第二話 不明機
スロットルレバーに置いた左手を通して伝わる機体の反応、全身を揺さぶる飛行機の咆哮、計器を通してわかる機械からの言葉、その姿に、クロウザーの顔に笑みが広がる。彼の愛機は今日も完璧に整備され、飛びたくてうずうずしているようだった。一言許可が下りれば、クロウザーはすぐにでも機械の相棒と共に大地を離れ、満足いくまで空を駆け回ることだろう。
彼が、満面の笑顔と共に横を伺う。そこには、コクピットに上体を押し込むようにして計器を睨みつけているセシルの真剣な眼差しがあった。彼女の長い髪がクロウザーの鼻先をこそぶる。
「完璧だ、セシル」
クロウザーがそう言うと、彼女は顔を顰めて怒鳴った。
「なんですって?」
エンジン音に阻害されてこれだけ近くでも声が伝わらない。クロウザーはもどかしい思いを抱きつつセシルに負けじと声を張り上げた。
「完璧だって言ったんだ!」
「当たり前です! 私の大切な可愛い子なんですから!」
「ああ、そうだったな!」
答えつつ、エンジンをアイドリング状態まで下げて出力を落とす。そのまま、操縦桿を前後左右に動かし翼が反応するか確かめ、ラダーペダルを左右に踏み込む。機体はクロウザーの操作に素直な反応を示して見せた。各部の油圧システムも正常だ。エンジンを停止させ、次第に静寂が戻ってくることを実感しながら、ホッと緊張の糸を解く。全ての計器が0を指したことを確かめてから、クロウザーはセシルを見上げた。
「いい調子だな。これだったらいつでも空に上がれる」
彼の言葉に満面の笑みを浮かべつつも、セシルはちょっとだけ口を尖らせた。
「嫌ですよ、私のかわいこちゃんをまた大尉に預けるなんて」
「そっか……おい、お前のご主人様はお前をずっとこんな倉庫に閉じ込めとくらしいぞ?」
クロウザーがくだけた調子で機体に向け語りかける。その時、機体のどこかに残っていた圧が抜けたのか、機体がわずかにプスンと音を立てた。まるで飛行機がクロウザーの声に応えたようで、二人は呆気にとられると互いに顔を見合わせ、そしてプッと笑みを漏らした。
「おいおい、随分と楽しそうじゃねぇか」
突然割り込んできた野太い声に、セシルとクロウザーが顔を上げる。見ると、格納庫の入り口に豪快な体つきをした中年の整備員の姿があった。格納庫に踏み込んで来る男に、クロウザーが声をかける。
「ファゴット、どうしたんだ、こんなとこに来るなんて?」
「へっ、こっちでエンジンを回す音が聞こえたんで確認に来たんだよ」
ニヤリと笑みを浮かべるファゴットに、クロウザーが苦笑する。
「何言ってんだよ、どうせ暇を持て余しているくせに」
「そう言うなよ」
肩を竦めるファゴットだったが、それはクロウザーの言葉を否定してはいなかった。そんな彼に苦笑を漏らしつつ、セシルとクロウザーが機体から降りる。
三人は壁際の椅子に腰掛けた。どっかりと腰を下ろしたファゴットが、足を組みつつ目の前のファルシオン戦闘機を見つめる。
「綺麗なもんだな。もうすぐ見納めだと思うと泣けてくるぜ」
いつに無くしんみりとした口調に、クロウザーとセシルが顔を見合わせる。古参の鬼軍曹には似つかわしくない気がした。
「おいおい、まだ最低でも三ヵ月はこいつと一緒だろう? 気が早いんじゃないか?」
「……そうでもねぇさ。ついこの間まではエンジン音が途絶えなかったこの基地だってのによ、今じゃちょっと動かしただけでドキッとさせられっちまう。悪い具合に暇なもんだから、嫌でも終わりってのを意識しちまうんだなぁ……」
ファゴットの目がわずかに細められる。豪快な性格に反して温かみのある瞳は、どこか遠くを見ているようだ。
「俺は、もう長いことこいつらの面倒を見てきた……どうにもいけねぇ、それが当たり前だと思い込んじまってる。だからよ、なんつぅかあれだ、子離れする親のような気分になっちまうんだな」
そういって、照れたように頬を掻くファゴットに、クロウザーとセシルはクスクスを笑いを漏らし、恥ずかしさに耐え切れずにファゴットが笑うなと怒鳴った。セシルが笑顔を浮かべながら尋ねる。
「子離れって……軍曹のお嬢さんはまだ一〇歳かそのへんでしょ? 気が早すぎですよ」
「あ〜あ、今からそんなんじゃ娘さんが結婚する時になったらどうなることやら」
二人の言葉に、ファゴットが顔を赤くしながらムスッと顔を顰める。
「あくまで例えだよ、例え!」
人情家の彼に二人が温かい眼差しを送りつつ、そっと尋ねる。
「で、軍を辞めたらどうするつもりなんです?」
「あ? ああ……まずは娘に会いに行くよ。その後は家族揃って自動車の修理工場でもやろうと思ってる……」
「そうですか……」
「おう……もう戦争はこりごりだ。正直疲れた。……なぁ、クロウザー」
「ん?」
「お前……俺がパイロットの糞野朗共が大嫌いなのは知ってるな?」
「ああ、ただし俺以外のパイロットは、だろ?」
クロウザーの笑みに、ファゴットが笑みを返す。
「ああ、その通りだぜ兄弟。だがな、一つ覚えといて欲しいんだ。俺はあいつらの偉そうな根性が嫌いだが、それより大嫌いなことが、無責任に出て行ったまま帰ってこねぇことだ……だから嫌いだったんだ。もしお前がこのままパイロットを続けるんなら、他の連中に言っといてくれ。『整備員に嫌われたくなかったら、必ず帰って来い』ってな……兄弟、おめぇはたった一人、俺の認めたパイロットだ。おめぇは必ず帰って来た。この嬢ちゃんのところへな。これからも、何があっても帰ってこい。じゃなかったら、おめぇも俺の大嫌いな糞虫野朗になっちまう」
ファゴットの言葉に照れくささを感じつつも、クロウザーが苦笑して言う。
「おいおい、気が早いだろ? 別れはまだ先だし、今生の別れというわけじゃないんだしさ」
「そうですよ。必ず会いに行きますからね、軍曹」
二人の言葉に、ファゴットが笑みを浮かべ、椅子から立ち上がった。そして、自分を見上げる二人の若者の真っ直ぐな眼差しを見つめる。
「ありがとよ。なんとなく今がいい頃合いだと思っただけだ、気にすんな。じゃ、俺は仕事に戻る。パロマの奴がまたヘマしでかすと不味いからな……あいつだって、五度の敵襲を生き抜いたんだ、無事に故郷に帰らせてやりてぇしな」
フッと笑みを浮かべるファゴットに底値の優しさを感じながら、二人は彼の背を見送った。
「さて、続きをやるか……」
「そうですね」
腰を上げたクロウザーに、セシルが続く。
開け放たれた格納庫の扉、その輪郭に切り取られた青い空と、穏やかな日差しが舞い降りる滑走路、そしてその向こうにアルファゴの緑溢れる丘陵地帯が一枚の写真のように変わらぬ姿を見せている。クロウザーがふと足を止めてその風景に目を奪われた。見慣れたはずの景色のはずなのに、何故か心から美しいと思う。平和も悪くない。あの空を飛び、そして帰ってくる……自分の帰るべき場所、自分を待つ人のもとへ。
セシルを見る。彼女は突然立ち止まったクロウザーを不思議そうに見上げていた。彼女の澄んだ瞳が空の青さを映して輝いている。だが、クロウザーはそのことを口にするのを止めた。ファゴットのせいで妙にセンチメンタルになっている。そう思った。あの空も、この大地も、自分の隣にいる彼女も、きっと同じようにそこにある。ならば、わざわざ言う必要も無いだろう。
「さ、やろうぜ。お前と……俺のかわいこちゃんのお相手だ」
「え?」
一瞬呆気に取られるセシルを置いて、クロウザーは歩き出す。その顔には満面の笑みが広がっていた。その後を、セシルが慌てて追いかける。
「ちょっと大尉!? 今なんて? この子は私のかわいこちゃんなんですからね! 聞いてます!? ねぇったら!」
セシルの慌てように、クロウザーは耐え切れずに声を立てて笑った。
その時、クロウザーは肝心なことを見落としていた。遥か遠くの虚空、針の一点のような小さな点が青い空に刻まれていたのを。それは、鈍い銀色の輝きを放ちながら飛び続けていた。
ラインベン飛行場管制塔では、管制主任のジャービン・スコルプ曹長が新聞を片手に業務についていた。飛行禁止令が出て以降管制業務は有名無実化し、日がな一日ただ椅子に座っているだけの日々が続いている。部下のエンフィーとトーマもボードゲームに勤しんでいた。
そんな暇だけが続く管制塔に変化が訪れたのは、昼下がりの午後だった。突如、通信機が音を立てたのだ。コールを示す赤いランプとビープ音に、ジャービンが新聞紙を投げ出し、二人の部下も慌ててヘッドセットをつける。
通信内容に聞き耳を立てていたトーマが、眼鏡を押し上げつつジャービンを振り返って叫んだ。
「エマージェンシーコール! ラトディア条約機構機だと言っています! エンジン不調により緊急着陸を要請しています!」
「トーマ、返答を! 機体状況を報告させろ! エンフィー、対象機を探せ! ったく、レーダーはどうした!?」
ジャービンはすぐさまそう叫ぶと、テーブルの受話器を取って内線番号を押した。しばしの呼び出し音の間、あの世紀の大発明は一度だって役に立ったためしがないと心の中で毒づく。相手が出る。
「司令、こちら管制塔のスコルプ曹長です。ラトディア条約機構所属の飛行機が緊急着陸の要請を……はい……はい、了解しました。国際条約に基づき着陸を許可いたします」
ジャービンはそういうと受話器を置いた。そして、目を上げて二人の部下に視線を走らせる。
「トーマ、相手からの返答は?」
「ありました! 方位一三四、速度二八〇ノットで接近中! エンジン不調により墜落の恐れありとのことです!」
「エンフィー!」
「ちょっと待ってください……見つけた! 低空で接近してきます! ……おいおい、白煙を上げているぞ……」
エンフィーが双眼鏡から目を離して呆然と呟く。その声を受けて、ジャービンは再び受話器を取った。
突然鳴り響いた警報に、クロウザーとセシルは手を止めて顔を上げた。一瞬何が起こったのかわからず呆然とする。もう随分と聞き忘れていた緊急事態を知らせる警報だ。
二人は小走りに格納庫の外へと出た。そんな二人に、基地内に設置されたスピーカーががなりたてる。
「緊急着陸機あり! 緊急着陸機あり! 消火班は所定の位置で待機!」
放送を受けて、飛行場が蜂の巣をつついた大騒ぎとなる。騒然とする基地を見つめながら、クロウザーは呆然と立ち尽くしていた。
「緊急着陸機だと……どこだ?」
「大尉! あれ!」
セシルの声に、彼女の指差す方を振り返る。青空に一筋の白煙をたなびかせて低空を飛行する弱々しい攻撃機の姿がそこにあった。
クロウザーの瞳に、鋭い光が走る。鍛え抜かれた戦闘機乗りの瞳が危険を知らせていた。
「変だ……」
クロウザーの呟きに、セシルが不安そうな眼差しで彼を見上げる。クロウザーの表情は厳しかった。
「出火している割には煙が安定している……それに機速も落ちてないし飛行も安定している……」
次第に明確になっていく機影、ハードポイントに吊るされているのは明らかに対地攻撃用の爆弾だ。
クロウザーが二、三歩前に出て、そして叫んだ。
「違う! これは着陸コースじゃない! こいつは……」
爆撃コースだ!
クロウザーの叫びは、頭上を飛び越えていく敵機のエンジン音に遮られ、飲み込まれた。




