03話 水に揺れる
フラスコの中で目覚めてから、数日が経過していた。
俺がこの間に気付いた事は、この身体には感触はあっても痛覚は無く、空腹はあっても食事を必要とせず、寝たいという欲望はあっても睡眠を必要としないという事だった。
およそ人が生きていくために必要とする行為の多くをこの人工生命体は必要としていないらしい。
空腹も睡眠欲も俺が人だった記憶があるからそう感じるだけで、きっと本来ならばそれすらも感じない生き物だったのだろう。
なぜかこの人工生命体には俺という人格が入っているため、どこまでも人と同じように行動しようとしてしまう。
フラスコで過ごしてから次の日にはテロルが俺という人格がある事に気付き、俺の記憶の話せる限りを伝えてある。
俺の春幸の記憶を知ったテロルは妙に納得したようにしきりに頷いていた。
曰く他人の魂が定着したから人工生命体として安定したのだとか、魂の記憶があるから思考力も記憶力も最初から持ち合わせていたのだとか、俺には理解できない事を独り言のように呟いていた。
テロルは人の記憶があるのならフラスコの中では窮屈だろうと、俺をフラスコ外でも活動できるように調整してくれるらしい。
現状でフラスコの外、厳密には液体から身体を出すと、急激な胸の痛みと皮膚の炎症のような症状に襲われ、数分と活動をしない内に身体を崩壊させるに至る、らしい。
一度指先を液体から出してみたが、出した先から焼かれたように指が爛れ、慌ててまた液体の中に戻った。
それ以来自らフラスコから出ようとしたことは無い。テロルが出してくれると言うのならそれを待つのみだ。
テロルの準備が出来るまで俺はなぜこんな状況に陥っているのかと改めて考えていた。
思い返すのは日本での最後の記憶、壊れたブレスレットだ。
今俺の腕を見てもそのブレスレットは存在しない。あの時まるで願いをかなえた代償のように脆く崩れてしまったあれは、まさか本当に願いを叶えるブレスレットだったのだろうか。
そんなまさか、という思いと裏腹に、そうでなければ現状の説明がつかないと考えていた。
願いが叶ったと言うのなら、ここはゲームのような世界ということになるのだろう。だってあの時俺は『出来ればゲームのような世界で人生をやり直したい』と願ったのだから。
仮にゲームのようなと言うのならば、ここは現代日本のような場所とはかけ離れた世界と考えた方が良いだろう。
なんて言ったって、本当に錬金術が存在し、人工生命体が存在するような場所なのだ。
後考えるべきは、俺の今後か。
日本での俺はどうなっているのか、俺は今後どう生きていくべきか。
日本での俺は失踪者扱いかな。何せ唐突に事が起こったため、誰にも何の連絡も入れていないのだ。今頃部屋に警察が来ているかもしれない。
家宅捜索とかされてんのかな…PCの中身消しとけばよかったな。
職場は大丈夫だろうか?俺が居なくて混乱…はしないか…だって入りたての新入社員だもんなぁ…まだ何の仕事も単体では任されていなかったから、俺が居なくなったところで大した痛手でもないだろう。
家族は心配してくれているだろうか?大学時代から一人暮らしで碌に連絡も入れてなかったから、両親は大して心配してないかもな…
妹は、泣いてくれるてるかも?小さいころは喧嘩ばっかりだったけど、大学入学頃から割と仲良くなってきてたし…うん、そう考えるとちょっと心が痛むな。
日本に帰れるかどうかだが、俺はもう帰れないと考えている。
俺の願いが『人生をやり直したい』だったのだ、この世界に生まれてたという事はこの世界での人生となるだろう。
となると、もう以前には戻れないと考えた方が良い。帰れないならここで生きていく方法を考えないといけない。
生きていくには力が必要だ。俺は自身の身体を見下ろした。今の俺はあまりに非力で自力では生きていけない。
フラスコの中から出れないのでは、生きているというより、ただただ生かされているだけの存在にすぎない。まずはフラスコから出る。
出た後はこの世界の知識が欲しい。フラスコから出ても知識が無くては、外の世界では生きられないだろう。
そして力が欲しい。知識があってもそれを正しく使う力が無くては意味が無い。この力は純粋に腕力でも技術力でも財力でもなんでもいい。とにかく外の世界に出るための力となれば最初は何でもいい。
この力はもう目処がついている。俺を生み出した技術、錬金術を身に着ければおそらく生きていける、と俺は考えている。
錬金術は難しそうだが、応用が利く技術のようだから、きっと強い武器になると思うのだ。
テロルが戻ってきたら教えて貰えるように頼んでみよう。
そのテロルは初日以来奥の部屋にこもりっきりで研究をしていて、食事も睡眠もろくにとっていないようだった。
たまに俺の様子を窺いに来るが、その度に顔に疲れ色濃く出るようになっていた。
いい歳なのだから、無理をすると倒れてしまうぞ。
一度そのように言ったが、テロルは笑って可愛い坊やの為だものと言って研究を止めようとしなかった。
テロルは妙に俺に固執している。
テロルからすれば俺はただの実験動物のようなもののはずなのに、俺を可愛い坊やと呼び、実の子のように愛しい存在を扱うように俺に接する。
俺はそれがむず痒かった。一方的に向けられる好意は心地悪く、出会って数日の俺では同じ感情を返せない事が心苦しかった。
思えばテロルはここに一人きりで住んでいるらしく、彼女以外の人を見たことが無い。彼女の家族らしき写真ないし絵のようなものも見渡せる限りでは無い。
もしかして彼女は家族が欲しくて人工生命体を作り出したのかもしれない。というのは俺の考えすぎか。
フラスコの中でふわりふわりと漂っている所に、ドスンッという音が響き、フラスコが一瞬固定器具から浮き上がり俺の入った液体が上下左右に揺れた。
揺れる液体に合わせて漂いながら、音の方を見ると、テロルが何やら水槽のような物を机に置いたところだった。重かったのか腰をさすりながら、他の細かい器具を横に並べている。
「(これは、なに?)」
「坊やが外に出るために必要な道具さ。フラスコから急に出すと身体が崩壊してしまうからね、まずこっちの液体に入って、外との抵抗を減らすところから始めようか」
テロルは俺の入ったフラスコを水槽の液体に持って行った。そのまま傾けても口より俺の身体が大きいから出れないのだが、どうするのだろうか。
そう思っているとテロルが球体の上の部分に二本の線で円を描き、その間に文字を書きこんで行く。
フラスコを捩じると、描きこんだ部分が淡く光り、土塊のように脆く崩れ、フラスコの上部に大きな穴が開いた。
そのまま球体が傾けられ、俺は水槽の中に移された。
一度水槽の底に沈むと息苦しさを感じ上の方へ浮上する。空気に触れると身体が崩れる恐れがあったが、それよりも息苦しさの解消のため酸素を求めた。
水面から顔を出し、大きく息を吸い込んだ。この身体で生まれて初めて呼吸をおこなったため、急に入ってきた空気に咽てしまった。
しばらく咳き込んでから改めて身体を見ると、何ともない事に気付いた。皮膚は爛れず、胸の痛みもなく、正常にそこに存在していた。
「なんともない…?」
今まで音にならなかった声も、普通に発する事が出来た。
初めて聞いた自分自信の声はかすれていたが、かつての成人男性の声よりも若く、青年期のような少し高めの声だった。
「ちゃんと適合出来たようだね。どこか違和感はないかい?」
「違和感…声が出ます。呼吸が出来ます。身体が焼けるような痛みもありません。なぜでしょう?」
「ああ、その事。今まで坊やがいたフラスコには生命を育てるための液体が入れられていたんだよ。丁度母体の中のような感じかねぇ。あと坊やの身体は生まれたてで不安定だったから、液体の外は刺激が強すぎて出れなかったのさ。今はある程度成長したし、その水槽の水が保護膜としての機能を果たしてくれるから身体を保つことが出来るのさ。」
なるほど。腕を水に着けたり外に出したりしているが、今の所焼ける様子もない。
感動してしばらく外に顔を出していると頬にぴりりとした刺激が走って慌てて頭のてっぺんまで水につかった。
「その水は後数日もすれば身体と馴染んで水なしでも外で活動できるようになるよ。それまでは長時間空気に触れるのは危ないかもね。まぁ、そう言っても、まだまだ人工生命体は未知の存在で、このやり方も実験段階だ。何か違和感があればすぐに言ってちょうだい。」
どうやら今すぐに自由に活動できるわけではないらしい。あと数日はこの液体漬け生活が続くようだ。
それでも活動の第一歩を踏み出せた。心が湧きたち、笑みがこぼれた。話せる、呼吸が出来る、痛みが無い、こんな普通の事がこれほど嬉しいとは。
生きているだけで幸せ、と言う感覚を俺は今体感している。
フラスコの中に居た時はさほど感じなかったが、出てみると分かる。やはりフラスコの中は窮屈で動ける範囲が広い事は幸せだと。
液体生活が終わったらまずは何をしよう。
次は部屋の外に出てみようかな?久々に空を見たいな。腕を組んで想いを馳せる。
そしてふと己の身体を見下ろして、自分が裸一貫だと気付いた。
あぁ…まずは服を着たいかな。
目の前のテロルがにこにこと水槽の中の俺を見ており、急に恥ずかしくなってそっと要所を手で覆った。