第七話
最初の、おかしくなり始めた契機は食事
人間生理欲求は何処に行ってもあるもので、トイレが仕切り無しの便座というのも精神的にくるものだったが、また眠っていた間に置かれていた食事が真っ白であったのは本当に苦しかった。
最初は、食事とは思えなかった。…いや、思いたくなかった。
次いで浮かんだのが嫌がらせ、それかこの世界ではこんな色が普通だとか。
ご飯ですらあれは乳白色という色だったのだと分かる。
人は、如何に視力やイメージに頼っていたのかを思い知らされた。
色で連想するのは牛乳だろうか?
日本とも外国のとも結びつかない料理は、初め、ベチャベチャと味がしなかった。そして、牛乳と連想すれば、カリコリとした触感ですら牛乳の味がして、その味と触感のギャップに脳が混乱して吐き気がした。それでも、耐えながら噛まずに飲み、目をつぶって機械的に口に運んでいく。
流し込もうと、唯一安心出来るものとして手に取った無骨なコップに入った牛乳は、その実紅茶か何かだったようで…、とうとう込み上がる吐き気に耐え切れなくなった私は、気持ちの悪いものを全部出そうと胃液が口から零れる程に吐いた。
そして、蹲りながら振り回した腕は、壁やベッドにぶつかって最後にはトレーを弾き飛ばす。
振り払った真っ白なトレーごとべしゃりと落ちた食事。
一抹の罪悪感と、自身の未来を其処に見て――ひたひたと歩み寄る絶望に、きしりと、心がひとり軋みを上げた。
小手調べの様に炎球を続けざまに放つ。見切っているようで、ラドは余裕を持って避けながら此方に疾走してきた。
「あんまりぬるいとお兄さん痛くするぞ」
獰猛な笑みを浮かべつつ速度を上げ一瞬で懐に入り込んだラドは、言葉の通り一切の躊躇無く、その鞘に覆われた鋼鉄の剣を蟀谷へと振り抜こうとする。
「…気色悪いな、女の尻追っかけ回し過ぎたか?」
準備していた転移の術を起動し、ラドの後ろへと移動する。身体能力に隔たりがある今、接近戦など愚行である。転移と同時に置き土産の地雷を起動。そして、先程放った炎球を追尾型へとカスタマイズして向かわせた。
「おま、俺がこの前彼女に振られたの知ってるだろ! 泣くぞ!」
地雷を前方に飛び込んで避け、振り向き様に剣に水を纏わせて炎球をぶった斬るラド。力技に見えて、少ない魔力で魔術の核となる部分のみを斬らねばならないため、余程のセンスと技術を要する。しくじれば魔術同士が反発し合い爆発を引き起こすので、余程習熟に自信が無いと戦いの最中では使えない技なのだが…。
目の前で向かわせた炎球が八つとも全て壊され、空中に破片と化した魔術式が白く煌く。
纏わり付く破片を振るいながら楽し気に此方に歩んでくる男に、俺は腹立ちを込めて魔術を放った。
◇
「あ、そーいやお前、夜に総統が帰還してたって知ってたか?」
ひょいひょいと空中で水を足場にして避け回るラド。空中で逃げ場が無いのは、駆ける為の翼が無い者だけだ。何処に目が付いているのか、器用に空中でバク転しながら背後の追尾炎球を避け、前方のとぶつけて相殺している。
「…、いや」
否定しつつ、隙を見て近づこうとするラドとの間に火柱を立てていると、ラドは途端羨ましそうな顔をした。
「あー、俺も外のが入んなかったら訓練付けて貰えたのによぉ」
「…」
「ぶはっ、お前顔に出過ぎ」
呑気に羨ましいと笑ってるラドは訓練馬鹿だからいいが、総統との訓練など最悪である。俺から見ても、あの男は人間の枠を逸脱していると見做せる存在だ。そして、俺の肉体は下手に頑丈なせいか、そんな男に実際に骨が折れるまで相手させられるのだ。これが面倒と云わずに何という?
想像と共に湧き上がった溜め息を吐いていると、にやにやとしていたラドは周囲の炎球を消してから地面に降りて来た。この後に任務があると互いに分かっているため、どちらもアップ程度でしか戦っていない。俺が小規模でしか炎を使ってないのもそうだし、ラドが目で追える速さである点でもだ。
一応炎球が消される間に地雷を設置していたが、このまま使わずに終わるだろうか…
拍子抜けと、経験からの猜疑心の半々でラドを見ていると、ラドはにやにやと此方を見た。
「なあアシル、もしかして好きな女でも出来たか?」
思ってもみない問に「…は?」と条件反射で答えると、誤魔化すなってと笑われる。
「…何故そんな馬鹿げたことを?」
「いや、普段やる気の無いお前が朝練に精出したり、何となく雰囲気が違った気がしたんだよなぁ…。な? 怪しいだろ? 兄貴分としては大いに気に掛かるわけですよ」
にまにまと笑うラド。
俺は、無性に苛立った。
「そんな筈無いだろ」
吐き捨てた言葉に対して、浮かべたラドの表情が癪に障る。
「…なぁ、そうやって苛立つお前も珍しいんだぜ?」
「…煩い。一歳差で兄貴面してるからハゲるんだな。下克上してやるから安心して其処に立ってろ」
態とらしく口角を上げながら炎球を手の平の上に作ると、ピクリと頬を引き攣らせたラドが剣を構えた。
「ほーお? 言いやがったな ?泣いても許してやらんぞ?」
「…彼女に逃げられる度に自棄酒に付き合ってやってるが…?」
ぼそりと聞こえる程の声で言うのと、ラドが先程よりも数段速い速度で接近してくるのは同時だった。
煽り過ぎたのか、予想よりも速いスピードに合わせ地雷を消費して時間を稼ぐ。
「お兄ちゃん涙がちょちょ切れそうだな~」
地雷の発動直後に、音声補助された小さな水弾がぶつかり威力を弱める。その間を最短距離で抜けてくるラド。
「…爺め、花火でも見てろ」
放った炎球に爆発四散型のを混ぜる。目に見える障害物としても置き、嫌がらせの様にそれにも混ぜると流石のラドもスピードが落ちた。その間に後ろに距離を取りつつ、無詠唱で気付かれぬ様に魔術を編む。それは、幾重にも埋めておいた地雷を魔術式として見做す、今の暗黙のルールの中でも最大威力の魔術だ。
「あー、何か嫌な予感がする。冷や汗とかでちゃったぁりぃっ」
ラドが何か勘付いたのか、消費を抑える普段のやり方を捨てて自身の周囲を一気に冷やし、邪魔な障害物を避けて上空へと昇った。そのまま狩るつもりなのか、ひらりと身を翻し上空から狙いを定めている。日の鮮やかな瞳を細め獲物を前に舌舐めずりでもしそうなその姿は、まるでネコ科の肉食獣、中でも豹を思わせた。
相変わらず勘が鋭いと舌打ちしつつ、バレても避けきれない程ならば良いと切り替える。ラドへの牽制と大規模魔術の準備と、避けきれない妨害からの転移。一般の他者が見れば魔術構築が異常だと言う程だが、芸術作品を作る様に、緻密に盤上で駒を進める様に、一つ一つ間違えない様に実行していく。ラドも目を細め、一秒足りともその場に居ない様に動き回りながら、それでいて静かに機会を伺っていた。
そしてその機会は、些細な軽口が原因で訪れる。
「冷たい水をがぶ呑みしたっいっねぇ!」
「爺は急に冷えたもん飲んだら大変じゃないか?」
戦闘の最中、微塵も手を緩めないまま、互いに笑いながら言い合う。常のやり取りならば聞き流していた筈の、笑いながら吐かれた言葉―――…
「それ只の悪口じゃねぇか」
その言葉に、俺は一瞬ピクリと動きが止まった。
そしてそれは、この緻密な戦いに於いて決定的な隙を産むと同時に、ラドの怒りを買ってしまう。
「……、なぁアシル」
「っ」
低い声音が聞こえた瞬間、ラドの姿が掻き消える。本能の警鐘のままに大規模魔術を放棄し、咄嗟に転移の魔術を発動すると、先程まで居た場所を風が渦巻く程の勢いで剣が薙ぎ払ったのが見えた。そして次の一手の為でないただ逃げの一手の為の転移は、あっさりとラドに捕まる。
左、後ろ、上…、いや、右っ
目だけに頼らず感覚で捉えるが、体が追い付かない。意識を刈り取ろうと蟀谷に振るわれた剣の間になんとか右腕を滑り込ませると、瞬間、衝撃が腕を浸透して骨に伝わり、鈍い痛みを自覚する間もなく衝撃の方向に転がった。
「っつー、マジで硬ぇな」
転がりつつも少し離れた場所で起き上がり、ひらひらと手を振るラドを見る。警戒しつつも起き上がると、ラドは軽々とその警戒を越えた。
「一回寝てろ」
すぐ傍で捉えた声。
瞬間、振り向くことも出来ないまま俺の意識が刈り取られることで、実に呆気なく戦闘の幕は閉じた。
「…うわ、いたそう…」
「あ、門番さん! お聞きしたいことが」
「…ん、何の部屋?」
「いえ違いま」
「ぐぅ……」
「ええっ!?」
以下続く
トネコメ「のび太か」