシオンの周囲を塞いだ。
緩やかな旋回でどうにか敵の照準を逸らす。だが、それもセシルの悲鳴にも似た声で終わった。
「大尉! 左! 左から来る! 避けて!」
視界の端に、彼の左手から接近してくる敵の姿が霞める。射撃コースだ。
クロウザーは反射的に機体をバレル・ロールに入れた。機体が急激に反転するのと、相手が機銃を撃つのは同時だった。機銃弾の帯が降り注ぐ。
ボシュボシュとジュラルミンの胴体を穿つ音が聞こえる。セシルが甲高い悲鳴を上げるのがわかる。クロウザーは歯を食いしばると、恐怖に心臓を掴まれながらも前を向いて戦った。
更に背後の敵が再び銃火を切る。ファルシオンは傷だらけの姿を晒しながらそれでも飛び続けた。
セシルは機体の振動とエンジン音、そして被弾の恐怖にシートに体を縮込ませ、錯乱していた。歯がガチガチなる。震えが来る。頭がずきずきして何も考えられない。理性で押さえつけていた三半規管が悲鳴をあげ、一気に処理しきれないほどの情報を脳に送り、彼女にはもう自分がどうなっているのかわからなかった。
「……シル! おい、セシル! 返事をしろ!」
閉じかけていたセシルの意識が、彼女を呼ぶ声に覚醒する。ハッと我に返ると、ヘッドフォンからクロウザーの声が響いていた。目を上げる。空はそこにあり、目の前に広がる後部座席用のコンソールが目に入る。そして、その向こうで今も戦い続けるクロウザーのヘルメットが揺れていた。
「セシル、無事か!?」
「は、はい! 私は……大丈夫……」
クロウザーの切羽詰った声に、セシルが慌てて返事を返す。すると、しばしの間を置いてクロウザーの安堵の声が聞こえてきた。
「そうか……」
短いその一言に彼の想いの全てが込められている気がして、セシルは暖かいものを感じた。
「もう少しの辛抱だ、頑張ってくれ」
「はい」
返事を返しつつ、クロウザーの優しさを実感する。彼の背を見ていられる安心感が、今の彼女を支えていた。セシルが軍属になってから、ずっと傍にいた存在。最初は兄のようで、会った時はちょっと厳しくてちょっと優しいだけだった人。初めて引き合わされた格納庫で、少女の自分に困ったように頭を掻き、そして笑顔を浮かべて手を差し伸べてくれた。そして戦争の激化と共に多くの未帰還者を出し、戦渦に晒された飛行隊の中で唯一彼女の傍に残り、支えてくれた存在だった。滑走路脇の草地で青空を眺めているクロウザーの背は大きく、頼れる背中だった。
あの背中が、今目の前にある。そう思うと、セシルは戦いの最中にありながら安らぎを感じていた。ずっと、この安らぎを感じていたいと、彼女は思った。その想いを、一発の銃弾が打ち砕いた。
パシュッと軽い音とともに後部座席上部のキャノピーが真っ白に染まる。強化ガラスが銃弾を掠めて細かくひび割れしたのだ。そして、右手から貫通してきた二〇mm弾が後部座席に飛び込み、破片が飛び回る。その一瞬の出来事を、セシルは声を出すことも出来ず見守った。そして、腹部に走る鋭い衝撃。ウッと声を漏らし、体を折り曲げる。咄嗟にお腹を庇った両手が、ヌルッと湿った感触に触れた。
そっと掌を見つめる。鮮血が日の光を浴びて艶かしく色を放っていた。しばらく、何が起こったのか理解出来ず呆然とする。しかし、そんな彼女にクロウザーの声が飛ぶ。
「セシル、大丈夫か!?」
心配するクロウザーの声。セシルは顔を伏せた。
「私は……大丈夫です!」
痛みが広がる。手で押さえても血が止まらない。痛い、痛い、痛い!
「セシル、どうしたんだ? 声が……」
「いいですから! 私のことは気にしないで!」
痛いんです、大尉……血がいっぱい出て……耐えられない! 耐え切れないんです、大尉!
「飛んでください! 逃げ延びてください! 逃げて!」
早く終わらせて! そして助けて! 痛いの……痛いから! 助けて、助けて、助けて!
「……七時の方向に敵機……避けて……」
敵機は後ろにいっぱいいるの! 振り向かないで! 前を見て! 今の私を見ないで!
「続いて……四時方向から……来ます……」
言葉の端から苦痛が漏れそうになる。だめ、今はだめ……痛い、苦しい、耐え切れない……だけど、今だけは……!
「セシル、何があった!? どうしたんだ!?」
「何でも無いですから!」
クロウザーの訝しる声。大尉血が、血が止まらないんです! 痛いんですよ! 苦しいんです! 寒い……とても寒い……。
もう、耐え切れない。セシルが顔を上げる。前を見る。その時、急に体が軽くなった。痛みも無い。先程までの苦しさが嘘のように消えていた。
まばゆい光に包まれた視界の中で、クロウザーの姿だけを見つめる。暖かい……とても、暖かかった。セシルの顔にこれまで見たことも無いような安らかな笑みが広がる。彼女の形のいい唇が言葉を紡ぎだした。
「大尉……」
「なんだ!?」
操縦を続けながら、クロウザーが返事を返す。そんな彼に、セシルはそっと言った。
「大尉……大好きです……」
「セシル!?」
突然のことに、クロウザーが目を見開く。だが、すぐ敵の攻撃に彼は機体の操縦に専念しなければならなかった。そんな彼の息遣いを耳にしながら、セシルは続けた。
「大尉……ずっと大好きでした……いつも優しくて、どんな時も傍にいてくれて……私、あなたに出会えて幸せでした……哀しい事ばかりの戦争だったけど、ずっと一緒にいられて……幸せだった……」
ゆったりと流れるような彼女の言葉、それを遮ってクロウザーの声が割り込んだ。
「バカ、これからだって一緒だろうが! 俺は、いつだってお前と一緒だ! だから諦めるな! 絶対一緒に逃げ切るんだ!」
クロウザーの言葉に、セシルの瞳から涙が溢れ、頬を伝った。嬉しさと哀しさが同時にやってきてわからなかった。大尉、嬉しいです。もう無理なんです……もう一緒にはいられないんです……だから!
「クロウザー……生きて……生きてください……お願いだから……お願い……だか……ら……」
視界が暖かな光に染まる。ゆっくりと、体から力が抜けていった。光の中にクロウザーの背だけを見つめながら、セシルは安らかに眠りについた。
クロウザーがハッとバックミラーを見上げる。その狭く切り取られた視界の一点に赤い何かを見た時、彼はそれ以上直視することが出来ずすぐに目を逸らした。今のは何だ? 俺は何を見た!?
「おいセシル、どうした? 何があったんだ? 答えろよ! おい!」
機内通信に喚き立てるが返事は無い。きっと機械の故障だ。そうだ、そうに違いない。
「おいセシル、もう少しなんだ! もう少しだから! 生きるんだろ? ファゴットとも約束したじゃないか! 俺たちで生き抜くんだ! そうだろ!? なぁセシル!」
返事は無い。恐怖が心臓を揺さぶり、脈打つ自分の鼓動に苦しさを感じる。知らず知らずのうちに、クロウザーの頬から涙が流れた。
「クソ……クソ! クソ! クソ!」
蝿のように群がる敵機から逃れながら、必死に飛び続ける。彼は怒りを宿して飛んだ。哀しみに包まれて飛んだ。そして気付いたとき、彼は独りぼっちのまま低空を飛び続け、敵機の姿はいつの間にか消えていた。
彼に残されたのは、やり切れない悔しさと深い哀しみだけだった。
夕陽の中をクロウザーは飛んでいた。愛する者の躯をその背に背負いながら。
飛行機は力尽きるまで飛び続けている。セシルが最後まで愛情を持って整備した愛機はまだその役目を忠実に果たしていた。
コンパスの表示は機がラトディア条約機構へ向いていることを示していた。もうすぐ和平協定に定められた非武装地帯上空を抜け、かつての敵国へと差し掛かる。前に進めば敵、そして背後にも敵……帰る場所など無い。
機体に染み付いたセシルとの思い出に包まれて、クロウザーは飛び続けていた。彼女との三年間の記憶は常にこの機体とともにあった。
あと三〇分もすれば夕陽も沈む。そして、それはこの機体も同じだった。夜の帳とともに、この機もその役目を終え地上へと還る。そうすれば、自分もこの世から消え去るだろうとクロウザーは思った。セシルもいない今、彼にとって帰る場所などない。
最後に、綺麗な夕焼けを見れただけでも良しとすべきか? クロウザーの脳裏にふとそんな想いがよぎる。最後まで、血に彩られた人生だった。
ぼんやりとした瞳でキャノピーの外に視線を投げかける。沈み行く夕陽を背景に、三機の飛行機が編隊を成して飛んでいることに、クロウザーは初めて気がついた。離陸以来沈黙を保っていた無線機が突然自分の役目を思い出したようにノイズを吐く。その後、ヘッドフォン越しに通信が入った。
『こちら、統合議会治安維持憲兵隊第十一飛行隊だ。貴機の飛行申請は出ていない。所属と、管制名を述べよ。返答の無い場合は撃墜する』
ゆっくりと近寄ってくる戦闘機の編隊にクロウザーがただ呆然とそれを見つめる。しばしの迷いの後、彼は震える手で無線機のスイッチを入れた。
「……こちら、五国同盟イファロスタ国防陸軍第七七三航空隊所属、クロウザー・ライド大尉……当機は敵襲を受け、被弾している。燃料も残り少ないので、最寄の飛行場へ誘導されたし」
ザッというノイズとともに、相手が出る。
『了解、我々の基地がこの近くだ。誘導しよう、ライド大尉。こちらは第十一飛行隊のバーデン・ノルトハルト空警部だ。よろしく』
三機の戦闘機がクロウザーの機を取り囲むようにして編隊を組む。彼らの機の識別灯の緩やかな点滅を眺めながら、そこに生への温かみを感じる。
クロウザーの顔にフッと笑みが差した。死ぬことは出来た。しかし、生きようと思ったのはセシルの声が耳に刻まれていたからだ。彼女の声がある限り、まだ死ねない。みなの敵を、事件の真相を暴くまでは……それが終わったら、自分の還る場所へ行こう。自分の還る場所、セシルの待つ所へ……。
紺碧が空を覆い、太陽が山々の稜線に沈もうとする頃、人々の夜の営みを示す街の明かりと、舞い降りる四機の翼を招くように光る滑走路の誘導灯の明かりが、優しい光を放っていた。
憲兵航空隊の飛行機が離れる。管制塔からの通信が入る。着陸許可。クロウザーは顔を上げた。
「滑走路を視認、進入する(アプローチ)」
ラインベン事変と後に呼ばれるこの襲撃を契機として、世界は再び激動の争いへと加速し始めた。イファロスタは重大な条約違反だとラトディア側に抗議、一方のラトディア条約機構側はそのような軍事活動は一切行っていないという姿勢を崩さず、遺憾であるという交渉局長のコメントは発表したものの、あくまで対決の姿勢を保ったままである。
五国同盟側でもあくまで抗戦を訴えるイファロスタと和平の継続と話し合いによる解決を主張するシディックとの間で歩調が乱れていた。
また、ラトディア条約機構内でも戦後地下に潜った抗戦派を中心とした過激派が勢力を盛り返し、テロが激化している。そして、一向に進展を見せない武装解除と、答えの見えないまま議論だけが続けられる統合議会。
「ライド空警部補、召集だ。ブリーフィングルームへ集まれ」
バーデン・ノルトハルト空警部の呼び出しに、憲兵隊の制服に身を包んだ彼、クロウザー・ライドは読んでいた新聞をテーブルの上に置き、寡黙に黙ったまま席を立った。
テーブルに置かれた新聞の一面には、和平の功労者であり統合議会議長であるドストエフ・テイラー狙撃事件の報が踊っていた。
付けっぱなしにされたラジオから、イファロスタとラトディア間で戦闘が発生し、シディックがラトディア側についてイファロスタ懲罰に乗り出したことを告げていた。
世界の箍が外れたのだ……。
これにて一応の終わりとさせていただきます。
長らくのお付き合いありがとうございました。
ラトディア条約機構、五国同盟とそれをとりまく国家間の軋轢。
はたしてラインベン飛行場を襲ったのは何者なのか?
クロウザーは事件の真相にたどり着けるのか?
再び戦火に見舞われようとする世界を止めるため、徐々に孤立を深める統合議会治安維持憲兵隊は立ち向かうことが出来るのか!?
などという大仰なストーリーを考えていたのですが、ほとんど脇役ともいえるクロウザーとセシルの二人のためだけにサイドストーリーを書き、本編は手付かずのままとなっています。
読んでいただけるのであれば書きたいというのがモノ書きの本心なのですが、生憎私生活が忙しく手をつけられないのが実状だったりします。
しかし、感想などいただけましたら大いに励みとなりますので、ご意見ご感想のほど、よろしくお願いいたします。




