第一五話
効果は、自分でも分かるほど劇的に現れていった。
ぽとりぽとりと思い出を捨てるだけの行為で、私の呼吸は出来る様になった。私を殺そうとしていたのは、記憶であったのだ。
そうして、瞼の裏に思い出す度に、胸が詰まって苦しくなる度に、私は全てから逃げようとした。
いらないと、これもいらないと、安易に湖へ放り、そうして昼夜無く突然叫び出すことが無くなった私にお爺さんが鎖を外す提案をしてきたのは、捨て始めてから僅か一週間にも満たない期間であった。
けれど、安易に捨て去ったツケは簡単にやって来る。そうであろう、只の一般人に記憶の取捨選択など出来よう筈もない。最初は家族の顔が思い浮かぶ度に意識して忘れようとしていたものが、家族の顔すら朧げになるのに時間は掛からなかった。
家族が居たことは分かる。だが、それに感情は伴わない。ただ、「母」や「兄」といった、記号だけの無機質なものへと変わっていく。
人間の脳とは愚かしいのか賢しいのか。捨て去る楽さを知った途端、際限なく脳は苦しみを手放した。それは私に止められるものでもなく、最早私は、何を手放したのかさえも思い出せなかった。
しかし、それでもいいと私は思っていた。いや、正確に言うならば、身軽で空っぽな 新しい私 は。
皮肉なことに、恐ろしい未来への思考や、出たいという希望さえも放棄してしまえば、何もせずとも生きられる今の現状も悪くはないものだとすら思う様になった。新しい私は、そもそも削られる芯など持っていなかったのだから。
けれど、私を縛る鎖を外すお爺さんがその眉尻を下げるから。悲痛さを湛えた瞳で皺を頬に刻むから、それでもいいと笑っていた私は、大切なものを無くして、それすらも気付いていない自分に不安を抱くのだ。
残っていた微かな私が、その崩壊を止めようと無意識に藻掻いて手を伸ばす。
この時から既に私の依存は始まっていたのだろう。
その相手にお爺さんを選んだのは、偶々その場に居たというだけ。けれど、お爺さんはその巨木の様な大きく温かな存在感で私を包んだ。そこには確かに愛情があったのだ。
お爺さんと過ごした一年半は、” 今と未来の私 ” を支える温かな思い出であった。
◇
「ありがとう」
「…、いや、手首は痛まぬか?」
じゃらりと外れた鎖を見ることも無く、私はぷらぷらと手首を揺らしたり擦ったりした。少し白くなった肌にはミミズが這った様な赤ピンクの線がくるりと纏わり付いている。
「大丈夫。それよりも喉が渇いたかも」
水差しに意識を惹かれながらベッドからお爺さんを見上げれば、お爺さんの瞳が胸の奥の焦燥を騒めかせたので、すぐに視線を水差しへと向けた。お爺さんの視線が私へと向いていることは分かっていたけれど、それを努めて気付かぬふりをすると、やがてお爺さんはその流れる様な身のこなしで水差しからコップへと水を注いでいった。その身のこなしを見ても別段感慨が浮かんだわけでは無い。ただ、情報としては頭に残った。
こぽこぽと涼しげな音を立てる水。「透明」という色は白に侵されないのか、コップも水も、向こうの景色を透過してみせた。私はただそれだけのことが楽しくてやけに嬉しくて、お爺さんにコップを渡してもらってからは目の前まで腕を上げ、コップを通してお爺さんの色を透かしてはその様を楽しんだ。
「飲まぬのか?」
「いやっ、飲む!」
取り上げられては堪らないと、慌てて口に運ぶ。冷えている訳ではなかったが、喉を伝う体温よりも冷たい水は格別に美味しい。
美味しいとそのまま素直に口に出せば、そうかと、お爺さんは目元を細めてそう言った。
「そなたに書物を持ってきたのだ。生憎と好みが分からず、このようなものばかりであるが」
そう言ってお爺さんが誰かへ喋る素振りをみせると、何もない空間から数冊の本が現れた。バサバサと床へと散らばった本は、どれも薄いものばかり。けれど絵も何も表紙に描かれていない本ばかりなので、傍目から見ると難しそうな内容に思えた。
お爺さんがどうやら雑な本への扱いに向こうで怒っている風であったので、私はそれに触れぬ様にそろそろと本へと近付く。例え難しそうであったとしても、鮮やかな色彩と娯楽というだけで私の興味を存分に刺激した。
けれど、私が本へと指先を伸ばした途端、その鮮やかな色彩たちはじわりじわりと端から白へと呑み込まれる。例えこの白い部屋に適応したとはいえ、その光景は生理的嫌悪感を刺激して余りあるものだった。まるでそれが、此処は怪物の腹の中だと知らしめるかの様で、怯えのあまり私は後ずさる。手に持ったまま忘れていたコップが、床とぶつかって高い音を立てた。
「ひっ」
「っ、大丈夫じゃ、大丈夫」
大きな影が前から私を包む。背を撫で、落ち着かせようと優しげな声を出す。
けれど、体温が無いのだ。これは、所詮人形なのだ。
こわい 気持ち悪い
その感情に支配され、私は益々抗って暴れた。腕や爪が拘束を解こうと振り回される。しかしびくともしやしない。
恐怖心が溢れて弾けそうになる。瞬間、頭の中で声が聞こえた。
もう一回 と。
水音がする。忘れて、私は逃げる。それすらも忘れ、『適応』という言葉で着飾ってみせる。
少しずつ抵抗が弱まる私を、それでもゆっくりとお爺さんは背を撫でながら子守唄の様なものを唄って抱きしめた。
微かに残っていた冷静な私が、縋る様に弱々しく襟元へと手を伸ばせば、気付いたお爺さんは背を撫でていた手を止めてその手を掴んだ。
新しい私 が何もかも捨て去る前の防波堤として、無意識にお爺さんを選んだのはこの時だった。
「あ、れ? 何でこうなってるんだっけ?」
きょとりと呟く。ぼんやりとして前後の記憶が曖昧だ。とりあえずぽんぽんとお爺さんの背中を叩いてみれば、お爺さんはゆっくりと私を見下ろした。そのお爺さんの視線が不思議で小首を傾げるが、ひとまず何故か皺になるほど硬く握っている手をもう片方の手で解く。
「かたっ! お爺さんごめん、なんか皺になってる」
「気にせずともよい」
なんとか解けばピシリとした白く綺麗なコートに皺が寄っていた。高価そうなのにと、皺を無かったことにするため縦や横に伸ばしてみていると、本当にコートなど気にせずやたらに「無理せずともよい」や「大事ないか」と聞いてくる。
居た堪れない気分で視線を泳がせていると、視界に” 白い ”本が映った。
そう言えば本を貰ったのだと思い出す。
「お爺さん! 本! ありがと。早速読んでみてもいい?」
肯定の声を聞く前に、お爺さんを抜けて本を手に取る。手に取れば薄い本ですら重く感じたが、そんな重さなど興奮が押し遣って私は急く様に表紙を開いた。
まあ目次であったので、さくさくと飛ばして2ページ目を開く。色も無く、黒いペンで描かれた小さなお姫様が左隅に居た。右側には少なくだが文字がある。
「あれ? お爺さん、これ絵本?」
問い掛けながらページを捲っていけば、背景も無く時折にしか絵が無いけれど、柔らかな文章がページ毎に少量ずつ付いていた。
「…、ああ、そうじゃ。分からぬ字はあるか?」
「んーんー、だいじょぶー」
伺う様な問い掛けに、絵本の内容に注意がいっていた私は気のない返事を返した。実際、読めない字は無く、するすると頭に入ってくる。
ぺらぺらと食い入るようにページを捲っていた私だが、暫くしてお爺さんが「では暇するかの」と呟いたことで我に返った。
「っあ、…えと…」
「ん…?」
私は手を伸ばそうとして、やっぱり何でもないと、へらりと笑って手を下ろした。
お爺さんは動いてない様に見えたのに、背景と同化していた悪趣味な白い鎖がじゃらと小さく音を立てた。
「…、次はもっと持ってきてやろう。何か好みはあるかの?」
甘やかす様な声に、私は絵本とか分厚いのがもっと欲しいとねだった。
お爺さんは、堅苦しく「相分かった」と返した。
適当な場所まで歩いて腕を離せば、腰を抱えていた少年はうひゃあと潰れた声を上げて受身も取らずに床へと落ちた。ある種精鋭が集まる団であるので、同じ団所属である少年の身体能力に少し疑問を持つ。
「うう…、いひゃい」
ふるふると身体全体が震えているが、それなら資料など気にしなければ良かろうに。出来るだけ資料に折り目が付かぬ様にと顔面で衝撃を吸収した少年に対して呆れの視線を投げかけていると、ようやく復活した少年は涙目のまま此方を見上げた。
「ええっと、お疲れ様、です?」
と言ってもまだ混乱しているようである。何となく流れで連れて来てしまったのだが、別段少年に用も無い。少し赤い鼻以外は以前見たままであるので、上から見下ろして確認した俺は街にでも下りるかと踵を返した。
「へっ? …、あ、あの?」
街へと降りられる門の位置を頭に思い起こす。気儘に足を動かしたのだが、都合よくショートカット出来ていたようだ。そう言えば今の内に腹に入れておくかと、右腕を振って空間から最後のパンを取り出す。街へ行くのはこの常備食の補給の為だ。
「あのー、えーっと…。…、あ、名前知らない」
相変わらず口内の水分を奪っていく乾燥したパンを犬歯で噛み千切っていると、何故か後ろからパタパタと雛鳥の様に足音が付いて来る。最初は方向が同じなのかと思っていたが、あのあのと鳴き声をあげ、食べ歩きは…と小さくぴーぴー言うので、どうやら付いて来ているのだと分かった。
ただ返事を返すのも億劫であったのでそのまま門を抜けるかと決めていると、後ろからあの!!と呼び止められる。
面倒
頭にそれが浮かぶが、流石にこれを無視するのも気が重い。足を止めて振り返ると、目の下の隈は薄く相変わらず居座ってるが、少年特有の澄んだ色がその土色の瞳を映えさせていた。まあ今は若干涙目でもあるが。
「…何だ」
用を尋ねれば、呼び止めた筈の少年はまさかとでも言う風に驚いた顔を見せる。そうして何故か慌てていた。ふわふわとした鳥の巣頭も面白い様に揺れる。
「ええっと、その、あんなことはいつもあるんですか?」
焦った様に紡がれた問に、そんなことを聞きたかったのか?と思いながら否定すれば、そうですか…と少年は呟いて話は終わった。あんなことが私闘を指すのであればだが、別段興味があった訳では無いようだ。
訪れる無言の時間。急ぐ訳ではないので少年を静かに見下ろして観察していると、少年の泳いでいた視線が半分ほど残っていたパンに行く。
「腹が減っているのか?」
「…へっ!? え、いや違」
「遠慮するな」
食べ歩きが…と言っていた手前言い辛かったのだろうか。雑に当たりを付け、半分千切って少年へと手渡す。
「あ、ありがとうございます」
手渡された少年は何故か目を回しながら小さく頭を下げた。
これで話は終わったのだろうと解釈し、俺は再び踵を返そうとする。しかし少年はまたしても大きな声を上げた。
「な、名前! …を教えて、頂けません…か…」
威勢良く声を上げたのは良いが、俺が少し驚いて少年を見ると段々と尻すぼみになっていく。そうして最終的には綺麗に整えられた資料へと視線を落としてしまった。
所在無さ気なのか恥ずかしいのか、どうとも取れる少年を見下ろして暫し思案する。名前は重要なものだ。であるが、別段調べれば直ぐにでも調べがつく。ならば今此処で話しても話さずとも変わりはない。
面倒を嫌う俺は普段ならば素っ気無く知らぬふりを決め込んでいただろう。だが、以前少年が目を合わせたからか、ラドの言葉が頭に浮かんだからか、気付けば端的に呟いていた。
「…アシル」
「…っつ!」
感情の現れやすい瞳と視線が合う。両腕に資料を抱え片方の手先にパンを握っている姿は滑稽とも取れるが、その姿よりもうずうずと引き締めている口元に気がいった。と思えば、元気に喜色が浮かんだ声が届いた。
「あ、ありがとうございます!」
名前の効力も知らぬであろうに、名前を教えただけで何故そのような態度となるのかが分からない。相変わらず人間は理解出来ない行動をするなと考えながら、俺はようやく少年へと背を向けた。
「僕の名前はフォーゲルですっ」
何歩か進んで、付いては来ない少年の声が届く。そうかと俺は無意識に祖父の様に尾をくゆらそうとして、そう言えば無かったかと不自然に上がった右手をそのまま一度振って街へと足を向けた。
耳には、パタパタと走り去るフォーゲルの足音が聴こえていた。
「ふんふーんふふーん♪」
「ふふ…、ふふふふ…」
「へへ…、あ、そう言えばこれ…」
「ちょ、ちょっとぐらい良いよね。んんっ、いただきまー」
「す………。硬いッッ!! 歯がイタイ!!」
以下続く
トネコメ「落ち着け、頑丈な奴が噛み千切らないかんお方ぞ?」




