第四話
「いや、眼球さんだけでなくミミーさんもいらっしゃるとは思いも寄らず…、いえ! 普段から悪口を言っているわけではないですよ?! いい子ですからね! ああ、えっとそうじゃなくて…」
土下座状態で頭を床に付けたまま、器用に身振り手振りであわあわしている。
声がくぐもっていて聞こえにくかったが、右耳を床の近くまで持っていくと聞き取れるようになった。
「同僚様の悪口を聞いてご不快になったとは思うんですが、どうか右ミミー様から左ミミー様へと聞き逃して頂けたらなぁ~……なんて…」
言いながら、今度は頭上で手を合わせる。相変わらず頭は床に付けたままだ。
先程まで喋っていた彼女が黙ると、途端に部屋は静けさと微かな緊張に包まれた。
だが、正直な所この状況に困惑していた俺は、そもそも何故土下座までして謝罪しているのかを解していない。
―― 昨日の青褪めた顔は、気が緩みすぎた口調や態度に思い当たったからだと思っていたが…
同僚と言っても名すら思い出すのに苦労する程の仲である。土下座してまで謝る程の事でもない。また、わざわざ吹聴などという面倒なことをするわけがない。
取り合えず頭を上げて貰おうとして―――左目が空を切った手を映した。
「…」
思わず無言になる。
流石に目や耳で体や床を叩くのは…、と少し躊躇っていると、先程まで静かにしていた彼女が顔を上げた。
安堵と共にその眼を見て、俺は硬直すると同時に失態を悟った。
……そうか…、彼女は気配に敏く……この部屋に居て普通なままであるはずが無い
視線が合わない。焦点が彷徨う。
ゆらゆらと瞳を揺らしながら、彼女は体を起こす。その瞳は、現実を見ていない。
先程までとはまるで雰囲気が違う俯いた彼女を、しゃらさらと閉ざす様に長い黒髪が覆い隠す。
俯きながら、次第に震えながら、両耳を閉ざして彼女は揺らめいた。
「あ…、えっと、ごめ、なさっ…い。――悪口、悪い子、出れ、ない? …だ、だいじょうぶだよ、まだ、同んなじ様にもう一回やり直せば…――。…あ、あははっ! ごめんね、眼球さん! そうだよね! 今回はミミーさんも居るもん。もう一回初めからやり直さないとだよねっ」
黒いベールを取り払い、一転して明るく、迷いなく彼女は笑う。
「口調、こんなんは嫌? ……従順でいきましょうか? …、あ! 煩いのは嫌に決まってるよね。無言でいよっか! 大丈夫だよ、何時来ても良い様にずっと黙っとくからね。半年くらいなら大丈夫だし」
へらへらと笑い、それっきり無言のまま笑顔で此方を伺う。
おどおどと奥の奥まで見透かそうと、目や耳の一挙手一投足を彼女は見る。
へらへらと媚び諂って彼女は笑う。
それは――――――無性に俺を苛立たせた。
気配に敏い彼女はそれに気付いた様で、サッと顔を青褪めさせ、少し瞳を揺らしてからまた納得した様に頷いた。
「…――、あ、ご、ごめんね眼球さん、態度もだったよね。あははっ、最近物忘れがひどくてさ、もう認知症が始まっちゃったのかなぁ、ふくくっ――」
喋りながら、ベッドの方へ向かい座る彼女。そして、すとんと表情を消した。
「誰だったっけ? あー、卵みたいな美味しそうな色の眼球さんは、こうすると喜んでたんだぁ~。…あれ? 喜んでなかったっけ? 面倒が減ったなってだけだったっけ?」
無表情でそう言いながら力を抜いて、受身も取らずにベッドへ倒れる。
その姿は表情や屍人の様な容姿も相まり、最早無機物を思わせた。
だが、彼女がそうすればそうする程、俺の苛立ちは募っていく。
食いしばった奥歯が軋りをあげ、喉の奥が篭った唸り声をあげる。
自分でも何故憤っているのか分からぬままに睨みつけると、彼女はびくりと体を震わせた。
「こ、これも違うの? あ、待って、見捨てないでっ。…――分かった! 私が勝手に決めちゃだめだよね。眼球さんに合わせなくちゃ!」
「……」
「…――、そ、そうだ。悪口言ったのを無かったことにしようなんて都合が良すぎるよね。あははっっ、ほんと忘れっぽくて困るなぁ。ちゃんと対価は払わないと――」
そう言って、粗末な白いワンピースの裾を握った彼女に、俺は遂に苛立ちが怒りへと変化した。
怒りのままに三つ目の感覚器を無謀にも編もうとして、割れ鐘の様な頭痛に阻まれる。だが諦めず俺は冷静に、それでいて煮え立った感情を抱えながら今度は右耳を消した。右目には、消えた右耳を追って絶望とした表情の彼女が映っている。
常よりも魔力の少ない状態で、加えてなんだかんだと長く居たために、此方の事などお構い無しな牢獄に魔力を貪られている。これから編む感覚器が口の場合、一音毎に異物として認識されて魔力消費が比べるのも馬鹿らしいほどだとか、今の右目一つだけでも維持がやっとの状態だとか…――――それがどうした?と俺は自分の顔が獰猛に笑んだのを感じた。
咄嗟の時の防衛用の魔力などなくとも、体が鈍くなろうとも、身体の頑丈さは持ち越したのだ。人間如きに殺されはしない。そして本当に死に掛ければ、良くも悪くも俺の意思など関係無く鎖は緩む。
ならば、何を躊躇う必要がある?
嗤い、編んだ魔術は、右目を通して成功したことを知った。瞬間、早くも魔力枯渇による視界の明滅が始まる。だが、それすらも嘲笑い、俺は燃えつく衝動のままに彼女に一言言ってやろうと口を開いて――――
はくり、と、吐き出す言葉が見つからずに息を呑んでしまった。
「あ、眼…く、口さん?」
見れば、彼女も少し戸惑っている。
だが、怯えた表情よりも、媚びた笑みよりも、絶望に濁った瞳よりもマシだと思った俺は、彼女を睨み付けてよく考えもせずに言葉を放った。
「見くびるな」
放った直後、もっとマシなものは無かったのかと、前回と同じ、否それよりも更に危機的な状態でふつりと途切れながら思い…―――
―――それでも、明滅する視界の中、捉えた彼女の狂気も翳りも無い自然な明るい笑みに、心の奥の何処かでくゆりと尾が揺れた気がした。