第一一話
!流血表現があります!…R15付けてこようかな…
「…っはっ……、な、んで…」
息が止まる。まるで、深海にでも放り出されたようだ。
息が吸えない、酸素が足りない、苦しい。どくどくどくどくと心臓が肋骨を痛いほどに叩きつけている。
私は頭を振り、男の手を振り払った。体が勝手に丸まる。痛みよりも何よりも、まず苦しさを取り除こうとして両の手が肺や喉を掻き抱いた。必死に酸素を取り入れようと、肺が浅く速く、そして小刻みに収縮しているのを感じる。ヒュッヒュッと鳴る呼吸。口端からは唾液が零れた。
男は、そんな私に喋りかける。一人惨めに自滅して死にそうな私など気にもせず。
「ん? あ、そっか、なぁーんも知らないんだもんねぇ。 じゃあ少しだけ教えてあげる」
くすくすと目を細めながら男は言う。
「簡単に言うとねぇ、君は餌なんだよ。 神の御使いを堕とすための餌。 君自体には意味が無いけど、君が居ることには意味がある。 だから帰さない。 ね?簡単でしょ?」
言葉を理解出来ず呆然と息を詰める私を、何処か男は懐かしそうな目で見つめた。
男の指先がいっそ優しげにそっと口端を拭う。
しかし男の目は直ぐに無機質な目に変わり、仮面を貼り付けた様な嗜虐的な笑みが顔に広がった。
その無機質さがどれほど冷酷なことか、男には分からないのだろう。男にとっては時間潰しにもならないつまらないことで、私がどれほどの絶望に突き落とされているのかなんて―――
目を閉じ緩く頭を振る。
いや、今それはいい、冷静に、落ち着いて、まず理解出来ないことは置いておいて、その餌とやらを全うしたら帰してくれる約束を取り付けなければ…
幸いと言っていいのか、酸欠でぼんやりとして男の言っていることが半分以上理解出来ていなかったからこそ、幾分冷静になろうとする時間が出来た。
落ち着け、大丈夫だと震える呼気を吐き出して、無理にでも深い呼吸をしようと試みる。
けれど、短気な悪魔は赤色がお好きなようだった。
息つく私を上から見ていた悪魔は不思議そうに小首を傾げる。
「そもそも―――」
予感に、びくりと体が跳ねた。
振りかざされた真っ黒なナイフ。
悪魔は慈しむ様に瞳を眇めた。
「―――勝手に落ちてくるのに、帰る方法なんてあるとでも思った?」
じくりと、見えずとも香る程に紅い雫が滴った。
その言葉が嘘であると疑う余裕すらもう私には残されていなかった。
その意味を理解した瞬間、今まで必死になって繋ぎ止めていたものが呆気なく崩壊する。
ぱきり と、確かに心にひびが入り、最後に削ぎ落とされた糸は―――…
「あ、う、あ…うぅぅうああ」
亀の様に体を丸め、頭を抱えて意味も無い唸り声を零す。
「ふふ、約束だからね、此処から出してあげる。 でもタダじゃ躾にならないからね…、そうだなぁ犬ちゃんみたいだし、靴をお舐め? 一緒に出よ」
真っ黒に染まった暗闇の中で、男の声が木霊する。
「うぅ…あ、あ…」
脳髄を犯すその声は、正気を失いかけている私には唯一の道にしか聞こえない。
言葉にならぬ呻き声と共に、それでもふらふらと男を仰ぎ見れば、男は敬虔な信者を向かい入れるかの様に微笑む。だから私は…―――
いやちがう
ピタリと身体が止まった。
あれはちがう
狂気へと踏み出しかけている今、瞳の中の微かな それ は鋭敏に感じ取れた。
まるであの男が見せた―――
思い出す。
あの時抱いた小さな火が、私に微かな人としての誇りを思い出させる。
しかし既に理性の糸が切れていた私には損得の感情など無い。
あるのは唯 ――― 吼え猛るこの感情
この現状はいやだ
いやだから壊そう
作っているのは目の前のやつ
じゃあ邪魔だから殺そう
殺せないならせめて―――――― 一矢
ゆっくりと目を閉じ、冷徹な計算を終え再び目を開けた私は、本能のままに純粋な殺意で瞳を染めて男へと下から飛び掛かった。
その瞳は黒々と澱みつつも澄んだ湖面を思わせ、本人の自覚無しに見るものを一瞬惹き込む。
私は何故か一瞬動きが鈍った男のことなど考えもせず男の急所を狙い懐へと飛び込むが、男は予想が外れたと少し目を大きくするも、直ぐに笑いながら一歩下がって私の脇腹を蹴り抜いた。
「元気だけど、やっぱりお馬鹿だよね」
部屋の隅へと飛ばされ、咳き込む私。
初めの巻き直しの様に、男はゆったりと近付き、咳込み蹲る私を見下ろす。
私は咳込み項垂れつつも、後ろに回した右手が予想通りのものを掴めたことに隠れて笑みを浮かべた。
男が余裕気に此方を見下ろし、何かを言おうとする。その時―――
パリン
と澄んだ音が響いた。
男は咄嗟にそちらを見、音とは逆の方へ飛ぼうとする。だが読んでいた私は、少し遅れていた男の軸足へと躊躇いなく握っていた破片を振り下ろした。確信に笑いが零れる。
血が飛び散った。
痛みも人を害することへの忌避も挟むことすら許さない、ただ断崖絶壁へ追い詰められた者の覚悟が生んだ一矢
それは小瓶を自ら壁で割ってから血が滴るのも気にせず掴んでいた破片。
手から滑り落ちたあとの小瓶の位置は確認していたが、幸運なことに蹴ってくれた位置が良かった。そして咄嗟の時ではワンテンポ遅れる可能性があることはさっきの事で確認済みである。その微かな確率に賭け、後は惨めに失敗した私を馬鹿にしに男がのこのこ目の前にやって来るかどうか。非力な女の私が素手で出来ることなど限られている。だからこそ必死に頭を巡らせた、たったあれだけの時間の間に、幾重もの幸運が重なって与えられた一矢。
純粋な殺意そのままに、刺した傷口へより深く突き刺してやろう、痛みの隙を突いて引きずり倒してやろう…―――そう考え気が付いた。
くすくす と不気味に上から降ってくる。
私は只呆然と見上げた。
「ふふぁっ! うくくっっあーっ、もう可愛いねぇっ! ほら、いいよ? どうせ人形だし、穴ぼこにしても」
そう言って男は床に落ちた破片を取り、自ら適当に自分の足へと突き刺した。
抜いた其処には穴の様なものが開くだけで血や肉などは出てこない。
そして、その顔には何の痛痒も浮かんでいない。それどころか面白そうに傷口で模様を描いている。
私は、堪えきれぬ嘔吐感に口を押さえた。出すものなど無いが、堪えた胃液で喉が焼ける。
男はまた何か言おうと口を開いたようだが、ふと何か気付いた様な仕草をして適当に破片を放った。
男が放ったそれは変に反射し、ベッドの方へと転がっていく。
先程とは違い、虚しいガラスの音が部屋に響いた。
「時間だから帰らなきゃ。 ふふ、なかなか面白い余興だったよ?」
「あ…ま、待って! 置いてかないでっ」
血に濡れた破片を持ったまま追い縋る私はさぞ滑稽なことだろう。しかし、既にもう私の頭は回らず、此処に居るのはただただ置いていかれる恐怖に屈服した哀れな負け犬だ。
それをまるで仕様のない子供を見る目で男は眺め、そして「だーめ、それじゃあお仕置きにならないでしょ?」と、その穢れを知らなそうな美しい顔で私を崖から突き落とした。
「どっ、どうすれば出してくれるのですかっ」
必死に、底なしの穴へ落ちたくないと血反吐を吐くように淵を掴む。
少しずつ薄くなっていく男への焦燥感。
それこそ犬の様な体勢で男を仰ぎ見る。話は結局最初の頃に逆戻り。これなら―――
「そうだねぇ…、いい子でいればいいよ。 そうすれば、気が向けば出してあげるかもしれない」
男はしゃがみ私と目を合わせる。そして直ぐに興味を失くし適当に近くの破片を拾って手で弄んだ。既にガラスよりも薄くなり、向こうの景色が透けて見える。
「会えるのは一月後か一年後かは気分によるけど」
そう何でもない様に言い残して男はあっさりと消えた。
カランと落ちたガラスが転がる。
それとも零れ落ちたのは私だろうか。
「ぁぁ…、ぁ…」
もう、私は皆に会えない?私…はひとりぼっち?私がしたことは、無駄、でしかなかった?私はずっと此処に?居るの?私はこの先、何日も何ヶ月も何年もこのしろいしろいへやで――――
もう目を開けているのかすら分からない。自分すら見えない埋め尽くす白の中で、酷く綺麗に赤が映えた。
本当はずっと塗り潰したかったのだ。
世界が崩壊する
「――――――」
伸ばしていた手は空を掴み、遠ざかる崖と背には穴だと思っていた底なしの真っ黒な湖。
どぷんと落ちた後にはもう、
首を掻き切ることに躊躇などなかった。
◇
「殿下」
呼びかければ、意識が完全にこちらに向く。殿下程の魔力量であれば自身の身体の動きも必要ない。椅子に座り意識も半分此方に残していた状態だが、急の立ち上がりにふらついた身体へ咄嗟に手を伸ばした瞬間その手を弾かれた。
「触らないでくれるかな」
「…申し訳ありません」
通常なら一歩下がり一礼をしていたが、今回は目礼に留める。殿下の様子に胸騒ぎを覚えていた。
「…部屋の外に護衛の者が待機しておりますので…」
「はいはい分かったよ」
そう言い、殿下は出口へ歩く。
「私は少し用がありますので…」
「そういや担当が変わったんだったね」
「は、ご無理を聞いて頂き有り難く思います」
「相変わらず堅苦しいねぇ~」
そしてふと思い出したかの様に歩みを止めた。
「あー、そうだ、もし死に掛けてたら部屋のスイッチ切る時に注意してね。 じゃないと出血多量で死んじゃうから」
ちょっといじめ過ぎちゃった
耳を疑い殿下の背を食い入る様に見つめれば、振り向いた殿下の顔を覆う白い仮面が揺れる。弧を描く仮面の目と口が、男には愉悦に笑みを深ませた様に見えた。
心なし乱暴に扉を開ける。顔を巡らしてみるが、部屋の中はしんとしており何処にも異常は見当たらない。だが胸をざわめかせる焦燥が未だ小さく燻っており、俺は無意識に首元を摩っていた手を外して小さく息を吐いた。
意を決し足早にベッドへ腰掛け、そのまま右目だけを編む。
杞憂だろう
そうとは思いつつも妙に朝の姿が意識の端をちらついていた。より複雑となる二種類を編む時間さえ煩わしく感じてしまう。
そして、そんな自身の状態が常とは違うこと自体にも、薄々と気付き始めていた。そのためリンクし始める右目に意識を割きつつ、俺はそんな己を自身とは一歩離れた場所から冷静に見極めようとする。
虫の知らせに関し、種族内でも予知レベルの精度を持つものはいた。だがかつての様な神話の頃のレベルとは程遠く、数自体もその特殊な血を保てず今では数えるほどとなっている。だがそれは上位特有の思想である、神話を基準とするならばの話だ。昔一人研究を行っていた際、その血族から能力が無いと烙印を押されたものでも、混血化によりかなり薄まってはいるが一般のものから見れば十分特異と言える能力を有していることが分かった。まぁその研究はその本人の手により終わり、資料も燃やされてしまったのだが…
溜息を吐き苦い気分を紛らわす。思考が逸れてしまった。
研究を進める上で分かったのだが、虫の知らせとはまた別の戦闘における勘というものは下位上位関係なく備わっていた。それは生物において当然かもしれないが、興味深かった点は、下位と上位での格別の差が見られなかった点である。下位は上位の出来損ない。神より賜った叡智を失くしたものとされ、より本能に従って生きる彼等を見下す上位も多い。だが、こと勘においては、上位での生来の能力や教育などの経験に引けを取らぬ、生への本能が見受けられたのだ。
そこまで考え、この状態を考慮してみる。とはいえ特殊な血も流れておらず、力と共に本能もある程度封じられている自分にはどれも当て嵌らなく思える。
結局は暇潰しにしかならぬ無駄な思考であったと、今度は別種の溜息を吐きつつ、後はもう右目へと意識を集中させた。
そこで見た光景は―――
「もうムチはいらんよ…、あめ…チョコでもいいから糖分を…orz よし、絶対ほのぼの入れよう(決心)」
*医務室続き
「お前達はいつもいつも俺の仕事を増やしやがって…」
「いや、今回俺何もしてませんよ!?」
「きゅう…」
「だ ま れ 常連者。お前が毎度毎度夜中に訓練だってばかすか怪我こさえてやってくる度に俺の安眠は妨害されまくってんだぞ」
「あー、いや、はは…。じゃ、後は任せました!俺任務あるん…ぐえっ」
「まだ時間あるだろ?簡易検査してやるからゆっくりして逝けや」
「ちょっ、待っ…これ実験………」
「「(ただのしかばねのようだ)」」
以下続く?
トネコメ「安眠の重要性を知った今我は医者の味方也」




