第一三話
「っ、けほっ…、…いつも…ありがとうございます」
久しぶりに喋ったためか、掠れたそれは酷く頼りなく聞き取りづらい。喉は使わないと錆び付いてしまうようである。…いや、正確には言葉は使わないと忘れるということか。
思考はいつになく明瞭だ。それに反し、今この瞬間までの記憶はまるで繭に包まれた様に薄らとぼやけている。
私の口元へ食事をスプーンで掬い甲斐甲斐しく運んでいたお爺さんは、私が話し掛けたからか驚愕に目を見開いた。
「…いや、礼には及ばぬ」
そう言い食事を机の上に置いたお爺さんは、そっと袖で私の口元を拭く。ぼんやりと目で追っていた私は、気付いて後は自分で拭おうと手を上げようとした瞬間、じゃらりと鳴る鎖に腕を引っ張られた。
ああ、そういえばそうだったと視線を落とす。
隣で息を詰めた気配がしたのでベッドに横たわりながらそちらを仰ぎ見れば、鎖を見つめるお爺さんが悲痛な顔をしていた。
別にいいのに
私は鎖に縛られていることも、お爺さんの表情に対しても何の感情も浮かんでいなかった。
ぼんやりとだが、眠って起きては突然狂った様に叫びながら死のうとしていた記憶がある。
思考は明瞭だ。ただ、感覚はぶ厚い水の膜にでも隔たれていて鈍い。まるで戦争を画面越しで眺めるかの様に他人事だ。
「…、すまぬがまだそれを外すことは出来ぬ。…喉は乾いておらぬか? 何なら今から欲しいものを取りに行こう」
「欲しいもの…」
何とはなしにお爺さんを仰いでいた顔を逆側へと向ける。壁に近いベッド。日本でなら大きな窓でもあるだろうに、目の前に開放感などない白い壁のみのこの部屋はなんとも不親切な設計である。ああ、そういえばお婆ちゃんがもうすぐ退院するんだった、花を送るのもいいけどやっぱり会いに行きたいな…
…あー…、しまった
気付いて呻くが遅かった。
「っっ!! あああああ!!」
かえりたいかえりたいかえりたい。皆に会いたい。日本に帰りたいよ。
蓋が外れてマグマが噴出した。体をうつ伏せ、いやいやと駄々を捏ねる赤子の様に頭を抱えて振る。郷愁が心臓を焦がす。悲鳴と共に吐き出す息は火を孕んで熱い。騒々しく金属が擦れ合って喚いている。
お爺さんが両手首を掴んで押さえた。何かを必死に叫んでいるが、私にはそれは言葉として聞こえていない。ひたすらに現実を拒絶しようと首を振り続ければ、いつの間にか少し伸びていた髪が追随して跳ね回った。
苦しい、会いたい、苦しいんだよ、日本を思い出す度に重さに押し潰されそうになる。
そうして気付く。そうだ、今まではこうやって繰り返していたのだ。
けれど、今回は違った。人間とは適応していく生き物だ。そうだろう?
星の見えぬ夜空。果ての無い荒野。あの淵に私は立って冴え冴えとした湖面を見下ろしている。既に立は半分沈んでいるのだ。自分から沈んだのか、沈められたのかはもう分からない。ほら、なら
耳元で、とぷんと音がする。
すると、少し呼吸が楽になった。
弾みが付いてまた投げ入れる。
ぽちゃん、ぽとんと音がする度に、私の荷は少しずつ軽くなっていく。
少しずつ抵抗が弱まる私をそれでもお爺さんは力強く押さえ込んでいた。
「っは…はっ…は…、…私は…、此処に居てどれくらいですか」
荒い息を沈めながら俯いて問う。態度の変化にお爺さんは少し訝しみつつも、ひと月程だと静かに答えた。
「あはっはっ、ひと月も、ありがとうございます。取り敢えず、食事の更なる改善が欲しいかも」
顔を上げてお爺さんを見れば、今度こそ溢れんばかりに目を見開く。震える口元が呆然とおぬし…と呟くのを笑って見つめていれば、お爺さんは暫く目を瞑り、そしてゆっくりと手を離した。
「よかろう…、だがすまぬが時間じゃ。詳しくは次回に」
「ん、分かりました。また来てね」
消えゆくお爺さんに手を振る。鎖も後を追ってじゃらじゃらと鳴いた。
最後に目が合ったお爺さんの視線に小首を傾げる。何も変なことなどないだろうに。
ああ、でも…
お爺さんがまた来るか分からず、来るまでの時を考えて恐怖するぐらいなら―――
思い出や記憶だけでなく思考も投げ捨ててしまった方が楽かもしれないと、ふと考えた。
最近加わった朝練を終え、個人に届いていた仕事を終える。やはりただ彼女の見張りだけで終わらせてくれる筈もなく、総統が帰った今、体のいい使い走りとして雑用を任される。
無駄の嫌いな総統らしいと溜め息を飲み込み、人に会わぬよう影を潜めて城内で最も高い塔の屋根に登った。円錐のそれは滑り落ちれば俺でも無傷では済まない高さだが、人一人横たわって月を眺めるには最高の場所だ。総統辺りなら見張りを避けて屋根に登っていることに気付き、普通なら不信に思われるものだが、都合のいいことに満月の夜一人月見酒をしている総統と出会った。最初は怪しまれたものだが、総統を真似して空間から安物の酒を取り出し難を逃れたのも今となってようやく笑える話かもしれない。
一応総統が居ないことを確認し、ごろりと横になる。視界を遮るものは何も無く、眼前には大きな月があるのみだ。やはり鮮やかなものだとかつての神の技を思いつつ、俺は空間からあるものを取り出した。それは月光を反射して鮮やかに煌めく。自身とは比べようもなく美しい銀色に憧憬と自嘲を抱きつつ、俺は隠す様に片手握り締めて魔力を通した。編み込まれた精緻な魔術が反応し、微かな振動の後に覚えのある魔力が伝わってくる。少しして、深みのある静かな威厳を纏った声が頭に響いた。
「…どうした…何かあったか…」
「…いや、進展があったから連絡を入れたんだ」
思考で返答すれば、そうかと声が響く。あまり気にしていないのは、元から祖父が反対していたからだろう。元々身から出た錆である。祖父が気にする必要もなく、むしろ俺はこの力を封じられた状況を歓迎しているのだから気にする必要性などない。
まぁ祖父は過保護だからな…
世間話をしながら其処に宿る心配を含んだ声色に苦笑していると、祖父が本題へと入る。
「…それで、どのような進展があったのだ…?」
声音はゆっくりだが、先程とは違い其処には族長としての威があった。
「…人型の少女だった。魔力も無く、体格は貧弱。息を吹きかけるだけで殺せるだろう。俺にはこれが同族に滅びを齎らすものだとは到底思えない」
率直に意見を述べる。首輪はまだ反応していない。どうやらグレーゾーンのようだと考えていると、地響きのような溜め息が伝わる。態と伝えているのだろうが、頭中で反響する嫌がらせに思わず眉を潜めた。
「…なんだ…」
「もう十分だから帰って来い。五月蝿い奴は儂が黙らす」
これも、もう何度目かの遣り取りであった。祖父は既に答えなど予想しているのだろう。だが今回は一応の手土産となる情報を持っており、手ぶらで帰るよりは黙らせやすい状態だ。答えを予想しつつも問うたのは、祖父としての希望があったからに違いない。
そこまで理解しつつも、俺は祖父の思いに応えることは出来なかった。それは祖父の立場を慮ってというのもあるが、浅ましいことに自身が臆病だからでもある。結局は祖父に溜め息を吐かせてまで無様に逃げ回っているのだ。
暫く無言の後、それらしい理由を付けて返す。
「…いや、まだどんな能力があるのかまでは分かっていない。それに…」
「…なんだ」
「…、いや、この国の王族で気になる者達が居る。何でも神の遣いを堕とすらしいぞ?」
冗談めかして言えば、祖父は心底可笑しそうに喉を揺らした。怒りへと繋がらないのは、それが有り得ないと考えているからである。
そして、俺自身もその考えには今のところ賛成であった。
「…して、どのような策で我らから翼を奪うのだ? 力技はきつかろう」
「…恐らく、力の弱い下位ぐらいなら一頭従えさせる者は居る」
そう言うと感心した様に祖父は吐息を吐いた。頭の中で白い仮面が翻る。俺自身も初めてその力を見た時は驚き、警戒したものだ。そして、祖父が感心する程には人と同族の力は隔絶している。
「だが、未だ上位を堕とす方法に思い当たっていない。力を増幅するものでもあるのか、しかし姿を現さぬものをどうやって…」
「くははっ…、お前は相変わらず心配性だな。人は神代の頃より嘘に塗れた言を弄する生物よ。その中から真実のみを掬い上げるがよい、惑わされぬようにな」
喉を鳴らす祖父に、自身も息を吐いて応える。人の大言壮語であればいい。滅びを意識するあまり神経質になっていたのだと。
「…そうだな、また連絡する」
「…ああ、いつでも帰ってくるがいい」
それだけ言い終えると、祖父の雄大な魔力が薄れる。残滓に目を細め、暫し月明かりを楽しんでから屋根の縁を掴んで塔の最上階へと降り立った。バルコニーの様な其処の天井、円錐屋根の内側の中央には、小さいながらも街中に響き渡る鐘が紐で縛られ吊り下げられている。
そういえばもうすぐこの鐘を鳴らす祭りも近いのかと見上げて思い当たった。庶民にはこの開放される塔の上で式を上げることが夢であるらしい。
まあ関係ないと直ぐに興味を失くしてその場を去る。
総統の方を気にしていた俺は、より離れた場所からその様子を観察していた者に気付くことはなかった。
白い仮面の下で赤く色付いた唇が笑みに歪む。
観客の居ない演者は月を背に鮮やかに佇んでいた。
*ある月夜
「っ…」
「よぉ、こんな時間にどうしたんだ?」
「…」
「…は、まぁ丁度いい、相手が欲しかった所だ。そんな安物の酒よりこっちでも呑め。どうせ貰いもんだ」
「…有難うございます…」
以下続く
トネコメ「哀れ、実はこの時に目を付けられました」




